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カラーテレビ本放送
日本のカラー放送は1960 ( 昭和35 ) 年9月10日、世界でアメリカ、キューバに次いで3番目にアメリカと同じNTSC方式ではじまった。このNTSC方式は、全米テレビジョン方式委員会
( NTSC ) が決めたもので、走査線525本。アメリカRCA社が開発した方式で、最大の特長は、白黒テレビ受像機でも、カラー放送の内容を見ることができるようにしたことであった。NHK東京・大阪の総合テレビと教育
テレビ、日本テレビ ( NTV ) 、ラジオ東京 ( 現TBS ) 、朝日放送、読売テレビ放送がそれぞれカラー本放送を開始した(
1952年3月22日の放送記念日に東京・内幸町の放送会館でカラーテレビの公開実験が行われた。これは、機械式のCBS方式であった。これは、白黒テレビの本放送開始1年前である
) 。
初期のカラー放送は、まだ放送局の設備も十分でなく、外国のカラー映画の放送やスポーツ中継、それに短時間の教養番組などが中心であった。本放送から7か月たった段階でも、NHK総合のカラー番組は、1日1時間、NTVは2時間42分、TBSは6分ほどだった。当時のカラーテレビは、21インチ型で1台50万円もしたので、庶民にはとても手が出ず、カラー放送開始時点では、1,200台程度しか普及していなかった。1966年3月には電電公社による全国カラー放送用マイクロ回線網が完成、カラー放送の全国視聴可能範囲は、93%になった。
世界最初の「テレビオリンピック」
1964 ( 昭和39 ) 年10月の東京五輪は、NHKはじめ日本の放送関係者が総力をあげて、そのテレビ放送の実現に努力した。撮像管の開発から衛星中継までの一連の機器を国産で開発し、東京五輪を静止衛星シンコム3号を利用して世界に初めて生中継した
( 電話回線用で、テレビ信号をそのまま伝送する容量はなかったが、圧縮技術を使い、大会3日前に技術テストに成功した
) 。大会では、開・閉会式、レスリング、バレーボール、体操、柔道など8競技がカラー放送された。中継には、白黒の受像機を見る多くの人々のために、白黒でも画質が落ちないよう設計された分離輝度2撮像管式カラーカメラが使用された。また競技をVTRで収録して、それを再生するスローモーションVTR、接話マイクなど新しいテレビ技術が一斉に登場した。東京五輪は、「テレビオリンピック」ともいわれた。
東京五輪は、メディアを通して日本中が一体感を持つ、国民的イベントとなった。特に国民期待の東洋の魔女・日本女子バレーボールチームとソ連チームとの決勝戦は、最大視聴率が95%に達するというメディア史に残る記録を残した。
東京五輪は、世界に日本の放送技術の高さを示すとともに、日本のテレビ産業が世界に大きく飛躍する機会ともなった。
1.カラーテレビの方式
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世界最初に五輪を世界に中継した静止衛星 (シンコム3号) 帯域が狭いために、衛星伝送されたのは映像信号のみで、音声は海底ケーブルで送られた。
ボ−イング社提供
世界中に配信されたテレビ五輪放送
開会式の視聴率84.7%、6,500万人が同時に見た。カラー放送時間は5分の1。まだ、全国で見ることができなかった。

マラソン中継
東京五輪当時は、送信アンテナが自動的に基地局に向くヘリコプター用テレビ中継装置を用いて、マラソンの全コース中継を可能にした。現在はOFDM−FPUによって、移動する中継車からも安定した映像が送り届けられるようになった。

渋谷放送センター
渋谷の放送センターは1965年に
第1期運用を開始した。

接話マイク ( 1964 )
東京五輪では接話マイクなど
新しい放送技術が使用された。
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