最新情報
放送予定
キャスター紹介
バックナンバー
番組お問い合わせ
よくある質問
■番組ページtopへ■


2008年 2月分 放送リスト
2月6日 (水) 放送 第313回
シリーズ江戸時代の危機A
天明の飢饉(ききん)江戸を脅(おびや)かす 〜鬼平・長谷川平蔵の無宿人対策〜

2月13日 (水) 放送 第314回
シリーズ秀吉の猛将@
戦国の風雲児 法の世に散る 〜福島正則 広島改易事件〜

2月20日 (水) 放送 第315回
シリーズ秀吉の猛将A
豊臣家存続の秘策 〜加藤清正 二条城会見〜

2月27日 (水) 放送 第316回
軍服を脱いだジャーナリスト 〜水野広徳が残したメッセージ〜


第313回
シリーズ江戸時代の危機A
天明の飢饉(ききん)江戸を脅(おびや)かす
〜鬼平・長谷川平蔵の無宿人対策〜

放送日
本放送 平成20年2月6日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
再放送 平成20年2月12日(火)
17:15〜17:58 BS-2
平成20年2月15日(金)
0:10〜0:53(木曜深夜)総合 近畿のみ
平成20年2月15日(金)
1:05〜1:48(木曜深夜)総合 全国(近畿除く)
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
スタジオゲスト 山本博文《やまもと・ひろふみ》さん(東京大学史料編纂所教授)
著書『江戸時代の国家・法・社会』 編著『江戸の危機管理』など
キャスター松平定知
番組概要
その時:寛政2(1790)年5月
出来事:無宿人たちの授産・更生施設「人足寄場」から初の出所者が出た
18世紀後半の江戸後期、未曽有の危機が江戸幕府を襲った。天明の飢饉である。飢饉は全国で数十の死者を出すだけなく、村を捨て身元不定となった大量の「無宿人」も生んだ。当時多くの無宿人が食糧を求め、江戸に流れ込んでいた。無宿人たちは江戸でも食いぶちを見つけられず、食うに困って窃盗などの犯罪に手を染めていく。幕府は治安維持のため無宿人を取り締まるが、犯罪は跡を絶たなかった。
そこに立ち上がったのが、小説「鬼平犯科帳」で有名な火付盗賊改・長谷川平蔵である。取り締まるだけでは無宿人の犯罪はなくならないと考えた平蔵は、彼らを自立して生活できるように変えることで、犯罪の原因を元から絶とうと考える。そして幕府に願い出て、無宿人を更生し、職業を身につける訓練施設「人足寄場」を設立する。平蔵は無宿人たちのやる気を引き出し、3か月後には第1号の出所者を出す。その後も毎年200人が出所し、無宿人の犯罪は減り、江戸の治安は回復していく。
番組では、飢饉が生んだ大量の無宿人の問題に、先進的な社会救済策で対処して江戸の治安を守り抜いた、鬼平こと長谷川平蔵の知られざる功績に迫る。
番組の内容について
無宿人(むしゅくにん)について
江戸時代、人別帳の記載から除外された者の総称です。無宿人になる原因については、失踪、勘当、追放などがありますが、江戸中期以降、特に天明の飢饉を境にして、江戸には村を捨てた困窮農民が無宿人となって大量に押し寄せ、社会不安、治安悪化を引き起こし、社会問題となりました。

天明の打ちこわしについて
天明7年5月の打ちこわしは、江戸・大坂をはじめ全国諸都市で起こりました。天明の飢饉や米問屋の米の買い占めが大きな原因と言われています。最初は米屋が狙われましたが、次第にあらゆる商家が襲われるようになりました(一説には8000軒)。江戸でこれほど大規模な騒動が起こったのは初めてで、町奉行所では取り締まれず、幕府は、軍事力で鎮圧に乗り出し、あわせてお救い米の実施や夜間の往来禁止など対策を打ち出した結果、ようやく鎮静化しました。

御先手組(おさきてぐみ)について
戦の際には先鋒隊を務める江戸幕府の戦闘部隊で、通常は江戸城本丸諸門の警備や将軍他行の際の警護を務めます。弓組と鉄砲組があり、長谷川平蔵はそのうち一組の組頭。「徳川実紀」では天明の打ちこわしの際に幕府から出動を命じられた10組のうち、長谷川平蔵の名が一番最初に記されています。組頭筆頭であることから、「御先手組を率いた」という表現にしました。

火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)について
江戸幕府の職名の一つで、火盗改(かとうあらため)ともいいます。御先手組の頭である先手頭(さきてがしら)の一人が任命され、その職につく先手頭の加役(兼務の職)でもある。その職務は、江戸やその近郊における放火や盗賊、ばくちなどの取り締まりです。長谷川平蔵の時代は、犯罪の増加により、火付盗賊改が町奉行と並び、重要な役割を果たしていたと言われます。

御仕置例類集(おしおきれいるいしゅう)について
江戸幕府の刑事事件の判例集。老中が、町奉行や火付盗賊改などからの仕置の伺いに対して、指令する際に用いた幕府評定所の刑事裁判評議を記録、編纂したものです。老中は仕置の伺いに対して判断に迷った際、評定所で評議するように命じました。そのため御仕置例類集にある記録は、実際に行われた裁判の一部ですが、長谷川平蔵の裁判記録はその中の一番古い「古類集」に200件ほど記載されています。なお、長谷川平蔵自身は事件や裁判の記録を一切残していません。

天明の飢饉の被害の数について
天明の飢饉の被害については諸説ありますが、6年間で人口が140万人減少したという表現は、当時の老中・松平定信の自伝「宇下人言」を、飢えや疫病による死者が30万人という表現は、仙台藩の当時の記録を参考に紹介しました。

旧小貫村(栃木県)の記録について
「小貫村潰退転百姓高反別取調書上帳」(栃木県立文書館寄託)より。村人の数の減少については、「小貫村宗門人別改帳」での比較をもとに紹介しました。

当時の江戸の様子を記した記録について
「無宿人が世間に大量にあふれ出てとどまることを知らない。
 長谷川平蔵はこのことを深くなげいていた」

幕府が編纂した「御府内備考」から一部引用して、意訳したものです。

幕府が行った島送りの絵図について
江戸幕府は安永7年、無宿人対策として、無宿人を捕らえて佐渡に送り、鉱山の水替人足として働かせました。多い年で60人の無宿人が佐渡に送られています。番組で紹介した絵図は「佐渡金山金堀之図」(国立公文書館)と「江戸水替到着之図」(国立科学博物館所蔵)です。

定信が行った無宿人の人返しの政策について
「天明撰要類集」にある天明8年の無宿人の出所帰住策によっています。元名古屋大教授・平松義郎氏や元駒沢大教授の南和男氏の研究をもとに紹介しました。

