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2008年 10月分 放送リスト
10月1日 (水) 放送 第338回
怒れる民よ、信長を討て! 〜浅井長政 逆襲の京都包囲作戦〜

10月8日 (水) 放送 第339回
三国志クライマックス! 〜激動の英雄たち 3つの「その時」〜

10月15日 (水) 放送 第340回
神々のうた 大地にふたたび 〜アイヌ少女・知里幸恵の闘い〜

10月22日 (水) 放送 アンコール
大奥 華(はな)にも意地あり 〜江戸城無血開城・天璋院篤姫〜

10月29日 (水) 放送 第341回
「源氏物語」誕生 〜名作に秘められた奇跡〜


第338回
怒れる民よ、信長を討て!
〜浅井長政 逆襲の京都包囲作戦〜

放送日
本放送 平成20年10月1日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
再放送 平成20年10月6日(月)
17:15〜17:58 BS-2 全国
平成20年10月7日(火)※月曜深夜
03:30〜04:13 総合 全国(近畿除く)
平成20年10月7日(火)
16:05~16:48 総合 全国
平成20年10月11日(土)
10:05〜10:48 総合 近畿のみ
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
VTR出演宮島敬一(みやじま・けいいち)さん(佐賀大学教授)
著書『浅井氏三代』『戦国期社会の形成と展開』など。
浅井氏をはじめとする畿内の大名や惣村についての研究など、戦国史が専門。
キャスター  松平定知
番組概要
その時:天正元年(1573)9月1日
出来事:浅井長政と織田信長の戦いに決着がつく
戦国時代、天下統一を狙う織田信長の前に立ちふさがった若き武将がいた。近江の大名・浅井長政である。北近江の一部という小国の大名でありながら、長政は兵力で遙かに勝る信長を意外な戦略で追いつめてゆく。
長政の強さの秘密は、地元・北近江の人々との結束力にあった。権力者による支配を拒み村人たちが自ら治める「惣村」と呼ばれる村々が数多く存在する北近江。長政は村同士の争いの仲裁や村々にとって大切な祭の保護を通じて民衆の気持ちをくみ取り、北近江をまとめていったのである。
そこに現れ、同盟を求めてきたのが信長だった。共に将軍を支え世に安定をもたらそうという信長を信じ、長政は信長のために奔走する。しかし長政の助けを得て上洛した信長がとった行動は自らの領土拡大だった。
長政は打倒信長の兵を挙げる。しかし信長はこれをいち早く察知し圧倒的な兵力で長政の本拠地に迫った。この時長政は近江の民衆やその信仰の対象となっていた寺を味方に付け、またたく間に信長包囲網を作り上げる。「軍事力」対「民衆の力」による一大決戦が始まった—。
信長の天下統一の野望に、民衆と共に立ちむかった長政の壮大な戦略を描く。
番組の内容について
「浅井長政」を番組では「あざい ながまさ」と読んでいるが「あさい ながまさ」ではないのか?
「浅井長政」の「浅井」を「あざい」と読むか「あさい」と読むかに関しましては、今でも両方の説があり、専門家の間でも結論は出ていません。
「あさい」説の根拠としては10世紀前半に成立した百科事典『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』に「浅井」の読みがなとして「あさい」とふられていること、また「あざい」説の根拠としては近世に流布した辞書『節用集』に「あざい」と読みがながふられていることが挙げられています。
一方、長政の地元・北近江一帯(現・長浜市や湖北町など)では浅井を「あざい」と読むのが一般的で、旧浅井領であった「西浅井町」も「にしあざいちょう」と読んでいます。従いまして当番組では「あざい ながまさ」と読んでおります。

番組で紹介された長政ゆかりの場所を訪ねてみたい。
菅浦(すがうら)集落の四足(しそく)門
滋賀県西浅井町菅浦の菅浦集落入り口にあります。
JR湖西線・永原駅から車で約15分
(永原駅〜菅浦 菅浦〜永原は1日5本バスが出ています)

小谷城跡
滋賀県湖北町郡上の小谷山にあります。
JR北陸本線河毛駅から車で15分で小谷山中腹の駐車場着 →そこから登山10分

「殉教万人塚(じゅんきょうまんにんづか)」
滋賀県米原市の福田寺(ふくでんじ)というお寺の境内にあります。
福田寺(ふくでんじ)
〒521-0061 滋賀県米原市長沢1049
TEL:0749-52-1181 (JR北陸本線坂田駅から徒歩15分)

長政の代に浅井家が納めた弁才天像
滋賀県長浜市竹生島(ちくぶしま)の宝巌寺(ほうごんじ)というお寺の宝物館で展示されています。
竹生島宝巌寺(ちくぶしま ほうごんじ)
〒526-0124 滋賀県長浜市早崎町1664
TEL:0749-63-4410
竹生島へは長浜市や彦根市、高島市今津(旧今津町)の各港から一日数本出ている定期船で渡ることができます。

なお滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館には長政の書状などゆかりの品が展示されています。
平成20年10月25日〜11月24日には『戦国大名浅井氏と北近江』と題した特別展が催されます。
長浜城歴史博物館
〒526-0065 滋賀県長浜市公園町10-10
TEL:0749-63-4611
(JR北陸本線・長浜駅から徒歩5分)
www.city.nagahama.shiga.jp/section/rekihaku(NHKサイトを離れます)

 「十二の国を従える信長に対し、浅井長政が治めるのは近江の国のわずか4分の1」というコメントおよびCGで表した勢力範囲の根拠は?
信長の勢力範囲については『総見記』という書物に見られる、信長が畿内五州、美濃、尾張、三河、伊勢、近江、若狭、丹後の十二か国を従えた、という記述によりました。
(なお、ここでいう「近江」は上洛以降、信長が支配した南近江を指します。)
また長政の勢力範囲については番組に出演されている佐賀大学教授・宮島敬一さんのご意見を参考にいたしました。

『総見記』(別名『織田軍記』)は国立国会図書館に写本が所蔵されています。
国立国会図書館
〒100-8924 千代田区永田町1-10-1
電話:03-3581-2331(代表)
(日曜・祝日 年末年始 毎月第3水曜日は閉館)
また活字版は『物語日本史大系第7巻』に収録されております。大きい図書館などで閲覧可能です。

浅井長政の自刃の日について
長政自刃の日付については、従来『信長公記』の8月28日説など諸説がありましたが、近年研究が進み、長政が8月29日付で書状を出していること等の事実がわかってきたため9月1日説が有力となっています。
当番組でもこれに従い、自刃の日を9月1日といたしました。

少年時代の長政を讃える家臣たちの言葉
「世の常ならぬ若君なり」
これは長政を含む浅井家三代の事績について記した史料『浅井三代記』の記述によりました。
『浅井三代軍記』は国立国会図書館に写本が所蔵されています。国会図書館につきましては
こちらの項目をご参照下さい。
また活字版は改定史籍集覧第6冊『浅井三代記』で読むことが出来ます。大きい図書館などで閲覧可能です。

六角氏の支配に対し立ち上がった際の長政の言葉
「万事政道を改め、六角家の下風(かふう)に立つまじ」
戦国時代の近江の出来事を記した『江濃記』という史料の記述によりました。
『江濃記』は国立公文書館に写本が所蔵されています。
国立公文書館
〒102-0091 千代田区北の丸公園3番2号
電話番号:03-3214-0621(代表)
(開館時間 9:15〜17:00 土日祝日は休館)
また活字版では『群書類従第21輯 合戦部』で読むことができます。大きい図書館などで閲覧可能です。

