取材メモ

2011年06月21日 (火)被災地のママに届け 善意のミルク 取材記 2 同じ母親として


5月14日放送の特集を取材した国際部記者の久枝和歌子です。避難生活で粉ミルクや水が不足して困っている親子を助けようと、北欧フィンランドの母親たちが立ち上がり、たくさんの人の協力を得ながら赤ちゃん用の液体のミルクを届けたという話を取材しました。
私が取材したのは被災地、岩手県大船渡市の親子たちです。幸いにも自宅の被災は免れた方たちでしたが、震災直後に水もない電気もない、ガスもない中で小さな子どもを抱えた母親たちがどれだけ大変だったかを皆さん語ってくれました。
中でも番組でご紹介した、震災のショックで母乳が止まってしまったという後藤政子さん。私にも1歳10か月の娘がいますが、やはり母乳で育てていました。一番栄養があるし、泣けばすぐに与えられるし、娘は私の母乳さえあれば元気に育ってくれると信じていました。娘と触れ合う大切なスキンシップの時間でもありました。母親に、そして赤ちゃんにとってそんなにも大事な母乳が出なくなってしまうなんてどれほどつらかったことでしょう。話を聞いていて涙がこぼれそうになりました。

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後藤さんは母乳が止まってショックを受けたものの、その後の生活に必死で当時のことはよく覚えていないと言います。粉ミルクをもらうために避難所を歩いてまわり、水が限られている中哺乳瓶の煮沸もままならず、赤ちゃんの入浴も満足にさせられない...。そんな大変な思いをしている中で届いたフィンランドのミルク。「世界どこでも子供を思う母親の気持ちは同じですね」という後藤さんのうれしそうな顔が忘れられません。

さて被災地の親子を支援しようという取組みですが、フィンランドの母親たちの取り組みをきっかけに世界中にも広がっています。アメリカに住む日本人の母親たちもツイッターやブログなどを通じて募金を集め、液体のミルク1200パックを購入して岩手県陸前高田市に送りました。こちらは使い捨ての哺乳瓶用乳首を円筒形パックに取り付けて飲ませるもので、哺乳瓶が必要ないため煮沸消毒の手間もかかりません。またフランスからも同様にミルクを送る活動が進んでいるということです。
世界中の母親たちによる海を越えた温かい支援、私も同じ母親として共感するところがたくさんあります。こうした支援の声が被災地に届き、被災した母親たちが元通りの生活を取り戻すまで、引き続き丁寧に取材していきたいと思います。

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投稿時間:15:21 | 固定リンク

2011年06月08日 (水)被災地のママに届け 善意のミルク 取材記 1


5月14日放送の特集を取材したヨーロッパ総局の山澤里奈です。

今回の取材のきっかけは、以前取材でお世話になったある女性からのメールでした。「被災地のママを助けようと、海外で奮闘しているママたちがいます!」と。

3月11日、私はパリの自宅で日本で起きた大災害のことを知りました。発生直後からフランスのメディアも一斉に災害を報道、東北の悲惨な状況は数時間のうちに知ることが出来ました。災害直後に私の脳裏に浮かんだのは、初任地・熊本県にいた際に取材した土石流災害でした。規模こそ全く違うものの、大切な命を災害で失った人たちを取材するという意味では何ら変わりなく、少しでも被災者を励ます報道が出来ればと思いながら取材したのをいまでも覚えています。今回の東日本大震災では、遠く離れたフランスで被災地や被災者のために何が出来るか、私なりに模索している最中に受け取ったメールだったので、大げさかもしれませんが「私に課せられた取材だ」と直感し、すぐに取材を開始しました。

取材を始めてからおよそ2週間、液体ミルク支援の中心になっている竹本悦子さんから「次の支援便をもうすぐ出します」との連絡をもらい、急いでフィンランドに飛びました。活動の中心になっているのは小さなお子さんを抱える「ママ」たちがほとんど。私と年齢が変わらない若いお母さんたちが自ら支援に乗り出している姿を見て、何も出来ずにいた自分を恥ずかしく思うとともに、「ママたちの活動を出来るだけ多くの人に伝えなくては」と改めて思いました。

