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2008年 12月分 放送リスト
12月3日 (水) 放送 第344回
戦国の十字軍  〜キリシタン大名・大友宗麟の「聖戦」〜

12月10日 (水) 放送 第345回
一人、そしてまた一人  〜マザー・テレサ 平和に捧げた生涯〜

12月17日 (水) 放送 第346回
平安京誕生  〜千年の都に秘められた苦闘〜


第344回
戦国の十字軍
〜キリシタン大名・大友宗麟の「聖戦」〜

放送日
本放送 平成20年12月3日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
再放送 平成20年12月8日(月)
17:15〜17:58 BS−2 全国
平成20年12月9日(火)※月曜深夜
03:30〜04:13 総合 全国(近畿除く)
平成20年12月9日(火)
16:05〜16:48 総合 全国
平成20年12月13日(土)
10:05〜10:48 総合 近畿のみ
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
スタジオゲスト小和田哲男(おわだてつお)さん 静岡大学教授
主要著書
『戦国武将』(中公新書) 『後北条氏研究』(吉川弘文館)
『近江浅井氏の研究』(清文堂出版) 『秀吉の天下統一戦争』(吉川弘文館)
『戦国武将を育てた禅僧たち』(新潮社)『北条早雲とその子孫』(聖文社)ほか
キャスター  松平定知
番組概要
その時:天正15(1587)年3月
出来事:キリシタン大名・大友宗麟が豊臣秀吉とともに、薩摩島津氏の軍勢を退ける
戦国時代、戦いのない理想郷建設を夢見た男がいた。豊後(大分県)のキリシタン大名・大友宗麟である。宗麟は、争いを戒め、愛で人々を救済するキリスト教に領民を治める理想を見る。理想実現のため「聖戦」を開始した宗麟だったが、薩摩島津氏との合戦に大敗。理想郷どころか滅亡の瀬戸際に立たされる。この時、宗麟は思わぬかたちで理想を実現させることになった。
島津軍に居城を包囲された宗麟は自ら大坂に向かい、豊臣秀吉に援軍を頼み込む。秀吉の答えは援軍の派遣は1年後になる、というものだった。それまでは城を守り抜かなければならない。決死の籠城戦で、宗麟は領民の救済を最優先する。数千の民を城に入れ、食糧を分け与える宗麟。それは、キリシタン・宗麟の理想がはからずも現実となった瞬間だった。宗麟の行いは大友軍を奮起させ、島津軍を食い止め続ける。やがて秀吉の大軍が九州に到着。島津軍は豊後から撤退し、九州の戦乱は平定へと向かうのだった。理想と現実に揺れ動いた戦国大名・大友宗麟の苦闘に迫る。
番組の内容について
大友宗麟の呼称について
「宗麟」は、1562(永禄5)年に出家してからの名前で、それまでは、「義鎮(よししげ)」と名乗っていました。その後、「三非斎」「円斎」「府蘭」「宗滴」など様々な名が使われていますが、番組中では、最もよく知られている「宗麟」という呼び名に統一しました。

天文19年におきた大友家のお家騒動とは
「二階崩れの変」と呼ばれています。宗麟(当時 義鎮)の父義鑑(よしあき)が、宗麟の廃嫡と、異母弟塩法師丸への家督相続を企て、反対する家臣を謀殺したところ、そのほかの家臣が危機感を抱き、義鑑と塩法師丸を襲撃し、暗殺したとされる事件です。これにより、家督を継ぐことになった宗麟ですが、この時に負った心の傷が、その後の信仰に大きな影響を及ぼしたと言われています。

フランキ砲について
宗麟が輸入した、日本で初めて使われた大砲と言われる「フランキ砲」。仏狼機(ふらんき)砲と書かれることもあります。また、発射の時の大音響から、宗麟が名付けた「国崩(くにくずし)」という名前も知られています。フランキ砲は、大分県臼杵市の臼杵公園(臼杵城跡)で複製品を見ることができます。

日本初の西洋式総合病院「府内病院」
1557(弘治3)年2月頃、修道士ルイス・アルメイダらが、大友宗麟の支援を受けて建設した病院です。外科、内科の他に、ハンセン病患者専用の病棟もありました。その噂は、全国に知れ渡り、京から治療に訪れる人もいたといわれています。
番組で使用したCG映像は、大分県立芸術文化短期大学映像研究室の講師、鈴木慎一さんが、イエズス会の文献などを元に制作したものです。

宗麟が教会で聴いた音楽について
1565年付のバウチスタの書簡によると、日曜日や祝日には、教会で、ミサの時にビオラの演奏をした記録されています。また、宗麟は、子どもたちを連れて、教会をたびたび訪れているという記録もあることから、この頃、宗麟は西洋音楽と出会ったのではないかと考えられます。
番組中の教会で宗麟が西洋音楽と出会うシーンに使用した音楽は、古楽器「ヴィオラ・ダ・ガンバ」で演奏されたものです。 

キリシタンの少年が起こした事件
1576(天正4)年、宗麟の息子、大友義統(よしむね)の妹に仕えていたキリシタンの少年(洗礼名エステバン)が、お寺に仏教のお札を取りに行くよう命じられ、これを拒否したものです。