無宿人に対する見方を記した文書について
「無宿人は一掃しても また出てくる」
老中・松平定信の側近が官界やそれを取り巻く状況をまとめた「よしの冊子」から一部引用して、意訳したものです。

平蔵の意見書について
人足寄場の開設の前後1年ほどの間に、長谷川平蔵が幕府にあてた意見書や手紙等をまとめた史料が「寄場起立」(神宮文庫蔵・写本) として残っています。なお、東京市史稿・産業篇38巻に、活字化されたものが記載されています。

「人足(にんそく)寄場(よせば)」の命名について
長谷川平蔵は施設の名前に「無宿」という言葉を使えば、世間が施設を見るイメージが悪くなり、せっかく無宿人たちに職を身につけさせても、彼らの就職に悪影響が出ると考え、「御用人足所」という施設名にすることを提案します。老中・松平定信はこの意図を汲み、施設の名を「人足寄場」と決定しました。

人足寄場の場所について
人足寄場が作られたのは、東京都中央区佃の佃公園付近で、昔は石川島と呼ばれていましたところです。長谷川平蔵は当初、別の場所を推薦しましたが、老中・松平定信によって、石川島に置くことが決められました。現在、人足寄場の面影はわずかに住吉神社と佃公園の間の堀が残るだけです。その堀が北に位置する人足寄場(石川島)と南側の佃島の境界でした。

人足寄場での作業について
番組で紹介した人足寄場での作業は、「寄場起立」のほか、杉田玄白の日記「い斎(いさい)目録」の寛政2年の項に記されています。その他、当時の見聞を記した「親子草」や太田南畝の「一話一言」にも記されています。番組で紹介した絵図は、明治時代になってからの人足寄場、つまり石川島監獄署の作業の様子を記した絵図です。人足寄場の絵図が現存せず、また作業の内容も変わっていないことから、作業の説明として紹介しました。

人足たちが着た作業着について
佐久長敬「清陰筆記」の中に、水玉模様の法被であったことや次第に水玉の数を減らしていく様が記されています。

人足寄場に対する周囲の冷たい反応について
「無宿人の施設はとても長くは続かないだろう」
老中・松平定信の側近が官界やそれを取り巻く状況をまとめた「よしの冊子」より一部引用しました。

人足寄場での心の教育について
人足寄場顕彰会編「人足寄場史」等を参考に構成しました。心の教育について、平蔵は人足寄場設立の意見書の中でも、その重要性を述べています。平蔵の意見は、僧侶の話を聞かせるものでしたが、老中・松平定信の意見で心学者の講話になりました。この精神教育の効果は、多くの研究家が認めるところとなっています。

心学教諭録の内容について
「腹立ちを押さえるだけが堪忍ではない。欲のむさぼりどきも堪忍。遊びどきも堪忍。
 常に堪忍を心がければ自分に幸せが訪れる。それが堪忍の徳である」

「心学教諭録」(矯正協会蔵)から一部引用、意訳しました。

長谷川平蔵を表した老中・松平定信の言葉について
「この人足寄場によって無宿人たちは自然と減り、犯罪も少なくなった。
 すべて長谷川平蔵の功績である」

松平定信の自伝である「宇下人言」より一部を引用して、意訳しました。

長平蔵の戒名について
「海雲院殿光遠日耀居士(かいうんいんでんこうえんにちようこじ)」。長谷川家の菩提寺であり、平蔵が葬られた戒行寺の星弘道住職によれば、戒名に、海と雲しか見えない世界(=海の中に作られた人足寄場)にお導きの光が降り注ぐ、つまり人足たちの更生と社会復帰を願う長谷川平蔵の気持ちが込められているといいます。現在、長谷川平蔵の墓は伝わっていませんが、平成6年、戒行寺の境内に「供養碑」が建てられています。

番組内で登場した資料について
天明の打ちこわし風聞書(徳川宗家文書) 徳川記念財団
信州浅間焼図 三井文庫
天明飢饉絵図 美里町教育委員会
凶荒図録 国立公文書館
御仕置例類集 明治大学博物館蔵
徳川幕府刑事図譜 明治大学博物館
御府内備考 国立国会図書館
小貫村潰退転百姓高反別取調書上帳 小貫敏尾家文書(栃木県立文書館寄託)
佐渡金山金堀之図 国立公文書館
江戸水替到着之図 国立科学博物館
松平定信肖像 鎮国守国神社蔵
宇下人言 東京大学史料編纂所、個人蔵
よしの冊子 国立国会図書館
寄場起立 神宮文庫蔵
江戸名所図絵 国立公文書館
石川島監獄所絵巻 矯正協会
心学教諭録 矯正協会
寄場起立御書付其外共 法務省矯正研修所
主な参考文献
『人足寄場史』 (人足寄場顕彰会編・創文社)
『鬼平と出世』 (山本博文・講談社現代新書)
『日本獄制史の研究』 (重松一義・吉川弘文館)
『鬼平・長谷川平蔵の生涯』 (重松一義・新人物往来社)
『長谷川平蔵〜その生涯と人足寄場』 (瀧川政次郎・朝日選書)
『鬼平がよみがえる』 (久田俊夫・東洋経済新報社)
『江戸の社会構造』 (南和男・塙選書)
『宇下人言・修行録』 (松平定信・松平定光 岩波文庫)
『随筆百花苑 第8巻』 (森銑三ほか編集、中央公論社)
『随筆百花苑 第9巻』 (同上)
『近世都市騒擾の研究』 (岩田浩太郎・吉川弘文館)
『岩波講座 日本通史 第14巻 近世4』 (岩波書店)
『江戸の犯罪白書』 (重松一義・PHP研究所)
『法制史料研究4』 (伊能秀明・厳南堂書店)
『江戸のアウトロー』 (阿部昭・講談社選書メチエ)
『鬼平を歩く』 (重松一義・下町タイムズ社)
『法制史の研究』 (三浦周行・岩波書店)
『男の嫉妬』 (山本博文・ちくま新書)
『近世の飢饉』 (菊池勇夫 著・吉川弘文館)
『宮城縣史22災害』 (宮城縣史刊行會)
※絶版となったものもあります。出版社などにご確認下さい。



