 |
天守閣を支える石垣を「天守台」といいます。
こちらは萩城の天守台。
かつて長州・毛利家の城がありました。
5層の天守閣は、明治6年の廃城令によって取り壊されました。
あとに残された天守台は、かつての城の姿をしのばせます。 |
 |
加賀百万石、前田家の城として名高い金沢城。
天守台はありませんが、さまざまな種類の石垣が残り、「石垣の博物館」と呼ばれています。 |
 |
金沢城で、石垣の研究に携わる冨田和気夫さんです。
冨田「石垣の変遷はお城の歴史とともにあるんです。信長の時代、秀吉の時代を経て、徳川になって天下太平の世になってくると、敵の侵攻を食い止めるような城壁だけでなくて、格式の高い場所を格式の高い空間として演出するための舞台装置のような、そんなありかたになります。」
天守閣鑑賞、三のツボ、
「石垣は城の舞台装置」
石垣の積み方は、時代とともに変化しました。 |
 |
もっとも古い形は、自然石をそのまま積み上げる「野面(のづら)積み」です。
荒々しく力強い印象。
水はけが良く、城の土台を堅固にするという利点がありました。 |
 |
桃山時代には「打込みハギ」が登場します。
石の角や面をたたいて形を整え、透き間を少なくしています。
野面積みよりも、石が安定するため、より高く積めるようになりました。 |
 |
江戸時代に入ると「切り込みハギ」という技法が確立。
石を積む現場で正確に削りました。
かみそりの刃も入らないといわれる端正な姿。
石垣の技術は数十年の間に、大きな進歩を遂げました。 |
 |
ところで、金沢城にはこんな石垣もあります。
石が縦に置かれ、いかにもバランスが悪そう。
なぜ、このような積み方をしたのでしょうか? |
 |
代々、金沢城の石垣を手がけた後藤家の秘伝書。
そこに、こんな記述があります。 |
 |
横に置いた石は陰、縦の石は陽だというのです。
当時は、すべての物事に陰と陽の性質があり、両方を合わせることで完全になると考えられていました。
この積み方は、いわば「おまじない」だったのです。
秘伝書には、石垣を積むための注意事項が和歌の形で記されています。 |
 |
「鏡石(かがみいし)、ところを知りて築くべし必ず神もいます、とぞ知れ」
鏡石とは、ひときわ大きな石のこと。
歌は、そこに神が宿っているといいます。
鏡石には、神の力を借りて城を守るという意味があったのです。 |
 |
将軍家のおひざ元、江戸城にも天守台が残っています。
江戸時代の初め、ここに天守閣が建っていましたが、1657年の明暦の大火で焼失し、その後は再建されていません。
しかし、天守台は江戸城の一画に残されました。
|
 |
当時最高の技術で積み上げられた、美しく堅ろうなたたずまい。
たとえ天守閣はなくとも、偉大な城のシンボルという役割を果たしていたのです。
|