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2007年 11月分 放送リスト
11月7日 (水) 放送 アンコール
メキシコ五輪 奇跡の銅メダル 〜日本サッカー・勝てる組織作り〜

11月14日 (水) 放送 第305回
国際連合加盟 〜重光 葵 日本から世界へのメッセージ〜

11月21日 (水) 放送 第306回
継体天皇 ヤマトを救う

11月28日 (水) 放送 第307回
緒方洪庵・天然痘との闘い


アンコール
メキシコ五輪 奇跡の銅メダル
〜日本サッカー・勝てる組織作り〜

放送日
(本放送) 平成19年11月7日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
(再放送) 現在、予定していません。

※この番組は、平成19年6月6日(水)に放送したものの再放送です
(一部手を加えています)

出演者
キャスター松平定知アナウンサー
スタジオゲスト 玉木正之(たまき・まさゆき)さん〔スポーツライター〕
VTR出演 デットマール・クラマーさん〔元サッカー日本代表特別コーチ〕
長沼健(ながぬま・けん)さん〔元サッカー日本代表監督〕
岡野俊一郎(おかの・しゅんいちろう)さん〔元サッカー日本代表
コーチ〕
杉山隆一(すぎやま・りゅういち)さん〔元サッカー日本代表選手〕
※肩書きは番組で紹介した当時のものです。
番組概要
その時:昭和43(1968)年10月24日
出来事:メキシコ五輪サッカーで日本が銅メダルを獲得
昭和43年のメキシコオリンピック。サッカー日本代表は、南米やヨーロッパの強豪国を次々と破り、見事、銅メダルを獲得した。しかし、その数年前まで日本サッカーはアジアのチーム相手にも勝てず、どん底の状態にあえいでいた。それを勝てるチームに変貌させたのがドイツ人コーチ、デットマール・クラマー氏だった。
自国開催の東京オリンピックの強化のために来日したクラマーは、代表選手の技術の未熟さに愕然とし、基本技術を徹底的に叩き込んでいく。そうした中で、クラマーは日本人の体格や性格の特徴を活かしたチームづくりを目指していく。その指導は、指導者の育成にもおよんだ。
クラマーの指導によって生まれ変わったサッカー日本代表は、東京オリンピックで強豪国のアルゼンチンに勝利。クラマーが去った後、監督やコーチは、選手の特徴を最大限に生かした必勝パターンを見出し、4年後のメキシコオリンピックで見事銅メダルに輝いた。 番組では、貴重な記録映像や当時の選手、指導者の証言などを交え、どん底にあえいでいた日本サッカーが世界相手に勝てるチームに成長するまでの組織改革の日々を描く。
番組の内容について
VTR出演者の敬称と肩書きについて
今回は、当時の代表監督・コーチ・選手にインタビューしていますが、歴史的な証言者として敬称を略しました。
また肩書きは番組で紹介した当時のものです。

クラマーが感銘を受けた「大和魂」を記載した著作について
日本に関する様々な著作からお知りになったようですが、番組で紹介したのは、新渡戸稲造の「武士道」です。

登場人物の言葉
※一部要約して引用しています

クラマーが代表選手たちが合宿している宿舎に行こうとした時のエピソード
「選手一人一人の個性を知らずして、どうしてよい指導ができるんだ。コーチは常に選手と共にあるべきだ」
「岡野俊一郎さんの証言」より

クラマーが日本代表選手たちのプレーを見てもらした言葉
「とてもサッカーと呼べるものではない」
『サッカー』より

クラマーが日本に合ったサッカーを語った言葉
「日本人は体格は劣るがスピードはある。そのスピードを生かすには、低く速いパスと正確なボールコントロールが必要だ。」
『サッカー』より

クラマーが東京五輪で対戦するアルゼンチンについて語った言葉
「アルゼンチンは一人一人のプレーはうまいがスピードはない。日本が彼らに個人技を発揮する余裕を与えずコンビネーションよく速攻でゴールを決めることができれば勝つことも可能だ」
『サッカーのすすめ』より

クラマーが東京五輪後、代表選手たちに語った言葉
「タイムアップの笛は、次の試合へのキックオフの笛である。」
『日本サッカーのあゆみ』より

クラマーがかつて日本代表選手たちに伝えた言葉について
「私はサッカーを好きなのではない。心から愛している。なぜならば、サッカーは少年を大人に育て、大人を紳士に育て上げるスポーツだからだ。」
「長沼健さん、岡野俊一郎さんの証言」より

番組で紹介した資料について
映像資料
サッカー日本代表の練習やオリンピックなどの映像 NHK蔵
※東京五輪、メキシコ五輪のサッカー日本代表の映像は
 日本サッカー協会のオフィシャルDVD『日本サッカー80年の歩み』が、
 データスタジアムFantasistaより発売されています。
 〔データスタジアムFantasista(03-5431-3503)〕
ベルリン五輪で日本がスウェーデンに勝利した映像 SVT(スウェーデンのTV会社)蔵

