2021年12月22日 (水)"戦病死" 父親の形見は未完の戦記

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「やっぱり宝かな、世界でひとつしかない、私たちに残してくれた父の生きた証かなと思って」

三重県御浜町に住む、79歳の女性の言葉です。

女性は、終戦1か月後に戦病死した父親が書き残そうとした戦記を大切に保管してきました。真珠湾攻撃にどのような思いで臨んだかなど、詳しく書き残された戦争の記録。保管してきた遺族の思いを、開戦80年の節目に聞きました。

(津放送局 伊藤憲哉)

 

 

古びた日記帳に太平洋戦争の記録

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ことし11月。太平洋戦争開戦80年を前に、1冊の日記帳と出会いました。
小豆色の表紙には、紀元二千六百三年の文字が印刷されています。
いわゆる皇紀で、西暦に直すと、1943年の日記帳とわかります。つまり開戦2年後の日記帳です。
ところが中に書かれていたのは日記ではなく、太平洋戦争の記録でした。序文には次のように書かれています。

 

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「本書に寄せ読者各位をして当時の陸海空戦を瞼の中に追憶想記せしめられん事を望んで止まず」

「拙筆を顧みず公開す」

 

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日記帳を保管してきたのは、三重県御浜町に住む阪本浩子さん(取材当時79歳)。終戦後に亡くした父親の形見として、この日記帳を母親から受け継ぎ、大切に保管してきました。父親が亡くなった時、阪本さんは3歳。父親の記憶はありません。阪本さんにとって、日記帳がどういう存在なのか尋ねると「唯一、父親のぬくもりを感じるものだ」としたうえで、次のように話してくれました。

 

「やっぱり宝かな、何もないです、これだけしか残っていないですけど。たった1冊の、世界でひとつしかない、私たちに残してくれた父の生きた証かなと思って」

(阪本さん)

 

 

真珠湾攻撃に参加していた父親

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阪本さんの父親、堀 壽さんは太平洋戦争で、海軍の飛行機を整備する兵士として、航空母艦に乗り組んでいました。80年前、1941年12月8日の真珠湾攻撃の時に乗艦していたのは機動部隊の旗艦、赤城。攻撃前の11月22日、艦長から真珠湾攻撃について聞かされた時の反応を、次のように書き残していました。

 

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「一同が愕然とした。愕然としたことよりもより一層気高い興奮が身一杯に脈打った。“之は素晴らしい。やるぞ!”静まりかえってじっと艦長の口許目許に見入ってゐる乗員の中からはしはぶき一つだに聞き取れなかった」
(堀さんの戦記の記述)

 

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司令が乗る旗艦・赤城に乗り組んでいたことも関係があるのか、目に付いたのは真珠湾攻撃の記録の詳しさです。日本軍の艦船の陣形や、攻撃をしたハワイ・オアフ島の地図。攻撃を行った飛行機が、真珠湾にどの方角から侵入したかまで、細かく書かれていました。

 

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また、日本がアメリカ側に与えた損害は、大本営がラジオを通じ発表したものと、アメリカのラジオ放送を聞いて書いたとみられる内容が、記されていました。

 

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ていねいに書かれた文字からは、戦いの合間を縫って残していた記録を、のちにこの日記帳に清書したこともうかがえます。この戦記は、真珠湾攻撃にとどまらず、その後のインド洋での戦いなどについても書かれていました。

 

 

書いてはいけなかったことまで

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三重県熊野市の作家、中田重顕さんは、地元東紀州地域出身の人々が残してきた戦争の記録を40年近く取材してきました。著書の中で、堀さんの戦記について執筆したこともあります。

 

中田さんは、堀さんの戦記の中に、インド洋での戦いで、航空母艦から飛行機で出撃した自分の直属の上官が帰還しなかったことまで書かれていることに着目しました。一兵卒が、戦争を記録し公表することなどあり得なかったであろう時代に、戦争のありさまをそのまま書き残そうとしている点が、貴重だと話します。

 

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「軍紀にふれることがいっぱいあるんで、戦争中であれば間違いなく彼は逮捕されますよ。当時の軍人たちはそういうこと書いたらあかんのさ。不利になることも書いてあるということが非常に貴重だし面白い」

(中田さん)

 

 

未完のままの戦記


ところが堀さんの戦記は、トラック島が空襲を受ける直前、1942年9月8日の出来事を書いたところで終わっています。堀さんは終戦から1か月近く過ぎた1945年の9月11日、高熱を出し31歳で亡くなりました。最後の階級は海軍少尉。のちに、戦病死と認定されました。戦記は未完のまま残されました。当時、堀さんは航空母艦には乗っておらず、神奈川県の厚木航空隊で機密資料の焼却処分を行っていたといいます。

 

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戦争を詳しく記録し、そのありさまを後世に伝えようとしていた人が、どういう思いで戦争の資料を焼く仕事に関わっていたのか、思わず考えさせられました。そして終戦まで生き延びたにもかかわらず、幼い娘を残したまま、命を落とすことになった父親の無念さが、私の胸を突きました。

 

 

戦争の記録が形見にならない、平和な世の中を


きちょうめんな文字で書かれた未完の戦記。父親の記憶のない阪本さんは、この戦記から父親の人柄や体温をかすかに、感じ取ることしかできません。

 

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「私は本当の父親を知らない。ただいまおかえりとごくごく普通の平凡な父親の生活を見たかったし、本当にあったかみのある、ぬくみのある生活を少しでも覚えておきたかった。そういうことを覚える年まで父親にはいてほしかったというのは年を重ねるほど思います」「今の平和はありがたいし戦争は絶対だめやと思う。子どもや孫やひ孫には、全世界で戦争のない、2度と父親を失って泣くような人のいない世の中になってほしいです」

(阪本さん)

 

今回の取材で、戦争で肉親を亡くした人が大切にしている形見が、戦争の記録であることをとても悲しく、残念なことだと思いました。身近な人を、平穏な日常を奪う戦争の罪深さを改めて思い知らされたと、感じています。戦争を知らない私たちの世代が、こうした記憶をしっかり、語り継いで行く必要があると考えています。

 

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 伊藤憲哉 2019年入局

 中学時代 サッカー ジュニアユースで全国大会出場

投稿者:NHK津放送局 | 投稿時間:15:00


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