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『パプリカ』と、小児がんのわかちゃんと、乳がんの私が過ごした5年間の話。

みなさん、突然ですが『パプリカ』を覚えていますか?

そうです、「2020年とその先の未来に向けて頑張る全ての人を応援する」 ために米津玄師さんが作り、5人の元気な子どもたち「Foorin」が歌い踊った、あの曲です。

そのFoorinが、病気や障害のある子どもたち10人と結成したのが、「Foorin楽団」というチームです。

ちがいを乗り越え、思いっきり遊んで、『パプリカ』を演奏することで、多くの人たちに元気を届けました。

これからお話しする「わかちゃん」は、そんなFoorin楽団メンバーのひとりです。

これは私が、2度の乳がんに見舞われながら、小児がんと生きた「わかちゃん」と『パプリカ』と過ごしてきた、5年にわたる日々のお話です。

(『天才てれびくん』の制作デスク 冨田 百合子)

私と『パプリカ』

改めまして、こんにちは。冨田百合子と申します。

今は『天才てれびくん』の制作デスクを担当しています。

制作デスクとは、ざっくり言うと、番組制作における「調整役」です。

1つの番組を企画して放送するまでの、内容・スケジュール・スタッフやリソースの調整をプロデューサーや現場のディレクターと一緒になってやっています。まぁ、いわゆる「何でも屋」です。

子ども番組に関わって、はや10年以上がたちました。

世の中のいろんな面白いこと、考えるべきことを、「子どもが分かるように」ときほぐし、映像やことばで伝える方法を考えていくと、そこにはいつも必ず新しい発見があります。

そのことが面白くて、さまざまな子ども番組の制作に携わり続けてきました。

そんな私の左乳がんが分かったのは、2017年夏のことでした。

人間ドックで発覚し、半年間の点滴抗がん剤治療、手術を経験しました。

告知当時、私は35歳。

同年代の友人に、がんの経験者は見当たらず、かといってテレビから流れてくるなかに参考となる情報は見つけられませんでした。

インターネットの海をさまよいながら、SNSで見つけた同年代の同病友人たちと励まし合い、情報を交換し合いながら、闘病生活を送りました。

大きな治療を終え、職場復帰して最初に担当したのが『2020応援ソングプロジェクト パプリカ』の制作デスクの仕事でした。

最初は「2020年に向けて頑張る全ての人たちを応援するんだ!」というプロデューサーの言葉に、正直、困惑しました。

「全ての人たちを応援する」って、すごく素敵なことだけど、「本当にそんなことできるの?」と感じたからです。

でも、米津玄師さんから届いた楽曲『パプリカ』を初めて聴いたとき、あ、と思いました。

歌詞の中には「がんばれ」という言葉はひとつも入っていません。ところが、聴き終わると自分のなかに前向きな気持ちが生まれていたのです。

こういう応援の仕方もあるんだな

この曲だったら、いろんな人たちの背中を押せるかもしれない


と思いました。

『パプリカ』では、2018年夏から、放送とダンス動画の募集を始めました。さらに、全国各地でイベントも開催し、私もFoorinと一緒にさまざまな現場に行きました。

イベント会場で『パプリカ』を歌って踊る子どもたちの楽しそうな笑顔を見ると、「仕事に復帰できてよかったなぁ…」と、心から感じられました。

わかちゃんとの出会い

『パプリカ』が少しずつ世に浸透してきた2019年春。

運動会や学芸会で踊った動画が投稿されるなか、障害のある子や、入院している子どもたちが、楽しそうに踊ってくれる動画も届き始めました。

その姿からは『パプリカ』を歌って踊る喜びがあふ
れていました。


そうした子どもたちが参加したら、もっともっと新しくて楽しい『パプリカ』が生まれるんじゃないか?

