2012年05月22日 (火)パリの街角で
※画像をクリックしますと拡大でご覧になれます。
春のパリを訪れました。フランス大統領選挙の第1回投票前日の海外ネットワーク中継のためです。華やかなシャンゼリゼ大通りの賑わいや穏やかな陽を浴びながらセーヌ川のほとりを散策する人たち、モンマルトルの丘に集う人々などまさにパリの絵になる光景です。

そんな中でフランスの有権者は国の舵取りを誰に託そうとしているのか、また欧州の信用不安の影響はあるのか見て歩きました。街をちょっと見ただけでは気づきにくいのですが、現地の人たちに話をうかがうといろいろなところに不況や信用不安の影響が出ているようです。

そのひとつが質屋です。パリといえば蚤の市が有名ですが、公営の質屋も古い歴史を持っています。その質屋に高価な絵画や宝飾品を持ち込む人が増え、質流れ品の競売も人気を呼んでいるそうです。ワインも質草として受け入れ、価格を査定できる専門家もいるそうです。いかにもフランスらしいですね。番組では、そのワインの専門店を取り上げました。といって通常の店ではありません。経営破たんしたレストランや急ぎの現金を必要としている人などから買い取ったワインを販売しているのです。店のパソコンには「売却希望」というメールが次々と届き、ワインセラーには年代物のワインが所狭しと並んでいました。また、市内のあちこちにあるマルシェ(市場)でも以前より買い物客が減ったと話す人が少なくありませんでした。
そうした現状への不満、閉そく感が選挙の結果に表れました。野党・社会党のフランソワ・オランド前第1書記が、第1回投票で1位となり、5月6日の決選投票でも、現職のニコラ・サルコジ大統領を破って当選を決めたのです。


社会党が大統領のポストを得るのは知日派として知られたシラク氏以来17年ぶりです。とはいえ、その勝利は積極的なオランド氏支持ではなく、多くの国民がサルコジ氏にノーを突き付けた結果でした。
1回目の投票では、オランド氏が28.63%、サルコジ氏が27.13%にとどまり、左右両極の2人の候補の合計が29%をこえました。大多数の国民が選んだのはサルコジ氏でもオランド氏でもなかったのです。オランド氏は5月15日に大統領に就任しますが、高額所得者に75%の所得税を課すことや教員など公務員の数を5年間で6万人増やすことなどを公約に掲げました。競争力を維持しながら財政赤字を解消できるのか疑問の声も聞かれます。また、サルコジ大統領は、ドイツのメルケル首相と二人三脚でヨーロッパの信用不安に立ち向かい「メルコジ」と呼ばれました。現地のメディアの間では早くも「メルコランド」という新たな名前が上がっていますが、両国が協調関係を築くことができるか今後の欧州の1つのカギを握っています。
フランス大統領選挙の決選投票と同じ日、ギリシャでは総選挙が行われました。連立与党が過半数に達せず、財政緊縮策に反対する左派や極右政党が支持率を伸ばしました。欧州の信用不安が広がりを見せて以来、アイルランドやポルトガル、イタリア、スペインなどで次々と政権が交代しています。増税や社会保障費の削減など財政再建のために厳しい緊縮策を進めたサルコジ氏の敗北とギリシャ与党の退潮は日本にとっても他人事ではありません。
今年はこれからアメリカ、韓国で大統領選挙、中国では最高指導部の交代があります。世界は大きな節目に差し掛かかり、ますます不透明感を増している、パリのカフェで街ゆく人を眺めながらそうした思いを強くしました。