長政が農業用水をめぐる村同士の争いを裁定した記録について
「水争いの件は言い分をしっかり聞き、取り調べを行った。詮議を尽くし、裁決を下したことをここに確認する」
これは永禄9年6月に北近江の富田(とんだ)という場所と馬渡上下という場所の農民の間に起こった水争いの裁定を記録した『富田文書』という史料によりました。
富田文書は滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館が史料のポジフィルムを所蔵されています。
(長浜城歴史博物館については
こちらの項目をご参照ください)
また活字版は、『東浅井郡志 第4巻』で読むことが可能です。大きい図書館などで閲覧することができます。

竹生島(ちくぶしま)で行われた蓮華会(れんげえ)の様子を描いた絵図について
番組で紹介した絵図は室町時代に行われた蓮華会の様子が描かれたといわれる『竹生島祭礼図』(写し)です。長浜城歴史博物館に所蔵されています。
長浜城歴史博物館につきましてはこちらの項目をご参照下さい。

蓮華会を毎年開催するよう確認する長政の書状について
「来年の蓮華会は特に念を入れてとり行うように」
これは長政が竹生島の祭礼担当者に宛てたといわれる手紙で、現物は竹生島宝巌寺が所蔵している「竹生島文書」の中の一通です。
活字版は『東浅井郡志 第4巻』で読むことが可能です。大きい図書館などで閲覧することができます。
(宝巌寺についてはこちらの項目をご参照下さい。)

長政とお市の結婚の時期、および信長が長政の同盟を望んだ理由について
長政とお市の結婚時期は現在大きく分けて①永禄2〜6年説と②永禄11年説があります。
今回の番組では残された文書等の解釈および番組出演の宮島敬一教授の意見を参考に①の説をとりました。
その場合、同盟の理由として尾張の織田信長が北近江の長政との同盟によって2国の間にある美濃を挟撃できることになり、これが有力な動機と考えられています。(実際この時期に長政が美濃を攻撃した記録もあります。)
従って番組のコメントも信長が「隣国美濃を攻めるため北近江の長政との同盟を望」んだ、としました。

信長が長政と会見した時に語った言葉について
「この度は浅井殿と組んで将軍のお供をし、日本を残らず従えたい」
『総見記』の記述によりました。『総見記』につきましてはこちらの項目をご参照下さい。

長政を呼び捨てにした信長の手紙について
これは「信長上洛付書立」の名で知られる手紙で、21か国の大名・武将に宛てた上洛を命じた通達です。
「北畠大納言殿(=伊勢の大名・北畠具教)」「徳川三河守殿(=徳川家康)」など各大名に「殿」の敬称が付けられる中、長政は「浅井備前」とのみ記されています。
『二条宴条記』という史料に掲載されているもので、現物は天理大学付属天理図書館で閲覧できます。
また活字版は天理図書館報の『ビブリア』53号で読むことが出来ます。
天理大学付属天理図書館
〒632-8577 奈良県天理市杣之内町1050
TEL:0743-63-9206(閲覧係)

信長追討を決意した長政の言葉
「信長を討ってとるべし」
『総見記』の記述によりました。『総見記』につきましてはこちらの項目をご参照下さい。

長政が北近江の有力な10か所の寺に回した通達について
「出陣をお願いします どうかご油断なきよう」
これは長浜城歴史博物館が所蔵している『誓願寺文書』の中にある長政の回状です。
長浜城歴史博物館についてはこちらの項目をご参照下さい。
また活字版は、『東浅井郡志 第4巻』で読むことが可能です。大きい図書館などで閲覧することができます。

長政が大坂の石山本願寺に送った協力要請について
「御迷惑御大儀ながら御同心下さるようお願いいたす」
これは東京大学史料編纂所に所蔵されている長政の協力要請を伝える浅井家臣の書状の文言によりました。一般には公開されていません。
活字版は、『東浅井郡志 第4巻』で読むことが可能です。大きい図書館などで閲覧することができます。

長政にもたらされた講和の通達について
「多年の戦は天下の難儀である。早く遺恨をとどめ、朝廷と幕府のために和睦をなすべきである」
これは長政とともに戦った越前の大名・朝倉氏の記録『朝倉家記』の記述によりました。
『朝倉家記』につきましては、写本が国立公文書館に所蔵されております。
国立公文書館につきましてはこちらの項目をご参照下さい。

長政が落城直前に妻お市の方に残した言葉について
「そなたを信長のもとへ送り返す」
これは『浅井三代記』の記述によりました。『浅井三代記』につきましてはこちらの項目をご参照下さい。

小谷城落城直前、長政が家臣に渡した手紙について
「このたびの籠城の件は感謝してもしきれない」
これは長浜城歴史博物館所蔵の天正元年(1573)8月18日浅井長政書状の記述によりました。
(原史料にある年号は、信長が改元させた「天正」を用いずあえて『元亀4年』となっています)
長浜城歴史博物館につきましてはこちらの項目をご参照下さい。

現在行われている蓮華会について
蓮華会は北近江の地域住民が竹生島に弁才天を奉納する行事として毎年8月15日に行われています。

番組内で用いた主な肖像・画
浅井長政 肖像画  持明院
織田信長 肖像画長興寺
お市の方 肖像画持明院
朝倉義景 肖像画心月寺
『竹生島祭礼図』長浜城歴史博物館
おもな参考文献
『東浅井郡志』第2巻(黒田惟信・編 東浅井郡教育委員会 1927)
『東浅井郡志』第4巻 (黒田惟信・編 東浅井郡教育委員会 1927)

『人物叢書 浅井氏三代』(宮島敬一・著 吉川弘文館)
『戦国期社会の形成と展開』(宮島敬一・著 吉川弘文館)
『近江浅井氏』(小和田哲男・著  新人物往来社)
『浅井長政のすべて』(小和田哲男・編  新人物往来社)

『元亀争乱 〜信長を迎え討った近江〜』 (安土城考古学博物館 平成8年度秋期特別展 展示図録)
『信長公記』(太田牛一・著 角川文庫版・ニュートンプレス社の現代語訳版など各種あり)
『信長と天皇』(今谷明・著 講談社現代新書・講談社学術文庫)

『竹生島宝巌寺』(市立長浜城歴史博物館・編 特別展図録)
『大名領国を歩く』(永原慶二・編 吉川弘文館)
『小谷城』(湖北町教育委員会・小谷城址保勝会 編)
※絶版となったものもあります。出版社などにご確認下さい。



第339回
三国志クライマックス!
〜激動の英雄たち 3つの「その時」〜

放送日
本放送 平成20年10月8日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
再放送 平成20年10月14日(火)
16:05〜16:48 総合 全国
平成20年10月14日(火)※月曜深夜
03:30〜04:13 総合 全国(近畿除く)
平成20年10月18日(土)
10:05〜10:48 総合 近畿のみ
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
キャスター  松平定知
番組概要
その時:①西暦200年10月 官渡(かんと)の戦い
②西暦208年12月 赤壁(せきへき)の戦い
③西暦214年 夏  益州(えきしゅう)攻略
出来事:①曹操が中国の北半分を手に入れ、覇者に最も近い位置に立つ
②曹操の覇道にまったをかけ、孫権、曹操の並び立つ時代が始まる
③魏・呉・蜀の三国が三つ巴となって争う時代が始まる
古代中国を舞台に、個性的な英雄豪傑たちの活躍を描き、幅広い層の心を捉え続ける「三国志」。今回は、膨大な登場人物が織りなす人間ドラマの魅力を凝縮し、初めての人にもわかりやすい、いわば「43分でわかる三国志」をお送りする。
曹操(そうそう)、孫権(そんけん)、劉備(りゅうび)の3人を主人公に、三国志の中でも有名な“官渡の戦い”“赤壁の戦い”“益州攻略”の3つのクライマックスを通し、古代中国のロマン「三国志」の世界を描く。
番組の内容について
「三国志」と「三国志演義」について
「三国志」とは中国古代の後漢王朝の時代から魏・呉・蜀の三国分立を経て晋王朝が興るまでの時代について記述した歴史書です。一方、「三国志演義」とは「三国志」に脚色を加え明代に書 かれた歴史小説です。今回の番組は「三国志演義」ではなく「三国志」をもとに制作しています。
番組で使用した言葉について
「数十万人を殺し、鶏、犬さえも生き残れなかった」
「三国志」後漢書 陶謙伝より抜粋しました。

