幻の
東京五輪中継
| 1935(昭和10) 東京電気(株)、初の国産アイコノスコープ管の開発に成功 |
| 1936 ベルリン・オリンピック大会の実況中継「前畑がんばれ」 |
| 1937 高柳以下十数名がNHKに移る |
| 1937 高柳、走査線数441本、毎秒30枚、現在に匹敵するテレビ完成 |
| 1937 浜松高工、テレビ自動車を完成 |
| 1938 内幸町に東京放送会館が完成 |
| 1939 技研にテレビ実験局完成 |
| 1939 新築の放送会館との間でテレビ実験放送に成功 |
| 1940 日本で初めてのテレビドラマ制作 |
1940(昭和15)年、アジア初のオリンピックが東京で開催されることになっていた。NHKは、大会をテレビで中継する計画を立てた。高柳健次郎らが、この東京五輪のテレビ中継プロジェクトに参加していたとはいえ、当時の日本には実験室で作製した撮像管と受像管があるだけだった。
1940 幻の東京五輪テレビ中継が飛躍台に
「東京五輪テレビ中継プロジェクト」
東京五輪の開催が決まり、NHKは、1936(昭和11)年5月、テレビの実用化へ向けて本格的に取り組む方針を決定した。1940年9月の東京五輪に向けて「東京五輪テレビ中継プロジェクト」ともいうべき国家的プロジェクトが技研に設立された。
その頃、高柳の研究は、走査線数が441本、毎秒30枚という現在のテレビに匹敵する画像が得られる段階にきていた。
実験室から実用化へ
しかし、それは実験室での話で、実際のテレビ中継のためには機器の性能を向上させ、たくさんの機器を製作し、本放送のための放送所の建設、テレビ中継車、移動カメラの開発など気の遠くなるような課題があった。実験室から実用化のために、スタッフは大幅に増強されて、無線機器メーカーの技術者も大勢参加した。2年間の研究費は、当時の金額で約300万円に達したといわれる。逓信省(現総務省)もテレビの標準方式を決定し、東京から大阪への中継回線を準備した。
東京五輪は1938年7月に開催返上と決定されたが、テレビ研究は関係者の熱意で続行した。
テレビ受像公開実験
東京五輪プロジェクトの成果によって、日本のテレビ放送技術は、短期間に実用レベルへ到達した。1939年5月13日には、東京・内幸町に完成した放送会館と技研の間で日本で初めての電波を使ってテレビジョンの公開実験をした。さらに8月19日から29日まで、東京・日本橋の三越本店で開かれた「興亜通信博覧会」で、技研が開発した2台の受像機を使用して公開実験が行われた。その後、1940年3月には、東京・上野の産業館で開かれた「輝く技術博覧会」などでもテレビの実験が次々と行われた。
戦後の電子産業の基礎を作る
こうしてテレビ実験が進み、設備が拡充されて、小型の軽量カメラや移動撮像が可能な軽量移動車などが作られた。また映画、演芸、音楽のほか、テレビドラマも制作された。戦後日本のテレビ産業、電子産業の基盤は、この時期にすでに作られていた。
テレビ産業は、戦時下で軍需産業に転換されるものが多く、アメリカでもテレビ放送を中止した。日本でのテレビ研究も中断された。
テレビ自動車と呼ばれた中継車
(後方左より受像車、音声送信車、映像送信車、撮像車の4台で1組) (1937)

