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"わが詩をよみて人死に就けり" 高村光太郎 ~「乙女の像」に込めた願い~
細川高頌(記者)
2022年04月22日 (金)

「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」(「道程」)
「いやなんです あなたのいってしまうのが――」(『智恵子抄』「人に」)
明治から昭和にかけて多くの作品を残した詩人、高村光太郎の詩です。
人間の内面を探求し、飾らない言葉で表現した高村の詩は、多くの人の心を引きつけてやみません。
青森と秋田にまたがる十和田湖には、彫刻家でもあった高村が制作した『乙女の像』が立っています。
この像は、高村が戦争を経て制作した遺作です。
ロシアによるウクライナへの侵攻が続くいま、像に込められた高村の思いが、世界に問われています。
今も読み継がれる、高村の詩
明治16年に東京で生まれた高村光太郎。幼いころから彫刻の制作を行うかたわら、多くの詩も残しました。
大正3年には、「道程」を出版。
最愛の妻・智恵子との生活の日々をつづった「智恵子抄」と「道程」は、高村の代表作として国語の教科書にも載り、多くの人に読み継がれています。
高村光太郎と戦争
しかし、日本が先の大戦に突入すると、高村は戦争を後押しする詩を、次々に発表するようになります。
日本が真珠湾攻撃を行った昭和16年12月8日に執筆した詩では、国民が一丸となって戦うことを呼びかけています。
「われら自ら養いてひとたび起つ 老若男女みな兵なり 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦う 世界の歴史を両断する 十二月八日を記憶せよ」
(「十二月八日」)
国民の戦意高揚を図る歌謡曲も作詞しました。
詩人として影響力のある高村に、政府も注目します。
真珠湾攻撃の翌年には、文学を通して国策を周知することなどを目的とした、『日本文学報国会』が政府主導のもと設立されます。
高村は詩の部会長に就き、戦争を賛美する作品を次々に世に出しました。
最愛の妻を失う
高村はなぜ、戦争を後押しするような詩を積極的に作るようになったのか。
40年以上にわたって高村を研究している、元中学校教員の小山弘明さんは、真珠湾攻撃の3年前に、最愛の妻、智恵子を病気で亡くしたことが、大きく影響していると指摘しています。
小山弘明さん
「智恵子が亡くなる前は俗世間とは交わらない。自分たち夫婦だけの道を歩むとしていた。しかし光太郎は智恵子を失い、心にぽっかりとあいた穴を埋めるために、積極的に世の中に関わっていこうと方向転換した部分もあった。そうしたところに、世の中が戦争に進んでいってしまったというのが悲劇だった」。
人気作家だった高村の元には、戦地に赴く前の若者が多く訪れたといいます。
高村は持ち寄られた日章旗などに激励のことばを記し、戦地に送り出しました。
小山弘明さん
「特に学徒動員で戦地に行くことになった若い兵士達にとっては、高村光太郎に何か書いてもらうというのは、一つの守り神というようなトレンドがあった。多くの若者が高村のアトリエを訪れて、日章旗に一筆書いてもらった。その中には帰ってこられなかった、戦地で露と消えてしまった若者もいた」
軍部や政治家だけでなく、文化人も加担して行われた戦争。
その結果、日本人だけで310万もの命が失われたのです。
己を罰し、山荘生活へ
自身は戦場に行くこともなく、終戦を迎えた高村が戦後身を置いたのが、詩人で童話作家の宮沢賢治が生まれた岩手県花巻市でした。
高村は、生前ほとんど評価されていなかった宮沢の才能に魅了され、手紙などを通じて交流していました。そして宮沢が亡くなってからは、「宮沢賢治全集」の編集にも携わりました。
こうしたことから宮沢家は、終戦の直前、空襲でアトリエを失った高村を花巻に呼び寄せたのです。
高村は山のふもとに小さな小屋を建てて、自給自足の生活を送ります。
1人山荘で暮らすなかで高村は、戦時中の自身の行いに向き合い、詩を書き続けました。
「その詩を戦地の同胞がよんだ 人はそれをよんで死に立ち向った」
(「わが詩をよみて人死に就けり」)
終戦から5年後に出版した詩集の序文には、戦争へと向かう雰囲気に流され、あおってしまったことへの後悔の念がつづられています。
「国の特殊な雰囲気の中にあって、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られていたかを見た。(中略)一つの愚劣の典型を見るに至って魂の戦慄をおぼえずにいられなかった」
(『典型』)
「乙女の像」制作へ
戦後、詩は書きながらも、みずからへの罰として、半世紀以上続けてきた彫刻は絶っていた高村。
終戦の7年後の昭和27年に転機が訪れます。
きっかけは、太宰治の兄で、当時、青森県知事だった津島文治からの依頼でした。
十和田湖を世界的な景勝地にしようと考えた津島は、シンボルとなる像の制作を、高村に託したのです。高村は十和田湖や像の制作について次のように話しています。
「この間、十和田湖に舟を浮かべて遊んでみた。実に美しい。美しさの極点の上に漂うているようであった」
(講演会筆録「炉辺雑感」)
「僕もね、70くらいから本気でやるって、ちょうどそんな年月がきたですよ。だからこれからは無駄なことしないで、猛烈にやるつもりですよ」
(NHKラジオ)
肺結核を患っていた高村は、血を吐きながら制作に打ち込み、およそ1年かけて乙女の像を完成させました。その3年後、73歳でこの世を去ります。
乙女の像に込められた願い
遺作となった乙女の像。
2人の裸婦が向き合った像は、自分と、自分を見つめるもう1人の自分(内面)を表しています。
これは、十和田湖の透き通った湖面に写る自分の姿を見たことから着想を得たとされています。
戦後、自分の内面と向き合い続けた高村だからこそのアイデアでした。
高村は乙女の像の除幕式で、次のように述べています。
人間の心の中を、内部をみる。そういう一種の感じをうけたんで、その一つの人間が、同じものが、どこを見ているかわからないが、とにかく向かいあって見合っている…片方は片方の内部で、片方は片方の外形なのです。(中略)みなさんの中には、また別なみなさんがいるし、それは時には二つも三つもあるわけなのです。だんだん深くなる自分があるのです。
また、乙女の像の顔は、妻の智恵子がモデルといわれています。
そして高村が特にこだわったのは、手の部分でした。
観音像のように折り曲げられています。
小山さんは「肺結核を患い、もう長くは生きられないことを自覚していた高村は、みずからの“道程”の集大成として、高村が生涯をささげた“美”と最愛の妻 智恵子への“愛”、そして戦争の経験から来る“平和”の象徴となる像を、『智恵子観音像』という形で制作した」と言います。
戦後、高村がつづった言葉です。
「そうして祈ろう 世界に戦争の来ませんように われら一人一人が人間であり得ますように」
(「新年」)
時代の空気に流され、戦争を賛美する詩を作ってしまった高村。
世の中に影響力を持つものが誤った情報を発信して戦争を後押しし、多くの犠牲を生んでしまう状況は、いま、ウクライナに軍事侵攻しているロシアでも起きていると言えます。
深い自省をへて、高村が乙女の像に込めた思いを教訓に、何が正しい情報なのか見極め、伝え続けていきたいと思います。