「至弱をもって至強に当たる」
「三国志」魏書 武帝紀第一より 曹操の家臣であった荀彧(じゅんいく)の言葉です。

「袁紹軍の兵糧部隊が集まっている場所を教えよう。そこを攻撃されれば、食料を失った袁紹は三日と持たないだろう」
「三国志」魏書 武帝紀第一より 袁紹(えんしょう)を裏切り曹操に寝返った許攸(きょゆう)の言葉を要約しました。

「敵の新手を防ぐため兵を二手に分けましょう」
「三国志」魏書 武帝紀第一より 曹操の側近の言葉より抜粋しました。

「今は余計なことを言うな」
「三国志」魏書 武帝紀第一より 曹操の言葉を要約しました。

「己の力量を認めてくれる主君に出会ったからには、表向きは君臣の関係であっても、内面では家族の情でつながり、禍福を共にするものだ」
「三国志」呉書 周瑜魯粛呂蒙伝第九より 孫権の家臣、周瑜(しゅうゆ)の言葉を要約しました。

「我らにとって長大な長江は唯一の防衛線。ところが曹操はその長江沿いに大軍で攻め込んできます。我が方は落ちたも同然です 」
「三国志」呉書 周瑜魯粛呂蒙伝第九より 孫権の家臣、魯粛(ろしゅく)の言葉を要約しました。

「曹操たち北方の軍勢は、馬を駆るのを得意とします。彼らが船を漕いだところで、我が水軍に対して何ができましょうか 」
「三国志」呉書 周瑜魯粛呂蒙伝第九より 孫権の家臣、周瑜(しゅうゆ)の言葉を要約しました。

「この戦いは、曹操を倒すか、私が倒れるか、ふたつにひとつ。今後、曹操への降伏を唱える者は、 この机と同様、私が斬る」
「三国志」呉書 周瑜魯粛呂蒙伝第九より 孫権の言葉を要約しました。

「曹操殿の大軍勢に立ち向かっても、勝てないのは明らかです。しかしそれを周瑜は理解していません。私は寝返って、あなたに忠誠を誓います」
「三国志」呉書 周瑜魯粛呂蒙伝第九より 孫権の家臣、黄蓋(こうがい)の言葉を要約しました。

「大きなことをなすためには何より民を基本にせねばならない。今、民が私を頼っているのに、どうして見捨てることができようか」
「三国志」蜀書 先主伝第二より 劉備の言葉を要約しました。

使用した映画・ドラマ映像について
映画「レッドクリフ」
 配給 東宝東和/エイベックス・エンタテインメント
 平成20年11月1日より公開予定

ドラマ「三国演義」
 製作 中国中央電視台
 DVDで発売中(平成20年10月6日現在)

ドラマ「曹操」
 製作 河南電視台/ラクラクコミュニケーションズ
 DVDで発売中(平成20年10月6日現在)

ドラマ「曹操与蔡文姫」
 製作 中国国際電視総公司/ラクラクコミュニケーションズ
 日本でのビデオ・DVD等の発売はありません
番組内で使用した史料・肖像について
正史 三国志…早稲田大学図書館特別資料室より借用
「曹操」の肖像…帝王名臣像冊 魏曹操/中国歴代皇帝・名宰相の肖像画集より
「孫権」の肖像…中華歴代帝王図/中国の歴代皇帝の肖像画集より
「劉備」の肖像…三国人物像 蜀昭烈皇帝図/三国志人物肖像画集より
「周瑜」の肖像…三国志城博物館 蔵
おもな参考文献
正史 三国志1〜8(陳寿 著 今鷹真 井波律子 小南一郎 訳 ちくま学芸文庫)
正史 三国志英傑伝1〜4(陳寿 著 「中国の思想」刊行委員会 編訳 徳間書店)
中国の歴史4 三国志の世界(金文京 著 講談社)
三国志ハンドブック(陳舜臣 監修 竹内良雄 編 三省堂)
三国志全人名事典(徳間書店)
歴史群像シリーズ 三国志上巻・下巻(学研)


第340回
神々のうた 大地にふたたび
〜アイヌ少女・知里幸恵の闘い〜

放送日
本放送 平成20年10月15日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
再放送 平成20年10月20日(月)
17:15〜17:58 BS2 全国
平成20年10月21日(火)※月曜深夜
03:30〜04:13 総合 全国(近畿除く)
平成20年10月21日(火)
16:05〜16:48 総合 全国
(事情により放送が中止になる場合があります)
平成20年10月25日(土)
10:05〜10:48 総合 近畿のみ
平成20年10月25日(土)
14:00〜 BS2「あなたのアンコール・サタデー」番組内
平成21年2月16日(月)
17:15〜17:58 BS2
平成21年2月17日(火)
16:05〜16:48 総合
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
スタジオゲスト  小野有五(おの・ゆうご)さん(北海道大学大学院教授)
知里幸恵記念館建設募金委員会代表世話人
著書『自然のメッセージを聴く 静かな大地からの伝言』(北海道新聞社)ほか
キャスター松平定知
番組概要
その時:1923(大正12)年8月10日
出来事:アイヌの少女・知里幸恵(ちり・ゆきえ)によってアイヌの伝承がまとめられ、『アイヌ神謡集』として出版された
明治、日本が近代化を推し進めるなかで、蝦夷地に生きるアイヌの暮らしと文化は消されようとしていた。その時、アイヌの復権に挑んだ少女が、知里幸恵。幸恵はアイヌの伝承をまとめ世に問うた。
「梟(ふくろう)の神が羽ばたきをすると神の宝物が落ち散りました」……狩りや漁で生きるアイヌの人びとにとって、自然や神を敬う伝承「カムイユカラ」は、民族のアイデンティティともいえるものだった。しかし同化政策によってアイヌの人びとは生活を破壊され、貧困と差別に苦しみつづける。やがてアイヌは劣った民族だと思い込まされ、誇りを奪われていく。知里幸恵もそんな一人だった。
しかし幸恵に転機が訪れる。15歳の時、アイヌ語研究に取り組む金田一京助と出会う。金田一は、急速な近代化で消えゆくアイヌの伝承を記録しつづけていた。交流を重ねる二人は、アイヌの伝承を集めた本の出版に取組む。そして幸恵はカムイユカラを改めて学び直し、その中で、アイヌ文化の本当の豊かさと、後世に引き継ぐ使命に目覚めていく。1923(大正12)年、『アイヌ神謡集』を出版。それはアイヌであることを否定しつづけてきた人々を覚醒させ、やがて差別撤廃と民族の復権を求める声となる。その声はさらに広く日本社会に共感を広げていく。
明治以降、近代化を推し進め列強国にならんと邁進してきた日本。番組では、その影で犠牲を強いられつづけた人びとの声に耳を傾ける。
番組の内容について
カムイユカラ
アイヌ民族の「口承叙事詩」。アイヌの英雄譚であるユカラとは区別され、神々が自ら語った物語の形式を取っている。繰り返して歌われる節回しが特徴。