写真資料
「日本代表チーム等の写真」  フォート・キシモト蔵
「銅メダルをかけた日本代表集合写真」 毎日新聞社蔵
「デットマール・クラマー、長沼健、岡野俊一郎」 個人蔵

メキシコ五輪でサッカー日本代表が獲得した銅メダルなど
スタジオで紹介した銅メダル 個人蔵
VTRで紹介した銅メダル  日本サッカーミュージアム蔵
フェアプレー賞ディプロマ  日本サッカーミュージアム蔵
※銅メダルやフェアプレー賞のディプロマなどは、日本サッカーミュージアムで閲覧することができます。

参考文献
『サッカー』(日本蹴球協会)
『サッカーに賭けた青春』(長沼健・講談社)
『十一人の中の一人』(長沼健・日本生産性本部)
『チームプレー』(長沼健・光文社)
『サッカーのすすめ』(岡野俊一郎・講談社)
『熱いハートを燃やせ』(釜本邦茂・知識社)
『ゴールの軌跡』(釜本邦茂・ベースボール・マガジン社)
『日本サッカーのあゆみ』(日本蹴球協会編・講談社)
『財団法人日本サッカー協会75年史』(日本サッカー協会75年史編集委員会・日本サッカー協会)
『日本サッカー史』(後藤健生・双葉社)
『日本サッカー史・資料編』(後藤健生・双葉社)
『サッカー・マガジン』(ベースボール・マガジン社)
『昭和スポーツ史サッカー』(ベースボール・マガジン社)
  ほか
※当時のサッカーに関する数少ない出版物であった日本蹴球協会の機関誌『サッカー』は、神戸フットボールクラブ内にある田辺文庫(神戸市)、秩父宮記念スポーツ図書館(東京都)にて閲覧可能です。
※絶版になっているものもありますので、書店・出版社にご確認ください。



第305回
国際連合加盟
〜重光 葵 日本から世界へのメッセージ〜

放送日
(本放送) 平成19年11月14日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
(再放送) 平成19年11月23日(金)
0:20〜1:03(22日《木》深夜) 総合 近畿のみ
平成19年11月23日(金)
1:40〜2:23(22日《木》深夜) 総合 全国(近畿のぞく)
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
キャスター松平定知アナウンサー
スタジオゲスト 明石 康 さん
(元国際連合事務次長、現:日本政府代表 スリランカ平和構築及び復旧・復興担当)
主要著書『国際連合 ―その光と影―』(岩波新書)、『国際連合 ―軌跡と展望―』(岩波新書)、 『国連ビルの窓から』 『国連から見た世界』(サイマル出版会)、『平和へのかけ橋』(講談社)、 『生きることにも心せき』(中央公論新社)
番組概要
その時:昭和31(1956)年12月18日
出来事:日本が国連加盟を果たし、重光葵外相が「東西のかけ橋」演説をする
1956年12月18日、日本は80番目の加盟国として国連加盟を果たした。平和国家として出直しをはかる日本人が、長き孤立を脱し国際社会への本格的な第一歩を刻んだ日だ。その時、ニューヨークの国連総会議場で外務大臣・重光葵が世界に向けて日本の決意を語った。「日本は東西のかけ橋になりたい」。重光の演説は、戦後の日本が世界の一国としてどのように生きてゆけばよいのか、その姿勢と役割を鮮明に示した。
昭和動乱の中、外交官として中国、ドイツ、イギリス、ソ連に渡り、数々の難交渉に立ち向かった重光。さまざまな局面で「戦争の回避」と「アジアの一員としての日本」を訴え続けたが、日本は国際社会から孤立、戦争への道をひた走った。
重光は中国での停戦交渉の最中に片脚を失い、ミズーリ号降伏文書調印式では全権代表、ついにはA級戦犯として服役という逆境を味わう。しかし、その試練の中で育んだ平和への信念こそが国連加盟への尽力、そして国連加盟の受諾演説へと導いた。
今回は、重光の演説をその現場で直接聞いた元国連事務次長・明石康氏とともにニューヨーク国連本部を訪ね、日本加盟の舞台裏に迫るとともに、重光が「東西のかけ橋」に託した思い、日本が国際社会で果たすべき役割について考える。
番組の内容について
国連加盟の時に重光葵外務大臣がおこなった「東西のかけ橋」演説について
この「東西のかけ橋」の「東西」というのは、学者たちの間では一般的に「東洋と西洋」と解釈されている。
ただ、当時の冷戦下の状況から「東(共産国圏)と西(自由主義国圏)」という解釈も一部でされており、重光の演説は聞く人によって、聞く時代によって様々な意味にとらえることができる、時代を越えたメッセージ性の高いものとして評価されている。
なお、演説内容の全文は、下記の外務省HPにて閲覧することができる。和文・英文共に掲載。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/18/esm_1218.html
なお、「東西のかけ橋」と述べたあたり、番組で紹介した部分は下記の通り:
Peace is one and indivisible. Japan believes that the United Nations is the world's central driving force for peace.
The substance of Japan's political, economic and cultural life is the product of the fusion within the last century of the civilizations of the Orient and the Occident. In a way, Japan may well be regarded as a bridge between the East and the West.
She is fully conscious of the great responsibilities of such a position.
「平和は分割を許されない(地球規模で考えるべき)ものであり、日本は国連が世界における平和政策の中心的推進力を果たすべきものであると信じています。我が国の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀にわたる欧米およびアジア両文明の融合の産物であって、日本はある意味において『東西のかけ橋』になり得ると思っています。このような立場にある日本は、その大きな責任を十分に自覚しています」