投稿時間:18:40 | 固定リンク
2011年12月22日 (木)「テロとの戦い 10年」

ニューヨークの新しい名所として槌音が響き渡る「グラウンド・ゼロ」。アメリカ同時多発テロ事件から10年の追悼式典を控えた9月10日の海外ネットワークは、ここから中継でお伝えしました。
航空機に激突されて崩壊した世界貿易センタービルの跡地、グラウンド・ゼロでは、犠牲者を追悼する施設のほか、6つの高層ビルの建設が計画され、再来年にはアメリカ建国の年にちなんで"1776"フィート(541メートル)の全米最高層ビルが完成予定で、一帯はすっかり生まれ変わろうとしています。しかし、人々の心の傷、脳裏に刻まれた衝撃は決して消えることはありません。グラウンド・ゼロでは、およそ2700人の犠牲者のうち1100人もの遺体が最後まで見つかりませんでした。すぐそばの消防署前の道路では今も全米各地から訪れた市民が花を手向ける光景が毎日見られます。

マンハッタンのグランド・セントラル駅では武装した兵士が監視の目を光らせ、証券取引所などでも入り口では身分証明書の掲示とともに荷物チェックを行っていました。式典を前に警備が強化され、自由闊達なアメリカというよりテロに怯える姿が印象に残りました。

アメリカのイスラム教徒もテロの被害者です。9.11以降アメリカではイスラム教徒に対する偏見や嫌がらせが相次いでいます。犯罪とは無関係のイスラム教徒に対する行き過ぎた捜査も問題になっています。グラウンド・ゼロから2ブロック離れた場所にモスクを建設する計画が持ち上がったところ強い反対の声が上がり、今も計画は中断されたままです。世界の人々を受け入れてきた移民の国アメリカの変容、社会の亀裂は深刻です。

10年前、テロ事件が起きたとき、私はベルリン支局でテレビを見ていました。NHKの「ニュース10」でした。キャスターの後ろのモニターで、2機目の航空機が世界貿易センタービルに激突した瞬間、「とんでもないテロが起きた」と呆然としたことを今も鮮明に覚えています。直ちに空港に向かい、ほとんどの便がキャンセルになった中で唯一飛んでいた中東方面に向かうフライトに飛び乗りました。それからまもなく、アメリカの攻撃が始まりタリバンは首都カブールを追われました。
それから10年、アメリカはイラク、アフガニスタンの2つの戦争に莫大な予算を投入して財政が悪化。高い失業率と格差拡大に異議を唱える若者たちがウォールストリートを埋め尽くしています。米軍兵士の犠牲も6千人をこえました。アメリカは世界の警察官としての役割も放棄しようとしているかのようです。テロの首謀者であるオサマ・ビンラディンが殺害されたものの、アフガニスタンではタリバンが再び台頭。自爆テロ事件は今も続き、テロの脅威はなくなっていません。

9.11から10年という節目のことし、中東・北アフリカでは、民衆の蜂起によって長期独裁政権が相次いで崩壊しました。しかし、「アラブの春」の行く末はまだ見えてきません。むしろ不安定な状態がしばらく続きそうです。そしてヨーロッパではユーロ危機、アメリカでは財政危機と世界は不安定な時代に突入しました。中国やインドなどの台頭によって多極化する世界はこれからどこに向かうのでしょうか。太陽の光を浴びて輝くグラウンド・ゼロ一帯の高層ビル群はアメリカの輝かしい未来を象徴しているのか、様々な困難が待ち構えているとはいえ希望を感じました。日本も大震災からの復興に向けて元気を出して立ち上がらなくてはならないと、この景色を見ながら感じました。
投稿時間:21:39 | 固定リンク
2011年07月29日 (金)アフリカ54番目の国 ~南スーダン取材記
7月9日、アフリカに新しい国が誕生しました。南スーダン共和国です。海外ネットワークはちょうど独立式典の時間で、現地から生中継でお伝えしました。

式典会場には国連のパン・ギムン事務総長やアフリカ30か国首脳のほか各国代表が出席し、市民も数万人が詰めかけました。独立宣言に続いて新しい国旗が掲揚されると東京の声が聞こえないほどの歓声と熱気に包まれました。
イギリスとエジプトによる統治のあと、独立後も北部のイスラム教の政府に抑圧されてきた南部の人々にとって自らの国を持つことは長年の悲願だっただけに誰もが歓喜の表情に溢れていました。