アイヌ神謡集
知里幸恵が祖母モナシノウクや叔母・金成マツから聞いていたアイヌの伝承「カムイユカラ」をまとめたもの。1922年9月に完成し、翌23年8月10日に郷土研究社から出版された。民俗学者・柳田国男のもとに金田一京助が話を持ち込むことで発行が決まった。現在、岩波文庫(赤版)から出版されており、書店などで入手可能。

知里幸恵
1903年北海道登別生まれ、7歳以降、旭川で過ごす。1922年「アイヌ神謡集」出版のために上京するも、心臓病が悪化し、同年東京の金田一家で死亡。アイヌ語と日本語の両方に通じる高い語学力を有し、祖母や叔母が語るアイヌの伝承を記録し、日本語に翻訳した。弟はアイヌ民族で初めて北海道大学の教授となった知里真志保。

金田一京助
1882年岩手県盛岡市出身。アイヌ語研究の第一人者。國學院大学教授を経て、東京帝国大学教授。1931年出版の「アイヌ叙事詩ユーカラの研究」で、学士院恩賜賞を受賞している。1971年没。

番組で使用したカムイユカラ(アイヌ語)について
うたは中本ムツ子さん。アイヌ神謡集に載録されたカムイユカラをうたったもの。CDは片山言語文化研究所が発行、草風館から発売されている。

オープニング松平氏コメント・ゲスト収録の場所「伝承のコタン」について
ゲストトークの収録場所は、北海道旭川市にある「アイヌ文化の森 伝承のコタン」。旭川市博物館の分館。ここのチセ(アイヌ民族の伝統家屋)は笹で葺かれているが、これは上川地方のチセの特徴。使用する材料は地方によって異なる。

幸恵の祖母について
登別で生まれた幸恵は、5〜6歳の頃、祖母・モナシノウクと二人で暮らしていた。モナシノウクはアイヌの伝承を多く記憶、幸恵はその影響を強く受けて育った。

蝦夷地
江戸時代、日本人(和人)がアイヌ民族の居住地を指して使った言葉で樺太・千島列島を含む。アイヌ(蝦夷・えぞ)の住む場所という意味で、和人の居住地を指した和人地の対語。ただし江戸時代末期に至っても、和人地は渡島半島に限られていた。アイヌ民族が自らの土地を指す場合には「アイヌモシリ(人間の静かな大地)」と呼んだ。

明治天皇の下問書について
1869(明治2)年5月21日、五稜郭開城で戊辰戦争が終了した3日後、蝦夷地開拓の大方針を決定する明治新政府の上局会議に明治天皇が下問した文書。

屯田兵について
北海道の開拓と警備に当たった兵士とその部隊。当初は困窮士族、後には農民出身者が多く送り込まれた。1874(明治7)年設置、1904(明治37)年廃止。

同化政策、引用している文字について
「文字も相学び候様」は1871(明治4)年開拓使により、アイヌ民族の伝統的な文化・風俗の禁止を厳達した文書より引用。死者が出たとき家を焼く風習、男子の耳環、女子の入れ墨などを禁止。日本語を学ぶよう指示している。
「従来の風習を洗除」は1876(明治9)年開拓使札幌本庁が管内のアイヌに出した同様の内容の文書より引用。ここではアイヌの伝統文化は陋習なので禁止し、アイヌを開明の民とすること、男子に耳環をさせたり、女子に入れ墨を施した場合は懲罰を科すと述べている。

開拓政策について
1872年「北海道土地売貸規則」「地所規則」で一人10万坪を上限に土地払い下げ。10年間に6万5000人の開拓民が流入。1877年「北海道地券発行条例」では富裕層を対象にさらに広大な土地払い下げが進められた。例えば華族たちによって設立された華族組合農場は1億5000万坪の払い下げ。1869年5万8000人だった北海道人口は明治末には170万人に膨れあがる。

開拓民の記録について
1882年静岡で結成され、帯広開拓に入った晩成社の報告書「北海道晩成社第三回報告書」より引用。

知里幸恵の生い立ちについて
1903年登別で生まれた知里幸恵は、5〜6歳を現在の登別市幌別で祖母モナシノウクとともに暮らす。その後、叔母・金成マツのもとに養女に入り、旭川でマツ、モナシノウクと3人で暮らす。

旧土人学校、旧土人の用語について
1878年開拓使は、本支庁あてにアイヌのことを「旧土人」と称するよう達しを出す。以後、アイヌに対する官庁側の呼称は「旧土人」となる。
1898年第13回帝国議会で可決、施行された「旧土人保護法」ではアイヌ児童のための小学校設置が定められた。こうして1901年から1912年までの間に21校が設置、一般に「旧土人学校」と称された。

紹介したカムイユカラについて
アイヌ語のカムイユカラは千歳市在住の中本ムツ子さん。日本語の朗読は上田早苗アナウンサー(NHK大阪)。アイヌ語のうたは「アイヌ神謡集」に載録されているカムイユカラ『梟の神が自ら歌った謡「コンクワ」』、日本語での朗読はその内容から一部を要約したもの。

金田一京助と知里幸恵のやりとりについて
金田一京助の回想などから構成。

北海道立図書館所蔵の知里幸恵ノートについて
北海道立図書館に知里幸恵直筆のノート4冊が残されている。復刻版がNPO法人知里森舎より発行されている。

幸恵の日記について
NPO法人知里森舎所蔵。東京時代に書かれたもので2冊現存している。

幸恵が見た都会の人々について
1922年6月9日付けで、幸恵が実父・知里高吉に宛てた手紙より要約して引用。

百貨店に関する記述について
6月14日の日付のある日記の記述より要約して引用。

幸恵の出版担当者に対する反発について
7月8日に担当者が訪ねてきた記述は日記にある。番組で使用した幸恵の独白は、7月12日付けの日記より要約して引用。

紹介したカムイユカラについて
アイヌ神謡集の一番最初に載録されている「梟の神の自ら歌った謡 銀の滴降る降るまわりに」。アイヌ語の歌は中本ムツ子氏。日本語朗読は上田早苗アナウンサー。幸恵が訳した文章の冒頭部分と最後の部分を引用。途中は一部を要約した。
幸恵は金田一に送ったノートのなかで、このカムイユカラについて「非常に聞いていると優しい感じがします。この節が私は大好きなのでございます」と唯一自分の好きな歌であることを特記している。

紹介した新聞記事について
1924年3月24日付け 読売新聞朝刊

写真を出して紹介したアイヌの人々について
違星北斗(1901−1929)
歌人、代表著作「違星北斗遺稿コタン」
バチェラー八重子(1884−1962)
歌人、代表著作「若き同族(ウタリ)に」
森竹竹市(1902−1976)
歌人、代表著作「原始林」
知里真志保(1909−1961)
言語学者・北海道大学教授・アイヌ語学専攻、幸恵の弟

アシリチェプノミ(鮭迎えの儀式)について
アシリチェプノミは1980年代以降、北海道各地で復活。番組で紹介しているのは、1996年登別で行われたもの。

先住民族の権利に関する宣言について
20年以上にわたる議論の末、2007年9月13日に国連総会で採択された「先住民族の権利に関する国際連合宣言」。

国会決議について
2008年6月6日衆参両院で採択された「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」。日本政府に対して、アイヌを先住民族と認め、総合的施策を行うよう求めたもの。