重光葵(しげみつ・まもる)という人物について
外交官、後に外務大臣となった重光葵は、明治20(1887)年7月29日 大分県に生まれた。東京帝国大学法学部独法律学科卒業後、明治44(1911)年 外交官および領事官試験に合格、ドイツ在勤となった。その後、駐華公使、駐ソ大使、駐英大使などを経て、昭和18(1943)年 第二次東条内閣で外務大臣となる。その後、小磯内閣、東久邇宮内閣、第一次・第二次鳩山内閣で外務大臣を歴任。
重光の名を有名にしたのは、アメリカ海軍旗艦ミズーリ号艦上で行われた太平洋戦争降伏文書の首席全権としての重光だった。日本の国連加盟については、当時の外務大臣として立役者となり、昭和31(1956)年12月18日、国連総会議場で「日本は東西のかけ橋となり得る」という名演説を残した。
その一か月後の昭和32(1957)年1月26日に69歳で亡くなった。

国連本部(ニューヨーク)前の国旗が「全部で192本ある」という表現について
国連本部前には全加盟国192か国の国旗が、向かって左から右へ国名のアルファベット順に立てられている。
実際には国連の旗(水色地に白で五大陸のデザイン)も含まれているため193本立っているが、番組では「全加盟国192か国」という意味合いでコメントしている。
総会議場を訪れた松平キャスターが改めて「192の全加盟国」とコメントしている通り。

「国連本部」見学について
国連は一部一般公開されており、観光客用のガイドツアーも設けられている。日本語ツアーもあり。
ツアーでは、総会議場などいくつかの会議場を見学することができる。(←会議の予定にも左右されるが)
詳細の問合せは:(国番号)1−212−963−7539 まで。

「大東亜会議」について
太平洋戦争の戦況が悪化する中で、大東亜諸国結集を政略的に強化するため昭和18(1943)11月、東条内閣のもとで「大東亜会議」を開催した。会議には中国・タイ・満州国・フィリピン・ビルマ・インド(自由インド仮政府)・日本の代表が集まり、戦争遂行と東亜建設の方針について協議、「大東亜共同宣言」を採択した。宣言では、「アジアの共存共栄」、「自主独立の尊重」、「人種差別の撤廃」などが掲げられている。
参考資料:『国史大辞典』(吉川弘文館)、重光葵著『昭和の動乱』、武田知己著『重光葵と戦後政治』

日本の国連加盟に対するソ連の拒否権(合計4回)について
日本は昭和26(1951)年に調印した「サンフランシスコ講和条約」の前文に国連加盟を申請する意思を明文化、加盟へ動き出した。日本の加盟についてはまず国連安全保障理事会による勧告が必要で、その後 総会で承認される。
日本の加盟について大きな障害となったのは、安保理での「度重なるソ連の拒否権発動」であった。その回数については「3度説」「4度説」があるが、事実は「4回」である。参考資料は、「国際連合 議事録(United Nations所蔵)」に明記。
なお、その4回の期日は下記の通り:
1回目:昭和27(1952)年9月18日
2回目:昭和30(1955)年12月13日
3回目:同年12月14日 4回目:同年12月15日

重光が国連加盟前夜に演説の草稿を作成したホテル
ホテルは、ニューヨーク セントラルパークのすぐ近く、5番街にある
「ザ・ピエール・ニューヨーク」The Pierre, New York
ホテル名は、草稿を重光と共に作成した当時の国連大使・加瀬俊一(かせ・としかず)の記述、『文藝春秋(昭和48年9月号)』、『加瀬俊一回想録(下)』に残されている。

