NHK技研と放送技術の歴史

1925年(大正14年)に国内初のラジオの放送が始まってからまもなく100年になります。
ラジオ、白黒テレビ、カラーテレビ、BS放送、地上デジタル放送や8Kスーパーハイビジョンなど、多くの技術が開発され、ご家庭で楽しまれてきました。
その歴史を、放送技術研究所での研究開発を中心に振り返ります。

昭和14年に公開実験で用いたテレビ

世界で初めての商業ラジオが放送されたのは1920年、アメリカのKDKAによるものでした。
日本でもラジオへの期待が高まり、1924年から1925年にかけてラジオ放送を目的として、社団法人東京放送局、社団法人大阪放送局、社団法人名古屋放送局の3社が設立されました。
この3社は、後に統合して日本放送協会(NHK)となります。

1925年3月22日、社団法人東京放送局がラジオ放送を開始しました。これが国内初の商業ラジオ放送で、これを記念して3月22日は「放送記念日」となりました。
これに続いて同年6月1日には大阪で、7月15日には名古屋でそれぞれラジオ放送が開始されました。

1925年頃の社団法人東京放送局芝浦の仮放送局

ラジオ放送を開始した5年後の1930年6月1日、NHK技術研究所が、東京都世田谷区砧に開所しました。電気的なノイズなどが少なく、研究に適していたことなどからこの地に決まりました。当時は「東京府北多摩郡砧村」という地名でした。すでに放送を開始していたラジオの放送施設の改善や、受信機の低廉化を促進する研究のほか、テレビジョン技術の研究を行うことを目的として設立されました。

なお、この技術研究所は、のちに放送科学基礎研究所と総合技術研究所の2つの研究所の体制の時代を経て、現在の放送技術研究所となりました。(以下、これらすべてを技研と呼びます)

1930年当時の技研建物全景。

ラジオ放送開始当初、録音に必要な機材はすべて輸入に頼っていましたが、社会情勢の変化により輸入できなくなる可能性が高まったことから、技研では1936年から国産化のための研究が開始されました。
安定した生産ができる技術の開発のほか、日本の気候に合わせた素材の選択などの研究を経て、1938年ごろには国内での生産が可能な録音盤ができあがりました。

初期の国産録音盤。

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かつて、ラジオは「ラヂオ」と表記されていました。しかし、「ヂ」という表記は当時も一般的な表記ではなく、大半の場合は同じ発音を「ジ」と表記していたことから、1941年ごろに当時の文部省による仮名遣いの統一の一環で「ラジオ」表記に変更されました。

同様に、現在の「スタジオ」も、当時は「スタヂオ」と表記されていたようです。

1930年の「ラヂオ年鑑」。

ラジオ放送開始とほぼ同時期、1925年に浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部の母体)で、1926年に早稲田大学でそれぞれテレビの研究が開始されました。
当時、ドイツやフランスで「テレビジョン」という概念が考案され、それを技術的に実現するために世界中で研究が進められていました。日本でも、諸外国の先進的な研究を参考に、テレビジョンの研究が進められました。

アメリカで開発されたアイコノスコープカメラ。

1926年12月25日、浜松高等工業学校の高柳健次郎により、電子式ブラウン管テレビでの「イ」の字の受像に成功します。これを皮切りに、テレビはラジオの次のメディアとして、研究が加速していきます。

1926年の「イ」の字の伝送を再現したもの(1999年撮影)

1935年、5年後(1940年)の東京オリンピック開催が決定すると、オリンピックのテレビ放送を目指して研究はさらに加速します。
1938年にオリンピックの開催返上が決まりましたが、それでもテレビの研究は続けられ、1940年4月12日には初のテレビドラマ「夕餉前(ゆうげまえ)」の実験放送が行われました。
この放送は、技研内のスタジオで撮影された映像を、都内3か所で受信し、公開しました。

1940年に実験放送された初のテレビドラマ「夕餉前」。

その後、太平洋戦争により、テレビの研究は中止を余儀なくされます。戦後もGHQによりテレビの研究が禁止されるなど、しばらく「テレビの冬の時代」が続くことになります。

太平洋戦争の終戦から5年、1950年3月にテレビの研究を再開しました。
当時、すでに欧米諸国ではテレビ放送が開始されており、それぞれの国が独自の方式を採用していました。
日本ではアメリカの放送方式である「NTSC」が採用されることになり、放送設備の整備が進められました。

1950年のテレビ実験放送の様子

実験放送・試験放送を続けた後、1953年2月1日についにNHK東京テレビジョンを開局し、テレビの本放送が開始されました。
放送開始当時は1日に3時間の放送で、受信契約数はわずか866件だったそうです。

NHK東京テレビジョン開局セレモニーの様子

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白黒テレビの放送開始当時、現在の東京スカイツリーのような「すべてのテレビ局をまとめる電波塔」は存在せず、各放送局が独自に鉄塔を持ち、電波を発射していました。
そのため、当時の東京では4つのテレビ用の鉄塔がひしめき合っていました。
その後、視聴者が向けるアンテナ方向を1つにすべきという考え方から、東京タワーの構想が生まれました。東京タワーは1958年に完成、東京の象徴の一つにもなりました。

当時の千代田区・紀尾井町の様子。右からNHK、NTV、KRT(現在のTBS)の鉄塔が見える。

技研では、白黒テレビ放送開始前の1951年にカラーテレビの研究を開始し、翌年から実験を公開するなどしていました。白黒テレビと同様、アメリカ方式が採用されましたが、技研が中心となり、国内メーカーとともにカメラから受像機まですべての国産化に努め、1960年9月10日に、カラーテレビの本放送が開始されました。

