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技術研究所設立 テレビ研究開始
日本放送協会は、1930 ( 昭和5 ) 年6月、ラジオの放送開始からわずか5年後、東京・世田谷の砧村に技術研究所
( 技研 ) を設立し、テレビの放送の研究を開始した。当時の職員は所長高田善彦( 技師長兼務 ) をはじめ、16人
であった。
1937年には東京五輪が開催されることが決まり、NHKがテレビによる中継放送を実施することになった。検討の結果技研は、1931年頃から研究助成をしていた早稲田式、浜松高工式などから、五輪中継には浜松高工式電子式テレビを採用することにした。
すでに1936年9月に浜松高工から山下・石野らが先発隊として技研入りし、テレビ研究担当所員中西金吾らとともに研究設備の計画・整備にあたった。1937年8月には、浜松高工に製作委託していた「テレビ自動車」
( 撮像車・映像送信車・音声送信車・受像車の計4台1組 ) が完成し、この車とともに浜松高工の高柳ほか十数名が技研に着任した
( 技研では、1937年5月に組織改正を行って、3部1課制とし、高柳はテレビに関する業務を行う第三部の部長として迎えられた。所員も1937年末には89名に増加
) 。
100メートルのアンテナ鉄塔
また研究施設を完備するため、1937年にはテレビ1号館および変電室・テレビ自動車車庫・冷房装置付きスタジオ設備を、翌1938年にはテレビ2号館と高さ100mの自立式三角鉄塔の送信アンテナが建てられ、テレビの本格的研究体制が整った。このようにして、砧は実験用スタジオと東京一円への放送が可能な最新設備、アンテナ鉄塔を持つ、テレビ研究の拠点となった。
こうした体制の中で、撮像管の研究は浜松高工からの技術を取り入れ、1938年1月からアイコノスコープの試作を行い、6月には早くも標準型の試作品ができ上がった。
また受像管の研究は、1937年からはじめられた。白色蛍光体の開発・蛍光面の塗布技術・受像画面の拡大に重点をおいて開発を進め、わが国最初の23cm白色蛍光面受像管が生まれた。
世界の最高水準に到達
1939年5月13日、東京・内幸町の放送会館からのラジオ放送がはじまった。会館完成を記念して、13km離れた技研から新放送会館へ向けてテレビの実験電波が発射された。これが電波を使ってテレビジョンの公開実験をした最初である。この頃、日本のテレビは、世界の第一級の水準に到達していた。相次ぐ拡充で1940年末に技研だけでスタッフは266名にのぼった。
1.初代所長の言葉
2.ツヴォルキンのアイコノスコープ ( 撮像管 )
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