第314回
シリーズ秀吉の猛将@
戦国の風雲児 法の世に散る
〜福島正則 広島改易事件〜

放送日
本放送 平成20年2月13日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
再放送 平成20年2月18日(月)
16:05〜16:48 総合 全国
平成20年2月19日(火)
17:15〜17:58 BS-2
平成20年2月22日(金)
0:10〜0:53(木曜深夜)総合 近畿のみ
平成20年2月22日(金)
1:05〜1:48(木曜深夜)総合 全国(近畿除く)
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
スタジオゲスト 笠谷 和比古(かさや かずひこ)さん
(国際日本文化研究センター教授)
VTR
 インタビュー出演   
白峰 旬(しらみね じゅん)さん(別府大学准教授)
三浦 正幸(みうら まさゆき)さん(広島大学教授)
キャスター松平定知
番組概要
その時:元和5(1619)年6月14日
出来事:福島正則、安芸備後49万石の改易を下される
(「武家諸法度」適用による最初の改易)
戦国武将・福島正則と云えば「賤ヶ岳の七本槍」の筆頭にして、のちに広島の大大名になった、戦国を代表する「荒武者」。腕っ節自慢の乱暴者である一方、義理と人情に厚い人柄で知られ、豊臣秀吉「子飼い」として、加藤清正とともにその天下取りを一番間近で支えてきた。
しかし皮肉な運命は正則をして、豊臣のライバル・徳川の権力確立に大きな役割を果たさせることになる。徳川家康が天下人の地位を確立した「関ヶ原の戦い」では、正則は率先して西軍を討つよう働きかけ、そして二代将軍・徳川秀忠が、法を背景にして正則の所領・広島改易を迫った際には、それを受け入れることで、徳川の権勢が盤石であることを世に示すことになった。
正則の武辺一途な生き方は、戦の世の終了とともに、法と政治駆け引きによる秩序を目指す徳川二代の政治戦略に、からめとられていったのだ。
「武」と義理人情に生きる愛すべき男が、その不器用さゆえに時代の波の中で呑み込まれていく姿を見つめながら、乱世から秩序の世への大転換期を描く。
番組の内容について
福島正則が改易を受け入れた日を6月14日としたこと
正則は、改易通知に対して返書を認めているが、この日付が6月14日であること、また広島城にいる家臣に対しても、この日付で改易を受け入れる旨の手紙を記していることによります。
この文書は、ともに東京大学史料編纂所「福島略系」に収められています。

松平キャスターのコメント「福島正則の態度如何によっては、徳川時代はどうなるか分からない」とは
ゲストの笠谷和比古氏によれば、正則を改易処分にすることに対して、本多正純ら幕閣は、正則ならびに正則の家臣が広島城に拠って武装蜂起する可能性があり、またそれによって複数の西国大名が連鎖的に挙兵する可能性があるとして、反対をしたとされます。一方で、将軍・秀忠は自身に目立った武功がなく、諸大名の間で万全の心服を得ていたとは云いがたかったのです。そのような状況下で正則が蜂起すれば、再び戦乱の世に戻ってしまう可能性も、ないわけではありませんでした。
そこを指して、「徳川時代はどうなるか分からない」としています。

スタジオ中の右下サブタイトルスーパーに関して
サブタイトルの下の模様は、福島家の家紋の一つ「中貫十文字」をイメージしたものです。
「中貫十文字」は、正則が名古屋城普請をした際に掘削した、名古屋・堀川にかかる納屋橋にも、正則の徳を讃えるために掲げられています。

「賤ヶ岳の七本槍」について
「賤ヶ岳の七本槍」とは誰なのか、に関しては諸説ありますが、たとえば吉川弘文館版の『国史大辞典』では「七本槍」を加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋則武・石川一光・片桐且元にして、福島正則を別格扱いにしています。また、番組内で使用している大阪城天守閣蔵の「賤ヶ岳合戦図屏風」では、一ヶ所にまとまって描かれている七人には、前記の石川一光の代わりに、櫻井左吉が入っています。
一方で、福尾猛市郎氏・藤本篤氏の『福島正則 最後の戦国武将』では、「賤嶽合戦記」をもとに、前記の石川・櫻井の代わりに福島正則を含めて「七本槍」としており、さらには京都大学蔵の「福島文書」ならびに「盈筐録」を引用して、正則を戦死した石川の代わりに七本槍に含めたことを確定させています。
またこのとき、正則は他の六人が3000石を得たのに対して、5000石を得ており、こうしたことを元に、正則を「七本槍」の一人であり、なおかつ「筆頭」であるとしました。

正則にあてた感状について
「一番槍、その働き比類無く候」
天正11年6月5日付の、秀吉から正則への感状を兼ねた宛行状。この文書は、京都大学に収められています。

正則の出生について
正則の出生に関しては、『寛政重修諸家譜』『福島氏世系之図』など諸資料により、尾張国海東郡二寺村(現在の愛知県美和町二ツ寺)にて、永禄4年に生まれたことが類推されます。番組で登場した生誕之碑は、現在も美和町二ツ寺にあります。
また、秀吉との関係に関しては、『寛政重修諸家譜』には、秀吉の父の妹が母であるとされ、『福島氏世系之図』には、母は秀吉公伯母とあり、諸説あるため、「一説には」「従兄弟にあたる」としています。
また、いつから秀吉の下で育てられたかに関しても諸説ありますが、『寛政重修諸家譜』では「幼稚より豊臣太閤につかへ」、『福島氏世系之図』では「幼年より秀吉公扈従たり」などあり、そこから、秀吉に「育てられたと云われます」としています。

秀吉の天下統一と正則の大名就任
秀吉の天下統一は『国史大辞典』に記載された「天正18年8月、関東・奥羽の大名領知を確定し(略)天下統合を終えた」によっています。一方、正則は京都大学蔵の「福島文書」にある朱印状によれば、天正15年9月5日付で、伊予国内で11万石余を与えられており、ここから「四国・伊予の大名」になったとしました。

秀次切腹と正則について
『国史大辞典』によれば、関白職を解かれた秀次が、高野山で切腹させられたのは文禄4年7月15日。これに関して、「日本外史」では「福島正則を遣わし、就きて死を賜う」とあります。
またこの時の正則の行動については、『美和町史』が「聚楽物語」を引用して「御様かわりたるを見奉り涙を流し」としています。

石田三成による「家康は、豊臣家に取ってかわり、天下を我が物にしようとしている」について
この文章は、慶長5年7月17日付で、石田三成率いる大坂方勢力が、豊臣家三奉行の連名の添え状とともに諸大名に出した「内府ちがいの条々」13ヶ条をもとに意訳したものです。曰く「五大老の連署で処理すべき政務を、家康一人で専断のこと」また、添え状の「太閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ」など。

小山の軍議での家康「三成につくのか、それとも自分につくのか」、正則「徳川殿に味方し秀頼公に害をなす三成を討ち取ろう」について
この文章は、『東照宮御實紀付録巻九』にある、家康が「けふは味方見えしも、あすは敵とならんこと珍しからず。されば今人々大坂へ返られんとも、家康など怨を挟むべき」と云い、「そのとき何れもとこうの御答もせざるうちに」、正則が「内府の仰はるる事なれども、此の度のこと三成が計より出でて、天下を乱さんとするにまがひなし」「正則に於いては内府の味方してかの凶徒を誅戮せん」と云ったとする一文を意訳したものです。