知里幸恵文学碑について
知里幸恵の暮らした家があったのは現在の旭川市立北門中学校の敷地。「知里幸恵文学碑」はそのすぐそば、北門中学の敷地内に1990年に建てられた。制作は彫刻家の空充秋氏。

番組で使用した資料
知里幸恵ノート:北海道立図書館所蔵
知里幸恵の写真:知里森舎所蔵
知里幸恵の日記:知里森舎所蔵
明治天皇の下問書:国立公文書館所蔵
同化政策の文字切り抜き「文字も相学び候様」「従来の風習を洗除」:開拓使事業報告(北海道立文書館)より
カムイユカラの音源:CD『「アイヌ神謡集」をうたう』中本ムツ子(うた)、片山言語文化研究所発行
アイヌの窮乏「漸次食絶え〜座して死を待つが如し」:北海道晩成社第三回報告書(帯広百年記念館)より
「旧土人学校」の写真:帯広百年記念館所蔵
金田一京助の写真:盛岡市先人記念館所蔵
百貨店の写真:三越所蔵
柳田国男の写真:藤田三男編集事務所所蔵
おもな参考文献
『アイヌ神謡集』知里幸恵(岩波文庫)
『知里幸恵遺稿 銀のしずく』(草風館)
『復刻版知里幸恵ノート』(知里森舎)
『銀のしずく降る降るまわりに』藤本英夫(草風館)
『知里幸恵 十七歳のウエペケレ』藤本英夫(草風館)
『金田一京助』藤本英夫(新潮選書)
『ユーカラの人びと』金田一京助(平凡社ライブラリー)
『アイヌ文化の基礎知識』アイヌ民族博物館監修(草風館)
『新版アイヌ政策史』高倉新一郎(三一書房)
『アイヌ民族の歴史』榎森進(草風館)
『アイヌ民族抵抗史』新谷行(三一書房)
『アイヌ民族と日本の歴史』宮島利光(三一書房)
『アイヌ史』(北海道ウタリ協会)
『別冊太陽 先住民アイヌ民族』(平凡社)
『アイヌの歴史と文化Ⅰ・Ⅱ』榎森進(創童社)
『アイヌの歴史と文化』(財団法人アイヌ民族博物館)
『アイヌ、神々と生きる人々』藤村久和(小学館ライブラリー)
『クスクップオルシペ 私の一代の話』砂沢クラ(北海道新聞社)
『焦らず挫けず迷わずに』荒井和子(北海道新聞社)
『先住民族の「近代史」』上村英明(平凡社)
『グローバル時代の先住民族』上村英明ほか(法律文化社)


アンコール
大奥 華(はな)にも意地あり
〜江戸城無血開城・天璋院篤姫〜

放送日
本放送 平成20年10月22日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
再放送 平成20年10月28日(火)※月曜深夜
03:30〜04:13 総合 全国(近畿除く)
平成20年10月28日(火)
16:05〜16:48 総合 全国
平成20年11月1日(土)
10:05〜10:48 総合 近畿のみ
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
スタジオゲスト 鈴木由紀子(すずき・ゆきこ)さん(作家)
著書『闇はわれを阻まず 山本覚馬伝』『大奥』『大奥の奥』
『義にあらず 吉良上野介の妻』『花に背いて 直江兼続とその妻』など
再現ドラマ出演天璋院役:岩崎ひろみ(いわさき・ひろみ)さん
(スターダスト・プロモーション所属)
和宮 役:吉井怜(よしい・れい)さん
(ホリ・エージェンシー所属)
インタビュー出演  原口泉(はらぐち・いずみ)さん(鹿児島大学教授)
日本近世・近代史。著書『かごしま歴史散歩』『かがやけ薩摩』
『鹿児島県の歴史』など
キャスター松平定知(まつだいら・さだとも)
番組概要
その時:慶応4年(1868)4月11日
出来事:天璋院の尽力により江戸城無血開城
明治維新直前、徳川家を滅ぼそうと江戸城に総攻撃を仕掛けてきた西郷隆盛を命がけで説得し、日本を戦火の危機から救った女性がいた。13代将軍正室・天璋院篤姫である。
実家・島津家の政治的使命を背負い薩摩から江戸城大奥に入った天璋院。しかし幕末の政治的混乱の中でその使命遂行は挫折し、さらに若くして夫・家定は病死してしまう。大奥の厳しい掟により夫の死後も故郷に帰れない天璋院は、同じく政略結婚の犠牲となって朝廷から嫁いできた14代将軍正室・和宮を支え、大奥を盛り立てていこうと決意する。
しかしこの頃幕府と薩摩藩との関係は次第に悪化、ついに薩摩は朝廷と組んで倒幕に立ち上がり、京都から大軍勢を率いて天璋院のいる江戸城へ進軍を開始した。
実家の裏切りに遭い、嫁ぎ先である幕府との間で板挟みとなってしまった天璋院は、この危機をどう乗り切るのか?番組では天璋院の西郷隆盛宛書簡など貴重な史料を紹介しながら、江戸城無血開城を影で支え、日本の近代化に大きく貢献した天璋院の知られざる戦いを描く。
また再現ドラマ部分では天璋院役に女優・岩崎ひろみさんが、和宮役を女優の吉井怜さんが演じる。
(初回放送は平成19年4月25日)
番組の内容について
「倒幕」「討幕」という言葉使いについて
歴史学的意味合いでは、倒幕運動は慶応3年10月の大政奉還、12月の王政復古の大号令を経て慶応4年(明治元年)4月11日の江戸城明け渡しで完成します。
番組内ではこの点を鑑み、慶応4年正月以降、江戸に向かってくる明治新政府軍に対しても「倒幕軍」という言い方をしております。
なお「倒幕」は幕府制度廃止一般を意味する広い概念であり、「討幕」は武力による幕政打倒を指します。

番組で紹介した天璋院の西郷宛書簡について
個人蔵のため所蔵元の連絡先等をお教えすることはできません。
書簡の写しが東京大学史料編纂所(東京都文京区本郷7−3−1電話:03−5841−5962)に保管されております。

主人公の呼称について
「篤姫」は島津斉彬の養子時代の名前であり、「天璋院」は夫・家定の死後僧籍に入って名乗った名前です。
他にも時期によって「敬子(すみこ)」「篤子(あつこ)」等いくつかの呼び名がありますが、最初に挙げた2つの名前が最も人口に膾炙しているため、番組では 夫を亡くすまでを「篤姫」、亡くして以後を「天璋院」と呼び方を統一し、VTRおよびスタジオの冒頭では両方の呼び方を並列しました。

大奥の女性の人数をおよそ千人と紹介していたが、3千人ではないのか?
かつては「後宮三千人」などといわれた大奥ですが、実際にはそこまでの人数はいなかったようです。
江戸時代中期に残された女中分限帳(大奥女性の名簿)の分析などから、実際の人数は1000人くらいであったろうといわれている説 [畑尚子『江戸奥女中物語』(講談社新書)] に拠りました。

篤姫が嫁入りの時に持参した掛け軸について
『薩州桜島真景図(さっしゅうさくらじましんけいず)』と呼ばれる画で、現在は徳川記念財団に保管されています。恒常的に展示はされておりませんが、展覧会などに出品されることがあります。
(徳川記念財団:電話03−5790−1110)