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今回の取材で強く感じたのはインターネットが非常に重要なツールとして、遠く離れた日本とフィンランドを結び付け、支援を可能にしたということです。フィンランドの竹本さんと日本で受け入れを担当した清水さんは一度も会ったことも、顔を見たこともありません。でもメールやツイッターやスカイプなどを使って信頼を築け上げ、同じ目的に向かって協力しあえるようになり、被災地にいる多くのお母さんたちを助けました。『「自分にでも出来ることがある」「小さなことからでも始めよう」という共通の目的がみんなの心を一つにした』と竹本さんは話してくれました。そうした彼女たちの思いに動かされるように、われわれ取材陣も、フィンランドでは山澤、東京や被災地では山口記者と久枝記者、そして担当デスクは海外ネットの前キャスター・長尾デスクと、女性4人のチームで取材にあたりました。液体ミルクの支援リレーをみなさんに伝えるために組んだ取材リレー、支援の一部を伝えるのではなく、ミルクを受け取ったママたちの思いまで取材することで、竹本さんや清水さんたちの支援の本当の意味を伝えることが出来たと思っています。1本のメールによって私が出会えたミルクの支援、海外にいても被災地や被災者を励まし、支援し続けられるような取材をこれからも続けていきたいと思います。

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投稿時間:23:42 | 固定リンク

2010年11月30日 (火)亀をながめて想うこと


特集「生き物保護ビジネス最前線」(11月13日放送)を取材した、国際部記者の戸川です。

歩くスピードは1分間で数メートル。のろのろと進むこのカメを保護すると、1匹あたり100万円ほどの金が動く。いま、アメリカでは、こんなビジネスが行われています。生き物の保護というと、日本では、希少動物の保護は行政や市民グループが行うのが通常かと思っていましたが、アメリカでは、民間企業が主役になるケースが急増しているのです。
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取材をしたのはアメリカ南部のミシシッピ州。メキシコ湾に近い温暖な地域の松林に絶滅危惧種のアナホリガメという陸生のカメがいます。国は、こうした生息地で開発を行う業者に対し、法律で厳しく規制しています。「カメの住める環境を壊すのであれば、カメの住める環境を別の場所に用意しなさい」というもの。この仕組みに目をつけたのが環境コンサルタント会社。開発業者に代わって、植林などを行いカメのための環境を整備・管理し利益を得ているのです。

新たに整備された生息環境のことを彼らは「バンク」と呼びます。売買の単位は、カメ1匹あたり。何匹のカメをバンクに移して保護するかで決まります。取材した汚水処理施設の建設業者の場合、建設予定地から5匹のカメが見つかりました。5匹の保護で一体いくらの取引になるのか。取材で苦労したのはその値段が非公開なことでした。「他社との競争があるため、値段は公開したくない」というのがこの世界の常識。夕飯をともにし、取材先と打ち解ける中で、何とか金額を教えてもらうことができましたが、カメをめぐってシビアな競争が裏にあることを痛感しました。

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いま、経済と環境をいかに両立させるかは、世界中で頭を悩ませている問題です。開発をしながらも生き物を守るというこのビジネスはその1つの答えかもしれません。しかし、取材の中で、環境コンサルタント会社の担当者が「これは完璧な答えではないよ」とも話していました。確かに、一度失った環境と同質の環境を新たに整備することは難しく、その環境を評価し数値化することも簡単ではありません。日本の経済界からも、評価の手法が確立されていないと慎重な声が出ているのも事実です。しかし、多くの生き物が絶滅へと向かう大絶滅時代。世界では、市場原理という経済の力を借りて生き物や自然を守る動きがどんどん広がっています。日本は今後どうあるべきか。今回の放送が、そのことを考えるきっかけになればと思います。

投稿時間:18:13 | 固定リンク

2010年11月23日 (火)インドなくせるかクラクション騒音


11月20日放送のワールドトレンドを担当した、ニューデリー支局カメラマンの依田(よだ)です。
ことし8月にインドに赴任しました。まず驚いたのは、日本とはかけ離れた交通マナー。