正則の与えられた安芸備後49万石に関して
黒田基樹氏の『慶長期大名の氏姓と官位』によれば、安芸・備後の知行高が49万石というのは、正則の検地を踏まえ元和3年に確定されたもので、正確には49万8千2百23石。正則が安芸備後を拝領した時点での石高は、毛利氏検地による40万2千石が本来ですが、一般に『福島正則 最後の戦国武将』などで用いられる安芸備後の石高・49万石を番組でも使用しました。
また、正則が安芸備後を拝領したのは慶長5年のことですが、広島城に入ったのは「福島一代記」にある慶長6年の3月としました。

正則の業績と広島城下・港
正則が広島に入る前の図面は、山口県文書館蔵の「芸州広島城町割之図」で毛利家が広島を退去する前のもの、正則が入った後の広島の図面は、広島文化財団広島城蔵の「寛永年間広島城之図」で正則が広島を去った直後のものです。CGで色をつけたのは、地図の中の町家部分で、『広島県史』によれば、「かつて町人町は(中略)川筋に沿って南北に長い町割りが割り当てられていたに過ぎなかった」が、正則は、「毛利氏時代に倍して町家の区域を拡大し」西国街道沿いや川沿い一帯を「町屋敷として商業の繁栄をはかった」とあります。
また、CGで港として点滅するのは広島と鞆・下蒲刈で、同じ『広島県史』には、正則は公式の海駅であった鞆に支城を築き、下蒲刈には船着きの利便をはかって長雁木を築かせたとあり、さらに海辺の諸浦に水主役の負担として年に大坂上下二回を命じるなど、大坂を視野に入れて海運を盛んにしたことが記されています。

名古屋城普請の際の正則・清正の発言
番組で引用した文献は「台徳院殿御実記」。

二条城会見での正則の対応について
二条城会見における正則と清正、ならびに浅野幸長の行動に関しては、『廣島市史』に引用された「浅野家譜」では「加藤清正・浅野幸長、秀頼に陪臣す、二人少時も其の側を去らずして之を護衛」し、一方で「正則は兵一萬を督して大坂城に留衛す」とあるところから、「大坂城で1万の兵と待機」としました。

清正死後の正則の決意とその行動について
清正の死後、方広寺鐘銘事件をきっかけに、急速に豊臣−徳川の関係が険悪になる中、正則は自らが使者となり大坂へ向かうことを願い出たり(「台徳院殿御実紀」)、後述のような諫書を秀頼へ宛てて送ったりして平和的解決をめざす一方、福島家の大坂屋敷の兵糧8万石を大坂方の求めに応じて接収するままに任せたり(「当代記」)、国許の家老へ「嗣子忠勝を援けて大坂に応ずべし、秀頼公の志を得たわまれば、我死すとも恨みなし」との手紙を送ったり(「尾三史話」)など、大坂方への心情的参戦をしています。

正則の大坂への手紙「すみやかに家康に従って欲しい」について
番組で引用した文献は「台徳院殿御実記」。この時、正則が書いた手紙の実物は残っていませんが、これによれば「この度の秀頼の考えは、まさに天魔の所為とするべきである。速やかに反心を翻され、これまでの不義を謝せられるため、淀殿には江戸・駿府に参向して住居されるべきである」「どうか淀殿・秀頼公御母子が御心を改め、御過ちを悔いたまい、正に順い長く国家長久のお計らいあるべきである」と云う内容の諫書を送ったとしており、これを意訳したものです。

正則の家臣への手紙「死に申たる同前」について
正則から広島城にいた家老・福島正澄への手紙をそのまま使用しています。正確には「我等事(か様に江戸 ニつめ候ヘハ)はや死に申たる同前(と候)」
この手紙は、早稲田大学に保存されています。

白峰旬氏のコメントについて
別府大学文学部史学科・准教授の白峰旬氏によれば、同時代に平戸の商館長であったリチャード・コックスの日記には、正則は「ミアコでは日本国中の他のどの王侯よりも好意を持たれ且つ尊敬を受けて」おり、一方で秀忠は「決して武人ではなく、一介の大政治家に過ぎ」ず、正則と「南方の領主たちが秀忠に逆らう役を果たすなら、秀忠がこれに打勝つことは困難」と記されていることから(『日本関係海外史料』)、新しい将軍に就任した直後の秀忠と、有力外様大名との間に武力闘争へもつながりかねない緊張関係があり、それゆえ、秀忠は正則を武力闘争以外の手段で失脚させたいと考えていたと指摘しておられます。

取り壊しの内容を記した書状について
元和5年4月25日付の、豊前小倉藩主であった細川忠興が、その子忠利宛の送った手紙をそのまま使用しています。この手紙は、永青文庫に収められています。

三浦正幸氏のコメントについて
広島大学大学院文学研究科・教授の三浦正幸氏によれば、広島城の本丸上段の北面は、広島城で最も高くて堅固な石垣がそびえているのに対して、東面・南面・西面の南半分は歩いても楽に登れる緩い芝土手になっていて、これこそ正則が命令を受けて壊したあとだとされています。
三浦氏の推察によれば、正則が破却する以前のこの部分には、高い石垣がそびえ、その上にいくつもの三階建ての櫓がならび、さらにその間を横長の櫓でつないだ、国内屈指の優れた城郭が展開していました。しかし正則は、本来命じられた取り壊しの「100倍から200倍の」石垣を壊して、幕府に敵意のないことを示そうとしたのではないかと指摘されています。

秀忠の「正則を改易にせよ」と最後通牒について
秀忠が改易を命じたくだりは、「玉滴隠見」に収められた改易時の奉書にある「本丸其外悉破却せらる可ノ旨迎出され候、然処ニ上石計リ取除き其上無人を以テ数日送段重畳不届ノ仕合ニ思召サレ此上は両国召上」をもとに意訳したものです。「玉滴隠見」は、国立公文書館に納められています。

改易命令前後の正則と家臣の行動、ならびにCGについて
正則改易に際して、「福島正則遠流城引渡之覚書」によれば「正則家中が異議に及ぶ時の為」としての「芸州詰寄ノ大名」として出雲松江・堀尾忠晴/石見浜田・古田重治/石見津和野・亀井政矩/長門萩・毛利秀就(代理として毛利秀元)/備前岡山・松平(池田)忠雄。さらに人数が足りない時の下知として、豊前小倉・細川忠興/因幡鳥取・松平(池田)光政/伊予松山・加藤嘉明/讃岐高松・生駒正俊/阿波徳島・松平(蜂須賀)至鎮が、江戸にある場合帰国せよとの命が出たとしています。広島を包囲したCGに関しては、この記述をもとに作成しました。
一方、広島城に籠城した家臣に関しては、『広島県史』が「東武実録」をもとにして、「総勢四千余人、他三原その他の支城にも、それぞれ侍が詰めた」としています。