和宮が夫・徳川家茂の無事を祈ってお百度を踏んだと伝えられる仏像について
「黒本尊」と名付けられ、神奈川県箱根の阿弥陀寺に所蔵されています。見学可能です。
(阿弥陀寺:神奈川県足柄下郡箱根町塔之澤24  電話0460−5−5193)

徳川家茂死後の和宮の呼称について
夫・家茂の死後、和宮は徳川将軍家の通例に従い僧籍に入り、「静寛院宮(せいかんいんのみや)」と名乗ります。しかし今回の番組では混乱を避けるため和宮の方は呼称を「和宮」で統一いたしました。

増上寺の和宮の墓について
増上寺には徳川家6人の将軍と5人の正室、その他歴代将軍の子女多数が埋葬されており、和宮の墓もその中にあります。
墓所は普段は一般の立ち入りを許されておりませんが、各将軍の命日には法事が行われるため、その時には中に入ることができます。
(増上寺:〒105−0011 東京都港区芝公園4−7−35
 電話 03−3432−1431
 ホームページ http://www.zojoji.or.jp(NHKサイトを離れます))

和宮が病気療養に訪れ、生涯を終えた箱根の温泉について
和宮が亡くなったのは、箱根の塔之沢温泉にある『環翆楼』という旅館です。当時の建物はもうありませんが、旅館の中庭に死後まもなく建てられた追悼碑が残っており和宮が食事をとった食器などが残されています。
(環翆楼:神奈川県箱根町塔之澤88番地 電話0460−5−5511)

登場人物の言葉など
島津斉彬が養女・篤姫を評した言葉
「篤姫には忍耐力があり、人に接するのが巧みである」
幕末の福井藩主・松平慶永(よしなが)の記した『閑窓秉筆(かんそうへいひつ)』より引用し意訳。

篤姫輿入れの前夜、斉彬が娘に語った言葉
「将軍様が徳川慶喜のことをどのようにお考えなのかを探り、世継ぎ問題について直接話すように」
福井藩士・中根雪江が記した『昨夢記事(さくむきじ)』の中の斉彬の書状より引用し意訳。

篤姫が自分の輿入れについて語った言葉
「私が当家へ嫁ぐのはお父上の深きご思慮があってのことです」
『天璋院の西郷宛の書簡』より引用し意訳。

江戸城内での将軍家定の評判について
「将軍は年既に30を越えているが子供のようで 政務をとることができない」
幕末・明治期の学者・内藤耻叟(ちそう)が記した史書『安政紀事』より引用し意訳。

篤姫の大奥での徳川慶喜擁立工作の進捗状況について西郷が薩摩に報告した手紙
「大奥の女相手のことゆえ急速には運びかね、歯がゆい思いをしております」
『西郷の橋本左内宛の書簡』(安政5年正月19日付)より引用し意訳。
書簡の現物は福井市立郷土歴史博物館(福井県福井市宝永3丁目12-1 電話0776-35-2845)に保管されています。

大奥での慶喜工作の失敗について篤姫が語った言葉
「このような一大事を承りながら状況を変えられず、私は口惜しくてなりません」
福井藩士・中根雪江が記した『昨夢記事(さくむきじ)』の中の篤姫の書状より引用し意訳。

天璋院(篤姫)が薩摩の赤味噌を送ってくれるよう頼んだ言葉
「ふるさとの赤味噌を送ってもらってください。薩摩の味噌でないと食べることができません。」
『薩摩藩奥女中文書』より引用し意訳

輿入れ前の和宮が幕府に出した要望
「天璋院を大奥から出し、別の建物に住まわせて下さい」
万延元年に朝廷から幕府へ示された『朝旨十二條』より引用し意訳。

和宮について天璋院が述べた言葉
「和宮様の世話をしたいと思うのですが、京都出身の女中達から風儀の違いを笑われ、なかなか思うようにいきません」
『静寛院宮御文通留』所収の和宮の書状より引用し意訳。

京都滞在中の将軍家茂へ天璋院が書いた書状について
「早く御所をおいとまし無事にお戻り下さい。色々と難しい時期ですので、よくあとさきを考え、何事もうかつになさいませんよう、よくよくお気をつけ下さい」
『天璋院家の茂宛書状(文久3年4月下旬〜5月)』より引用し意訳。
書簡の現物は財団法人徳川記念財団(電話03−5790−1110)に保管。恒常的に展示はされておりませんが、展覧会などに出品されることがあります。

鳥羽伏見の戦い以後の状況を心配する天璋院の言葉について
「私は当惑し、心を痛めております。日夜安んじて食事をとることも眠ることもできません」
『天璋院の西郷宛の書簡』より引用し意訳しました。

徳川慶喜の朝廷への嘆願を拒絶する西郷隆盛の言葉
「慶喜を穏やかに引退させよとの嘆願、はなはだもって不届き千万。ここは断然、慶喜を追討しなければならない」
『西郷隆盛の大久保利通に宛て書状(慶応4年2月2日付)』より引用し意訳。
この書状の現物は国立歴史民俗博物館に保管されています。
(国立歴史民俗博物館:千葉県佐倉市城内町117 電話03-5777-8600)

江戸城内の家臣たちを説得する和宮の言葉
「ただただ神君家康公以来の徳川家の家名が立つよう謹慎を続けるように。抵抗さえしなければ徳川家が滅ぶことはないのです」
『静寛院宮御日記』(明治元年3月18日)より引用し意訳。現物は宮内庁書陵部に保管されています。

江戸城からの退去を求める幕臣たちに対し、天璋院が応じた言葉
「一歩でもここは出ません。もし無理にお出しになれば、自害します」
『勝海舟全集・第20巻 海舟語録』より引用し意訳。

勝海舟が天璋院を評した言葉
「天璋院の人となりは貞婦というか烈婦と申そうか、実に類い希なるお方である」
『勝海舟全集・第22巻 秘録と随想』より引用し意訳。

天璋院の西郷への嘆願の言葉
「今、国家の形勢はいかばかりかと朝夕心配しております。私は女で無力ですが、徳川に嫁ぎました以上は徳川家の土となり、この家が安全に永らえることを願ってやみません。悲嘆の心中をお察しいただき、私の一命にかけ、何卒お頼み申し上げます。」
『天璋院の西郷宛の書簡』より引用し意訳。

天璋院の和宮にまつわる記述
「塔ノ沢で和宮が亡くなった建物を見た。胸がふさがり、懐旧の涙が袖をしぼるほどあふれるのを、私は抑えることができなかった」
『熱海箱根湯治日記』より引用し意訳。
日記の現物は徳川記念財団に保管されています。恒常的な展示はされておりませんが、展覧会などで 展示されることがあります。