それが、病気や障害のある子たちが参加する「Foorin楽団」という企画の発端でした。

Foorin楽団

取材を進めると、国立成育医療研究センターに『パプリカ』が大好きな「わかちゃん」という小学3年生の女の子がいることが分かりました。

小児がんを患っていたものの、今は治療が落ち着いて経過観察中、学校にも通えているとのこと。

そうであれば、問題なく参加してもらえるのではないかと考え、お母さんに連絡を取りました。

本人とお話する前に、治療の現状と、ご家族の考えを確認しておきたかったからです。

最初にわかちゃんのお母さんのゆうこさんと話をしたのは、駅前の喫茶店でした。

ゆうこさんはこれまでの経緯や写真をまとめた資料を持ってきてくれました。

そのなかには、5月の運動会でわかちゃんが踊った『パプリカ』の映像もありました。

スマホの小さい画面からでしたが、『パプリカ』を歌って踊れる喜びが伝わってきました。

『パプリカ』をすごく好きでいてくれているんだな

いつからどうやって聴いてくれているんだろう?

そう思った私は、こんな質問をしました。

「去年の夏、最初にパプリカを聴いた時、どう思いました?」

「その頃、わかは入院していることの方が多くて…わか本人は、きっと“楽しい曲だな”って感じたと思います。でも私は正直、『元気な子は、いいわね』って思ったんですよね」

「元気な子は、いいわね」

その言葉を聞いて、ドキッとしました。

そして、自分が抗がん剤治療を受けていた時の気持ちを思い出しました。

半年間の抗がん剤治療で、私は8回の点滴抗がん剤投与を受けました。

副作用がひどい時は、ベッドから起き上がれず、ただただ目をつむって時間が過ぎるのを待つしかできませんでした。

副作用が軽くなる時期も、あれだけ大好きで、仕事にまでしたテレビ番組が見られなくなりました。

思うように動けない自分とは対照的に、活躍する同年代のディレクターたち。生き生きと活躍するその姿がまぶしすぎて、直視できなかったのです。

「元気な人は、いいよな」

私も、そう思っていた一人でした。

気づいたら、私はボロボロと涙を流しながら、

「わかります、私も去年、抗がん剤治療を受けていたので、なんか、わかります」

と、ゆうこさんに話していました。

ゆうこさんも、喫茶店にいた人も、びっくりしたと思います。

私自身もびっくりしました。

正直、自分のことを話すつもりはなかったからです。

初対面の人に自分の病気のことを話したのは、これが初めてのことでした。

ゆうこさんはびっくりしながらも、私の話を受け止めてくれました。

そして、思っていることを話してくれました。

「今は、わかの治療も落ち着いて、学校にも行けるようになって、『運動会で”パプリカ”を踊るんだ!』って一生懸命家で練習している様子を見ると、『パプリカ』っていい曲だなって思うんですよ。

あのキャッチコピーもいいですよね。『あしたにたねをまこう!』って。わかも、わかの妹も、テレビの前で大声で言ってますよ」

わかちゃん

その後、ご自宅にお邪魔したのが、わかちゃんとの初対面でした。

私が「『パプリカ』でFoorinとお仕事をしているんだよ」とあいさつすると、わかちゃんはニコニコして目を輝かせながら「『パプリカ』、大好きなの!一緒に踊ろう!」と誘ってくれました。

