福島正則が改易を受け入れた日を6月14日としたこと
正則は、改易通知に対して返書を認めているが、この日付が6月14日であること、また広島城にいる家臣に対しても、この日付で改易を受け入れる旨の手紙を記していることによります。
この文書は、ともに東京大学史料編纂所「福島略系」に収められています。
松平キャスターのコメント「福島正則の態度如何によっては、徳川時代はどうなるか分からない」とは
ゲストの笠谷和比古氏によれば、正則を改易処分にすることに対して、本多正純ら幕閣は、正則ならびに正則の家臣が広島城に拠って武装蜂起する可能性があり、またそれによって複数の西国大名が連鎖的に挙兵する可能性があるとして、反対をしたとされます。一方で、将軍・秀忠は自身に目立った武功がなく、諸大名の間で万全の心服を得ていたとは云いがたかったのです。そのような状況下で正則が蜂起すれば、再び戦乱の世に戻ってしまう可能性も、ないわけではありませんでした。
そこを指して、「徳川時代はどうなるか分からない」としています。
スタジオ中の右下サブタイトルスーパーに関して
サブタイトルの下の模様は、福島家の家紋の一つ「中貫十文字」をイメージしたものです。
「中貫十文字」は、正則が名古屋城普請をした際に掘削した、名古屋・堀川にかかる納屋橋にも、正則の徳を讃えるために掲げられています。
「賤ヶ岳の七本槍」について
「賤ヶ岳の七本槍」とは誰なのか、に関しては諸説ありますが、たとえば吉川弘文館版の『国史大辞典』では「七本槍」を加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋則武・石川一光・片桐且元にして、福島正則を別格扱いにしています。また、番組内で使用している大阪城天守閣蔵の「賤ヶ岳合戦図屏風」では、一ヶ所にまとまって描かれている七人には、前記の石川一光の代わりに、櫻井左吉が入っています。
一方で、福尾猛市郎氏・藤本篤氏の『福島正則 最後の戦国武将』では、「賤嶽合戦記」をもとに、前記の石川・櫻井の代わりに福島正則を含めて「七本槍」としており、さらには京都大学蔵の「福島文書」ならびに「盈筐録」を引用して、正則を戦死した石川の代わりに七本槍に含めたことを確定させています。
またこのとき、正則は他の六人が3000石を得たのに対して、5000石を得ており、こうしたことを元に、正則を「七本槍」の一人であり、なおかつ「筆頭」であるとしました。
正則にあてた感状について
「一番槍、その働き比類無く候」
天正11年6月5日付の、秀吉から正則への感状を兼ねた宛行状。この文書は、京都大学に収められています。
正則の出生について
正則の出生に関しては、『寛政重修諸家譜』『福島氏世系之図』など諸資料により、尾張国海東郡二寺村(現在の愛知県美和町二ツ寺)にて、永禄4年に生まれたことが類推されます。番組で登場した生誕之碑は、現在も美和町二ツ寺にあります。
また、秀吉との関係に関しては、『寛政重修諸家譜』には、秀吉の父の妹が母であるとされ、『福島氏世系之図』には、母は秀吉公伯母とあり、諸説あるため、「一説には」「従兄弟にあたる」としています。
また、いつから秀吉の下で育てられたかに関しても諸説ありますが、『寛政重修諸家譜』では「幼稚より豊臣太閤につかへ」、『福島氏世系之図』では「幼年より秀吉公扈従たり」などあり、そこから、秀吉に「育てられたと云われます」としています。
秀吉の天下統一と正則の大名就任
秀吉の天下統一は『国史大辞典』に記載された「天正18年8月、関東・奥羽の大名領知を確定し(略)天下統合を終えた」によっています。一方、正則は京都大学蔵の「福島文書」にある朱印状によれば、天正15年9月5日付で、伊予国内で11万石余を与えられており、ここから「四国・伊予の大名」になったとしました。
