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NHKスポーツオンライン

    • 2018年01月31日(水)

    "諦めなければ 夢は必ず叶う!"37歳で初の五輪に挑む

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 いよいよ開幕するピョンチャンオリンピック

 

37歳で初めて代表に選ばれたフリースタイルスキー・エアリアル田原直哉選手

 

和歌山県出身の田原選手がなぜエアリアルの道を進むことになったのか。

 

取材すると、よくここまで諦めずに続けてきたなと思うほど、その競技人生は苦労と忍耐の連続でした。

 

(大阪放送局アナウンサー 松苗竜太郎)

 

 

 

初めて五輪代表に選ばれる!

 

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田原直哉選手(37)は、フリースタイルスキー・エアリアルの日本のエースです。

 

エアリアルは、雪の上を空高く舞い上がり華麗な回転やひねりで観客を魅了する競技。

 

田原選手は、日本男子として初めてワールドカップの表彰台に立つなどの実績を残しながらも、これまではオリンピックの出場を逃してきました。

 

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 2012年 W杯で3位に入った田原さん(左)

 

そんな田原選手がピョンチャンオリンピックの日本代表に内定したという情報が入ってきたのは、私たちが長野県白馬村で取材をしていた12月22日でした。

 

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アテネ五輪団体金メダリスト 米田功さんと       

 

田原選手の携帯には数々の祝福の声が寄せられ、その中には、2004年のアテネオリンピック男子体操団体金メダルを獲得した米田功さんからのメッセージもありました。

 

 

 

2005年7月 体操 NHK杯 

 

田原選手は実は、もともと体操の選手でした。「ゆか」を得意とし、日本代表にも選ばれました。

 

米田功さんのほか、同じくアテネオリンピック金メダリストの水鳥寿思さんも同じ社会人のチームメート。

 

ほかのメンバーも田原選手と同世代のライバルたちでした。

 

 

目標は変わらない

 

 

アテネオリンピックの代表を逃した田原選手は、その悔しい思いをバネに次の北京オリンピックを目指しましたが、肩に大けがをして体操からの引退を決断します。

 

しかし、田原選手はオリンピックを諦められませんでした

 

体操を辞めた自分がどうやったらオリンピックに行けるのか。新しい道を模索した結果、選んだのがエアリアルです。

 

そのきっかけは、体操の合宿中に見たトリノオリンピックの映像だったといいます。

 

「エアリアルの競技の映像をみて、チームメートたちと『これなら俺たちできそうだよね!』と盛り上がったのを思い出しました。まっすぐ滑って飛ぶだけなので、スキーさえ勉強すれば空中での技と着地はできると思っていました」(田原選手)

 

オリンピックという目標は変わらない。目標までの道のりがちょっと変わっただけ」と、新たな競技人生をスタートさせます。2006年夏、25歳の時でした。

 

 遅咲きのトップ選手へ

 

 

 2006年夏 エアリアルを始めた時の映像

 

 ジャンプ台を飛びだし、地上からおよそ15メートルの高さで様々な空中技を披露するエアリアル。

 

ジャンプのテイクオフの姿勢ジャンプの高さ空中での姿勢着地の4つのポイントを審査し、順位が決まります。

 

空中での演技には自信を持っていたものの、スキーの経験はなかった田原選手。

 

基本のボーゲンの練習からのスタートでした。


エアリアルを始めた時のことを田原選手は「始めて1週間で間違ったな、甘かったなと思った」と振り返ります。


意外にも苦しめられたのは体操とのギャップでした。

 

ブーツとスキーの重さで、ひねりの感覚が変わってしまうのです。

 

「始めてしばらくはジャンプも何もできずちょっと厳しいかなと思いました。でも目標を自分で設定して始めてしまったので、無理とか考えても何もならないのでひたすら練習していました」(田原選手)

 

 必死に練習を続け、技術を磨いていきました。

 

田原選手の持ち味は、体操で培った「空中での姿勢の美しさ」です。

 

難度の高い大技「3回転4回ひねり」を武器に、世界レベルの選手へと成長していきました。

 

 


空中を舞う田原選手

 

生きていくことでいっぱいいっぱい

 

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 体操選手だった時代に比べ、競技の環境は大きく変化しました。

 

