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金森先生のコラム

番組タイトルに込められた願い 番組タイトルに込められた願い
 まず「いじめをノックアウト・・・いじめがおきてもみんなで解決できるクラスにしよう」という番組名に注目したいですね。そこには、いじめを典型とする人間関係のトラブルは学校に限らず、職場や地域、家族の間でも起きるが、できるかぎり深刻化しない間に、みんなで解決する必要がある、あるいはみんなで解決できる、さらには子どもには解決できる力があるのだという信頼、希望が込められていると私は思っています。さらに踏み込んで言えば、様々な問題に対して、知恵をしぼり、話し合いをねばり強く重ね、解決していく力が長い人生を生きていく上でとても大切だ、との信念も込められているのでしょう。だから、番組は、解決できるクラスに、解決できる力を育むための材料(素材・教材)を提供し、こうすればできるという安易なメッセージを発信していません。番組を見て、クラスで話し合いを深めるのです。それがいじめを含む生きる上での諸問題を解決する力を育みます。そうした企図にとてもおもしろさと共感を持ちます。
取り組みは早いほど良い
 もう一つは、この番組が、4月12日からスタートすることの意味です。学級でやがていじめ問題が強く顕在化したときは、すでにかなり深刻化していると考えられます。いじめの加害側が学級では、学力、コミュニケーション力、腕力などで上位の力、位置を持っている傾向にあり、支配・服従の関係性が裏で進行しているために解決への指導はかなり困難になるからです。いじめはどの学校、学級においても起きる可能性が非常に高いことはすでに指摘されています。いじめがあっても軽い段階で被害者や周囲の仲間から問題視され、解決に努力できるには、起きる以前からの取り組みがあってこそです。番組をきっかけにして早期に取り組むことを強くお薦めします。
泣いていいんだ
 さて番組の第一回は「ガマンしちゃダメ!」です。冒頭に紹介している谷川俊太郎の詩「なくぞ」は、かつて3年生の教科書に掲載されていました。「なくぞ」は、詩を楽しむこと、泣くことを捉え直しさせること、嫌なこととは何かを考えさせること、嫌なことを心に閉じ込めないで思いっきり感情を表出することなどが学べるすばらしい作品だと私は考えています。私の学級でこの詩を学び合ったとき、子ども達の多くは、「嫌なことをされたら誰だって、泣いていいんだよ」「嫌なことをされたら泣け、今すぐ泣け、泣いてストレスも宇宙もぶっとばせ!」「神様も味方して泣き出すのだから、いいんだよ」と応援、励まされている詩だと受け止めていました。幼い頃から「そんなコトぐらいで泣くな!」と言われ続けているからです。
 私が4年生を担任したとき、学級開始2日目に、若山牧水の詩「はだか」「裏の田圃で 水いたずらをしてゐたら 蛙が一疋 草のかげからぴょんと出て はだかだ はだかだと鳴いた やい蛙 お前だってはだかだ」を何度も大声で読み、楽しみました。その後、以下のような改作詩をたくさん作りました。「言いたいことをズバッと言ってやれ!」という学習です。こんなふうに。「家に帰って テレビを見ていたら かあちゃんが顔出して 宿題早くしなさいと叫んだ やいかあちゃん お前だって 宿題やれ!」「やい先生 宿題出すな!」・・・。
 詩の学習と同時にグラウンドに飛び出して、陣取りの一種「エスケン」遊びやサッカーなど激しくぶつかり合う遊びを楽しみます。心と体を思いっきり解放して、人と人との関係性を豊かにしたり、感情表出をしやすくするのです。
子どもの言葉を聴くということ
 番組に登場した拓君の学級もそうした種々の取り組みをていねいに積み上げてきたはずです。作文や詩で自分の願いや困ったこと、失敗したこと、とりわけ喜びも書き表し、発表交流することも。私の学級でのエピソードを話します。
 3年生を担任したときの4月。玄関前でT子が、手に花を持って私の登校を待っていました。頭をなでながらお礼を言うとT子は嬉しそうでした。数日後再び花を持って待っていました。家族の誰が花を育てているかなど話しました。数日後またもや同じ事がありました。「ありがとう。でもな、玄関でなく教室で花を渡して」と言い、職員室に向かいました。途中、はっとして足を止めました。T子が玄関で待っていたのは、私にたくさんの声、愛をかけてという願いだろうと気づいたからです。感情表現が乏しいT子は友達が少なく、誰かの行為を少し離れた所から笑って見つめていることが多いような気がしていました。その姿、表情が頭に浮かんだのです。
 同じように4年生を担任した4月、最初の給食を屋上で車座になってしました。私の隣に先を争って座ったのは、頻繁に暴力を振るうと聞いていたK君でした。食後「K君はよく暴力を振るうと聞いたよ」と言うと、うろたえながら「確かに。でも最近は減っている」と答えました。私は減ったのではなく、努力して減らしたのだと褒めました。後日野外を歩きながら話していたとき、彼は「何で僕が暴力を振るうようになったかと言うとほらっ」とシャツを上げました。体にたくさんのあざがあり、父に殴られた後だと教えてくれました。
 花や暴力にはメッセージ、願いが強く込められていました。直接、表現されたことだけが言葉ではありません。表情やしぐさ、行動も子どもの言葉です。ましてや直接表現された話し言葉や書き言葉は、生活者として長年経験してきた教師ならば、豊かに聴き受け止めるべきです。しっかり聞いてくれる人にしか、人間は大切なことを伝えません。話して良かった、書いて良かったという実感を子どもに育てたとき、拓君のように「とても悲しく嫌だったこと」を書き出します。
生きた自分の言葉の力
 拓君は相当葛藤して、勇気をもって作文に書いたのです。あるいは、表情を読み取ったり、前担任からの引き継ぎがあったり、友達からの相談があったりして、担任が、拓君に書くように薦めたとも考えられます。学級開始から豊かに受け止める教師だと安心したから書いたはずです。
「いじめられたら、嫌なことがあったら、すぐに言うのですよ」という言葉だけの指導(単なる指示にすぎない)は、特にいじめられた子に対して、また学級スタートにあたって適切ではありません。すぐに抵抗、抗議、反撃できる子はかんたんにいじめられませんから。これまで述べてきたように、学級スタートから、“泣く、悲しむという感情を豊かに表出していいんだよ、つぶやきでもいいんだよ、先生は全力で受け止めるから”という具体的な取り組みがある安心感のもてるクラスづくり必要です。学級づくりが必ずしもうまくいっていなくても大丈夫です。教師が精一杯子どもと誠実に取り組んでいる姿(生き方)を見せてさえいたら。
 拓君は作文を書いて先生の後押しを受けて(これが大切)、学級に発表しました。大切なのは、悲しく切ない当事者の身体、生きる物語(生活史)から生み出された、リアルな生きた言葉です。だからそうした言葉は、他者の心を深く揺さぶります。6年生当時を振り返った中学生が「私は気づいていなかった。私はいじめでなく遊んでるって感じだった」「心に秘めていたことがよく伝わってきた」と述べています。6年生のとき、拓君の作文発表後も彼等はそのような応答をしたはずです。高橋さんも述べているように、傷つけている側は本当に何気なく、相手を傷つけ、人間らしく生きること、学級に存在すること、学ぶことを抑圧しているのです。だから、他者の心に触れることがとても大切になります。
 子ども集団の日常が展開されている学級では、知らない間に傷つけていることが多いことを、とりわけ強者の代表である教師は肝に命じておく必要があります。これも私の学級でのエピソードです。  MとTの二人がSに向かって「僕たちがサッカーに入れてと言ったら、おまえらみたいな下手なもの、交ぜてやらんと言った。もう言わないで下さい」と発言しました。意外にもSは「絶対言っていない」と言い張り、それぞれに仲間が加わり、言い争いになりました。私は、子どもたちの決着を見守りたかったのですが、時間がありません。本当は、簡単に大人が介入せずに、子どもたちが時間をかけ解決することが大切なのです。
 私は学級全員に「特に、傷つくような言葉の場合、言った側と言われた側とでは、記憶に残るのはどちらの方か」と問いました。全員が言われた方だと答えました。いわゆる「力の強い子、勉強のできる子」が無造作に言い放つ言葉のために、不快な気分になったり心に傷ついたりした経験を出させました。最も多かったのが、算数や体育の時間などに問題や課題が出され、自分がすぐに分からない、できない時、「こんなもん、簡単やあ」 「こんなこともできんと恥や」 「なっさけねぇー」 「惨めやー」などと大声で言われるとすっごくいらついたり、悲しくなるという経験でした。「そんな言葉をかなり言い放っているのは誰や」と聞くと、Sと0の二人の名前があがりました。二人はぎょっとして「ええっ、そんなに言っとるけ?」と不思議がっています。ほとんど、無意識に言い放っているからです。
 上述したことがいじめであるかどうかの問題ではないのです。こうしたことが日常的にあるのが学級社会なのだと押さえておくことが大切なのです。手がカサカサだということ自体に拓君は自己否定感をもっていたのです。それを他者から軽蔑的に言われることは耐え難い苦痛であったのです。学級の子どもたちはそのことに初めて気づいたのです。発表後の応答が真剣であれば、やがて、「私も同じように辛いことがあります・・・」と自分を語り出す子が必ず現れてきます。そうしたときには、私は全員に、「辛い、悲しい・・・みんなに、○○に訴えたいこと」「しまった! 私はやったとんでもないこと」と呼び水的な言葉をていねいに提示して、書いて貰っています。大切なのは、作文が自分の言葉でリアルに書かれていること、発表後子どもたちの意見交流・応答に十分時間をかけ、教師が一人ひとりの声を豊かに聴くことに徹することです。