重光行きつけの料理店、国連加盟の喜びを歌った句について
重光がよく通ったという東京・日本橋の鰻(うなぎ)料理店は「伊勢定(いせさだ)」
以前は、店頭に銅板のレリーフで飾ってあったが、店の改装に伴い撤去、現在は見ることができない。
番組では、重光が国連加盟の喜びをしたためた句(直筆の色紙)を店主に見せていただいた。
句の内容は、「霧は晴れ 國連の塔は輝きて 高くかかゝげし 日乃丸の旗」

重光の国連加盟演説内容 (番組内で紹介した部分のみ)
「我が国の今日の政治、経済、文化(の実質)は、過去一世紀にわたる欧米・アジア両文明の融合の産物であって、(ある意味において)日本は“東西のかけ橋”になり得るのです。」
出典先、原文(英文)等の詳細については前述の通り。

重光が満州事変について語った言葉
「明治以来、積み立てられた日本の国際的地位が一朝にして破壊せられ、我が国際的信用が急速に消耗の一途を辿って行くことは、外交の局に当っているものの耐え難いところである」
重光著『昭和の動乱(上)』 より引用

重光が上海事変について語った言葉
「停戦を成立させねば、国家の前途は取り返しの付かざる羽目に陥るべし」
重光の口述筆記『隻脚公使』より一部省略し引用

重光が国際連盟に関して語った言葉
「欧米の国々は、民主主義、民族主義を欧州に実現することに努力した。しかしながら、彼らの努力はほとんど亜細亜には向けられなかった。欧米は阿弗利加(アフリカ)及び亜細亜の大部分を植民地とし、亜細亜民族の国際的人格を認めないのである」
重光著『続 重光葵 手記』を一部省略し引用

重光が太平洋戦争に対して語った言葉
「日本は、苟(いやしく)も東亜民族を踏み台にしてこれを圧迫し、その利益を侵害してはならない。なぜならば、武力的発展は東亜民族の了解を得ることができぬからである」
『昭和の動乱(上)』より一部省略して引用

国連憲章
「言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救うことを決意する」(国連憲章 前文より引用)
「人種・性別・言語・宗教による差別をなくし、基本的人権と自由を尊重することを誓う」
国連憲章 第1章「目的及び原則」 第1条より引用

重光が冷戦構造について語った言葉
「二つの世界の闘争は今後当分続くであろう。その将来の鍵を握るのは、両勢力の外に立つ第三勢力、亜細亜である」
重光著『重光葵 手記』より一部省略して引用

重光が国連加盟の喜びを歌った句
「霧は晴れ 國連の塔は輝きて 高くかゝげし 日乃丸の旗」

番組内で登場した資料について
[写真・新聞記事]
重光葵の写真(パイプを吸う重光、番組内で最も多く登場した写真)
 大分県国東市歴史体験学習館、重光葵記念館蔵
重光葵の写真(蝶ネクタイ、番組オープニングVTRテロップと共に紹介)  衆議院憲政記念館蔵
重光葵の写真(国連本部前での松平キャスターオープニングトーク小画面で紹介) 外務省外交史料館蔵
重光葵の44歳当時の写真  衆議院憲政記念館蔵
国連加盟演説を行う重光の写真  AP Images 蔵
上海停戦交渉中の写真(欧米人の中に駐華公使・重光)  毎日新聞社蔵
上海隻脚事件で入院中のベッドの中の重光の写真  衆議院憲政記念館蔵
新聞記事「重光公使ら重傷」  昭和7年4月29日:大阪朝日新聞 号外
新聞記事「重光公使の容態 悪化、絶望視さる」  昭和7年5月7日:大阪朝日新聞 夕刊
国際連盟 会議の写真  Palais des Nations, League of Nations Archives 蔵
巣鴨拘置所の写真  大分県国東市歴史体験学習館、重光葵記念館蔵
大東亜会議 参加者の集合写真  毎日新聞社蔵
バンドン会議 日本の代表・高碕達之助が演説している写真  NHK蔵

[文書]
「国際連合憲章」  United Nations(国際連合本部(米・ニューヨーク))所蔵
「サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)」前文  外務省所蔵
「日ソ共同宣言」  外務省所蔵
重光葵に関する記念館、資料館について
衆議院憲政記念館
11/8(木)〜11/30(金) 重光葵(没後50年)特別展 「重光葵とその時代 ―昭和の動乱から国連加盟へ―」が開催されています。問い合わせは下記。
Tel: 03―3581―1651  東京都千代田区永田町1―1―1
http://www.shugiin.go.jp/itdb_annai.nsf/html/statics/kensei/kensei.htm

重光葵記念館
重光の別荘、遺品や著書の草稿・日記、写真等が展示。
(金)(土)(日)のみ開館。
Tel: 0465―62―3860  神奈川県足柄下郡湯河原町宮上684