秀次切腹と正則について
『国史大辞典』によれば、関白職を解かれた秀次が、高野山で切腹させられたのは文禄4年7月15日。これに関して、「日本外史」では「福島正則を遣わし、就きて死を賜う」とあります。
またこの時の正則の行動については、『美和町史』が「聚楽物語」を引用して「御様かわりたるを見奉り涙を流し」としています。
石田三成による「家康は、豊臣家に取ってかわり、天下を我が物にしようとしている」について
この文章は、慶長5年7月17日付で、石田三成率いる大坂方勢力が、豊臣家三奉行の連名の添え状とともに諸大名に出した「内府ちがいの条々」13ヶ条をもとに意訳したものです。曰く「五大老の連署で処理すべき政務を、家康一人で専断のこと」また、添え状の「太閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ」など。
小山の軍議での家康「三成につくのか、それとも自分につくのか」、正則「徳川殿に味方し秀頼公に害をなす三成を討ち取ろう」について
この文章は、『東照宮御實紀付録巻九』にある、家康が「けふは味方見えしも、あすは敵とならんこと珍しからず。されば今人々大坂へ返られんとも、家康など怨を挟むべき」と云い、「そのとき何れもとこうの御答もせざるうちに」、正則が「内府の仰はるる事なれども、此の度のこと三成が計より出でて、天下を乱さんとするにまがひなし」「正則に於いては内府の味方してかの凶徒を誅戮せん」と云ったとする一文を意訳したものです。
正則の与えられた安芸備後49万石に関して
黒田基樹氏の『慶長期大名の氏姓と官位』によれば、安芸・備後の知行高が49万石というのは、正則の検地を踏まえ元和3年に確定されたもので、正確には49万8千2百23石。正則が安芸備後を拝領した時点での石高は、毛利氏検地による40万2千石が本来ですが、一般に『福島正則 最後の戦国武将』などで用いられる安芸備後の石高・49万石を番組でも使用しました。
また、正則が安芸備後を拝領したのは慶長5年のことですが、広島城に入ったのは「福島一代記」にある慶長6年の3月としました。
正則の業績と広島城下・港
正則が広島に入る前の図面は、山口県文書館蔵の「芸州広島城町割之図」で毛利家が広島を退去する前のもの、正則が入った後の広島の図面は、広島文化財団広島城蔵の「寛永年間広島城之図」で正則が広島を去った直後のものです。CGで色をつけたのは、地図の中の町家部分で、『広島県史』によれば、「かつて町人町は(中略)川筋に沿って南北に長い町割りが割り当てられていたに過ぎなかった」が、正則は、「毛利氏時代に倍して町家の区域を拡大し」西国街道沿いや川沿い一帯を「町屋敷として商業の繁栄をはかった」とあります。
また、CGで港として点滅するのは広島と鞆・下蒲刈で、同じ『広島県史』には、正則は公式の海駅であった鞆に支城を築き、下蒲刈には船着きの利便をはかって長雁木を築かせたとあり、さらに海辺の諸浦に水主役の負担として年に大坂上下二回を命じるなど、大坂を視野に入れて海運を盛んにしたことが記されています。
名古屋城普請の際の正則・清正の発言
番組で引用した文献は「台徳院殿御実記」。
二条城会見での正則の対応について
二条城会見における正則と清正、ならびに浅野幸長の行動に関しては、『廣島市史』に引用された「浅野家譜」では「加藤清正・浅野幸長、秀頼に陪臣す、二人少時も其の側を去らずして之を護衛」し、一方で「正則は兵一萬を督して大坂城に留衛す」とあるところから、「大坂城で1万の兵と待機」としました。
清正死後の正則の決意とその行動について