伊東氏が宗麟に助けを求めた件について
日向中央部を治めていた伊東義祐(よしすけ)と宗麟は、縁戚関係にありました。1577(天正5)年12月、佐土原城の戦いで、伊東義祐は、勢力を増す島津に敗れ、大友宗麟に助けを求めました。この時、伊東義祐は、宗麟に「日向を奪還できたなら、日向の半分を差し上げる」と懇願しています。

宗麟の理想郷の跡地、務志賀
豊後、臼杵から海路出陣した宗麟は、すでに、息子、義統が制圧していた日向北部(現在の延岡市)に上陸し、そこに本陣を構えました。その地の名前は、「務志賀(ムシカ)」と伝えられています。この地名は、現在の延岡市無鹿(むしか)町に残されています。無鹿町の住民の間では、この地名がポルトガル語の音楽「MUSICA」(ムジカ)から宗麟が名付けたと伝えられています。

1578(天正6)年11月12日の大友軍と島津軍の合戦について
宗麟が、務志賀でキリシタン国家建設にあたっていた頃、大友軍本隊は日向を南進し、高城(現在の宮崎県木城町)で、島津軍と激突します。この時、大友軍6万、島津軍5万と、数ではやや優勢でしたが、キリシタン擁護に傾倒する宗麟への反感で統制がとれず、島津軍に大敗しました。宣教師ルイス・フロイス著、「日本史」の中では、この戦いで、大友軍の戦死者は、2万人に上ったと記録されています。

「天険の要害」臼杵城と臼杵の町
宗麟が籠城した臼杵城は、三方を海に囲まれた丹生島の上にありました。この島の周囲は、高さ20mほどの断崖で、しかも唯一陸地と接している部分でも、満潮時には海水につかり、非常に攻めにくい城だったといわれています。また、臼杵の町へのルートは、「二王座の切り通し」と呼ばれる、狭い道だけで、ここを守れば、少人数でも敵の侵入を防げたのではないかと言われています。
番組で使用したCG映像は、臼杵市教育委員会から提供していただいた、当時の地形データを元に復元したものです。
臼杵城の周囲は、戦後埋め立てられ、完全に陸地となっていますが、切り立った断崖の上にたつ臼杵城址は当時の面影を残しています。また、二王座の切り通しなど古い町並みも残されています。

領民を城に避難させた宗麟
フロイスの「日本史」によると、宗麟が領民に対して避難勧告を出したエリアは、臼杵城から20キロほど離れた土地に及んだ可能性があります。避難した領民たちで、臼杵城内は「身動きができない状況だった」と記録されており、城内の面積から、避難民の数は、数千人に及んだと考えられています。

臼杵城の宗麟を救援しようとした義統
宗麟の研究家・外山幹夫さんの著書「人物叢書 大友宗麟」(吉川弘文館)の中で、島津軍が臼杵城から撤退した理由の一つに、宗麟の息子、大友義統の動きがあったと考えられています。義統は、島津軍に破れ、一時は逃亡していましたが、宗麟のいる臼杵に島津が迫っていることを聞き、府内に引き返しました。これにより、臼杵にいた島津軍は、府内からの援軍を恐れ、撤退したということです。しかし、実際には、義統は、準備不足で部下も少なく、具体的な策を講じることはできなかったようです。

番組で使用した言葉について
宗麟は「日本で最も叡智聡明な王」
フロイスの「日本史」の中で記述した文章から抜粋しました。また、同様の言葉は、「日本イエズス会書簡集」にも記録されています。

「大友宗麟ほど、ポルトガル人を手厚く保護した大名はいない」
フロイスの「日本史」の記述から抜粋しました。

「デウスとは甚だ大切にして、大いなる不思議あるものなるべし」(大友宗麟の言葉)
「悪をなすものを殺すことを命ぜずは、国はいかにして治むるを得べきか」(大友宗麟の言葉)
1578年10月16日付で、フロイスがポルトガルのイエズス会に送った書簡の中に、宗麟が語った言葉として記録したものから抜粋しました。(日本イエズス会書簡集)

「たとえ主人であっても
  異なる神に関わればデウスに背くことになります」(キリシタン少年の言葉)

1576年9月9日付で、宣教師カブラルがポルトガルに送った書簡の中で、エステバン少年の語った言葉として報告したものから要約しました。

「キリシタンは、古い習わしを破壊し、
   臣民をして領主に背かしめ国を滅ぼす」

1576年9月9日付で、宣教師カブラルがポルトガルに送った書簡の中にある、宗麟の妻によるキリシタンに対する批判の言葉です。宗麟の妻を支持した家臣たちも、同様の気持ちだったと考えられることから、この言葉を紹介しました。

「この国は、今までと異なった、新しい法律や制度で治める。
   すべての者がキリシタンとなり、兄弟のごとく愛し合うこと。」
   (大友宗麟の言葉)

フロイスの「日本史」より、抜粋しました。

「王は、自分のわずかな食料を民と分かちあい、
   あるものには衣服を与え、窮乏する民を救うために全力を尽くした」
   (宣教師の記録)