天璋院が和宮の思い出を歌った和歌
「君が齢(よわい) とどめかねたる早川の 水の流れも うらめしきかな」
『熱海箱根湯治日記』より引用。

番組で登場した肖像の所蔵先について
天璋院 肖像画(川村清雄 筆)財団法人 徳川記念財団蔵
天璋院 肖像写真(エピローグに登場)  尚古集成館蔵
静寛院宮(和宮)肖像写真財団法人 徳川記念財団蔵
徳川家定 肖像画財団法人 徳川記念財団蔵
徳川家茂 肖像画財団法人 徳川記念財団蔵
徳川慶喜 肖像画松戸市戸定歴史館蔵
島津斉彬 肖像画尚古集成館蔵
西郷隆盛 肖像画鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵
岩倉具視 肖像写真財団法人 岩倉公旧蹟保存会 蔵
勝海舟 肖像写真個人蔵
参考文献
『鹿児島史話』(芳即正・著 高城書房 2006)
『日本歴史 1994年4月号』(日本歴史学会・編集 吉川弘文館 1994)
『人物叢書 和宮 新装版』(武部敏夫・著 吉川弘文館 1985)
『徳川将軍家の結婚』(山本博文・著 文藝春秋 2005)
『久能山東照宮博物館研究紀要 創刊号』(久能山東照宮博物館 1987)
『天璋院 薩摩の篤姫から御台所』(展覧会図録)(松平乗昌・監修 1995)
『皇女和宮 幕末の朝廷と幕府』(展覧会図録)(江戸東京博物館・編 1997)
『徳川将軍家と会津松平家』(展覧会図録)(福島県立博物館・編 2006)
『徳川家茂とその時代 若き将軍の生涯』(展覧会図録)(徳川記念財団・編 2007)
『幕末の大奥』(高柳金芳・著 雄山閣 1974)
『大奥の奥』(鈴木由紀子・著 新潮社 2006)
『江戸奥女中物語』(畑尚子・著 講談社 2001)
『人物事典 江戸城大奥の女たち』(卜部典子・著 新人物往来社 1988)
『幕末維新の個性 西郷隆盛と士族』(落合弘樹・著 吉川弘文館 2005)
『幕末維新の個性 岩倉具視』(佐々木克・著 吉川弘文館 2006)
『戊辰戦争 敗者の明治維新』(佐々木克 中央公論社 1977)
『西郷隆盛 維新前夜の群像』上・下(井上清 中央公論社 1970)
『鹿児島県史料 斉彬公史料』(鹿児島県維新史料編纂所・編 1981〜84)
『静寛院宮御日記(続・日本史籍協会叢書)』(東京大学出版会 1976)
『孝明天皇紀』(宮内庁所蔵版 1967〜69)
『孝明天皇実録 第2巻』(藤井譲治 吉岡真之・編 ゆまに書房 2006)
『勝海舟全集』(講談社 1973〜94)
『西郷隆盛全集』(大和書房 1976〜80)
ほか
※絶版になっているものもありますので、書店・出版社にご確認ください。


第341回
「源氏物語」誕生
〜名作に秘められた奇跡〜

放送日
本放送 平成20年10月29日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
再放送 平成20年11月4日(火)※月曜深夜
03:30〜04:13 総合 全国(近畿除く)
平成20年11月8日(土)
10:05〜10:48 総合 近畿のみ
平成20年11月9日(日)
10:00〜 BS2「あなたのアンコール サンデー」番組内
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
スタジオゲスト   伊井春樹(いい・はるき)さん【国文学研究資料館館長】
VTR出演 原田敦子さん(はらだ・あつこ)さん【大阪成蹊短期大学名誉教授】
藤本孝一さん(ふじもと・こういち)さん【写本学研究者】
再現映像出演紫式部役  坂本真衣(さかもと・まい)さん【NAC】
藤原道長役 中村扇雀(なかむら・せんじゃく)さん
【ブルーミングエージェンシー】
朗読上田早苗(うえだ・さなえ)アナウンサー
人形舞ホリ・ヒロシ さん
キャスター松平定知(まつだいら・さだとも)
番組概要
その時:寛弘5(1008)年11月17日
出来事:「源氏物語」が一条天皇に献上される
およそ千年前に書かれ、世界最古の長編小説とされる「源氏物語」。時代を超えて読む者を共感させる恋愛描写と、宮中の政治抗争などのリアルな描写は、なぜ生まれたのか?それは、作者・紫式部の数奇な人生と文才、そして当時の時代状況が絶妙にからみあった奇跡の産物だった。
「源氏物語」誕生の秘密を、紫式部の恋と悲しみの生涯と「源氏物語」の名場面を中心に、藤原道長の権力抗争を交えながら描く。
番組の内容について
「源氏物語千年紀」ついて
番組では”今年が「源氏物語」が世に確認されて1000年という節目の年”と紹介しています。
「紫式部日記」の寛弘5(1008)年11月1日の条に、歌人・藤原公任(ふじわらのきんとう)が「あなかしこ このわたりに 若紫や さぶらふ」と語ったという記述があります。“若紫”という名前が「源氏物語」に登場するヒロインの幼少期の呼び名であることから、この記述が「源氏物語」の存在を示す最古のものとされ、この日付から数えて、今年でちょうど千年経つことから「千年紀」と呼ばれています。
現在「源氏物語千年紀委員会」が組織され様々な催しが開かれています。詳しくはhttp://www.2008genji.jp/(NHKサイトを離れます)
尚、寛弘5年11月1日は厳密には西暦では1008年12月1日となりますが、番組では全て西暦は学校教科書の表記にならい和暦の補助的な意味合いで使用しています。

東儀秀樹さんのコンサートについて
「光源氏 さかさまに行かぬ年月よ〜美しき男たちの『源氏 音かたり』〜」というコンサートです。
千年紀のイベントの一つとして紹介しました。各界のトップアーティストによるコラボーレーションによる舞台ですが、次回公演の予定はありません。

横浜美術館の展覧会について
「特別展 源氏物語の1000年 あこがれの王朝ロマン」という展覧会です。「源氏絵」や紫式部にまつわる絵画を中心に国宝や重要文化財、重要美術品が展示されています。会期は、平成20年11月3日(月・祝)まで。
開館時間:午前10:00〜午後6時(金曜日は午後8時まで)入館は閉館の30分前
休館日:木曜日
詳しくはhttp://www.yaf.or.jp/yma/index.php(NHKサイトを離れます)

「その時」について
番組では、寛弘5(1008)年11月17日を、「源氏物語」が一条天皇に献上された日と設定しています。
「紫式部日記」の記述では、この11月17日は、出産で里帰りしていた中宮・彰子が内裏に戻る還啓の日です。また日記には、11月1日以降、天皇に献上するための「源氏物語」の製本が慌ただしく行われた様子が細かく記述されています。そのため製本作りは、この還啓の日に間に合わせるために行われたと考えられています。また国文学研究資料館館長の伊井春樹氏や紫式部研究の第一人者・故今井源衛氏も、製本された「源氏物語」は中宮のお土産品だったと想定しているため、伊井氏の助言も受け番組では11月17日の還啓の日を献上の日とし、「その時」としました。

紫式部の年齢について
紫式部の生没年は不明です。今回は、紫式部研究の第一人者・今井源衛氏の説「天祿元年(970年)のころの生まれ」を元に番組を構成しています。

源氏物語の概要について
枚数…国文学研究資料館館長伊井春樹氏の「源氏物語」の写本の研究によると、四百字詰めの原稿用紙に換算するとおよそ 2300枚になるといわれています。
登場人物数…明治の国文学者・池田亀鑑氏の研究によると登場人物は、名前や役職名がついた人に、家来や名もない女房も合わせると、およそ400人以上になるといわれています。

「紫式部日記」「紫式部集」について
紫式部の個人史や人物像を知るには彼女が残したとされる「紫式部日記」と歌集「紫式部集」があります。
今回、番組では「新潮日本古典集成・山本利達校注」の「紫式部日記」「紫式部集」を参考にしました。

偽の陰陽師について
番組で、式部が10代の頃に和歌に詠んだ風景として、怪しげな僧侶がお祓いをしている場面が登場します。これは、「坊主頭に紙を三角形に折った冠を額につけ、御幣を振り回し、陰陽師の真似事をしていた」というを「紫式部集」の和歌の注釈を元に再現しました。当時、毎月一日には、陰陽師が「上巳(じょうし)の祓え」を行っていましたが、法師も内職として陰陽師の真似事をする者が現れていました。