でも街を一歩行くと、この国の将来が思いやられることばかりです。日本の2倍近い国土に舗装道路は60キロほどしかありません。首都ジュバでも幹線道路を一歩はずれると砂埃や泥濘の道が続きます。

電気も水道もほとんど普及していません。長い内戦と北部の開発が優先されたために南部はインフラがほとんど整備されてこなかったのです。外国政府要人や取材陣を受け入れるホテルも足りず、外交官とジャーナリストが部屋を奪い合う光景が各地で見られました。
どう見ても1泊数千円の部屋が、独立直前に280ドルに跳ね上がりました。
さらになんと式典の前日には、インド代表団のために部屋を空けるようにと政府が命じてきたのです。
総合病院も1つだけ、学校もまだまだ足りません。そして何よりも深刻なのは人材不足です。スーダンは内戦で200万人が死亡し、400万人が祖国を逃れて難民となりました.。国家運営はおろか行政サービスも教育も、まずは人材育成から始めなくてはならないのです。
今回放送で取り上げた新聞社のマイケル・コマ編集長には5月に東京で会いました。民主的な国づくりには中立で公正な報道が欠かせないとして、日本の独立支援の一環として南スーダンの主要な報道機関の幹部を招いてメディア研修が行われたのです。ジュバの職場を訪ねると編集長のもとで14人の記者が歴史的な瞬間を伝えようと意欲的に取材を進めていました。

とはいえ記事を書くにも発電機が必要です。印刷は北部のハルツームで行い飛行機で新聞を運んでいます。そんな現実にマイケル・コマ編集長は「課題が多すぎて将来は楽観なんてできない」と言います。それでも「民主的な国を作るためにペンを持ち続けます」と力強く話してくれました.
7月14日、国連総会で南スーダンは193番目の国連加盟国になりました.。
以下はパン・ギムン事務総長の演説です。
「南スーダンには大きな課題が待ち受けていますが、未来を築くために支援していくことを誓います。最も新しい加盟国の人々に、こう伝えようではありませんか。国際社会に仲間として受け入れ、支援しますと」。

投稿時間:16:22 | 固定リンク
2011年04月13日 (水)「民富」とは~全人代取材記
キャスターの二村です。3月5日は中国の全人代・全国人民代表大会開会にあわせて首都北京からお伝えしました。中国は去年の上海万博以来ですが、政治の中心である北京は、商業都市・上海とはまた違った雰囲気でした。また今回は中東の民衆蜂起・政変の余波が中国にまで広がっていることを実感しました。

「中国版ジャスミン革命」がインターネットで呼びかけられ、厳重な警戒態勢が敷かれていたのです。全人代の会場である人民大会堂だけではありません。北京随一の繁華街・王府井でも、街を行く人々にカメラを向けると民生委員の女性が近寄ってきて「撮影は許可が必要だ」と言い、私たちが撮影を切り上げて車に乗り込むまで監視していました。全人代初日は、繁華街の市民の賑わいを撮っていると警察官が飛んできてカメラを手でふさいで「撮影禁止だ」。ふだんは何の問題もなく撮影できていた場所もピリピリとした雰囲気に包まれていました。当局は外国メディアに対してデモが呼びかけられている場所の取材には許可が必要だと通達を出しました。といっても申請しても取材許可は出ません。外国報道陣が一時拘束される一幕もありました。


中国政府がこれほどまでにデモに神経を尖らせているのは、国民の不満がこうじていることに危機感を抱いているからです。GDPが日本を抜いて世界2位になったとはいえ、1人あたりではまだ日本の10分の1にすぎず貧富の差は深刻です。高層ビルが建ち並び若者たちが外国のブランド商品を次々と買い求める一方で、都市開発によって大勢の人々が立ち退きを迫られ、地方から出稼ぎに来ている農民工の子どもたちの学校も相次いで閉鎖に追い込まれています。