清正の死後、方広寺鐘銘事件をきっかけに、急速に豊臣−徳川の関係が険悪になる中、正則は自らが使者となり大坂へ向かうことを願い出たり(「台徳院殿御実紀」)、後述のような諫書を秀頼へ宛てて送ったりして平和的解決をめざす一方、福島家の大坂屋敷の兵糧8万石を大坂方の求めに応じて接収するままに任せたり(「当代記」)、国許の家老へ「嗣子忠勝を援けて大坂に応ずべし、秀頼公の志を得たわまれば、我死すとも恨みなし」との手紙を送ったり(「尾三史話」)など、大坂方への心情的参戦をしています。
正則の大坂への手紙「すみやかに家康に従って欲しい」について
番組で引用した文献は「台徳院殿御実記」。この時、正則が書いた手紙の実物は残っていませんが、これによれば「この度の秀頼の考えは、まさに天魔の所為とするべきである。速やかに反心を翻され、これまでの不義を謝せられるため、淀殿には江戸・駿府に参向して住居されるべきである」「どうか淀殿・秀頼公御母子が御心を改め、御過ちを悔いたまい、正に順い長く国家長久のお計らいあるべきである」と云う内容の諫書を送ったとしており、これを意訳したものです。
正則の家臣への手紙「死に申たる同前」について
正則から広島城にいた家老・福島正澄への手紙をそのまま使用しています。正確には「我等事(か様に江戸
ニつめ候ヘハ)はや死に申たる同前(と候)」
この手紙は、早稲田大学に保存されています。
白峰旬氏のコメントについて
別府大学文学部史学科・准教授の白峰旬氏によれば、同時代に平戸の商館長であったリチャード・コックスの日記には、正則は「ミアコでは日本国中の他のどの王侯よりも好意を持たれ且つ尊敬を受けて」おり、一方で秀忠は「決して武人ではなく、一介の大政治家に過ぎ」ず、正則と「南方の領主たちが秀忠に逆らう役を果たすなら、秀忠がこれに打勝つことは困難」と記されていることから(『日本関係海外史料』)、新しい将軍に就任した直後の秀忠と、有力外様大名との間に武力闘争へもつながりかねない緊張関係があり、それゆえ、秀忠は正則を武力闘争以外の手段で失脚させたいと考えていたと指摘しておられます。
取り壊しの内容を記した書状について
元和5年4月25日付の、豊前小倉藩主であった細川忠興が、その子忠利宛の送った手紙をそのまま使用しています。この手紙は、永青文庫に収められています。
三浦正幸氏のコメントについて
広島大学大学院文学研究科・教授の三浦正幸氏によれば、広島城の本丸上段の北面は、広島城で最も高くて堅固な石垣がそびえているのに対して、東面・南面・西面の南半分は歩いても楽に登れる緩い芝土手になっていて、これこそ正則が命令を受けて壊したあとだとされています。
三浦氏の推察によれば、正則が破却する以前のこの部分には、高い石垣がそびえ、その上にいくつもの三階建ての櫓がならび、さらにその間を横長の櫓でつないだ、国内屈指の優れた城郭が展開していました。しかし正則は、本来命じられた取り壊しの「100倍から200倍の」石垣を壊して、幕府に敵意のないことを示そうとしたのではないかと指摘されています。
秀忠の「正則を改易にせよ」と最後通牒について
秀忠が改易を命じたくだりは、「玉滴隠見」に収められた改易時の奉書にある「本丸其外悉破却せらる可ノ旨迎出され候、然処ニ上石計リ取除き其上無人を以テ数日送段重畳不届ノ仕合ニ思召サレ此上は両国召上」をもとに意訳したものです。「玉滴隠見」は、国立公文書館に納められています。
改易命令前後の正則と家臣の行動、ならびにCGについて
正則改易に際して、「福島正則遠流城引渡之覚書」によれば「正則家中が異議に及ぶ時の為」としての「芸州詰寄ノ大名」として出雲松江・堀尾忠晴/石見浜田・古田重治/石見津和野・亀井政矩/長門萩・毛利秀就(代理として毛利秀元)/備前岡山・松平(池田)忠雄。さらに人数が足りない時の下知として、豊前小倉・細川忠興/因幡鳥取・松平(池田)光政/伊予松山・加藤嘉明/讃岐高松・生駒正俊/阿波徳島・松平(蜂須賀)至鎮が、江戸にある場合帰国せよとの命が出たとしています。広島を包囲したCGに関しては、この記述をもとに作成しました。