一緒に踊りながらその姿を見ていると、何度も練習していただけあって、動きはキレッキレ。そして、何よりも魅力的だったのが、踊っている時のわかちゃんの笑顔でした。

「Foorinと『パプリカ』を踊れたら、すごくうれしい!」という、わかちゃんの強い希望も確認して、Foorin楽団に参加してもらうことが決まりました。

私は制作デスクの仕事と並行して、わかちゃんがFoorin楽団として舞台に立つまでのドキュメンタリーをディレクターとして制作することになりました。

初めてのロケ、そして再発

Foorin楽団は、5つのチームに分かれています。

わかちゃんに参加してもらうことになったのは、そのなかの「ダンスチーム」。

ダンスチームには、わかちゃんの他にも、耳の聞こえない子やダウン症の子たちに参加してもらうことにしました。

チームリーダーをお願いしたのは、Foorinの中でダンスがいちばん得意だった、リリコちゃん。

ドキュメンタリーでは、チームリーダーのリリコちゃんと、わかちゃんの交流を描くことにしました。

Foorin リリコ

私がわかちゃんと出会ってから3か月。

いよいよ、わかちゃんをFoorinに引き合わせる日がやってきました。

出会いの場は、わかちゃんが通っている国立成育医療研究センター。

病院の皆さんとも相談して、Foorinのステージショーをロビーでやらせてもらい、その流れで引き合わせる計画です。

ステージショーにはたくさんの子どもたちが参加してくれましたが、客席のなかでひときわとびきりの笑顔で踊っていたのがわかちゃんでした。

客席で踊るわかちゃん

その様子は、ステージの上で踊るリリコちゃんからも見えていました。

あらかじめ、わかちゃんの写真を見ていたリリコちゃんは、「あの子とパートナーになれるなんて、すっごくうれしい!」と、舞台袖で私に教えてくれました。

ステージ終了後。

ついにふたりが対面。

するとわかちゃんは、カバンから何やら取り出しました。

そこにあったのは、家でいてきたというFoorinの絵です。

大きくてカラフルな絵に、リリコちゃんから、大きな歓声があがりました。

わかちゃんがいたFoorinの絵

いっしょに話しながら病院のロビーを歩く2人はとてもうれしそうです。

楽しそうに話すふたり

これからどんどん楽しい時間が増えていくんだな

よかったな


と、私までワクワクした気持ちになりました。

ロケが終わってステージショーの片付けをしているときのことです。

ゆうこさんが私を呼び止め、気になることを言い出しました。

「わかの頭にこぶのようなものがあって、大きくなってきているんです。もしかしたら、再発かもしれません」

数日後。

願いもむなしく、わかちゃんの小児がんの再発がわかりました。

しばらくの入院、そして、抗がん剤治療の再開が決まりました。

病気の再発…その時、周りができること

楽団の練習が始まるまで、あと10日ほど。

ここからどうしていくか。

きょ、わかちゃんのご家族と会って、相談することになりました。

待ち合わせたのは、病院の近くのファミリーレストラン。

私は、どんな顔をして話せばいいんだろう、どんな言葉をかければいいんだろう…。頭がぐちゃぐちゃになっていました。

ただ、そこに現れたご両親は、すでに気持ちを固めていました。

「わかは『楽団に参加したい』と言っているので、参加させてもらえないでしょうか。わかと私たちにとって、せっかくできた夢なんです。それを諦めたくないんです」

私は自分の経験から、抗がん剤治療には副作用の重い時期と軽い時期があることを知っていました。

自分自身も抗がん剤治療の前半3か月は、その副作用の波と合わせる形で、治療と仕事を並行していました。

それは、周りのプロデューサーや同僚たちが、私の希望に合わせてスケジュールや業務を調整してくれたから、実現できたことでした。

幸運なことに『パプリカ』チームには、その時、支えてくれたプロデューサーと仲間たちがいました。

きっとこのチームだったら、わかちゃんの願いを実現させることができるんじゃないか

今度は私がわかちゃんを応援する番だ


と、思いました。

「諦めなくって大丈夫です。参加できる方法を、一緒に考えましょう」

主治医の先生とも相談し、わかちゃんには治療を最優先にしてもらいながら、練習と2回の本番撮影に参加してもらうことにしました。

リリコちゃんとのドキュメンタリーロケは最小限にして、できるだけわかちゃんの身体に負担のないよう、何よりもわかちゃんが楽しい気持ちで参加できるスケジュールと体制を組むことにしました。

当時は、病状がどう動くか不明瞭なところがありました。

わかちゃんのご家族と相談して、楽団のメンバーには、「病気の治療のため、休み休みの参加になる」ことだけを伝えました。

『パプリカ』チームのスタッフ、そしてFoorinのリリコちゃんには、わかちゃんの病気が再発し、抗がん剤治療と並行して練習に参加することになったことを説明しました。

