カムイユカラ
アイヌ民族の「口承叙事詩」。アイヌの英雄譚であるユカラとは区別され、神々が自ら語った物語の形式を取っている。繰り返して歌われる節回しが特徴。
アイヌ神謡集
知里幸恵が祖母モナシノウクや叔母・金成マツから聞いていたアイヌの伝承「カムイユカラ」をまとめたもの。1922年9月に完成し、翌23年8月10日に郷土研究社から出版された。民俗学者・柳田国男のもとに金田一京助が話を持ち込むことで発行が決まった。現在、岩波文庫(赤版)から出版されており、書店などで入手可能。
知里幸恵
1903年北海道登別生まれ、7歳以降、旭川で過ごす。1922年「アイヌ神謡集」出版のために上京するも、心臓病が悪化し、同年東京の金田一家で死亡。アイヌ語と日本語の両方に通じる高い語学力を有し、祖母や叔母が語るアイヌの伝承を記録し、日本語に翻訳した。弟はアイヌ民族で初めて北海道大学の教授となった知里真志保。
金田一京助
1882年岩手県盛岡市出身。アイヌ語研究の第一人者。國學院大学教授を経て、東京帝国大学教授。1931年出版の「アイヌ叙事詩ユーカラの研究」で、学士院恩賜賞を受賞している。1971年没。
番組で使用したカムイユカラ(アイヌ語)について
うたは中本ムツ子さん。アイヌ神謡集に載録されたカムイユカラをうたったもの。CDは片山言語文化研究所が発行、草風館から発売されている。
オープニング松平氏コメント・ゲスト収録の場所「伝承のコタン」について
ゲストトークの収録場所は、北海道旭川市にある「アイヌ文化の森 伝承のコタン」。旭川市博物館の分館。ここのチセ(アイヌ民族の伝統家屋)は笹で葺かれているが、これは上川地方のチセの特徴。使用する材料は地方によって異なる。
幸恵の祖母について
登別で生まれた幸恵は、5〜6歳の頃、祖母・モナシノウクと二人で暮らしていた。モナシノウクはアイヌの伝承を多く記憶、幸恵はその影響を強く受けて育った。
蝦夷地
江戸時代、日本人(和人)がアイヌ民族の居住地を指して使った言葉で樺太・千島列島を含む。アイヌ(蝦夷・えぞ)の住む場所という意味で、和人の居住地を指した和人地の対語。ただし江戸時代末期に至っても、和人地は渡島半島に限られていた。アイヌ民族が自らの土地を指す場合には「アイヌモシリ(人間の静かな大地)」と呼んだ。
明治天皇の下問書について
1869(明治2)年5月21日、五稜郭開城で戊辰戦争が終了した3日後、蝦夷地開拓の大方針を決定する明治新政府の上局会議に明治天皇が下問した文書。
屯田兵について
北海道の開拓と警備に当たった兵士とその部隊。当初は困窮士族、後には農民出身者が多く送り込まれた。1874(明治7)年設置、1904(明治37)年廃止。
同化政策、引用している文字について
「文字も相学び候様」は1871(明治4)年開拓使により、アイヌ民族の伝統的な文化・風俗の禁止を厳達した文書より引用。死者が出たとき家を焼く風習、男子の耳環、女子の入れ墨などを禁止。日本語を学ぶよう指示している。
「従来の風習を洗除」は1876(明治9)年開拓使札幌本庁が管内のアイヌに出した同様の内容の文書より引用。ここではアイヌの伝統文化は陋習なので禁止し、アイヌを開明の民とすること、男子に耳環をさせたり、女子に入れ墨を施した場合は懲罰を科すと述べている。
開拓政策について
1872年「北海道土地売貸規則」「地所規則」で一人10万坪を上限に土地払い下げ。10年間に6万5000人の開拓民が流入。1877年「北海道地券発行条例」では富裕層を対象にさらに広大な土地払い下げが進められた。例えば華族たちによって設立された華族組合農場は1億5000万坪の払い下げ。1869年5万8000人だった北海道人口は明治末には170万人に膨れあがる。
開拓民の記録について