1588年2月20日付、フロイスがイエズス会総長へ送った書簡から、臼杵城での戦いの際、宗麟がとった領民救済の行動について記録した文章を、要約しました。

「王は、新たに国を治めることを望まず、魂が救われることのみを願った」
  (宣教師の記録)

1588年2月20日付、フロイスがイエズス会総長へ送った書簡から、宗麟が、秀吉の日向安堵の申し出を断ったときの様子を綴った文章を要約しました。

「人生における敗北、苦しみは、試練であり、不幸ではない。
   灼熱の炎に磨かれる黄金のように、試練によってこそ、人は高められる。」

フロイスの「日本史」の翻訳家で、大友宗麟に詳しい川崎桃太さんが、その著書「フロイスの見た戦国日本」(中公文庫)の中で書かれている文章から、許可を得て、抜粋、要約しました。  

番組内で用いたおもな肖像・画
大友宗麟 肖像画 (瑞峯院 京都国立博物館)
織田信長 肖像画  (長興寺)
フランシスコ・ザビエル 肖像画 (神戸市立博物館)
大友義統 肖像画 (大分市歴史博物館)
耳川合戦図屏風 (相国寺 承天閣美術館)
豊臣秀吉 肖像画 (逸翁美術館)
臼杵市野津町の磨崖クルス (個人蔵)
大分県キリシタン殉教記念碑 (大分県キリシタン公園)
おもな参考文献
『日本史』(ルイス・フロイス 著 大村市教育委員会 大村市松田毅一南蛮文庫)
『完訳フロイス日本史6〜8巻』(ルイス・フロイス 著 松田毅一・川崎桃太 訳)
『エーヴォラ版 日本イエズス会書簡集』(京都外国語大学付属図書館)
『東洋遍歴記2』(メンデス・ピント 著 岡村多希子 訳 平凡社)
『人物叢書 大友宗麟』(外山幹夫 著 吉川弘文館)
『大分県先哲叢書 大友宗麟』(渡辺澄夫 監修 竹本弘文 著 大分県教育委員会)
『大友宗麟のすべて』(芥川龍男 編 新人物往来社)
『バテレンと宗麟の時代』(加藤知弘 編 石風社)
『フロイスの見た戦国日本』(川崎桃太 著 中公文庫)
『西国の戦国合戦』(山本浩樹 著 吉川弘文館)
『ザビエルが伝えた祈りの歌 南蛮音楽 その光と影』(竹井成美 著 音楽之友社)
※絶版になっているものもありますので、書店、出版社にご確認ください。



第345回
一人、そしてまた一人
〜マザー・テレサ 平和に捧げた生涯〜

放送日
本放送 平成20年12月10日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
再放送 平成20年12月15日(月)
17:15〜17:58 BS−2 全国
平成20年12月16日(火)※月曜深夜
03:30〜04:13 総合 全国(近畿除く)
平成20年12月16日(火)
16:05〜16:48 総合 全国
平成20年12月20日(土)
10:05〜10:48 総合 近畿のみ
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
スタジオゲスト西川 潤(にしかわ じゅん)さん(早稲田大学名誉教授)
国際経済学専攻。南北問題、開発援助、社会経済等の理論研究に取り組む。
主要著書:『飢えの構造』『世界経済入門』『人間のための経済学』など
マザー・テレサに関しては、
『マザー・テレサ インドから世界へ』
『人間のための経済学』第七章 豊かさと貧しさ  を参照のこと
インタビュー出演  Mirium Mitra (ミリアム・ミトラ)さん
(マザーが最も初期に救った孤児の一人)
再現ドラマ出演マザー・テレサ(18歳以降)役・・・
イエンタ・ナインド(所属:グループ・エコー)
キャスター  松平定知
番組概要
その時:1979年12月10日
出来事:マザー・テレサがノーベル平和賞を受賞する
インドそして世界で、貧困に苦しむ人々の救済を続けた、マザー・テレサ。その活動を支えたのは「平和」への願いだった。幼い頃から民族や宗教で対立する人々の姿を見てきたマザー。インドの貧民街で、紛争の犠牲となって路上で死にゆく「最も貧しい人々」の救済を行う。救いを求める人々に「一人、そしてまた一人」と手を差しのべる行いは、やがて世界中で人々の心を動かしていく。
マザー・テレサの平和へのメッセージを伝える。 
番組の内容について
マザー・テレサの名前について
マザーの本名はAgnes Gonxha Bojaxhiu (アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ)。
テレサ(Teresa)は、修道名(正式にはMary Teresa of the Child Jesus)。フランス・リジューの聖テレジア(St Thérèse of Lisieux)にちなんでいる。しかし、同じ修道院内に、既に「マリア・テレジア(Marie- Thérèse)」という修道女がいたため、彼女の洗礼名はテレジアのスペイン語読み「テレサ(Teresa)」となったといわれる。1937年に終生誓願を立て、最終的にマザー・テレサとなった。番組内では、マザー・テレサの通称に従い、「マザー」と一貫して呼ぶことにした。