農民工の子どもたちを取材中に、どこで聞いたのか警察が来て支援者に取材に協力しないよう釘をさしました。入れ違うように現場を離れた私たちが数日後に電話をするとその人物は「何のこと?」と、まるで別人のようでした。
厳しい監視の目と耳によって中国は不穏な動きを徹底的に封じこんできました。しかし、こうした社会に中国の国民はいつまで耐え続けるのでしょうか。チュニジアやエジプトの政権転覆は中国政府に衝撃を与えたはずです。中継で中国総局の北川記者は、「国富から民富へ」と表現しました。これ以上格差が拡大すれば政権の基盤が揺らぎかねないだけに、政府は経済成長重視から国民一人一人が豊かさを実感できる社会の実現に重点を移そうとしているのです。しかし、「民富」がすべての国民を指しているのか、そしてそれは可能なのか、今はまだ答えはありません。世界第2の経済規模に見あう豊かで安定した社会を築き、国際社会で責任ある役割を果たすことができるかどうか、日本の国益にもかかわる問題であり決して他人ごとではいられないという思いを強くしました。
投稿時間:22:40 | 固定リンク
2011年02月22日 (火)二村キャスターのエジプト取材記

キャスターの二村です。エジプトのムバラク大統領がついに退陣しました。現地からの緊急報告のため2月2日に成田を発ち、カイロに到着したのは3日未明。反政府デモ隊と大統領支持派が激しく衝突していました。ホテルのバルコニーからは石や火炎瓶を投げあう人々と黒い煙が上がっているのが見えました。銃声も散発的に響き渡っていました。
ムバラク大統領は9月の大統領選挙に立候補しないと発表しましたが、混乱は収拾に向かうどころかさらに深まり、デモ隊が「追放の金曜日」と名づけた4日にはタハリール広場に集まった市民は数十万人に膨れ上がりました。一帯には新たな衝突を避けるためにバリケードが築かれ、軍が監視を続けました。外国人ジャーナリストが大統領支持派から相次いで襲撃されたり拘束されたりしていたため、安全確保のため各国のジャーナリストと集団で広場に入りました。そこで「ムバラク打倒!」を叫んでいたのはごく普通の市民でした。若者からお年寄りまで、こちらが話しかける前にカメラの前に次から次へと顔を出し、早口で不満をまくしたてました。
1980年代はじめに旅行したときや1990年代に4年間駐在したときの印象では、エジプト人はフレンドリーで
お上には弱いというものでした。警察国家エジプトでは、不満はあっても官憲にはおとなしく従う、ましてや大統領批判などもってのほかだったのです。ここまで大統領への怒りを爆発させる人々を前にして、いかに長年にわたって不満が積もり積もっていたかを感じました。
エジプト特集の放送を翌日に控えた11日の夕方、中継の打ち合わせをしていたとき、突然テレビに副大統領が登場し、ムバラク大統領の辞任を発表しました。前夜、国民向けにテレビ演説して「9月まで辞めない」と言ったばかりの大統領がついにデモ隊に屈したのです。
タハリール広場にはデモに参加していなかった市民も次々と集まり、「民衆による革命」を祝いました。上空には花火が何発も打ち上げられ、町は車のクラクションが鳴り続けました。広場に近いNHKカイロ支局の前の路上でも大統領辞任を祝う人たちの歓声で包まれました。

翌朝、市内にはブラシを手にした人たちの姿が目立ちました。デモで荒れ果てた街をきれいにするためです。
ゴミが散乱し埃まみれの街でこんな光景を見たのは初めてです。強権政治の終焉とともに、政治の腐敗も市民の不満もゴミの山とともに一掃されるのでしょうか。
人口8000万人を抱え、湾岸の産油国のように財政が豊かではないエジプトの将来は決してバラ色ではありません。むしろ強力なリーダーがいないだけに今後の安定が危ぶまれます。9月の選挙まで待たずに大統領を追い落としたことが吉と出るのかどうか、新政権発足までの「秩序ある移行」に期待したいものです。そして世界中から観光客が戻り、人懐っこいエジプト人の笑顔が見られるようになってほしいと心から願わずにいられません。

投稿時間:20:18 | 固定リンク
▲このページの先頭へ