全員がそれを受け止め、「わかちゃんの活動を支えたい」と、言ってくれました。

今思えば、もし私に抗がん剤治療の経験と知識がなければ、そしてもし携わる人たちが違っていたら、わかちゃんの参加をこんなにすぐ、迷いなく決断することはできなかったかもしれません。

みんながわかちゃんを応援した Foorin楽団の練習

わかちゃんがお休みの練習の時、Foorinのリリコちゃんは必ずわかちゃんのポジションや振り付けをチェックしていました。

「そのポジションだと、移動の距離が長いから、わかちゃんが大変だと思う」

など、私たち大人が気付きにくいことをその場で言ってくれて、ハッとさせられることが何度もありました。

病室にいるわかちゃんには、練習のたびにダンスの振り付け動画を送りました。

それを見ながら自主練するわかちゃんの表情は、そこが病室のベッドの上だとは思えないくらい、いつも笑顔でした。

私もリリコちゃんも、それを見るのをとても楽しみにしていました。

わかちゃんが初めて練習に参加できる日が来ました。

練習場に現れたわかちゃんの手には、自分で描いた楽団メンバー全員の似顔絵がありました。

目が見えないドラマ―のひびきくん用には、なんとモールで作った立体の似顔絵を用意してくれていました。

大変な治療を受けながらも、仲間のことを考えてくれていたことに、その場にいるみんなが驚き、拍手を送りました。

練習の時もいつも笑顔で、前向きなわかちゃんのことを、みんなはすぐに大好きになりました。

はじめての練習日
ダンス練習の様子
みんなで歌録音

わかちゃん以外にも、Foorin楽団のメンバーとして集まってくれた10人には、さまざまな子がいました。

車いすを使う子、目が見えない子、耳が聞こえない子…参加したメンバー全員に「参加してよかった、楽しかった!」と思ってもらえるよう、関わったスタッフはもちろん、Foorin全員が力を尽くしました。


当時、Foorinは毎週のようにさまざまなイベントや歌番組に出演していました。

精神的にも体力的にも大変ななかで、よくあんなにも思いやりと誠実さを持って練習に参加し続けたなと思います。

日本ではあまり見られない「さまざまな子どもたちが同じ場所にいる」状態で、子どもたちがどこまで距離を縮められるのか、私たちも最初は不安でした。

でも、練習のたびに子どもたちは、私たちの予想をはるかに超えて仲良くなっていきました。

みんなで一緒に『パプリカ』をパフォーマンスすることがうれしいし、楽しい!

Foorin楽団のミュージックビデオとステージは、その気持ちがにじ
み出たものになりました。

その様子は、これらの映像に記録されています。

緊急事態宣言、そして私の右乳がん発覚

期待に胸を膨らませ、いよいよ迎えた2020年。

夏に向けて、いくつかの『パプリカ』ステージが企画されていました。

わかちゃんの治療は続いていましたが、治療スケジュールの合間を縫って出られそうなステージもあり、スタッフもメンバーも「Foorin楽団みんなで出演しよう!」と息巻いていました。

しかし、新型コロナウイルスの流行。

そして、緊急事態宣言。

全てのスケジュールが白紙になってしまいました。

ステージはおろか、メンバー同士会うことも許されない状況。

世の中全体も、暗い雰囲気になっていました。

でも、こんな時だからこそ「全ての人を応援する」ために作られた『パプリカ』、そしてそれを楽しく伝えるFoorin楽団の役割が大きくなっているようにも感じられました。