マザー・テレサの誕生日
マザー・テレサの誕生日は1910年8月26日。27日とされている文献もあるが、これは彼女が洗礼を受けた日(キリスト教徒としての誕生日)。

コルカタの地名
コルカタ(Kolkata)は、かつてのカルカッタ(Calcutta)。インドでは2001年より現地の言葉であるベンガル語での呼称・コルカタに改められている。

「死を待つ人々の家」について
1952年8月22日設立。「死を待つ人々の家」は、ベンガル語では「Nirmal Hriday(ニルマル・ヒリダイ)清い心の家」と呼ばれている。英語名は「Home for Dying Destitutes(英語的にはDestitute だが、施設の看板には、このスペルで書かれている)直訳: 死にゆく貧しい人の家」。今回番組では、通称としてより広く知られている英語名にちなんだ呼び名を採用した。

スコピエの場所について
マザーが生まれた1910年当時、スコピエはオスマン帝国の支配下にあり、ユスキュブ(Üsküb)と呼ばれていた。現在は、1991年よりマケドニア共和国の首都。

アッシジの「聖フランシスコの平和の祈り」について
番組内にて引用した部分以降も含めた全文(訳文)は以下の通り。
尚、マザーはノーベル平和賞受賞スピーチに先立ち、この祈りの言葉の全文を唱えているが、番組では最初の4行を引用した。

主よ あなたの平和をもたらす道具として 私をお使い下さい
憎しみのあるところには 愛を
争いのあるところには 許しを
分裂のあるところには 一致を (ここまで番組内にて引用)
誤りのあるところには 真理を
疑いのあるところには 信仰を
絶望のあるところには 希望を
暗やみには 光を
悲しみのあるところには 喜びをもたらす者として下さい
慰められるよりも 慰めることを
理解されるよりも 理解することを
愛されるよりも 愛することを求める心をお与え下さい
忘れることによって 自分を見いだし
許すことによって許され
自分を捨てて 死に永遠の命をいただくのですから
 
*原文
Lord, make me a channel of Thy peace that,
where there is hatred, I may bring love;
that where there is wrong, I may bring the spirit of forgiveness;
that, where there is discord, I may bring harmony;  (ここまで番組内にて引用)
that, where there is error, I may bring truth;
that, where there is doubt, I may bring faith;
that, where there is despair, I may bring hope;
that, where there are shadows, I may bring light;
that, where there is sadness, I may bring joy.
Lord, grant that I may seek rather to comfort than to be comforted,
to understand than to be understood;
to love than to be loved;
for it is by forgetting self that one finds; it is forgiving that one is forgiven;
it is by dying that one awakens to eternal life.    

マザーが所属した修道会
アイルランド・ダブリンに本部があるロレット修道会(The Loreto Covent)。
当時ロレット修道会が、インド・ベンガル地方で宣教活動をしている事を知り、入会を決意した。

マザーが教師を勤めた学校
マザーが教師を勤めたのは、ロレット修道会がコルカタ(当時のカルカッタ)東部地区にあるエンタリー(Entally)で経営する聖マリア女学校(St. Mary School)。地理、歴史、カトリック教理を教えた。
1944年に校長になっている。

神の声を聞いた日
1946年9月10日ダージリンに向かう列車の中で「神の声」を聞いた、とマザーは後に語っている。
マザーが1950年に設立した修道会Missionaries of Charity(神の愛の宣教者会)では、この日を”決意の日(Inspiration Day)“として、毎年祝っている。

当時のカトリックの規則
番組内で述べられた、当時のカトリックの規則とは、1962〜65年に行われたバチカン第二公会議以前の「カトリック教会法典(Codex Iuris Canonici)」。
「第601条(1) あらゆる隠修道女は、立願後は、聖座の特典がないかぎり、短期間であっても口実のいかんを問わず、修道院から出てはならない。ただし、死の危険、またはその他の極度の悪の危険が切迫した場合を除く。」(『カトリック教会法典 羅和対訳 ルイジ・チヴィスカ訳』有斐閣1962)とある。

マザーのサリー
木綿の白地に三本の青い線が入ったサリーを、最初マザーは市場で買い求めた、と言われている。インドの女性の民族衣装であるサリーは、通常シルク製が多く、デザインも凝っているが、マザーは一番安い木綿製を選んだ。青の色は、カトリックでは聖母マリアの色であり、このデザインを気に入ったマザーは、後に自身が設立したハンセン病患者の施設の人々に、同じデザインの布を織ってもらうようになった。

マザーが最初に訪れたスラム
マザーが所属していたロレット修道院のすぐそばにあったモティジィル(Motijhil)とよばれるスラム地区。

マザーが子供たちに教えた言葉とは
西ベンガル州の公用語であるベンガル語。(番組内では、ベンガル語のアルファベットを地面に書いている)

カーリー寺院(Kali Temple)とは
ヒンドゥー教の寺院。ヒンドゥー教における破壊の神シヴァの妻の一人カーリーを奉っている。カーリーはインド神話において戦いの女神であり、コルカタの守護神とされている。

宗教毎の看取りの作法
「死を待つ人々の家」では、連れてこられた人々に、必ず名前と宗教を聞き、亡くなった際には各自の宗教に則った看取り方をする。例えば、ヒンドゥー教徒はガンジス河の水を飲ませ、イスラム教はコーランの一節を唱える。