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カラーテレビの放送が始まってしばらくの間は、白黒テレビのほうが主に見られていたそうです。
カラー契約が白黒契約を初めて上回ったのは1973年ごろのことでした。カラー放送開始から10年近く経つまで、半分以上の家庭では白黒テレビを見ていたようです。

※1960年から1967年の間は白黒・カラーで契約が別れていない

カラーテレビの放送が開始されると、技研では「より豊かな放送」を目指した研究開発を進めます。
海外の映像をリアルタイムに国内で視聴できるようにする衛星中継もこのころに開発されました。今では衛星中継という名前が定着していますが、当時は「宇宙中継」と呼ばれていました。
1964年の東京オリンピックで世界初の衛星中継を実現しました。

1964年、日本から送信した映像のアメリカでの受信の様子

1964年の「宇宙中継」の現場の様子

1964年の東京オリンピックでは、ほかにも多くの技研発の新技術が使われました。
騒音の多い放送席でも良質な音声を収音できる「接話マイク」やマラソンで全コースの中継を可能とした「ヘリコプター用テレビ中継装置」、スポーツの速い動きを捉える「スローモーションVTR」など、今でも使われている技術が開発され、使用されました。
この東京オリンピックは「テレビ・オリンピック」とも呼ばれ、日本の放送技術の実力を世界に示すことができました。

1964年の東京オリンピックで使われた接話マイク

ヘリコプター追跡アンテナ

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FMラジオが放送開始されたのは、1969年と、実は放送メディアの中ではかなり後発です。1957年に実験放送を開始して、本放送開始まで12年という長い年月がかかりました。
その高い音質やステレオ放送ができる特徴を生かして、今では音楽番組が多く放送されるFMラジオですが、当初はAMラジオの補完的役割としてスタートしました。その後、音楽番組などに有用と分かり、高音質化が図られました。

1965年に、FM放送の音質向上を目指し、従来の録音盤やテープのようなアナログ録音とはまったく異なる、デジタル録音方式(PCM方式)の研究を開始しました。
世界で初めてのデジタル録音機として試作機が技研で開発され、高い音質で録音・再生できることを示しました。この技術はのちにCDなどで用いられる音響符号化技術につながりました。

PCM録音機

NHKが放送法で定められた「あまねく」を実現するために、離島や山間部にも確実に放送を届けるための技術として、技研では1966年に衛星放送の研究を開始しました。
試験放送などを経て、1989年にNHK衛星第一、NHK衛星第二として本放送が開始されました。

1986年頃のBS受信アンテナとチューナー

カラーテレビの放送開始から僅か4年後の1964年、技研では高精細テレビジョンの研究を開始しました。1973年、現在のハイビジョン放送と同じ走査線数1,125本のテレビを試作しました。

また、将来のデジタル放送につながる研究もこのころに始まっています。1976年にはアナログテレビの信号をデジタル化するADコンバーターを開発しました。1977年には、ハイビジョンとデジタル化の技術を組み合わせ、光ファイバーを用いたハイビジョンテレビ伝送実験を進めるなど、ハイビジョン時代に向けて着々と研究を進めました。

1975年に試作された高品位カラーテレビ

テレビが緊急時の情報伝達手段としての役割も担うようになったことから、技研では地震・津波などの緊急情報を迅速に伝えるための緊急警報放送の研究を1980年に開始し、1985年9月1日に運用が開始されました。「ピロピロ」という警報音を兼ねた音声信号を放送することで、テレビやラジオを自動起動し、視聴者に一刻も早く緊急情報を知らせるためのシステムです。
毎月1日の11時59分から緊急警報放送の試験信号を放送していますので、警報音を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。なお、現在のデジタル放送では、音声信号ではなく、伝送制御信号と呼ばれる特殊な信号の中の緊急警報放送用起動フラグにより、テレビやラジオが自動起動するようになっています。

緊急警報放送の受信機

1985年に本格運用された文字放送により、番組への字幕付与ができるようになりました。
当初はドラマなどの事前収録番組のみに字幕を付与していましたが、2000年3月には技研が開発した音声認識方式により、世界に先駆けてニュースなどの生放送番組にも字幕を付与できるようになりました。

音声認識による字幕製作システム(1999年)

1983年の文字放送実用化試験放送での字幕の様子

2003年の地上デジタル放送の開始は、白黒テレビが放送開始された1953年以来、初めての大幅な放送方式の変更になりました。
2012年の「完全地デジ化」により、それまでのアナログテレビの電波は停波され、新しい放送方式に完全に移行することとなりました。
地上デジタル放送では、ハイビジョン画質となり、より美しい映像を視聴できるようになりました。

地上デジタルテレビ放送開始記念式典

技研では、地上デジタル放送で採用されたハイビジョンをさらに上回る、超高精細映像と高臨場感音響からなる新たな放送サービス「スーパーハイビジョン」の研究も進められました。
ハイビジョン放送の実用化以前の1990年代に、超高精細撮像装置の研究から始まり、その後、20年以上の年月をかけた研究は、2018年12月に始まった新4K8K衛星放送サービスとして実を結びました。

2005年の愛・地球博で一般公開された8Kスーパーハイビジョン

国外の実施したデモも大盛況だった

技研は、今も未来の放送メディアを創る研究を進めています。

NHK技研外観

NHK技研設立90周年(2020年)に制作した、90年間の歩みと放送の進化の歴史を紹介するビデオもご覧ください