そこで制作したのが「Foorin楽団・リモート演奏バージョン」です。

自宅でそれぞれのご家族に撮影していただいた映像を組み合わせて作った『パプリカ』は、「はなれていても、心はいっしょ」を体現するミュージックビデオになりました。

メンバー一丸となって、前に進んでる

そう感じ始めたときのことです。

私の右乳がんが発覚しました。

幸い、非常に初期の段階で発見できたため、抗がん剤治療はせず、手術のみで乗り切ることができました。

とはいえ、病院のベッドで過ごす時間は決して短くありません。

コロナ禍で、お見舞いも制限されています。

人と話す機会が少なく、悶々もんもんとした気持ちに支配され、眠れない夜も少なくありませんでした。

そんな夜、私は決まって、スマホでFoorin楽団の『パプリカ』を観ることにしていました。

わかちゃんをはじめ、楽団メンバーのキラキラとした笑顔とパフォーマンスを見ると、自然と笑顔になれたからです。

自分が生きようとしていることを、楽団のメンバーに応援してもらっているような気持ちになりました。

そして、こうやって励まされている人が、世界のどこかにもいてくれているといいな、と思いました。

1か月後。

私は治療を終え、『パプリカ』チームに復帰しました。

そして、東京オリンピック・パラリンピックを経て、Foorin や Foorin team E、そしてFoorin楽団がその役割を終え、解散する2021年秋まで、制作デスクを務め続けました。