マザーが男性を看病している写真に重ねたインタビュー
1969年に放映されたBBC「Something Beautiful for God」、抜粋・要約したもの。
具体的な言葉については、下記<マザーの言葉・手紙の内容>を参照のこと。

シシュ・ババン(子どもの家)
ヒンドゥー語で「子どもの家」を意味するシシュ・ババン(ShiShu Bhavan)。1955年設立。孤児や、両親が貧困・病気等で育てることが出来ない子どもが預けられ,育てられている施設。

マザー活動の物資調達について
ロレット修道院から出た時、5ルピーしか所持金を持たなかったマザー。初期は、マザー自ら托鉢(たくはつ)をして、必要な物資(食料・薬品等)を集めていた。その後、マザーの知名度が高くなると、世界中から義援金や物資が届くようになった。この際、マザーは個人からの寄付金は喜んで受け取ったが、政府等からの国庫助成金のような定期的な援助金は辞退し続けた。これは、収支報告の義務が発生するためで、そのことで貴重なシスターを帳簿記帳などに割り当てるわけにはいかない(そんな時間があれば、一人でも多くの人を助けたい)とのマザーの考え方によるもの。

マザーが海外へ進出したタイミング
マザーが1950年に設立した「神の愛の宣教者会」は、当時の教会法により、創設されてから10年間は活動場所がコルカタ(当時のカルカッタ)の司教管区内部に限られていた。しかし、1959年にこの制度は撤廃され、その後マザーの活動はインド国内の他の都市へと広がっていく。そして、1965年に教皇直轄となったことで、世界中に支部を開くことが可能となった。

BBCディレクターによる、マザーへのインタビュー
1969年に放映されたBBC「Something Beautiful for God」より、抜粋・要約したもの。質問している男性は、ディレクターのMalcom Muggeridge氏。言葉そのものは、下記<マザーの言葉・手紙の内容>を参照のこと。

ノーベル平和賞授賞式会場
ノルウェーにあるオスロ大学 大ホール(正式名:The Aula Magna)。1989年まで平和賞授賞式が行われていたが、老朽化のため、現在は市庁舎で行われている。

ノーベル平和賞授賞式でのマザーのスピーチについて
スピーチに先立ち、マザーが唱えた祈りについては、前出の「聖フランシスコの平和の祈り」参照。
尚、彼女の受賞日当日のスピーチ(acceptance speech)とほぼ同内容のものが、翌日講演されている。

マザーの墓の場所
コルカタにあるMissionaries of Charity の本部であるMother Houseの中にある。

番組で引用したマザーの言葉・手紙の内容

コルカタでの暴動を目にしたマザーの言葉
「通りに転がっている沢山の死体。ある者は突き刺され、ある者は殴り殺され、乾いた血の海の中に、考えられないような姿勢で横たわっていた。」
マザー・テレサの長年の友人であったEileen Egan著作「Such a Vision of the Street」(Sidgwick & Jackson 1985)P24 より引用・要約。
<原文> “Then I saw the bodies on the streets, stabbed, beaten, lying there in strange positions in their dried blood.”

修道院を出て、貧困者救済の許可を訴えた、大司教宛の手紙
「貧しい人達を助けたい、という欲求が、私の心をずっと満たしています。それは、日に日に強く、はっきりとしてきています。」
Brian Kolodiejchuk, M.C. 編著 “Mother Teresa Come Be My Light” (Thomson Gale 2007)より
1947/1/13付 Périer(ペリエ) カルカッタ大司教宛に書かれた手紙を抜粋・要約したもの

「死を待つ人々の家」の理念を語った言葉
「誰からも見捨てられてしまった人々が 最期は大切にされ 愛されていると感じながら亡くなって欲しい。彼らがそれまで味わえなかった愛を 最上の形で与えてあげたい。」
1969年英BBCにより制作されたドキュメンタリー「Something Beautiful for God」の中のインタビューより引用・要約
<原文>
“...They have been unwanted all their lives. We want to make them feel at the end somebody loves them, and somebody cares for them. That’s why we want to give them the best of what they have missed during their lives...”

一部の社会活動家や政治家からの活動への疑問に対するマザーの反論
質問者「あなたのしていることは確かに素晴らしいけど もっと大がかりで 現実的なやり方があるのでは?」
マザー「私は大仕掛けのやり方には反対です。大切なのは 一人ひとりの個人。愛を伝えるには、一人の個人として、相手に接しなければなりません。多くの数が揃うのを待っていては、数の中に道を見失い— 一人のための愛と尊敬を伝えることはできないでしょう。“一人ひとりの触れ合い”こそが、何よりも大事なのです。」

1969年に放映されたBBC「Something Beautiful for God」より、抜粋・要約したもの。
質問している男性は、ディレクターのマルコム・マゲッリッジ(Malcom Muggeridge)氏。
  <原文>
…when he looks what you are doing, he thinks “”What Mother Teresa does is absolutely marvellous and superb, but it’s nothing. There ought to be some big, practical way of doing this”.
<Mother Teresa> “I do not agree with the big way of doing things. To us what matters is an individual. To get to love the person we must come in close contact with him. I f we wait till we get the numbers, then we will be lost in the numbers. And we will never be able to show that love and respect for the person. I believe in person to person...”