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けたたましくクラクションを鳴らしながら、4輪乗用車だけでなくバイクやオートリキシャが先を競うように走り抜けるのです。さらに牛やゾウが悠々と車道を歩きますので、インドの道路はとてもにぎやかです。
しかし今のインドは、にぎやかとも言えない状況になりつつあります。経済成長で自動車台数が増えた結果、慢性的な渋滞や騒音に悩まされるようになったのです。政府の統計によると、ニューデリー市内のラッシュアワー(午前8時から10時)の平均時速は自転車並みの17キロ。イライラしたドライバーが、思わずクラクションを鳴らしてしまうという悪循環に陥っているのです。

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インド政府は来月、全国35地点で騒音計を道路脇に設置し、データをリアルタイムで収集する騒音観測網をつくる予定です。クラクションを不必要に使わない市民の運動とあわせて、インドの交通マナーが改善される時が来るのか?豊かさに見合った静かな暮らしを、と私も願いながら、きょうも大渋滞に巻き込まれています。

投稿時間:11:42 | 固定リンク

2010年10月09日 (土)再統一の重み


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キャスターの二村です。東西に分割されていたドイツが再統一を果たしてから10月3日で20年を迎えました。2日の番組ではドイツの今を首都ベルリンから中継でお伝えしました。中継場所は連邦議会議事堂の広場。ドイツ国民にとって特別な場所です。ベルリンで壁と言えばブランデンブルク門、統一と言えば連邦議会議事堂です。ドイツ最初の統一国家であるドイツ帝国とその後のワイマール共和国の議会が置かれ、20年前には東西の人々が見守る中、統一ドイツの国旗が掲げられ歓喜に包まれました。私にとっても連邦議会がボンから移って以来何度も取材に訪れ、統一10周年の中継も行った思い出深い場所です。外観は130年前の面影を残し、内部の壁にはソ連軍に占拠されたときの兵士の落書きがそのまま残されています。屋上のガラスのドームは市民に開放され、ベルリンの新たな名所として毎日見学者の長い列が出来ています。伝統を重んじながら開かれた政治をめざすドイツらしさがうかがえます。

今回取材に訪れたルール地方。今年のヨーロッパ文化首都です。ドイツ最大の工業地帯、「石炭と鉄の町」が大きく様変わりし、文化遺産として脚光を浴びています。エッセンの炭鉱は「世界で最も美しい炭鉱」と呼ばれ世界遺産に登録されました。エスカレーターで入場すると中は博物館、この地域の歴史を紹介しています。デュイスブルクの製鉄所跡地は公園として市民に開放されています。内部は当時のままで自由に見学でき、階段を50メートルほど昇ると360度の視界が広がります。ガス貯蔵タンクはヨーロッパ最大の人工ダイビングプールとなり大勢のダイバーで賑わっています。コンクリートの壁はロッククライミングに。夜は色とりどりの照明でライトアップされ幻想的な雰囲気に包まれます。

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このように多くの炭鉱や製鉄所が文化遺産として保存され、コンサートなど様々なイベントが連日行われています。さらにルール地方にはサッカー・ブンデスリーガのチームが4つ。日本人選手も活躍中でドルトムントの香川選手はドイツでも知らない人はいないほどのスタープレイヤーです。

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一方、旧東ドイツ地域ではアウトバーンをはじめ交通や通信インフラが整備され、太陽光などのエネルギー産業がめざましい発展を遂げ東西の経済格差は縮まりました。「心理的な壁」が解消されるまでにはまだ2、3世代はかかるだろうと言われますが、ドイツは統一の大きな代償を払いながらもヨーロッパ経済をけん引し続けています。統一からの20年はアジアにとっても大きな意味を持っています。いつの日か朝鮮半島が再統一されるときに備えて、韓国と北朝鮮はその推移を慎重に見守っているのです。

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投稿時間:02:33 | 固定リンク

2010年10月01日 (金)日本にやってくる難民たちを取材して


25日の特集「ミャンマー難民の第三国定住」を担当した、アジア総局記者の大橋です。

26年も前から、同じ場所から動くこともできず、厳しい生活を強いられてきた難民の人たち。彼らを難民とは認めず、「一時的に避難してきた人々」と認定するタイ政府は、難民キャンプへの外国メディアの立ち入りを厳しく制限していますが、NHKではタイ政府から特別の許可を得て、およそ10か月にわたって取材を続けてきました。キャンプ内にはNGOによって水も食料も提供され、一部には電気さえ通っていますが、そこには、決定的なものが欠如していました。それは、自由、希望、そして、人としての尊厳です。26年も前から何も変わらず、ただ、与えられたものを食べ、ただ生きているだけの人生を送ってきた難民の家族が、誰一人友達も知り合いもいない遠い日本へ渡る決心をした思いに寄り添い、彼らの終の棲家となる日本の皆さんに、出来る限り彼らの思いをお伝えしたいと思い、何度もキャンプに通いました。