ただ、Foorin楽団がそろって顔を合わせ、ステージでパフォーマンスをすることは、2019年12月以降、一度もかないませんでした。

わかちゃんの新たな夢

わかちゃんは、コロナ禍の中で治療を続けていました。

彼女の目標のひとつが、Foorin楽団で再びステージに立つことでした。

私はそのことを知っていたため、「解散」の知らせは、わかちゃんを激しく気落ちさせてしまうのではないかと、とても気になっていました。

解散を伝えた数日後。

ゆうこさんとわかちゃんから、連絡がありました。

「わかの夢である、絵本づくりをします。パプリカでもらった種を、育てたいんです」

Foorin楽団のステージを終えた頃、わかちゃんに「絵本作家になって、世界中の人たちを笑顔にしたい」という新しい夢が生まれたことは聞いていました。

どうやら、病室で描きためてきたストーリーがあり、それを世に発表したい、ということのようです。

話はここからどんどん進んでいきました。

絵本の題名は『ビーズのおともだち』。

舞台は病室のベッドの上。

主人公の「わたし」は、入院中の女の子。

治療のなかで出会う、色々な人やものから「がんばりパワー!」をもらう、というストーリーです。

わかちゃんが描いた絵と物語は、プロのクリエイターの皆さんの手も借りながら、どんどんとブラッシュアップされていきました。

わかちゃんが夢に向かって突き進む様子が、原稿から伝わってきました。

そして、2022年の春、完成した絵本が私たちの手元に届きました。

多くの新聞で、絵本についての記事が掲載されました。

記事に載っているわかちゃんの顔は、昔よりも随分たくましくなっていて、新しい夢をかなえた喜びで一段と輝いているように見えました。

わかちゃんがさまざまな治療に取り組んでいることは聞いていました。

わかちゃんならきっと大丈夫。
また、元気に会える日が来る。

そう、信じていました。

それが二度とかなわなくなってしまった、という知らせを受けたのは、絵本についての記事の掲載ラッシュの最中のことでした。

いつも笑顔だったわかちゃんに申し訳ない気がするので、ここでその時の悲しみは書きません。

秋に開かれた「わかちゃんをしのぶ会」には、Foorin楽団のメンバーやスタッフが大勢駆けつけ、わかちゃんの写真や作品を見ながら、思い出を語り合いました。

Foorin楽団のメンバーがそろったのは、実に3年ぶりのことでした。

残された設定資料からわかった、わかちゃんの強さ

しのぶ会」から半年後。

母・ゆうこさんから、思いもよらない連絡がありました。

がんとわかった後の「日常」を描いたNHKの特集ドラマ『幸運なひと』に、ゆうこさんと、わかちゃんの絵本が登場する、というのです。

このドラマをきっかけに、NHKからも、がんについて、さまざまな記事や番組が発信されました。

そのなかには、わかちゃんが絵本を完成させるまでを追った記事もありました。

この記事を読んでから、わかちゃんが送ってくれたキャラクターの絵や設定資料を見直すと、改めてわかちゃんの豊かな「想像力」の大きさが感じられました。

点滴の袋から生まれた「てっちゃん」

そして、輸血の色の服を着た「てんくん」などなど、

わかちゃんの治療の現場にあったさまざまなものが「妖精」として表現されていたのです。

そして、これらのキャラクターを、わかちゃんが描く様子が、私の目にありありと浮かんできました。

『ビーズのおともだち』に登場するキャラクターたち

点滴を刺して数時間じっとしている間に訪れる、あの一人きりの時間。

わかちゃんは、この子たちと一緒にいたんだな。

それを、記録しておきたかったんだな。

わかちゃんは「あの時間」を、自らの「想像力」で乗り越えていたのです。

私も「あの時間」を経験していながら、なぜこのことを、わかちゃんが生きている間に思い至らなかったのか。

自分が情けなくなりました。

同時にこのことは、年齢に関係なく、いま病気と闘っている人たちの大きな力になるはずだとも思いました。

テレビの制作に携わる者として、何かできないか…。

しかし、わかちゃんがいなくなってしまった今、ドキュメンタリー映像やインタビューを撮ることはできません。

そこで提案したのが、アニメーションの制作でした。

「絵本作家になりたい」と思い始めたころのわかちゃんを主人公に、アニメーションを作ることにしたのです。

わかちゃんの「想像力」を、伝えたい

アニメーションの制作は、わかちゃんのドキュメンタリーや絵本作りにも携わった、クリエイターの高橋まりなさんにお願いしました。

まりなさんは、ドキュメンタリーに加えて、イラストやアニメーションも作れます。

そんなまりなさんと出会った時、わかちゃんは、「絵がお仕事になるなんてすごい!」と、興奮していました。

もしかしたら、まりなさんとの出会いが、絵本作家への夢を生むエンジンになっていたのかも、と思っていたことも、彼女に制作をお願いしようと思った理由のひとつでした。

まりなさんは当時、『どうする家康』のアニメーションを担当していて、とても忙しい日々を送っていました。

それでも、声をかけたら快く引き受けてくれました。

病室での映像もあるし、アニメーションの作画は、そこまで苦労しないだろうと思いました。

しかし、描き始めると分からないことが続出しました。

わかちゃんの髪型の分け方は?

点滴の色は?

管はどこから通していた?

病院スタッフの制服は?

ゆうこさんに聞かないとわからないことも多く、ご家族の皆さんには、わかちゃんのことを思い出させる負担を強いてしまいました。

でも、ゆうこさんは「いつかは振り返らないといけないことだから」と、昔の手術資料なども見ながら、ひとつひとつ、丁寧に思い出してくれました。

ご家族で思い出せないことは、国立成育医療研究センター 小児がんセンターでわかちゃんを担当していて、Foorin楽団の練習の時も治療計画の調整などで大変お世話になった、主治医の塩田曜子先生に協力していただきました。

アニメーションのラスト、夢の宣言には、映像で記録されていた、わかちゃんの肉声音源を使用することにしました。

その他の部分のわかちゃんの声は、小学3年生になった、わかちゃんの妹に担当してもらうことにしました。

収録に臨むわかちゃんの妹

わかちゃんに想いを寄せる人たちと一緒になって、再びひとつのものを作れることは、私にとって、とてもうれしいことでした。

わかちゃん、見てくれていますか?

もうすぐ、わかちゃんと出会ってから5年が経ちます。

「小児がん」も「乳がん」も「コロナ」も、そのほかさまざまな病気も、さっさとこの世から消えてしまえばいいのにと思うけれど、そう簡単にはなくならなそうです。

わかちゃんは、ドキュメンタリーのインタビューで「みんなが応援してくれているから、自分も相手に笑顔を届けたい」と話してくれました。

いま振り返ると、私たちは、いつもわかちゃんに励まされてきました。

きっとわかちゃんの笑顔や絵本は、これからもたくさんの人の背中を押してくれると思います。

そうして応援された人は、周りの誰かを応援したくなります。

私たちはこれからもずっと、わかちゃんにもらったエールを、誰かと交換し続けながら、生きていくんだと思うのです。

『パプリカ』で出会い、育んできた私たちのエールが、どこかの誰かに届きますように。

あしたにたねをまこう!