  以上述べてきたように映像を表面的に捉えないで欲しいと願っています。拓君が書くまでの指導、拓君の書きあげるまでの葛藤、発表していたときの教師の表情・まなざしや立つ位置、その後の指導などを想像豊かに追求して、あなたの学級の話し合いを深めて欲しいのです。その際、番組では「クラスはその後変わったか」という話題を提起していますが、私は「拓君がそうした悲しく辛いことをどうして書き表し、発表できたのか」「拓君のような悲しく辛いことは誰にでもあるのか、特別な子だけか」を話題にすべきだと思います。どこかで、教師自身の悲しく辛かった少年少女時代の物語をしっかり語ることが絶対に必要です。

金森俊朗(かなもり・としろう)

1946年生まれ。石川県出身。元小学校教諭。
様々な実践教育に取り組む中、1989年に妊婦を招いて行った性の授業を皮切りに本格的に“いのちの授業”を開始。
1990年には末期癌患者を招いた“デスエデュケーション”を行う。その教育実践手法は、教育界のみならず医療・福祉関係者からも注目を集め、「情操教育の最高峰」と高い評価を受けている。2008年より北陸学院大学人間総合学部幼児児童教育学科教授、同大学地域教育開発センター長。上越教育大学・金沢大学非常勤講師。
主な著書に「いのちの教科書」(角川書店)、「子どもの力は学び合ってこそ育つ―金森学級38年の教え」(角川書店)、「金森俊朗の子どもの・授業・教師・教育論」(子どもの未来社)など。
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