重光家
重光の生家、遺品や写真等が一般公開されている。
Tel: 0978―62―5556  大分県杵築市本庄893―1

山渓偉人館
重光の遺品、写真等を展示。
Tel: 0978―67―3731(安岐教育事務所)
大分県国東市安岐町下山口567―3
主な参考文献
『昭和の動乱(上・下)』(重光葵著 中公文庫)
『重光葵 手記』『続 重光葵 手記』(重光葵著 伊藤隆・渡邊行男編 中央公論社)
『重光葵 外交回想録』(重光葵著 日本図書センター)
『重光葵と戦後政治』(武田知己著 吉川弘文館)
『重光葵 〜上海事変から国連加盟まで〜』(渡邊行男著 中公新書)
『国際連合 ―その光と影―』(明石康著 岩波新書)
『国際連合 ―軌跡と展望―』(明石康著 岩波新書)
『平和へのかけ橋』(明石康著 講談社)
『国連から見た世界』(明石康著 サイマル出版会)
『国連ビルの窓から』(明石康著 サイマル出版会)
『国際連合の基礎知識』(国際連合広報局著 世界の動き社)
『日本と国際連合』(塩崎弘明著 吉川弘文館)
『回想 日本と国連の三十年』(歴代国連大使の講演録 国連広報センター編 講談社)
『加瀬俊一回想録(上・下)』(加瀬俊一著 山手書房)
『モスクワにかける虹 〜日ソ国交回復秘録〜』(松本俊一著 朝日新聞社)
『鳩山一郎 回顧録』(鳩山一郎著 文藝春秋新社)
『隻脚公使』(重光葵著 ※未出版)
『孤高の外相 重光葵』(豊田穣著 講談社)
『勇断の外相 重光葵』(阿部牧郎著 新潮社)
『重光・東郷とその時代』(岡崎久彦 PHP文庫)
『昭和二十年 慟哭の大分群像』(清原芳治著 大分合同新聞文化センター)
『あの時「昭和」が変わった 〜101歳、最後の証言〜』(加瀬俊一著 光文社)
『生きることにも心せき』(明石康著 中央公論新社)
『吉田茂の自問 〜敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」〜』(小倉和夫著 藤原書店)
『バンドン会議と日本のアジア復帰』(宮城大蔵著 草思社)
『私の人生・竹光秀正』(清原芳治(重光の秘書)著 大分合同新聞文化センター)
『大東亜会議の真実 〜アジアの解放と独立を目指して〜』(深田祐介 PHP新書)
※絶版になっているものもありますので、書店・出版社にご確認ください。


第306回
継体天皇 ヤマトを救う

放送日
(本放送) 平成19年11月21日 (水)
22:20〜23:03 総合 全国
(再放送) 平成19年11月26日(月)
16:05〜16:48 総合 全国
平成19年11月27日(火)
17:15〜17:58 BS2
平成19年11月30日(金)
1:05〜 1:48(木曜深夜)総合 近畿のみ
平成19年11月30日(金)
1:50〜 2:33(木曜深夜)総合 近畿除く
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
キャスター松平定知アナウンサー
スタジオゲスト 青木 豊昭(あおき とよあき)さん(一乗谷朝倉氏遺跡資料館館長)
元福井県埋蔵文化財調査センター所長で、福井県内の古墳調査に長年従事してこられた。
番組概要
その時:西暦528年11月
出来事:ヤマト政権が磐井(いわい)の乱を平定
1500年前の倭国。ヤマト政権は、皇位継承をめぐる豪族たちの争いで混迷を深めていた。そうした中、越前の地にいた王族が天皇位につく。第26代・継体天皇である。越前から近江にかけてを地盤とした継体天皇は、朝鮮半島との交易や鉄生産など、強固な経済的基盤を背景にしてヤマトの豪族たちに迎えられた。継体天皇はそれまでの天皇とは異なり、ヤマトの中枢には入らずに淀川沿いに王宮を構えて港づくりを展開する。それは、朝鮮半島との外交ルートを強化し、国家統一のために必要な大陸の先進の知識を導入するためだった。
しかし、継体天皇が国家統一にむけて動き出したまさにその時、目の前に大きな敵が立ちふさがった。筑紫君磐井(つくしのきみいわい)率いる九州の豪族たちが、独立のために反旗を翻したのだ。ヤマト政権をゆるがすこの危機に、継体天皇は豪族たちの力を結集して立ち向かった。
25年の治世で、ヤマト政権による国家統一の礎を築き上げた継体天皇。即位から1500年を迎えたいま、最新の考古学調査と史料分析から、謎多きその実像に迫る。
番組の内容について
「継体天皇即位1500年」について
今年は、継体天皇が樟葉宮(くずはのみや)で即位(507年2月)してからちょうど1500年目にあたります。
継体天皇ゆかりの福井県や滋賀県、大阪府枚方市などで記念行事がとりおこなわれました。