今回制作したアニメーションはこちら👇
2024年2月8日放送「あおきいろ」より「いろとりどりさん・わか編」

わかちゃんとりりこちゃんを追ったドキュメンタリーはこちら👇
2019年12月放送「パプリカ~Let’s PLAY! Foorin楽団 りりこ×わか編」

声録音の日に集まったパプリカチームのみんな、そしてわかちゃん家族と(中央左が筆者)
筆者 冨田百合子

秋田局を経て『天才てれびくん』シリーズ、『パプリカ』『あおきいろ』『u&i』『ふつうってなんだろう』などを担当。『天才てれびくん』テーマ曲『ネクタリン』も素敵な曲です!みんな歌って踊ってね!

この記事のコメント投稿フォームからみなさんの声をお待ちしています。

みんなのコメント(4件)

感想
めいめい
50代 女性
2024年4月7日
「わかちゃん」とは、2019年の12月、フーリン楽団の製作ドキュメンタリーのユーチューブ画像で出会いました。私は、耳下腺腫瘍の手術をして、その後遺症で、顔面麻痺がおきて、笑顔が作れなくなっていました。これからのことを思って、気持ちが落ち込んで、夜中、病院のベットでこっそり泣きました。その時に、偶然「出会え」たのが、わかちゃんの画像です。病気をかかえていても、こんな素敵な笑顔で、前を見ている、わかちゃんにいっぱい勇気をもらいました。今、私は、リハビリして、笑顔がもどったし、その後の検査で良性腫瘍とわかったので、元気に生きています。今でも、なんどもわかちゃんの画像をみて、元気をもらっています。あの時の、そして、今のわたしを支えてくれているのは、わかちゃんの笑顔です。わかちゃん、ありがとう。
感想
ちー
40代 女性
2024年3月1日
朝、子どもを保育園に送る途中の車で、わかちゃんのアニメを見ました。わかちゃんとfoorin楽団りりこちゃんのドキュメンタリーは、当時私も非常に心に残って録画を残していたので、あああのこ夢に向かっているんだな良かったなと安堵して、その後何気なく検索して、残酷な現実を知りました。ただ辛い現実の中、わかちゃんが残した絵本と、あのアニメが現在進行形で描かれたことが救いに思えました。この夢は未来へ繋がっていくのだと。私も子どもたちと一緒に、一生懸命生きたわかちゃんの夢を繋げたいと思います。
感想
ゆずしょうが
40代 女性
2024年2月29日
foolin楽団の番組、本放送の録画を未だに5歳の息子と、後から生まれた弟と見返しています。息子たちが生まれたり、入院、手術をした成育が出てくるので。
自分に親しみのある場所が登場する番組を通じて、重い病気や、障害と共に生きている同世代の子どももいるという事や、誰もがその子にしか無い輝きを持っていることを感じてもらえたらと思います。
画面を通じても強い輝きを放つわかちゃんの存在は私もひときわ強く心に残っていました。
その後のご活躍、こんなに素敵な作品を創るなんて、さすがというか、やはりというか…わかちゃんのメッセージはこれからも沢山の人に顔を上げる力を与えてくれると思います。
これからも作品や番組を通じたそのご活躍を応援したいと思います。
感想
悦子
50代 女性
2024年2月28日
初めまして。いつもテレビを見ない私が昨日の朝たまたまテレビをつけていてわかちゃんのニュースを見ました。7年ほど前に当時2歳だった私の娘が成育に入院中に隣のベットに居たのがわかちゃんでした。いつも楽しい会話でパワー和ませてくれ、大輪の花を咲かせていたわかちゃん。わたしの娘のベットによく折り紙やお手紙を入れてくれてました。そしていつもわかちゃんの側にいた優しいお母様の事も忘れられません。娘が退院する日にご挨拶したかったのですがわかちゃんの体調がすぐれないようでカーテンが閉まっておりそのままお別れになってしまいました。色々な気持ちが溢れております。早速絵本を注文しました。娘と娘のお友達にもプレゼントします。素晴らしいメッセージをありがとうございました。どうかたくさんの人にこの絵本が届きますように。