正則が娘の手を引いてきたことについて
番組で引用した文献は「野史」。これを引いて『廣島市史』で意訳した文章によれば、「正則剣を脱して長袴を穿ち、左右小女を携えて之に接す」「両君只冀くは此二女児を哀れまんことを」とあり、これによっています。

正則の家臣への手紙について
番組に登場した手紙は、元和5年7月24日付の、正則から広島城にいた家老・尾関右衛門太郎へのもの。前後の文章は、「今度ハ我等年寄候てなれ候ゆへ、不慮之仕合。皆々迄きつかい被致、面目も無之仕合ニ候」で、自らが年を取ってしまった慣れから、改易という事態になってしまったことを、家臣に詫びています。尾関右衛門太郎の子孫にあたる、尾関堯彦氏が所持されていますが、連絡先をお教えすることは出来ません。

改易後の福島正則について
広島改易後の正則について、『小布施町史』では、正則の蟄居先を越後魚沼郡内二万五千石、信濃高井郡内二万石とし、「子備後守忠勝をともない、十月初めに高井郡高井野村(現高山村)の居館に移った。代官井上新左衛門のいた幕府陣屋のあとである」としています。
碑があるのは、長野県高井村堀之内の高井寺(こうせいじ)の敷地内です。また、番組で紹介した正則の霊廟は長野県小布施町雁田にある岩松院(がんしょういん)にあります。
この前後の事情に関しては、「大猷院殿御実紀」に、「検死来着をまたずして、同国高井郡雁田村巌松寺に於いて遺骸を荼毘せしかば、正則配所にて賜りし四万五千国を収公せらる」「庶子市之丞正利に三千石下され祀を奉ぜしめらる」とされ、福島家は旗本になりました。

歌舞伎の映像に関して
番組で使用した歌舞伎は、「仮名手本忠臣蔵・四段目」の「評定」「城渡し」です。

「福島の城渡し」と赤穂藩改易に関して
ゲストの笠谷氏によれば、正則の改易に際して、広島城に立て籠もった家臣団は、「包囲の幕府軍の圧倒的軍勢の前に無抵抗で屈服したのではなく、幕府軍の領国侵攻を阻止したうえで、藩主の直命を待っての開城引渡しと云う、名誉ある撤退をなし遂げることが出来た」「この挙措身体はまことに理に叶い、武士の面目を施し、家臣の本分を尽くしたもの」として「大名改易時の区にもと家臣団の行動規範、作法が」「確立され、後代に至るもこれが貫徹されていった」(『近世武家社会の政治構造』)。
赤穂藩の改易も含めて、江戸時代に最後の瞬間まで武士らしく生きるための手段として「福島の城渡し」が手本となったとされています。

広島の「胡子神社」と祭りについて
名前の読みは「えびすじんじゃ」。毎年11月20日前後に行われる「胡子大祭」と、その周囲の商店街が大売出しを行う「えびす講」は、広島でも最大級のにぎわいを見せる祭りです。
『広島県史』によれば、胡町に伝承された胡社の由緒として、「慶長8年福島氏の入部に伴い、従来侍屋敷であったこの地を町屋敷にしたさい、年寄役・銭屋又兵衛が福島殿に願い出て毛利の旧城下吉田にあった胡像を遷座」、また「秋長夜話」では、正則の寵をうけていた歌舞伎役者が遷座を斡旋して、正則の命によって叶えられたとしており、由緒には2説ありますが、いずれも正則の命令によって建てらたことから、こうした説明をしています。

番組内で使用した肖像画について
福島正則肖像(東京大学史料編纂所蔵)
羽柴秀吉肖像(干菜山 光福寺所蔵)
豊臣秀吉肖像(逸翁美術館所蔵)
加藤清正肖像(熊本市立熊本博物館所蔵)
豊臣秀次肖像(京都 瑞泉寺所蔵)
石田三成肖像(個人蔵)
豊臣秀頼肖像(養源院所蔵)
徳川家康肖像(大阪城天守閣所蔵)
徳川秀忠肖像(松平西福寺所蔵)
賤ヶ岳合戦図屏風(大阪城天守閣蔵)
主な参考文献
『美和町史』
『広島県史 近世1 通史』
『廣島市史』
『大竹市史』
『小布施町史』

『福島正則 最後の戦国武将』 (福尾猛市郎・藤本篤/中公新書)
『関ヶ原合戦と近世の国制』 (笠谷和比古/思文閣出版)
『関ヶ原合戦と大坂の陣』 (笠谷和比古/吉川弘文館)
『城のつくり方図典』 (三浦正幸/小学館)
『豊臣の城・徳川の城』 (白峰旬/校倉書房)
『日本近世城郭史の研究』 (白峰旬/校倉書房)
『広島城四百年』 (中国新聞社編/中国新聞社)
『福島正則と芸備』 (広島文化財団広島城)
『戦国武将のふるさと 美和』 (美和町歴史民俗資料館)
『福島正則公』 (廣島尚古會・福島正則公三百年祭協賛會)
『福島正則傳』 (田部井鉚太郎/美和村教育會)
『加藤福嶋』 (羽皐隠史/高山房)
『福島正則公と岩松院』 (渡辺小洋/岩松院)
『福島正則』 (金田幸治郎)

「大名改易論」 (笠谷和比古/『近世武家社会の政治構造』/吉川弘文館)
「石垣が語る城の歴史」 (三浦正幸/『広島城 甦る鯉城の実相』/学習研究社)
「福島正則の支配」 (白峰旬/『新修 名古屋市史 第二巻』)
「慶長期大名の氏姓と官位」 (黒田基樹/『日本史研究 414号』)
「福島正則文書の基礎的研究」 (黒田基樹/『芸備地方史研究 210号・211号』)
「戦争の終焉と城郭」 (福田千鶴/『近世成立期の大規模戦争』/岩田書院)
「福島正則の左遷状」 (高橋和太郎/長野郷土史研究会『長野 第22号』)
「亀居城跡と石垣」 (佐伯廣司/亀居城跡保存会『亀居城 第5号』)
※絶版となったものもあります。出版社などにご確認下さい。