一方、広島城に籠城した家臣に関しては、『広島県史』が「東武実録」をもとにして、「総勢四千余人、他三原その他の支城にも、それぞれ侍が詰めた」としています。
正則が娘の手を引いてきたことについて
番組で引用した文献は「野史」。これを引いて『廣島市史』で意訳した文章によれば、「正則剣を脱して長袴を穿ち、左右小女を携えて之に接す」「両君只冀くは此二女児を哀れまんことを」とあり、これによっています。
正則の家臣への手紙について
番組に登場した手紙は、元和5年7月24日付の、正則から広島城にいた家老・尾関右衛門太郎へのもの。前後の文章は、「今度ハ我等年寄候てなれ候ゆへ、不慮之仕合。皆々迄きつかい被致、面目も無之仕合ニ候」で、自らが年を取ってしまった慣れから、改易という事態になってしまったことを、家臣に詫びています。尾関右衛門太郎の子孫にあたる、尾関堯彦氏が所持されていますが、連絡先をお教えすることは出来ません。
改易後の福島正則について
広島改易後の正則について、『小布施町史』では、正則の蟄居先を越後魚沼郡内二万五千石、信濃高井郡内二万石とし、「子備後守忠勝をともない、十月初めに高井郡高井野村(現高山村)の居館に移った。代官井上新左衛門のいた幕府陣屋のあとである」としています。
碑があるのは、長野県高井村堀之内の高井寺(こうせいじ)の敷地内です。また、番組で紹介した正則の霊廟は長野県小布施町雁田にある岩松院(がんしょういん)にあります。
この前後の事情に関しては、「大猷院殿御実紀」に、「検死来着をまたずして、同国高井郡雁田村巌松寺に於いて遺骸を荼毘せしかば、正則配所にて賜りし四万五千国を収公せらる」「庶子市之丞正利に三千石下され祀を奉ぜしめらる」とされ、福島家は旗本になりました。
歌舞伎の映像に関して
番組で使用した歌舞伎は、「仮名手本忠臣蔵・四段目」の「評定」「城渡し」です。
「福島の城渡し」と赤穂藩改易に関して
ゲストの笠谷氏によれば、正則の改易に際して、広島城に立て籠もった家臣団は、「包囲の幕府軍の圧倒的軍勢の前に無抵抗で屈服したのではなく、幕府軍の領国侵攻を阻止したうえで、藩主の直命を待っての開城引渡しと云う、名誉ある撤退をなし遂げることが出来た」「この挙措身体はまことに理に叶い、武士の面目を施し、家臣の本分を尽くしたもの」として「大名改易時の区にもと家臣団の行動規範、作法が」「確立され、後代に至るもこれが貫徹されていった」(『近世武家社会の政治構造』)。
赤穂藩の改易も含めて、江戸時代に最後の瞬間まで武士らしく生きるための手段として「福島の城渡し」が手本となったとされています。
広島の「胡子神社」と祭りについて
名前の読みは「えびすじんじゃ」。毎年11月20日前後に行われる「胡子大祭」と、その周囲の商店街が大売出しを行う「えびす講」は、広島でも最大級のにぎわいを見せる祭りです。
『広島県史』によれば、胡町に伝承された胡社の由緒として、「慶長8年福島氏の入部に伴い、従来侍屋敷であったこの地を町屋敷にしたさい、年寄役・銭屋又兵衛が福島殿に願い出て毛利の旧城下吉田にあった胡像を遷座」、また「秋長夜話」では、正則の寵をうけていた歌舞伎役者が遷座を斡旋して、正則の命によって叶えられたとしており、由緒には2説ありますが、いずれも正則の命令によって建てらたことから、こうした説明をしています。
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