マザーの心情を物語る、友人宛の手紙
「神の偉大さに比べて、私はなんてちっぽけなのか。ほとんど無に等しいかもしれない。あまりに無力で、空っぽで、そしてあまりに小さな私。」
Brian Kolodiejchuk, M.C. 編著 “Mother Teresa Come Be My Light” (Thomson Gale 2007)より
1976/5/29付 友人であったFr. Michael(マイケル神父)宛に書かれた手紙を抜粋・要約したもの

マザーが生前人々に語り続けた言葉
「私は決して助けた人を数えたりしません。ただ一人、一人、そしてまた一人」
「Biography: Mother Teresa〜A Life of Devotion」BBC 1997より引用・要約。
<原文> “I have never counted the numbers. I have just taken one, one, one.”

番組内で登場した主な資料について
[写真] *番組内での登場順
「死を待つ人々の家」で活動するマザー・テレサ 小林正典撮影
子どもを抱くマザー・テレサ アフロ所蔵
子ども達に囲まれるマザー・テレサ AP Images 所蔵
机に向かうマザー・テレサ 小林正典撮影
子どもの手を握り、向き合うマザー・テレサ 小林正典撮影
赤ちゃんを抱き上げるマザー・テレサ The Catholic Near East Welfare Association所蔵
救急車の前に立つマザー・テレサ 小林正典撮影
扉の前に立つマザー・テレサ Homer Page撮影
「死を待つ人々の家」に入っていくマザー・テレサ 小林正典撮影
電話を受けるマザー・テレサ Helen Exley Giftbooks Ltd所蔵
パレスチナ難民とマザー・テレサ The Catholic Near East Welfare Association所蔵
パレスチナ難民の老人 The Catholic Near East Welfare Association所蔵
思いにふけるマザー・テレサ 小林正典撮影
手を握りしめて立つマザー・テレサ 小林正典撮影

[肖像画]
アッシジの聖フランシスコ肖像画
 ジョット「病人を奇跡的に癒す聖フランシスコ」 (アッシジ/サン・フランシスコ大聖堂上堂)

[映像]
「マザー・テレサとその世界」千葉茂樹監督 近代映画協会・女子パウロ会制作1979
「ノーベル平和賞授賞式」NRK(ノルウェーの放送局)所蔵映像 1979
「Something Beautiful for God」BBC 1969 BBC MOTION GALLERY所蔵
「Biography: Mother Teresa〜A Life of Devotion」BBC 1997 BBC MOTION GALLERY所蔵  

おもな参考文献
『Something Beautiful for God』Malcom Muggeridge著 (Happer&Row 1971)
『マザーテレサ すばらしいことを神さまのために』マルコム・マゲッリッジ著 沢田和夫訳(女子パウロ会1992 初版1976)
『Such A Vision of Street』 Eileen Egan著 (Sidgwick & Jackson1985)
『Mother Teresa』Kathryn Spink著(Haper San Francisco 1997)
『マザーテレサ』キャサリン・スピンク著 新島典子訳 (近代文芸社1997)
『Mother Teresa』Navin Chawla著 (Element 1992)
『マザー・テレサ 愛の軌跡』ナヴィン・チャウラ著 三代川律子訳(日本教文社1992)
『マザー・テレサ』和田町子著 (清水書院1997 初版1994)
『Mother Teresa Come Be My Light』Brian Kolodiejchuk, M.C. 編著 (Thomson Gale 2007)
『マザー・テレサ〜インドから世界へ』文:西川潤 写真:小林正典(大月書店 1995)
『人間の経済学 開発と貧困を考える』西川潤著 (岩波書店2000)
『宣教師マザーテレサの生涯〜スコピエからカルカッタへ』土田將雄監修 工藤裕美/シリル・ヴェリヤト共著(上智大学出版2007)
『Mother Teresa Her Life, Her Works』 Lush Gjergji著 (New City Press 1991)
『マザー・テレサとその世界』千葉茂樹編著 (女子パウロ会1980)
『マザー・テレサ 限りない愛の奉仕』沖守弘著(くもん出版2002)
『マザー・テレサと神の子 いのち、この尊きもの』言葉マザー・テレサ 写真 小林正典(PHP研究所1982)
『神の発見』五木寛之著 対話者:森一弘(平凡社2005)
『イスラエルとパレスチナ 和平への接点をさぐる』立山良司著(中央公論社1989)
『平和研究講義』高畠通敏著 五十嵐暁郎・佐々木著 (岩波書店2005)
『近代インドの歴史』ビパン・チャンドラ著 粟屋利江訳(山川出版社2001)
※絶版になっているものもありますので、書店、出版社にご確認ください。