第315回
シリーズ秀吉の猛将A
豊臣家存続の秘策
〜加藤清正 二条城会見〜

放送日
本放送 平成20年2月20日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
再放送 平成20年2月25日(月)
16:05〜16:48 総合 全国
平成20年2月26日(火)
17:15〜17:58 BS2 全国
平成20年2月29日(金)
0:10〜0:53(木曜深夜)総合 近畿のみ
平成20年2月29日(金)
1:05〜1:48(木曜深夜)総合 全国(近畿除く)
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
スタジオゲスト 小和田哲男(おわだ てつお)さん
(静岡大学教授)
VTRインタビュー出演   北野 隆(きたの たかし)さん
(熊本大学名誉教授)
エンドVTR出演松野 國策(まつの くにさく)さん
キャスター松平定知
番組概要
その時:慶長16(1611)年6月24日
出来事:豊臣恩顧の大名・加藤清正が死去
熊本市茶臼山にそびえる名城、熊本城。今から400年前、この城を築き上げたのが賤ヶ岳七本やりの一人で秀吉子飼いの武将だった加藤清正である。
清正は、秀吉の天下統一に向けた数々の戦いに活躍。秀吉に認められ天正16年(1588年)には27歳の若さで肥後の国を治める大名に抜擢される。 秀吉の死後、清正は、自分を取り立ててくれた豊臣家に報いるために、秀吉の遺児・秀頼を守り抜くことに奔走する。関ヶ原の戦いでは、家康こそ秀頼の後見人に相応しいと見込んで東軍につき、九州を縦横に駆けめぐり勝利に貢献した。しかしその後、家康が天下への野心をむき出しにすると、秀頼の存在が危うくなっていく。
清正は他の大名が離れていくなかで、秀頼擁護の姿勢を貫こうとした。慶長16年、家康はついに十万の軍勢を率いて秀頼のいる大坂城に迫ってくる。
このとき、清正は、秀頼と家康との二条城での会見を実現させて、豊臣家安泰を家康に認めさせることに成功した。しかし、豊臣家最大の支柱だったこの清正が死去すると、家康による豊臣家滅亡のシナリオが加速し始めるのである。
番組では、秀頼を匿う部屋や抜け道まで造られていたという熊本城の意外な構造も紹介しながら、徳川の世にあって、豊臣家存続のために死の間際まで政略家として奔走した加藤清正の知られざる生涯を描く。
番組の内容について
加藤清正が死去した日を慶長16(1611)年6月24日としたこと
当代記、義演准后日記、清正記などに記されています。

賤ヶ岳の戦いで清正にあてた感状について
「その働き比類無く」
清正記に記されている天正11年5月11日付の、秀吉から清正への感状を兼ねた宛行状をそのまま使用しています。

肥後拝領時の清正の行動、言葉について
続撰清正記によると『純剛純強其国必亡…慈悲を以て治るならば安々と静まり万民帰服すべき』と清正は秀吉に強圧的な政治をするのではなく慈悲を以て治めるべきだと進言したと記されており、番組では意訳し使用しました。

加藤清正定書について
加藤清正定書は清正が肥後半国の領主となった年に肥後の北部、小国郷の豪族、北里氏に送った定書です。
これには清正の施政方針が記され全部で7条からなっています。その中の一揆に参加した農民を免罪とする第一条、清正が派遣した家臣の恣意的支配の排除と百姓直訴制を記した第四条の一部を番組では紹介しています。定書は個人が所蔵し、熊本県立美術館に寄託されています。
清正の土木工事について
清正は熊本市を流れる白川をはじめ、菊池川など主な河川の治水工事を行いました。現在でも白川では渡鹿堰や石塘堰などが残っています。清正の治水事業の功績は江戸時代に鹿子木量平が調査し藤公遺業記に記されています。

清正の虎狩りについて
吉川文書には『太閤様為御養生可参御用候虎を御取候』とあり、秀吉の健康のために虎肉を大名達が送っていたことが記されています。また清正が虎狩りを行っていたことは常山紀談、名将言行録に記されています。

清正が建立した豊国神社について
清正は領地の肥後の立田山に秀吉の霊を祭るために豊国大明神を勧進しました。この豊国神社は元和元(1615)年の大坂落城から程なく廃せられたとされます。このことは肥後国誌に記されています。

秀頼直筆の豊国神号について
熊本大学院准教授の稲葉継陽さんによればこの書は清正が豊国神社を勧進する時に秀頼から賜ったものだと考えられるとしています。現在、清正の菩提寺である本妙寺に所蔵されています。

関ヶ原の戦いでの九州の状勢と清正の戦い、戦況について
当時九州で東軍は清正の他には黒田如水・長政親子、寺沢広高しかいませんでした。それに比べ、西軍は立花宗茂・鍋島直茂・小西行長・小早川秀秋・島津義久など多くの大名が参加していました。清正は黒田氏の支援のため豊後に出陣、また小西行長領に攻め込み、宇土城を陥落。肥後に侵攻してきた島津軍を撃退するなど活躍しました。また関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると鍋島直茂や高橋元種など多くの西軍の大名が東軍に付き、九州も東軍の勝利で決着がつきました。このことは続撰清正記、日本戦史、肥後宇土軍記に記されています。

重臣と清正の会話について
駿河土産に記されているエピソードをを参考に構成しました。家康の重臣の質問、それに対しての清正の回答は駿河土産のそれぞれの言葉を意訳しています。

本丸御殿について
熊本城の本丸御殿は天守閣同様に西南戦争の時に焼失しています。現在復元工事が進んでおり、今年4月に一般公開される予定です。

昭君の間・抜け穴について
熊本大学名誉教授の北野隆さんによると、昭君の間は城主の清正には不釣り合いなほど格式の高いしつらえであり、清正よりも高貴な人、秀頼のために作られたと考えられるとしています。また抜け穴については『熊本城今昔物語』に引用されている『大工善蔵より聞覚控』にその存在が記されています。

二条城会見実現に向けて清正の言葉について
清正記には『主計頭申上られけるは、日本之神も御照覧あれ、秀頼様御身の上に気遣成儀候はば、私、左京ながらへ申すまじ』と記されています。この一文を意訳しました。

二条城会見に清正が忍ばせた短刀について
難波戦記によると『清正今度秀頼に供奉して二条に赴く時、清正をもへらく若人有て巵従人の太刀を奪ひ取たり共、懐中に隠し置の腰刀を抜て、差違へんと相謀りける』とあります。また清正の菩提寺の本妙寺にはこのとき清正が隠し持っていたと伝えられる短刀が遺されています。

二条所会見の状況について
会見の様子は清正記、当代記を参考に今回の番組に出演していただいた小和田さんのご意見を参考に構成しました。

会見後の清正の言葉について
難波戦記には『清正もお暇を給りて肌に隠しはさめる腰刀を抜出し一見して則鞘に納め是を押戴て落涙数行の間に申けるは嗚呼、清正冥慮に叶ひ古秀吉公の厚恩今日にて奉報と云り』とあり、一部を引用し、意訳しました。

