都内にある日本料理店。ここでは、料理を盛り付ける器に織部焼を使っています。
様々な文様や色が施された織部焼は、食材の美しさと調和し、食事に華やかさをそえる器として人気があります。
桃山時代の大名で茶人でもあった古田織部。千利休の弟子だった織部は、利休の死後、茶の湯の第一人者となりました。 その織部が好んだことから「織部焼」の名がつけられました。
織部焼は、美濃国、今の岐阜県で焼かれました。斬新で奇抜とも言える形や色使いは、それまでの日本の焼き物にはないものでした。
特に桃山の人々を驚かせ、虜にしたのが、織部焼に多く用いられる緑です。
まずは織部焼の大きな特徴、緑に注目です。
茶碗全体を覆う深く神秘的な緑。
雫が滴ったような緑の線。
織部焼の印象的な緑はなぜ生まれたのでしょうか?
南蛮貿易が盛んに行われた桃山時代、日本には、中国や東南アジアから様々な種類の焼き物がもたらされました。
その中に人々の注目を集めた器がありました。
華南三彩。中国南部で作られた陶器です。 鮮やかな緑に彩られた器は異国情緒を感じさせ、桃山の人々に珍重されました。この色に対する憧れが、織部焼の緑を生んだのではないかと、考えられています。
しかし、比べてみると二つの器の緑には違いがあります。
華南三彩の緑はムラのない均一な色。それに対し織部焼は釉薬が生み出す濃淡をそのまま残しています。
黒田和哉さん 「釉薬が流れるというのは、中国では失敗だと感じたんですが、日本では他の器と違う釉薬の流れがあることを美しいと感じたんですよね。釉薬の中のそういった変化を【けしき】と言って見る人がいろいろ想像する。海の深さであったり、山の深さであったり、そういったことに青さということを想像する。」
織部焼鑑賞、最初のツボは 【緑に“けしき”を見よ】。
織部焼の里、岐阜県土岐市。
多治見工業高校の教諭、手島敦さんは、織部焼の緑について研究を続けてきました。
独特の流れる緑は、どうして生まれたのでしょうか。その秘密は、釉薬にあるといいます。
手島さんは、木の灰が織部焼の緑に影響を与えていると考え実験を行ってきました。
手島敦さん 「灰の種類によって、木の種類によっていろいろな性格がありますので、銅の緑が黄色くなったり透明になったり流れたり、そういう大きな変化を起こしてるんですね」
陶芸家の佐藤和次さんは、30年に渡って織部焼の器を作ってきました。現代の陶芸家でも自分が望むとおりに緑を発色させることは至難の業だと言います。
佐藤和次さん 「織部のグリーンっていうのは、美濃の山の色みたいな真っ青じゃなくて黄緑みたいな感じ。黄色に近いような緑もあるし、もっと深い緑、酸化が強い深い緑も出てくるのでそれはこれを狙うというよりも要するに窯業っていう、窯で焼けてできたものの面白さっていう…。」
偶然が生み出す緑の中に、あなたはどんな「けしき」を見ますか?
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織部焼のもう一つの見所、それは形です。
極端にいびつな茶碗。織部焼ならではの独特の形です。 その形が、神官が履く靴を連想させることから、沓茶碗と呼ばれています。
古田織部の茶会で、はじめて沓茶碗を見た博多商人は、こう書き残しています。
『茶碗ヒツミ候也。ヘウケモノ也』 <読み方>(ちゃわんひずみそうろうなり。ひょうげものなり)
「へうげ」とは「ひょうきんな」とか「おどけた」という意味です。
織部焼鑑賞2つめのツボは 【「へうげもの」に遊び心あり】。 織部焼には、それまでになかった新しい「美」が隠されています。
古田織部の師匠であった千利休は、装飾をそぎ落とした黒茶碗を愛用しました。一方、織部はひずんだ沓茶碗を愛用しました。静けさを感じさせる利休好みの器に対し、織部好みの器は今にも動き出しそうな躍動感に満ちています。
千利休の後を継ぎ、多くの大名に茶を伝授した古田織部。従来の茶の湯の美意識を覆し、そこから新たな美を創り出そうとしました。
古田織部が活躍した桃山時代は、新しい価値観が次々と生まれた大変革の時代。町には、奇抜な格好やふるまいをする「かぶき者」と呼ばれる人々があふれていました。 織部は、こうした時代の精神を茶の世界に取り入れていったのです。
織部焼の遊び心はこれまでにない様々な形を作り出しました。
南蛮人の姿を写した燭台。ヨーロッパの人々に対する好奇心が見てとれます。
日本にもたらされたばかりの煙管。煙草を吸うのに実際に使われました。
こちらは珍しい陶器の硯。ウサギの姿をあしらったユーモラスなデザインです。
等々力孝志さん 「〔へうげ〕という表現はある面じゃシンメトリーじゃなくてアンバランスの美だと思う。〔へうげ〕の中に品の良さ、遊び心、コミカルなものあるいは喜び、そういうものをやきもの師たちが持ち合わせていた。それが器物に現れているんじゃないかって思いますけどね」
桃山の自由闊達な精神と遊び心。織部焼はそんな中から生まれた「へうげもの」だということお分かりいただけましたか。
最後は織部焼の多彩な文様です。軽快なリズムを生む、ぶどうのような文様。抽象画を思わせる幾何学模様。
織部焼には今も古びない様々な文様が施されています。
そのツボは偉大な先人に聞いてみましょう。陶芸家として数々の名品を生んだ北大路魯山人。織部焼を高く評価した魯山人はその文様についてこう記しています。
「織部の絵はその意匠千変万化して実に立派な意匠である」
織部焼鑑賞、最後のツボは、「千変万化する文様を味わう」です。
豊かな表情を持つ織部焼の文様。それはやきものの技術革新によって可能になりました。
登り窯による器の量産は、絵付けのためのキャンバスを大量に用意しました。様々な文様を描いた器は京の都で人気を博しました。注文が相次ぎさらに多彩な絵が器を飾ることになったのです。
織部焼の大量生産にはもう一つの技術も貢献しました。
それを知る手掛かりが器の表面に残されています。 網の目の跡がついているのがお分かりでしょうか。器に網の目の跡をつけたのは蚊帳の端切れでした。
これは扇型の器を作るための型。型に蚊帳をかぶせ、その上に土を載せて形を作ります。ろくろでは作れない形を大量に作るために、こうした型を用いたのです。蚊帳を被せるのは、土が型につかないようにするためです。
こうした製法によって変化に富んだ形の器も量産できるようになりました。
器の形に応じて絵も描き分けられるようになりました。
佐藤和次さん 「同じものを沢山生産したっていうよりも種類を沢山。だから結局狙いは何かって言うと同じものはそんなに欲しくない。要するに違ってていいものをと。陶器作ってる連中からすれば描ける技術ができたからそれを見せたいと」
外国から伝えられた様々な技術を取り入れ革新的な文化を作り出した桃山時代。 千変万化する織部の文様は、こうした進取の気風に満ちていた時代だからこそ生まれたものだったのです。
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