『日本書紀』に基づいた番組づくりについて
継体天皇に関する文献史料はごく限られており、「日本書紀」「古事記」「上宮記」の3点しかありません。
そのため番組では、即位に至るいきさつや、25年にわたる政権運営、そして朝鮮半島との外交関係などについて最も詳細な記述のある「日本書紀」にのっとり、取材制作を行いました。

継体天皇の出身「越前説」「近江説」について
継体天皇の生まれ育ちについては文献史料によって記述が異なります。
「日本書紀」・・・“近江国高嶋郡三尾(滋賀県高島市)で生まれ、越前国三国(福井県坂井市)で育った”
        “王を越前国三国までお迎えに行った”
「古事記」・・・“天皇を近江国(滋賀県)より迎えた”
「上宮記」・・・“近江国高嶋宮(滋賀県高島市)で生まれ、三国坂井県(福井県坂井市)で育った”
         (日本書紀の記述とほぼ同じ)
これまで研究者の間でも古事記を根拠とした「近江出身説」と日本書紀を根拠とした「越前出身説」で意見が分かれていました。しかし近年は、父系の血縁地である近江と母系の血縁地である越前の両方に勢力を持っていたとする見方や、そもそも越前と近江を地理的に分けずに一つの地域とみる見方が強くなっており、番組でも「越前から近江にかけてが地盤」との見解をとりました。

「男大迹王(をほどおう)」の表記・読み方について
継体天皇が即位する以前の名を「男大迹(をほど)王(おう)」と言います。表記は、岩波書店発行の『日本書紀』にならい、「をほど」としました。「王」については「おおきみ」と読む場合もありますが、「大王(おおきみ)」との混同を避けるため「おう」としました。
VTR中に登場する物部麁鹿火についても岩波書店発行『日本書紀』にならい「あらかひ」と表記した上で現代語的に「あらかい」と発音しました。

継体天皇の年齢について
「日本書紀」の記述にのっとり、「58歳で即位し、82歳で崩御」としました。
番組中で、「男大迹(をほど)王(おう)、このときすでに57歳」と表現したのは、即位前年(506年)、武烈(ぶれつ)天皇が崩御した時の時制に合わせているためです。

継体天皇陵について
現在、宮内庁は「太田茶臼山(おおたちゃうすやま)古墳」(大阪府茨木市)を継体天皇陵に指定しています。しかし太田茶臼山古墳は450年頃築造と推定されており、継体天皇の崩御年(531年)とかけ離れていることが指摘されています。
このため現在の考古学会では大阪府高槻市の「今城塚(いましろづか)古墳」(530年頃築造)を真の継体天皇陵とする考えが強く、番組でもこの見解にならいました。

屯倉(みやけ)について
VTRの中で図示した屯倉設置の地図は、「日本書紀 第十八巻・安閑天皇記二年五月条」に記載された二十六の屯倉から作成しました。継体天皇は磐井の乱の後、筑紫に糟屋屯倉を置いて地方支配の拠点とし、その後次々に各地に屯倉を置いたと考えられていますが、屯倉設置の記事が多く見られるのは、その子・安閑天皇の時代です。
しかしこれらの記述が継体天皇没後二年目の記述であることから、研究者たちの間では、継体天皇の頃から始まった屯倉設置の実績をまとめて安閑天皇記に記したものだという見方が強く、番組でもこの見解にならいました。

番組内で登場した資料について
継体天皇 肖像画(福井市立郷土歴史博物館 所蔵)
金製垂飾付耳飾(福井市立郷土歴史博物館 所蔵)
金銅製冠(東京国立博物館 所蔵)
鉄剣(大阪府柏原市立歴史資料館 所蔵)
今城塚古墳の円筒埴輪(大阪府高槻市埋蔵文化財調査センター)
石人石馬(福岡県八女市 岩戸山歴史資料館)
継体天皇石像(福井市 足羽山公園)
主な参考文献
『日本書紀(三)』(岩波文庫)
『日本の歴史(3) 古代王権の展開』(吉村武彦 著 集英社)
『ヤマト王権の謎をとく』(塚口義信 著 学生社)
『古代王朝をめぐる謎(門脇禎二 共著 学生社)
『今城塚と三島古墳群』(森田克行 著 同成社)
『古代の鉄生産と渡来人』(花田勝広 著 雄山閣)
『謎の大王 継体天皇』(水谷千秋 著 文春新書)
『古代最大の内戦 磐井の乱』(山尾幸久 共著 大和書房)
『古代の日朝関係』(山尾幸久 著 塙書房)
※絶版になっているものもありますので、書店・出版社にご確認ください。