地突唄について
番組で紹介した唄は地突唄と呼ばれています。『熊本城今昔物語』によると熊本城の工事の際に歌われていたとされます。出演している松野國策さんは地突唄を昭和30年代前半まで家の土台造りの際に歌っていました。

本妙寺のお祭りについて
お祭りは『頓写会』といいます。清正の追善のため法華経の書写をしたのが始まりとされます。毎年、清正の命日の前日、旧暦の6月23日にあたる7月23日から24日まで行われます。

清正を称えた言葉について
続撰清正記には『加藤肥後守源の清正朝臣は若年の頃より武勇に達し天下の相として…内三宝(仏教のこと)に帰し外五常(仁・義・礼・智・信のこと)を守る故に…国泰平にして万民仁澤に濡ふること豈近世の英雄ならざらんや』とあります。この一部を引用しました。

番組内で使用した主な史料について
加藤清正肖像(熊本市立熊本博物館所蔵)
羽柴秀吉肖像(干菜山 光福寺所蔵)
豊臣秀吉肖像(逸翁美術館所蔵)
豊臣秀頼肖像(養源院所蔵)
徳川家康肖像(大阪城天守閣所蔵)
石田三成肖像(個人蔵)
賤ヶ岳合戦図屏風(大阪城天守閣蔵)
朝鮮ノ役二清正猛虎ヲ撃(名古屋市秀吉清正記念館蔵)
加藤清正定書(個人蔵・熊本県立美術館寄託)
舜旧記(国立公文書館蔵)
主な参考文献
『加藤清正傳』 (中野嘉太郎/青潮社)
『加藤清正のすべて』(新人物往来社)
『加藤清正』 (安藤英男/河出書房新社)
『肥後の清正』 (熊本出版文化会館)
『加藤清正』 (片山丈士/河出書房新社)
『歴史群像 名城シリーズ 熊本城』 (学習研究社)
『本妙寺歴史資料調査報告書』 (熊本県立美術館)
『新熊本市史 史料編 第三巻 近世』 (新熊本市史編纂委員会/熊本市)
『新熊本市史 史料編 第四巻 近世』 (新熊本市史編纂委員会/熊本市)
『熊本歴研 史叢 第12号』 (熊本歴史学研究会)
『激動の三代展−加藤清正・忠広・細川忠利の時代−』 (熊本県立美術館)
『秀吉と文禄・慶長の役』 (佐賀県立名護屋城博物館)
『関ヶ原から大坂の陣へ』 (小和田哲男/新人物往来社)
『豊臣秀頼』  (井上和代)
『歴史群像シリーズ 関ヶ原の戦い』 (学習研究社)
『歴史群像シリーズ 賤ヶ岳の戦い』 (学習研究社)
『歴史群像シリーズ 徳川四天王』  (学習研究社)
ほか
※絶版となったものもあります。出版社などにご確認下さい。


第316回
軍服を脱いだジャーナリスト
〜水野広徳が残したメッセージ〜

放送日
本放送 平成20年2月27日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
再放送 平成20年3月3日(月)
16:05〜16:48 総合 全国
平成20年3月4日(火)
17:15〜17:58 BS2 全国
平成20年3月7日(金)
0:10〜0:53(木曜深夜)総合 近畿のみ
平成20年3月7日(金)
1:05〜1:48(木曜深夜)総合 全国(近畿・北海道ブロック除く)
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
スタジオゲスト 前坂 俊之(まえさか としゆき)さん
(静岡県立大学教授)
VTR
 インタビュー出演   
秦  郁彦(はた いくひこ)さん
(日本大学講師)
重松 美代子(しげまつ みよこ)さん
(主人公水野の姪)
キャスター松平定知
番組概要
その時:昭和16(1941)年2月26日
出来事:水野広徳が意見を発表する場を奪われてしまう
昭和20年5月、敗戦の様相を呈していた日本で、B29から降伏を促す大量のビラが巻かれた。そこには軍の暴走によりこの戦争は起こってしまったという、日本軍の過ちを記した論文が引用されていた。論文の著者は、元海軍軍人・水野広徳。もとは生っ粋の軍国主義者だった。軍事研究のために第一次世界大戦後のヨーロッパに渡る。そこで目にしたのは、多くの一般人を巻き込み、戦勝国ですら荒廃した姿。水野は、国民を守るために戦争をしているはずの国家に対して、疑問を感じる。国を守るためには戦争を避けなければならない。そのためには軍備を放棄するしか手段はない。この時水野は、軍国主義者から軍備撤廃主義者へと転向した。
帰国後、自ら軍を辞め、軍備撤廃のためにまずは軍縮運動へと身を投じてゆく。世界が軍縮に向けて足並みを揃えようとしている中、日本もまた、軍縮への道を歩み始める。しかしそれに異を唱えたのが軍部だった。統帥権の独立をたてに、政府でさえも口を挟むことが出来なくなってゆく。軍部の暴走をマスコミ、そして世論が後押しする中、水野はいずれ日米戦をも引き起こす可能性があると訴え続けるが、水野自身も弾圧を受け、発表の場さえも奪われてしまう。誰もなにも言えなくなってしまったその時、日本は太平洋戦争へと突き進んでゆく。
戦争への道を避けることを訴え続けた水野。彼の残したメッセージから、改めて今の時代、過ちを繰り返さないためには何が必要かを伝える。
番組の内容について
水野広徳略歴
1875(明治 8)年5月24日  愛媛県に生まれる
1896(明治29)年2月     江田島の海軍兵学校に入学
1905(明治38)年5月     日本海海戦に水雷艇の艇長として参加
1906(明治39)年3月    海軍軍令部戦史編さん部に出仕
1911(明治44)年3月     「此一戦」出版
1919(大正 8)年3月     第一次世界大戦後のヨーロッパを視察
1921(大正10)年8月     海軍を辞してジャーナリストとなる
    同年     10月     中央公論に軍縮を主張した論文を書く
1932(昭和 7)年10月   「興亡の此一戦」が発禁処分を受ける
1941(昭和16)年2月26日  執筆禁止となる
1945(昭和20)年10月18日 疎開先の愛媛県吉海町で亡くなる。享年71。

米軍機からばらまかれたビラについて
引用されている水野の論文は、中央公論の大正14年4月号に掲載された論文「米国海軍と日本」。また番組で紹介している伝単は、アメリカのコレクターが個人所有しているものを、コピーして使用。

日本にまかれたビラ458万4千枚の根拠について
米国戦略爆撃調査団報告書の記述から引用。訳文は「東京大空襲・戦災史第3巻」に掲載。

日露戦争の映画映像について
陸戦…「二百三高地」1980年公開 監督:舛田利雄 脚本:笠原和夫
海戦…「日本海大海戦 海ゆかば」1983年公開 監督:舛田利雄 脚本:笠原和夫
いずれも配給は東映。

