伊東四朗

伊東四朗伊東四朗

テレビのスタートは喜劇役者

大失敗したテレビ初出演

 各家庭にテレビが広がるには、ずいぶんかかったんじゃないですか。私がテレビを買ったのはいつだったかな。たしか1964年の東京オリンピックを見たくて買ったんだ。高かったですね、その頃はまだカラーは手が届かなかったですからね。テレビがない時代は、ラジオ・芝居・映画、これが娯楽だったんですよ。テレビがこんなに流行はやるとは思わなかったですけど、じわじわ盛り上がってきたところでテレビに出てくれと言われた時はやっぱり嬉しかったですね。
 初めてテレビに出たのは、昭和34(1959)年の浅草からの劇場中継です。もう60年以上前ですけど、舞台上でとちってしまって大失敗したのが私のテレビ初体験でしたね。

1964年2月撮影
1964年2月撮影

喜劇役者たちの出世コース

 テレビが始まった頃、私は石井均さんの劇団にいて、浅草の劇場に出てましたね。渥美清さんとか谷幹一さん達みんな浅草出身なんですよ。ある日、渥美さんが暖簾のれんをあげて「均さんやってる?」なんて言って入ってきたんです。ぐるっと全員を見回して私と目があって「おお新人かい、おかしな顔してるね」なんて言われて、その時ムッとして「あなたには言われたくない」て思ったことはありましたね(笑)。浅草や新宿の劇場から丸の内の日劇に引っこ抜かれて、その後NHKの『夢であいましょう』なんかに出るっていうのが理想的なコメディアンの出世コースで、早く番組に出たいもんだなぁと思ったものです。

1966年2月撮影 「てんぷくトリオ」 三波伸介(中央) 戸塚睦夫(右)
1966年2月撮影 「てんぷくトリオ」
三波伸介(中央) 戸塚睦夫(右)

お客さんを笑わせるために大切なこと

 喜劇の役もシリアスな役も心構えは同じで、全く変えていません。喜劇をふざけてやったら喜劇にならないんです。きちんとやって普通のセリフで笑う、そういう台本がないと出来ないものが喜劇だと思ってます。シリアスはシリアスでそういうシチュエーションの中でやるもので一緒です。ただちょっと難しいのは喜劇のタイミングです。このタイミングがずれるとお客さんは一人も笑わない。非常にデリケートなものですから。大河ドラマで三谷幸喜さんに出会えたことは、とっても幸運だったと思います。普通のセリフを言って大爆笑が来る、三谷さんはそういう台本を書く人です。

『大河ドラマ 新選組!』(2004・三谷幸喜 脚本)出演時 松金よね子(右)
『大河ドラマ 新選組!』(2004・三谷幸喜 脚本)
出演時 松金よね子(右)

出演番組の思い出

『電線音頭』

 「電線音頭」は桂三枝さん(六代目 桂文枝)が演芸大会で「電線に…」て即興で踊ったのを見て、もっと膨らませたいとプロデューサーから声をかけられたんです。プロデューサーから「伊東さん、今度 “電線軍団” ていうのを作って、キャンディーズと小松政夫を入れて、こたつの上で踊ってくれ。撮影は再来週!」て丸投げされちゃって。なにそれって感じだったんですけど、すぐに振付師と相談しました。じゃあ電線にって言ったからにはこうやって電線を描いてみる、スズメがって言うんだからくちばしをとんがらがした指でやってそれで飛び跳ねてみますか、ああいいんじゃないですかって、結局いいんじゃないですかしか言わないで帰っちゃったんですよ。それがそのまま振り付けになって。それで最初は「なんだこりゃ」てみんな思ってましたね。そのうちになんだか知らないけどお花見って言うとこれっていうようなね。なんでこんなものが流行るのかっていう気持ちはありました。ただあの時の私の目はイッてたみたいでね。
 その後、NHKで歌番組の司会をやったんですけど、美空ひばりさんに舞台の袖に連れてかれて「四朗ちゃん、あの踊りやめてくんない。うちの息子がこたつ板を破って困るのよね」って言われてどうしようかと思いましたね。だから自分とは思わせないように顔もほとんど分かんないように紙でリボンつけて太い眉にして、名前も伊東じゃなくてベンジャミンって名前にして、そうすれば分からないかなと思ったら余計分かっちゃった…大変な時代でした。