第346回
平安京誕生
〜千年の都に秘められた苦闘〜

放送日
本放送 平成20年12月17日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
再放送 平成20年12月22日(月)
17:15〜17:58 BS−2 全国
平成21年1月6日(火)※月曜深夜
03:30〜04:13 総合 全国(近畿除く)
平成21年1月6日(火)
16:05〜16:48 総合 全国
平成21年1月10日(土)
10:05〜10:48 総合 近畿のみ
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
スタジオゲスト井上満郎(いのうえ みつお)さん(京都産業大学教授)
著書『桓武天皇』(ミネルヴァ書房)、『研究史平安京』(吉川弘文館)ほか
VTR出演馬場 基(はじめ)さん(奈良文化財研究所 研究員)
山中 章(あきら)さん(三重大学教授)
清水みきさん(花園大学講師)
再現ドラマ出演  桓武天皇役
引地 薫(アクターズ・ハウス所属)
キャスター  松平定知
番組概要
その時:延暦13(794)年11月8日
出来事:桓武天皇が新しく開いた都を「平安京」と名づける
千年の都・京都の原点「平安京」。その誕生の裏には、時の桓武天皇をめぐる血ぬられた争いと苦悩が秘められていた。奈良時代の末、平城京での激しい権力闘争の中で桓武天皇は「遷都」によって政治体制の一新をもくろむ。しかし極秘裏に進めた最初の遷都は大きな反発を呼んだ。窮地に陥った桓武天皇はさらなる遷都で理想の都作りをめざす。「平らかで安らかな都=平安京」と名づけた桓武天皇の思い、そして京都誕生の時を描く。
番組では、桓武天皇が最初に都を移した京都の西隣の「長岡京」にも注目。近年の発掘調査によって、これまで平安京遷都までの仮の都と考えられていた長岡京の実像が明らかになってきている。長岡京は水運や衛生の利便を計算に入れ、それまでの奈良平城京の弱点を克服しようと計画的に造営された本格的都市だった。桓武天皇の幻の都・長岡京の実像もCGなどをまじえて紹介する。
番組の内容について
「その時」を「延暦13年11月8日」に設定したことについて
延暦13年11月8日は、新しい都にうつった桓武天皇が「平安京」と命名する日です。平安京への遷都自体は、その半月ほど前の10月22日に行っています。番組では、当時の地名「葛野(かどの)」をとった「葛野京」とせず、平和で安らかな都になるよう願う気持ちから、「平安京」と命名した桓武天皇の思いを紹介するため、「その時」を遷都の日ではなく、「平安京」と名づけた日に設定しました。

古代の都の変遷について
番組でご紹介しているのは、平安京に都がうつるおよそ200年前の6世紀末、推古天皇の時代からです。飛鳥宮は、飛鳥小墾田(おはりだ)宮、飛鳥板葺(いたぶき)宮、飛鳥浄御原(きよみはら)宮など複数あったため、まとめて飛鳥宮とご紹介しました。大津宮は、大津京とも呼ばれますが、京域(宮殿ではない町域)が確認されていないため、大津宮と紹介しました。

桓武天皇の皇位継承について
桓武天皇は、母親の身分が低いため、もともとは皇位継承の有力候補ではありませんでした。当時の記録「公卿補任(くぎょうぶにん)」には、桓武天皇に味方する有力貴族、藤原百川(ももかわ)が「しばしば奇計を出し」て、時の皇太子を廃し、桓武天皇が皇太子になれるよう援助したと記されています。

皇族の謀反について
氷上川継(ひかみのかわつぐ)の謀反事件です。氷上川継は、天武天皇の曾孫で、母が聖武天皇の娘という皇族でした。桓武天皇の即位の9か月後に起きた事件は、川継の側近の自供で未然に防がれましたが、こうした動きは、桓武天皇に反対する勢力が根強いことの現れと言え、天皇の皇位がいかに危ういものだったかを物語っています。

平城京の問題について
奈良時代末の平城京の人口は10万人と推定され、食料などの生活物資が大量に必要でした。しかし、大きな川から離れているため、大量運搬が可能な船が利用できず、10万人が生活するのに必要な物資を効率よく都に運び込むことができませんでした。他にも、奈良文化財研究所の松井章さんの研究によれば、下水の問題も抱えていたと指摘されています。これらの問題は、平城京が建設される際、これほどの人口増加を想定していなかったために起こったと考えられています。

遷都の意味について
番組ゲストの井上満郎京都産業大学教授は、遷都の目的について、「人心の一新」と「政権基盤の強化」の2つを指摘しています。新しい場所で新しい政治を行う「人心の一新」と、都をうつる際にそれまでの政治体制をリセットし、自分の思い通りの政治体制を構築する「政権基盤の強化」です。桓武天皇は、平城京での自分に不利な政治状況を打開するために、遷都によって政権基盤を強化しようと考えたと言われています。

長岡京について
長岡京は、京都盆地の西、現在の京都府向日(むこう)市、長岡京市付近にあった、東西4.2㎞、南北5.2㎞の都です。延暦3(783)年から延暦13(794)年までの10年間にわたる都でした。

長岡京跡の発掘調査について
長岡京はかつて「幻の都」と言われ、その存在すら疑問視されていましたが、昭和30年代から続く発掘調査で、平城京や平安京と並ぶ、本格的な都だったことが分かってきました。宮殿や家、井戸、トイレの跡や、大量の木簡や土器が出土しています。長岡京跡にある京都府向日市の文化資料館や長岡京市埋蔵文化財調査センターでは、出土物や宮殿の復元模型などが展示されています。