「体操時代は、チームにトレーナーやドクターがいるのは当たり前、遠征費も出て当たり前でした。しかし、エアリアルはほとんどが自腹。スキー用具の提供のお願いも、自分たちでメーカーに行います」(田原選手)

 

特に5年前に、体操時代から支援を続けてくれていたスポンサーが撤退してからは、安定した収入はなくなりました。

 

スキー連盟からの補助はありますが、海外での遠征費や練習費は大きな負担で、貯金を取り崩し、趣味の釣り道具や腕時計など、身の回りのものをお金に換えてエアリアルに取り組んできました。

 

田原選手は「家庭を持つ余裕など一切考えられず、遠征費がかさむ中、自分が生きていくことでいっぱいいっぱいだった」と振り返ります。

 

 

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現在の練習拠点は、長野県白馬村です。

 

住まいは、友人の家を間借りすることで家賃を節約

 

練習場所のスキー場までは、友人から借りた軽トラックの荷台にスキー板とブーツを積み、自ら運転して向かいます。

 

専属コーチを雇えないため、シーズン中の練習は基本的に1人

 

遠征や合宿以外では、ほとんど、一般のスキーヤーと同じゲレンデで練習しています。

 

特に、出場が叶わなかった4年前のソチオリンピック以降は、アルバイトなどに時間を費やさなければならず、競技に集中できる時間が少なくなったといいます。

 

田原選手は「ある程度の妥協は競技を続けていく上でしかたのないことだと受け止め、限られた環境の中で100%できることをする」という思いで自分と闘ってきたのです。

 

 自分だけのオリンピックじゃない

 

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                                                                                             切久保さん(右)

 

こうした厳しい環境の中で、田原選手は改めて気づかされたことがあるといいます。

 

それが、「自分がどれほど周囲の人に支えられているか」ということです。

 

田原選手を支える1人、白馬村で民宿を営む切久保達也さんです。

 

去年まで田原選手を住み込みのアルバイトとして雇い、食事や住まいの面倒を見てきました。

 

さらには後援会をつくって寄付を募るなど、活動をサポートしてきました。

 

「人柄だけでなく、仕事もエアリアルも一生懸命取り組んでいる姿を見ると『応援してやらなくちゃ』と自然に思える。ここまで来たらオリンピックの舞台に立ってほしいと思います」(切久保さん)

 

ほかにも、メーカーが格安でスキー用具を譲ってくれたり大学時代の体操部の友人が遠征費用を支援してくれたりと、多くの人たちが田原選手の夢を応援しています。

 

田原選手は「みなさんの思いに触れるうちに、自分だけのオリンピックではないと思いました。仮にメダルが取れたら、僕の周りの支えてくれる人、みんなで取ったメダルだと思います」と話します。

 

「初」だけじゃ許されない

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 現在、37歳。同世代のアスリートの多くが引退し、田原選手も今回が最初で最後のオリンピックと捉えています。

 

オリンピックに出場しても、その後の生活や将来が保証されているわけではありませんが、人生のすべてをかけてメダルに挑むつもりです。

 

「初のオリンピックなんですけど、初じゃ許されないんですよね。これがまだ10代、20代前半とかだったら、経験して、次のオリンピックへ、と思えるかもしれないですけど、もう後がないので。本当にもう初めてのオリンピックでメダルを取りにいくっていう強い気持ちを持ってやっています」(田原選手)

 

 

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小学生の時にオリンピックを目指し始めて30年

 

ぶれずに1つの目標を追いかけてきた姿に、私は心から頭が下がる思いでした。

 

冬の競技は活動場所が限られ、メディアへの露出が少ないことなどからスポンサーが付きにくく、田原選手のように、厳しい環境と闘いながら活動するアスリートは少なくないといいます。

 

夢を追う選手が安心して競技に打ち込めるような環境をさらに整備していく必要があると感じました。

 

競技を転向して夢の実現を目指す、これからの選手のためにも、田原選手には思いっきり、ピョンチャンの空で輝いてほしいと思います。

 

 

こちらは田原選手のショート動画(1分44秒)

 

  • 大阪放送局アナウンサー 松苗竜太郎

    • 大阪放送局アナウンサー 松苗竜太郎
    • 平成24年入局 山口局をへて去年4月から大阪局 「ウイークエンド関西」担当