『第43回 NHK紅白歌合戦』(1992)電線音頭 石倉三郎(中央右)
『第43回 NHK紅白歌合戦』(1992)電線音頭 石倉三郎(中央右)

『連続テレビ小説 おしん』

 『おしん』でおしんの父親・作造役を演じました。一番大変だったのは、15分のドラマで私のセリフが台本11ページにわたっていたこと。相手役の方はほとんど「………」。それだけでなく、後にも先にもその時、ドラマで初めて音楽の現場付けというのを経験しました。ふつうドラマの音楽は撮り終わった映像を編集して後からつけていきます。ところがこの時はなぜかスタジオに音楽を流しながらの撮影。それも前のシーンからかぶっているので、何分か前から待機してやっと始まる。11ページ分のセリフをしゃべり終わると、「伊東さん、このメロディーのあたりで戸から外に出てください」なんて指示まであり、そのときばかりは頭が大混乱しました。1年間放送したドラマで、スタッフの気合いもすごかったですね。作造の最期を撮ったとき、私がおしんの前で初めて少し涙を見せたんです。そしたら「お父さんは絶対に泣かないでください」とスタッフから言われました。私としてはおしんが小さいころからのことを思い出し、ちょっとこみあげるものがあってもいいのかなと思ったのですが「ダメ!」。最期まで厳しく死んでいってほしい、それが作造だということだったんですね。

『連続テレビ小説 おしん』(1983)出演時 泉ピン子(左)
『連続テレビ小説 おしん』(1983)出演時 泉ピン子(左)

伊東四朗のテレビ論

テレビで喜劇がやりにくい時代

 昔は扉の付いたテレビで家族全員が正座して、始まったら終わるまで全員で見てましたけどね。今はそれぞれの部屋に一つずつあったりするので、そういう意味ではテレビ生活というのはずいぶん変わったと思いますし、テレビでとても喜劇がやりにくくなってるのを感じますね。喜劇は最初の方にいろんなことを振るんです。いわくつきの電話を映してみたり、会話でも聞き逃すと後で困るような台詞を言ったりするんですね。でも、家でテレビを見てると電話がかかってくるし、トイレも行ったりするわけで、その間に最初の振りを見逃したりすると、喜劇が後で面白くなくなっちゃうことがあります。やっぱり昔みたいに、家族が正座して見て欲しいなって、そんなことあり得ないですけどね(笑)。そういう意味では、喜劇は舞台しかできないのかなという気がしています。

『コメディーお江戸でござる』(1995)出演時 えなりかずき(右)
『コメディーお江戸でござる』(1995)出演時 えなりかずき(右)

喜劇役者を長く続ける秘訣

 芸歴はもう60年以上ですが、喜劇役者として長く続けていく秘訣は運ですね。運というのは結構向こうから飛んでくるんですけど、それをうまくつかめるかつかめないかってことだと思います。運は知らん顔してたらどんどん逃げちゃいます。それと人との出会い。こんな素晴らしいものはないです。2~3秒遅れてたらその人に会ってないことってずいぶんあるんですよね。そういう不思議さ。長いことやってるとそういう不思議さってのは何かどっかの領分で仕込まれてんじゃないかっていう思いが私にはあります。そういう意味では幸運でしたね。だって不思議な人は世の中にいっぱいいるんですよ。まだベンジャミン伊東の余韻が残ってる中で『おしん』の役をやらせるのは、どうかなと私なら思いますけどね(笑)。やらせちゃうってところはすごいと思いますね。  これからテレビはどうなってくのか。テレビはワイドになってぺったんこの画面になって終わりじゃないですかね、ひょっとしたら立体テレビなんていうのはできるんですかね。それ以上は想像もつきませんね、スマホの扱いもできない人間ですから。

『植木等とのぼせもん』(2017)出演時 小松政夫(左)
『植木等とのぼせもん』(2017)出演時 小松政夫(左)

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