第307回
緒方洪庵・天然痘との闘い

放送日
(本放送) 平成19年11月28日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
(再放送) 平成19年12月3日(月)
16:05〜16:48 総合 全国
平成19年12月4日(火)
17:15〜17:58 BS2
平成19年12月7日(金)
1:45〜2:28(木曜深夜)総合 近畿のみ
平成19年12月7日(金)
2:30〜3:13(木曜深夜)総合 近畿除く
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
スタジオゲスト 蟻田 功さん
(医師・財団法人国際保健医療交流センター名誉理事長・元WHO職員 60〜70年代の天然痘撲滅プロジェクトのリーダー)
主要著書『天然痘根絶ターゲット0』『地球上から天然痘が消えた日』『「外」の世界』『SMALLPOX and its Eradication』ほか
VTR出演柴田市子さん(医師・中川医院院長)
キャスター松平定知アナウンサー
番組概要
その時:安政5(1858)年4月24日
出来事:洪庵の進めた天然痘予防活動を幕府が公認
幕末猛威をふるった天然痘に、西洋の予防接種法=種痘をもってたちむかった医師・緒方洪庵。民衆の偏見や同業医師らの離反を乗り越えいかに人々に種痘を施していったのか。活動の根底にあった「医は是唯仁術を旨とす」という洪庵の医師としての信念を番組の軸に、医療の本質とは何かを見つめ直す。
緒方洪庵は、幕末、福沢諭吉や大村益次郎など有為な人材を輩出した蘭学塾・適塾を開きながら、本職の医業に携わった。人材育成と人命保護。通底していたのは、「人を生かす」という洪庵の思想だった。
その洪庵が半生をつぎ込んだのが、天然痘の予防だった。天然痘は幕末毎年のように流行し、驚異的な致死率を記録。運良く助かってもあばたが一生残るなど、人びとから命や明朗さを奪っていた。そんな中、洪庵はワクチンを入手。貧富の差なく、貧民には無料で種痘を開始。しかし悪説の流布や仲間の医師たちの離反などで種痘は広まらない。洪庵は自ら地方に出向き、種痘の技術と種痘を行う時の信念を医師たちに伝授する。やがてその信念は関東から九州にまで広がり、幕府をも巻き込む大きな潮流となった。
番組では、洪庵の思いを受け継いだ地方の医師の足跡も取材。「人を生かす」という使命感のもと全国の医師と協力し合って種痘を広めた緒方洪庵の医業への取組とその信念に迫る。
番組の内容について
古代エジプトのミイラについて
古代エジプトのラムセス5世のミイラです。1910年に撮られたと言われる写真には天然痘患者特有の発疹のあとが見えます。一般的には、「現在確認できる人類最古の天然痘患者」とされています。

天然痘の治療法について
天然痘は1度かかれば現在でも根本的な治療法はないといわれています。江戸時代にも罹った人の症状に合わせて治療を行う「対症療法」は行われていましたが、その症状を多少和らげるにとどまり、根本的な治療は施せませんでした。洪庵らの行った牛痘法は、罹る前に防ぐ「予防」であって「治療」ではありません。

天然痘の致死率について
番組では二度、「子供はかかったら4人に3人は命を落としたと言われる」という表現を使っています。天然痘の致死率には諸説ありますが、大人の場合、天然痘に罹った場合の致死率は、20〜50%と考えるのが一般的です。
一方子どもの場合、文献等によると「江戸時代およびそれ以前においては羅患すれば、未痘児(種痘をしていない子供)の75%が死亡するという凄惨なものだった」と著されています。今回はこの表現により、「子供がかかったら4人に3人は死んだと言われる」と、表現しました。

洪庵の天然痘罹患について
番組では、緒方洪庵のひ孫にあたる緒方富雄の著書「緒方洪庵伝」の緒方洪庵年譜を参考にしました。それによると、文化14年3月、8才の時、駢之助(洪庵の幼名)は兄熊之助とともに痘瘡をすませたとあります。
この記述の元となっていると思われるのが、洪庵の兄と父親の日記です。こちらにも同じ記述があります。

老婆が洪庵をたずね人痘法を乞うエピソードの年代について
洪庵と共に、除痘館で天然痘予防活動を進めた松本端が明治時代に著した「大阪市種痘歴史」にその記述があります。

洪庵が牛痘ワクチン普及のために使った絵について
今回番組で紹介した「除痘館種痘啓蒙錦絵」は、もともと江戸の医師桑田立斎が自分の種痘啓蒙活動のために1849年に考案したものです。桑田と洪庵は同じ人を師と仰ぎ、交流があったとされます。洪庵はこの桑田の案を拝借し、1850年からこの錦絵を宣伝として使っていました。洪庵の使った錦絵にも、嘉永3(1850)年の記述があります。