父親との越前の国守赴任について
紫式部の有名なエピソードとして「結婚する前に国守となった父とともに越前に赴く」というものがありますが、番組では、この部分は時間の制約や全体構成を鑑み省略しています。

定子と清少納言について
番組では藤原道長の政治的ライバル・藤原伊周(これちか)が登場します。その伊周の妹・定子は、一条天皇に嫁いだ最初の后です。その定子に仕えたのが「枕草子」を書いた清少納言です。この後、定子は若くして崩御し、その後を追うように清少納言も宮中から身を引きます。ところが宮中内において、二人の威光は消えておらず、道長は、その姿なき二人に対抗するために紫式部を登用したのです。紫式部が宮中に出仕したときには、すでに二人はいなかったことになりますが、この時間差については、番組の中では逆に混乱を招くため省略しています。

宇治十帖について
四十五帖の「橋姫巻」から五十四帖の「夢浮橋巻」までの十帖が、「宇治十帖」と呼ばれています。光源氏の死後、その子孫たちが登場します。その一人が光源氏の正妻となった女三宮に生まれた息子・薫。実は、薫は、女三宮と権中納言の息子・柏木との不義の子ですが、光源氏はそのことを知りながらも自分の子として育てていきます。そしてもう一人、匂宮は、光源氏と明石の君の間に生まれた姫が今上帝に入内して生まれた皇子。つまり光源氏から見れば、孫にあたります。この二人が、浮舟という女性を巡り三角関係の愛憎劇を展開します。よって番組では「光源氏の死後、源氏の息子と孫が一人の女性を巡り争う物語が展開します」と表現しています。

番組で紹介した和歌や言葉
※一部要約、現代語訳にして引用しています
紫式部の父親が嘆いた言葉
「お前が男でなかったことが 我が家の不運」
(原文)口惜しう、男子にて(中略)幸なかりけれ
『紫式部日記』より

紫式部が十代の頃詠んだとされる和歌
「はらへどの 神のかざりの みてぐらに うたてもまがふ 耳はさみかな」
「お坊さんが内職のために、本来は出来ない陰陽師の真似をして、お祓いをし、礼金を受け取っています。なんと、あさましいことでしょう」
『紫式部集』より

方違えで訪れた男が紫式部の寝室に忍び込んできた翌朝の和歌
「おぼつかな それかあらぬか あけぐれの そらおぼれする 朝顔の花」
「あなたが契りを結んだのは、私と知ってのことですか、それとも誰かと間違えたのでしょうか、本当はどちらなのですか」
『紫式部集』より

紫式部の夜離(よが)れに苦しむ時の和歌
「晩秋の頃、あなたに飽きられている私の悲しみを思ってください
 あなたの心が月のように美しい女性に奪われているとしても」

(和歌)おほかたの 秋のあはれを 思ひやれ 月に心は あくがれぬとも
『紫式部集』より。番組では現代語訳のみ紹介。

夫を亡くしたときの式部の日記
「未亡人として、当てのない将来を心細く思い、その日その日の
 悲しさを紛らわすために、はかなき物語を書いております」

(原文)行くすゑの心ぼそさはやるかたなきものから はかなき物語
『紫式部日記』より

源氏物語・夕顔巻 急死した夕顔を偲んで詠んだ光源氏の和歌
「見し人の けぶりを雲と眺むれば 夕べの空も むつましきかな」
「恋しい人を葬った煙。もしやあの雲かと眺めていると 淋しい夕暮れの空もなつかしくて」
瀬戸内寂聴訳『源氏物語』より

紫式部の亡き夫を偲んで詠んだ和歌
「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」
『紫式部集』より

源氏物語 夕顔巻 六条御息所が夜離れで苦しむ様子
「淋しい独り寝の眠れない夜毎には、さまざまな悲しい思いが胸にせめぎあい
 しおれきっていらっしゃるのでした」

瀬戸内寂聴訳『源氏物語』より

源氏物語 帚木巻 方違えで泊まった光源氏と関係をもった空蝉の和歌
「こんなかりそめの浮き寝めいた一夜のはかない情事だと思いますと
 これ以上の悲しみはありません」

瀬戸内寂聴訳『源氏物語』より

紫式部が宮中にのぼった時の言葉
「いみじくも夢路にまどわれし(かな)」
『紫式部日記』より

宮仕えで出仕したものの、すぐに実家に下がったときの式部の和歌
「宮仕えに出ても、私の嘆きは晴れることがなく、逆にあれこれと
 心が乱れてしまいます」

(和歌)身のうさは 心のうちに したひきて いま九重ぞ 思ひ乱るる
『紫式部集』より

紫式部が再び宮中生活に復帰する際にとった手段の記録
「漢字の「一」の字でさえ、書けない者のように振る舞いました」
(原文)いちという文字をだに書きわたしはべらず
『紫式部日記』より

回りの女房たちとうちとけた時の女房の発言
「物語好きで 気取り屋で 人を見下す人だと憎んでおりましたが
 実際に付き合ってみると、まるで別人」

(原文)物語このみよしめき(中略)人を人とも思はず(中略)こと人かとなむおぼゆる
『紫式部日記』より

「源氏物語」を読んだ一条天皇の言葉
「この作者は 真に才能のあるものだ」
(原文)さえあるべし
『紫式部日記』より

「源氏物語」が献上された頃の式部の沈んだ思い
「ためしに物語を手にしますが 以前のように面白くありません
 嘆かわしいことです」

(原文)こころみに 物語をとりて見れど 見しやうにもおぼえず あさましく
『紫式部日記』より

紫式部が「源氏物語」に込めた物語への思い
「出来事を連ねた歴史書の中には、物事の真実はありません
 むしろ物語の中にこそ、人の真実が隠されているのです」

『源氏物語』より

番組で紹介した資料について
「源氏物語 五十四帖」「紫式部日記」国文学研究資料館
「長恨歌」「史記」「白氏文集」「文選」国立公文書館
「海外の翻訳本」京都外国語大学付属図書館
「紫式部集」大阪市立大学学術情報総合センター 
「紫式部肖像」 石山寺
「清少納言肖像」東京国立博物館 Image:TNM Image Archives
「藤原俊成肖像」冷泉家時雨亭文庫
「藤原道長肖像」藤田美術館
「徳川家康肖像」大阪城天守閣
「塩釜の風景」宮城県塩竈市 
「色紙」   坂田墨珠堂
「あさきゆめみし」大和和紀 講談社
主な参考文献
『紫式部』(今井源衛 吉川弘文館)
『源氏物語の謎』(伊井春樹 三省堂選書)
『源氏物語論とその研究世界』(伊井春樹 風間書房)
『源氏物語を学ぶ人のために』(伊井春樹 世界思想社)
『源氏物語を読み解く100問』(伊井春樹 NHK出版)
『紫式部伝』(斉藤正昭 笠間書院)
『源氏物語入門』(編集委員会編 角川選書)
『紫式部日記 紫式部集』(新潮日本古典集成)
『紫式部日記』(小谷野純一 笠間書院)
『源氏物語 六条院の生活』(光琳社出版)
『源氏物語の時代』(山本淳子 朝日新聞社)
『藤原道長』(山中裕 吉川弘文館)
『源氏物語 全巻十』(瀬戸内寂聴 講談社)
『面白いほどよくわかる源氏物語』(大塚ひかり 日本文芸社)
ほか
※絶版になっているものもありますので、書店・出版社にご確認ください。

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