「此一戦」について
水野は日露戦争後、海軍の戦史編さん部へ出仕、戦史の編さんを命じられた。理由は新聞に従軍記などを発表していたその文章力が認められたため。その時期、並行して「此一戦」を執筆した。
「此一戦」引用か所
「一秒時間に数弾をはき出す機関砲は 轟々戞々(ごうごうかつかつ)耳を圧し、
 頭上を掠むる」
(第14章 快隼疲鷲を衝くより)
「其の勇敢なる働は天晴れ 日本男児として恥ぬものがあつた」(第12章 日本魂 より)

アジアにおける各国の勢力図CGについて
明治43年時点では日本は韓国を併合している。またこの時期、福建省不割譲協定により、日本の領土であった台湾に近い福建省は、実質的に日本の勢力範囲と認められていた。
また、使用している国旗は当時のものに時勢を合わせているため、ドイツ、アメリカ国旗は現在のものと同じではない。

軍国主義者だった水野の言葉について
「小国の富は、畢竟(ひっきょう)大国の餌。 之を防ぐは、軍国主義に在り」
大正4年に水野が新聞に発表した論文「欧州大戦観 剣光銃影」より抜粋。一部省略。

ベルダンを訪れた時の水野の言葉について
「破壊と殺戮とをほしいままにしたる戦の跡は 見るも悲惨 聞くも悲哀
 誠に言語の外である」
「村落は壊滅し 田園は荒廃し 住民は離散し 家畜は死滅し
 満目(まんもく)これ荒涼 惨として生物を見ない」

水野の自伝「剣を解くまで」より抜粋

軍国主義者から軍備撤廃主義者へと転身した水野の言葉について
「国家とは国民を守るために存在するのではなかったのか」
「戦争を防ぎ戦争をさくる途は 各国民の良知と勇断とに依る軍備の撤廃
 あるのみである」

水野の自伝「剣を解くまで」より抜粋

海軍大臣に帰朝挨拶をしたときの言葉について
当時の海軍大臣・加藤友三郎に対して水野が発した言葉。
「日本は如何にして戦争に勝つかよりも、
 如何にして戦争を避くべきかを考えることが緊要です」

水野の自伝「剣を解くまで」より抜粋、一部省略。

水野のジャーナリストデビュー作について
水野は海軍を辞めたのち、軍備縮小同志会に参加。自説を主に中央公論に発表していく。デビュー作は大正10(1921)年の中央公論10月号に発表した「華盛頓会議と軍備縮限」。番組で紹介した本は、大宅壮一文庫に保管されているものを撮影した。

陸軍の軍縮を唱えた水野の論文について
「海軍の縮小は世界的に協約を要するも 陸軍は隣国の情勢に応じて国内的に処理することが出来る」
「陸軍縮小は今や国民の声である。国民の要求である」

大正11(1922)年の中央公論3月号に掲載された論文「陸軍縮少論」より抜粋。大宅壮一文庫に保管されている本を撮影した。

「天皇は陸海軍を統帥す」
大日本帝国憲法第十一条より。

統帥権の干犯を主張する軍部に対しての水野の論文について
「軍部が統帥権をうんぬんして憲法の正文を無視せんとするは憲政の将来を厄たいならしむるの恐あり」
昭和5(1930)年6月5日の朝日新聞に発表した「洋々会決議案」より抜粋。

満州国建国に対する水野の主張について
「日本の満州国承認は国際連盟を驚愕せしめ、米国を憤慨せしめ、
 中国を悶殺(もんさつ)せしめた」

昭和7(1932)年10月に発表した「興亡の此一戦」より抜粋。なおこの本は発禁処分を受けたが「水野広徳著作集 第三巻」に収録されている。

日米戦によって日本は敗れ、大きな被害を被るとした水野の主張について
「東京では、数百の飛行機が流星の如く暗空に去来して
 敵味方の識別も出来ない」
「逃げ惑ふ百万の残留市民。父子夫婦乱離混交、悲鳴の声」
「跡はただ灰の町、焦土の町、死骸の町である」

昭和7(1932)年10月に発表した「興亡の此一戦」より抜粋。なお空襲にあった日本の想像図は、水野の言葉をもとに作画している。

発禁処分5千件の根拠について
大阪人権歴史資料館発行の「発禁書と言論・出版の自由」より抜粋。

海軍大臣に宛てた公開質問状について
「戦争を防ぐことこそ、国家百年の安泰を得るの道で、
 それが国務大臣としての真の責であらねばならぬ」

昭和12(1937)年2月に発表した論文「海軍の自主的態度を望む」より抜粋、一部省略。

水野が晩年に残した歌について
「反逆児 知己を百年の 後に待つ」
昭和14年12月の水野の日記より抜粋。

番組内で使用した写真・史料等について
水野広徳の写真(松山市立子規記念博物館所蔵)
ベルダンの写真(コービス所蔵)
 
此一戦(松山市立子規記念博物館所蔵)
帝国国防方針(防衛省防衛研究所所蔵)
中央公論(大宅壮一文庫所蔵)
大日本帝国憲法(国立公文書館)
水野直筆原稿(松山市立子規記念博物館)
 
※水野広徳に関する史料のほとんどは、松山市立子規記念博物館に保管されていますが、常設展示はされていないため、閲覧するには申請が必要となります。
主な参考文献
『水野広徳著作集 全八巻』 雄山閣出版
『帝国主義日本にNOと言った軍人 水野広徳』 大内信也 著 雄山閣出版
『海軍大佐の反戦 水野広徳』 松下芳男 著 前坂俊之 編  雄山閣出版
『統帥権と帝国陸海軍の時代』 秦 郁彦 著   平凡社新書
『昭和陸海軍の失敗』 秦 郁彦 他共著 文春新書
『盧溝橋事件の研究』 秦 郁彦 著   東京大学出版会
『禁止単行本目録 明治21〜昭和9年』 内務省警保局
『資料 日本現代史 8 満州事変と国民動員』 大月書店
『発禁書と言論・出版の自由』 大阪人権歴史資料館
『戦場に舞ったビラ』 一ノ瀬俊也 著  講談社選書メチエ
『海軍の選択』 相澤淳 著  中央公論新社
『日本のジャーナリズム』 有斐閣選書
『浜口雄幸』 波多野 勝 著  中公新書
『日本ファシズムの言論弾圧抄史』 畑中繁雄 著   高文研
『言論死して国ついに亡ぶ』 前坂俊之 著   社会思想社
※絶版となったものもあります。出版社などにご確認下さい。

NHKトップへ Copyright NHK(Japan Broadcasting Corporation)All rights reserved.