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実は、難民の人々の中には、日本に対して、とても複雑な思いを持っている人も数多くいました。日本は第二次大戦中、ビルマ戦線でカレンの人々と激しく戦った経緯があったからです。年配の人たちの中には、いまだに日本に対する不信感もありました。取材中、ある難民の家族から「日本はもう、本当に戦争をしないのか?」「徴兵制度はないのか?」と聞かれ、胸が締め付けられるような気持ちにもなりました。

こうした経緯もあってか、実は日本行きを希望する難民の数は、当初予想されていたよりもずっと少なかったんです。しかしそれでも、自由を得たい、生きる希望を持ちたいと、未知の国日本に渡った彼らをどう支援していくべきか。来日後わずか6か月の研修で、本当に彼らは日本の社会に溶け込めるのか。「試験的に」難民を受け入れるというプロジェクトであっても、彼らはまさに人生を賭して日本に渡りました。

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彼らが日本で路頭に迷うことがあっては、それは全く支援策とは言えません。もちろん、日本に渡った難民自身の努力は不可欠ですが、彼らとどう向き合い、支援していくべきなのか、今、私たちに問われていると思います。難民問題は、もう遠い国の出来事では決してないのですから。

投稿時間:22:51 | 固定リンク

2010年09月07日 (火)がんばれ、門倉投手


9月4日のワールドトレンドを担当したソウル支局・若槻です。
野球などまるで関心のなかった私ですが、韓国で何気なく見ていたスポーツニュースで「カドクラ」という名前を聞き、「え、日本人が?」と思ったのが取材の発端です。
さっそく門倉投手と連絡をとり、お話しを聞き、初めて韓国のプロ野球の試合を見に行ったのがことし6月。本人も初めてとなるオールスター戦出場が決まり、さっそく取材を始めました。


kadokura.JPGスポーツに限らず、どんな仕事でも何も知らない異国で、結果を残すことは難しいもの。
そんな意味で同じ野球とはいえ、単身、韓国に乗り込んできて活躍するのは並大抵のことではないはずですが、門倉さんは「活躍の場を与えてくれた韓国に感謝している」と繰り返します。
そんな姿勢がチームメイト、そしてとても多くのファンに受け入れられているのでしょう。
所属するSKワイバーンズは現在首位。門倉投手はこのままの勢いで優勝し、11月に東京ドームで行われる
日本プロ野球の覇者との日韓戦で、活躍ぶりを見せたいと意気込んでいます。
そのためにも、まずはチームの優勝を、そして熱い韓国プロ野球をぜひ見に来て体感してほしいと話していました。

投稿時間:12:35 | 固定リンク

2010年09月07日 (火)悲しいお知らせです...


8月7日に放送した「イラクの子ども達を救え」を担当した、ヨーロッパ総局の味田村です。きょうは皆様に悲しいお知らせがあります。

aya.jpgこの特集では、イラクで依然としてテロが頻発して復興も遅れるなかで、十分な治療を受けることができないまま、多くのイラクの子どもたちが亡くなっている現状をお伝えしました。このVTRのなかで、腎臓のがんと闘っているアヤさん(9歳)も登場しました。アヤさんは苦しい闘病生活のなかでも、絵を描くことで希望を失わず、「将来はお医者さんになってみんなを救いたい」と話していました。

その後、アヤさんは症状が急激に悪化し、9月2日に亡くなりました。幼い弟や妹に会いたいという彼女の希望から、最後は自宅に戻って家族に看取られながら、息を引き取りました。彼女を支援していたNGO「日本イラク医療支援ネットワーク」の佐藤真紀さんは、「本当に残念です。彼女の思いを継いで、私たちとしては活動を続けていくしかありません」と話していました。