当時の宮殿建設について
当時、宮殿の建設は、一から作ると膨大な費用と労力がかかるため、今ある宮殿を解体し、次の場所へ移築するのが一般的でした。「続日本紀」には、長岡遷都の決定の半年後には、長岡京へ遷都し、宮殿で儀式を行ったことが記されており、移築により宮殿が早期に完成したことを裏付けています。

長岡京の宮殿跡から見つかった瓦について
長岡京で最初に作られた宮殿(大極殿)跡からは、重圏文(じゅうけんもん)と言われる同心円状の模様の入った瓦が数多く見つかっています。出土した瓦の8割以上を占めるこの瓦は、平城京の宮殿の瓦とは模様が違うため、長岡京の宮殿は平城京からの移築ではないと考えられています。

難波宮について
難波宮(なにわのみや)は、現在の大阪市中央区にあった飛鳥時代・奈良時代の宮殿です。奈良時代後期には、内陸にある平城京の外交や貿易の拠点として、副都の役割を果たしていたと言われています。

藤原種継(たねつぐ)の暗殺事件について
藤原種継は、桓武天皇の信頼を得た第一の腹心で、相談相手でした。長岡京へ遷都したのも、種継の建議によるものと「続日本紀」は記しています。しかし遷都反対派の人々にとっては、遷都を推進し、長岡京の建設長官まで務めていた種継は煙たい存在でした。桓武天皇は、この種継の暗殺を、遷都反対派の人々による自分への反逆と受け取ったと考えられています。

長岡京で災いが続いた当時の状況を記した言葉について
「国哀相次いで 災変いまだやまず」
「続日本紀」にある記述です。

葛野(かどの)に都をうつす際の桓武天皇の言葉について
「葛野の地は山や川が麗しく、
 四方の国の人々が集まるのに交通や水運の便がよいところだ」

「日本紀略」にある記述を一部意訳しました。
葛野は、現在の京都市とその周辺と考えられています。

「平安京」という都の名前について
平安京以前は「長岡京」など、都の名にその土地の地名や土地を表す名をつけるのが一般的でした。平城京は、かつては「ならのみやこ」と訓読みされ、なら=平坦な場所の都という意味だと考えられています。しかし平安京の場合は、桓武天皇の「願い」が都の名となっている特殊なケースです。長岡京の失敗から二度の遷都を行った桓武天皇は、今度こそ「平和で安定した都」になることを願い、「平安京」と名づけたと考えられています。

「当年の費(ついえ)だけれども 後世の頼り」という言葉ついて
「日本後紀」の桓武天皇の崩御を記す文章の中にあります。
「当時は大幅な出費となったが、後の世のいしずえとなった」として、桓武天皇の平安京への遷都を評した言葉です。

平安京の建設中止について
平安京遷都から11年後の延暦24(805)年の決定です。桓武天皇は都の建設を進めるべきか、中止すべきかで臣下に議論をさせます。そして、これ以上出費を続け人民を苦しめてはならないという、自分への反対意見をあえて受け入れ、都の建設を中止します。

都を平城京に戻そうとする動きについて
弘仁元(810)年に起こった、いわゆる「薬子(くすこ)の変」です。桓武天皇の死後、息子が即位し、平城天皇となりますが、病弱のため4年後に弟の嵯峨天皇に譲位します。しかしその嵯峨天皇と対立、平城上皇は都を平城京に戻そうとしますが、嵯峨天皇に拒否されます。上皇は兵をあげるも敗北し、都が平城京にうつることはありませんでした。この事件で平城上皇は出家します。そして上皇の愛妾だった藤原薬子らが処罰されたことから「薬子の変」と呼ばれています。

番組内で登場した資料について
桓武天皇肖像比叡山延暦寺
続日本紀国立公文書館
平城京遺構奈良文化財研究所
長岡京CG映像立命館大学アート・リサーチセンター
キャドセンター
日本紀略国立公文書館
日本後紀国立公文書館
平安京CG映像   熊谷組
真如堂絵巻真正極楽寺
 
おもな参考文献
『国史大系 続日本紀』(吉川弘文館)
『国史大系 日本紀略』(吉川弘文館)
『国史大系 日本後紀』(吉川弘文館)
『日本後紀』(黒板伸夫・森田悌・集英社)
『桓武天皇』(井上満郎・ミネルヴァ書房)
『桓武天皇』(村尾次郎・吉川弘文館)
『平城京』(平城遷都1300年記念2010実行委員会)
『平安京』(吉川真司・吉川弘文館)
『平城京と木簡の世紀』(渡辺晃宏・講談社)
『律令国家の転換と日本』(坂上康俊・講談社)
『天平の時代』(栄原永遠男・集英社)
『平安建都』(瀧浪貞子・集英社)
『日本古代都城の研究』(山中章・柏書房)
『長岡京研究序説』(山中章・塙書房)
『古代都城制条里制の実証的研究』(井上和人・学生社)
『宮都のロマン』(京都新聞出版センター)
※絶版になっているものもありますので、書店、出版社にご確認ください。

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