1882年静岡で結成され、帯広開拓に入った晩成社の報告書「北海道晩成社第三回報告書」より引用。
知里幸恵の生い立ちについて
1903年登別で生まれた知里幸恵は、5〜6歳を現在の登別市幌別で祖母モナシノウクとともに暮らす。その後、叔母・金成マツのもとに養女に入り、旭川でマツ、モナシノウクと3人で暮らす。
旧土人学校、旧土人の用語について
1878年開拓使は、本支庁あてにアイヌのことを「旧土人」と称するよう達しを出す。以後、アイヌに対する官庁側の呼称は「旧土人」となる。
1898年第13回帝国議会で可決、施行された「旧土人保護法」ではアイヌ児童のための小学校設置が定められた。こうして1901年から1912年までの間に21校が設置、一般に「旧土人学校」と称された。
紹介したカムイユカラについて
アイヌ語のカムイユカラは千歳市在住の中本ムツ子さん。日本語の朗読は上田早苗アナウンサー(NHK大阪)。アイヌ語のうたは「アイヌ神謡集」に載録されているカムイユカラ『梟の神が自ら歌った謡「コンクワ」』、日本語での朗読はその内容から一部を要約したもの。
金田一京助と知里幸恵のやりとりについて
金田一京助の回想などから構成。
北海道立図書館所蔵の知里幸恵ノートについて
北海道立図書館に知里幸恵直筆のノート4冊が残されている。復刻版がNPO法人知里森舎より発行されている。
幸恵の日記について
NPO法人知里森舎所蔵。東京時代に書かれたもので2冊現存している。
幸恵が見た都会の人々について
1922年6月9日付けで、幸恵が実父・知里高吉に宛てた手紙より要約して引用。
百貨店に関する記述について
6月14日の日付のある日記の記述より要約して引用。
幸恵の出版担当者に対する反発について
7月8日に担当者が訪ねてきた記述は日記にある。番組で使用した幸恵の独白は、7月12日付けの日記より要約して引用。
紹介したカムイユカラについて
アイヌ神謡集の一番最初に載録されている「梟の神の自ら歌った謡 銀の滴降る降るまわりに」。アイヌ語の歌は中本ムツ子氏。日本語朗読は上田早苗アナウンサー。幸恵が訳した文章の冒頭部分と最後の部分を引用。途中は一部を要約した。
幸恵は金田一に送ったノートのなかで、このカムイユカラについて「非常に聞いていると優しい感じがします。この節が私は大好きなのでございます」と唯一自分の好きな歌であることを特記している。
紹介した新聞記事について
1924年3月24日付け 読売新聞朝刊
写真を出して紹介したアイヌの人々について
違星北斗(1901−1929)
歌人、代表著作「違星北斗遺稿コタン」
バチェラー八重子(1884−1962)
歌人、代表著作「若き同族(ウタリ)に」
森竹竹市(1902−1976)
歌人、代表著作「原始林」
知里真志保(1909−1961)
言語学者・北海道大学教授・アイヌ語学専攻、幸恵の弟
アシリチェプノミ(鮭迎えの儀式)について
アシリチェプノミは1980年代以降、北海道各地で復活。番組で紹介しているのは、1996年登別で行われたもの。
先住民族の権利に関する宣言について
20年以上にわたる議論の末、2007年9月13日に国連総会で採択された「先住民族の権利に関する国際連合宣言」。
国会決議について
2008年6月6日衆参両院で採択された「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」。日本政府に対して、アイヌを先住民族と認め、総合的施策を行うよう求めたもの。
知里幸恵文学碑について
知里幸恵の暮らした家があったのは現在の旭川市立北門中学校の敷地。「知里幸恵文学碑」はそのすぐそば、北門中学の敷地内に1990年に建てられた。制作は彫刻家の空充秋氏。 |