8月末をもって、アメリカ軍の戦闘部隊が撤退し、イラクはいま大きな岐路に立っています。一刻も早くイラクに平和が訪れ、子どもたちが安心して暮らすことができ、小児がんが多発している現状に対して国際社会からのいっそうの支援が得られるよう、私たちも必要な報道を続けていきたいと思います。

投稿時間:12:20 | 固定リンク

2010年08月25日 (水)難民音楽コンテストを取材して


国際部記者の山下です。8月21日の特集「難民を音楽で励ませ!」で、難民問題に取り組む日本の大学生を取材しました。日本の若者たちが優勝者を決める、ケニアの難民キャンプで行われた初めての音楽コンテスト。6月20日の「世界難民の日」に合わせて各地のイベントなどで投票が行われました。

nanmin2.JPG今回取材した、横浜市の繁華街のイベントでは、大学生たちは多くの人たちに集まってもらおうと、何ヶ月も前から、毎日のように、喧々諤々と知恵を出し合っていました。そしてイベント当日。梅雨の時期とあって、小雨まじりの天気でしたが、大学生たちの熱心な訴えが届いたのか、300人の人たちが足を止めて、投票を行いました。
また、会場では、イベントの趣旨に賛同して、多くの人が寄付金を投じました。この寄付金は、ケニアの難民キャンプの学校建設費用にあてられるということです。

リポートで密着した、大学3年生の加藤宏基さんは、来月からイギリスのバーミンガム大学に1年間留学して、アフリカの紛争について学ぶ予定だということです。
現在も、難民キャンプに行った経験を基に勉強会を行うなど、積極的に活動している加藤さんですが、留学でさらに貴重な経験を積んで、多くの人に難民問題のことを伝えていってほしいと思います。

投稿時間:22:40 | 固定リンク

2010年08月25日 (水)カザフスタンの元抑留者を取材して


14日の特集のカザフスタンに残る元抑留者を取材した国際部の岡田です。

今も、カザフスタンに残る元シベリア抑留者の阿彦さん。いったい、どのような大変な人生を送ってきたのか想像すらできないまま、阿彦さんのお宅のドアをたたいたのは、ことし6月16日。ちょうど日本で、シベリア特措法が成立した日でした。

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中央アジア・カザフスタンの人々には、アジア系が多く、日本人と見分けのつかない人たちがたくさんいます。初めてお会いした阿彦さんは、カザフ人にも日本人にも見えましたが、「初めまして」と言われたとき初めて、「ああ、本当に日本人だ」と確信できました。それだけ、日本から遠いカザフスタンの地に、60年に渡って日本人が取り残されているという事実は、私にとって信じがたいことだったのです。

阿彦さんのこれまでの人生は、ひと言では言い尽くせないもので、一冊の本になってしまうほど数奇なものです。その一部は、14日の放送でお伝えしました。家族とロシア語で話をするときはスラスラととても簡単に話すのに、私たちの取材に日本語で答えるときは、言葉を探しながら、苦しそうに声を振り絞って話しました。その背景には、16歳の時に家族と切り離され抑留された後、言葉も何一つわからないまま、1人、突然カザフスタンの地に放り出され、それでも生き抜いてきた阿彦さんの人生があります。

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阿彦さんは、終始穏やかに話を進めましたが、一度だけ少し声を大きくした瞬間がありました。「日本政府に何か言いたいことはありませんか」と聞いたときです。「俺は、なにも泥棒をしたわけじゃない」、悪いことをして抑留され残されたわけではない、ということを言いたかったのだと思います。しかし、すぐに声の調子を戻し「今は、一時帰国が楽しみです。政府には、どうもありがとうございますと伝えてください」と言いました。きっと、もっともっと本当は言いたいことがあるに違いないと分かっていても、私はそれ以上、言葉を引き出すことはできませんでした。阿彦さんの口から、特措法による支援を受けたいという言葉は、結局一度も出ませんでした。

阿彦さんのように、抑留されたまま現地に残った人は、民間人を中心に、ほかに何人もいました。その一部は、NPOの助けで永住帰国を果たしています。平均年齢が90歳に近づく今、未だ現地に残る人の数は、一桁台にまで減ったとみられていますが、私たちと同時代を生きる、このような先輩たちがいることを忘れてはならないと思います。

投稿時間:22:36 | 固定リンク

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