疱瘡神について
疱瘡神は平安時代頃から、日本人に信仰されていたと考えられています。
疱瘡神は元来、天然痘にかかるのを防いでもらうために人びとが祈った神様でした。しかし、江戸時代に入ると人や物の行き来が激しくなり、伝染病である天然痘は、毎年の様に日本のどこかで流行する様になったといいます。
時を同じくして、「天然痘は避けられないもの」という観念が人びとの中に広がったと言われています。そのころから人びとにとって疱瘡神は、いわゆる「神様」というよりも、「疫病神」としてとらえることが多くなったと言います。
疱瘡神の機嫌をとるため踊ったり、祭りを開催したりして、「天然痘にかかるのはしょうがないけれど、かかったらどうか軽くすまして下さい」と祈るようになったのも江戸時代になってからのようです。今回は、幕末の話なので、疫病神としての意味合いの強い疱瘡神として、紹介させて頂きました。

鳥取県に残る記録について
番組で紹介した鳥取県に残る記録については以下の資料から引用し、CGを作成しました。
松本元泰著「疱瘡問答(中)」岡嶋正義著「植物愚案」

江戸の種痘所について
深瀬泰旦著「天然痘根絶史」によれば、「伊東玄朴、箕作阮甫ら蘭方医80名以上が集まって作った江戸のお玉が池種痘所は、安政4年夏にその発起の協議が開始され、8月に川路聖謨の名で幕府に願書を提出した」とあります。さらに続けて、「その願書にたいして幕府の許可がでたのが、安政5年正月15日」とあります。
しかし、この時点でお玉が池種痘所は、「運営」は開始していません。運営を開始したのは、除痘館が幕府の公認を得た二週間後、安政5年5月7日でした。

登場人物の言葉・引用文献
洪庵の言葉
「ただおのれを捨てて人を救わん」
洪庵が生涯の自警としてまとめた、フーフェランドの医学必携「医師の義務」項を訳した「扶氏医戒之略」の一説。

洪庵の言葉
「自分は柔弱で武士に適さない」
「無為に過ごして人の嘲りを受ける」

『洪庵17才の時の手紙』にある記述を引用し、一部意訳。

洪庵の言葉
「医師になる志を立てた。どうか志すところに進むことを許して頂きたい。不肖の息子より」
『洪庵17才の時の手紙』より引用し一部意訳。

洪庵の言葉
「牛痘種法、世に鴻益なること広大無辺なるもののひとつなり」
洪庵の代表的著書『扶氏経験遺訓』の序文からの引用。

適塾生の言葉
「先生は一日牛痘のことを談ずるに及ぶ」
1840年代に適塾に在籍した福岡藩の武谷諒亭著『接痘瑣言』より一部省略し引用。

牛痘法を待ちに待った洪庵の感激ぶり
「緒方洪庵、種痘のさまをみて賞賛やまず」
笠原良策の日記『戦兢録』より引用、一部意訳。

除痘館開設にあたっての洪庵の考えを表す言葉
「病者の費用少なからんことを思うべし。命を与うとも、その命を繋ぐの資を奪わば、またなんの益かあらん」
『扶氏医戒之略』13箇条の一説より。

洪庵の言葉
「悪説流布して、信ずる者一人もこれなきに至れり」
洪庵が1860年に著した除痘館記録より引用、一部省略。

洪庵の言葉
「その間社中の辛苦艱難せること敢えて筆頭の尽くすところにあらず」
除痘館記録より引用、一部意訳。

鳥取県に残る記録
「ある村では、牛痘法を行ったため、今回の流行でも誰も天然痘にかからなかった」
松本元泰著『疱瘡問答(中)』より引用し、意訳。
「その様子を見て、最初疑いを抱いていた隣村の人びとも信用し、みな牛痘法をうけるにいたった」
岡嶋正義著『植物愚案』より引用し意訳。

除痘館のある医師の言葉
「ワクチンの効能を疑って牛痘法を受けなくなり、無残にも天然痘にかかり死に至る者が出ている」
山田金江筆『安政5年3月27日 種痘に付御触渡御願』(『大阪市種痘歴史』所収)より引用し意訳。

幕府からの達し
「医師、緒方洪庵、相ひろめ候、植え疱瘡の儀は、怪しむべきものにこれなし」
『大阪町奉行北組総年寄(4月24日)からの口達』より引用し一部意訳。

洪庵の言葉
「愉快至極なり」
『除痘館創立10年目に作られた申合約定』より引用。

洪庵が生涯守り続けた自戒の言葉
「これただ仁術を旨とするのみ」
洪庵著『除痘館記録』より引用。

番組内で登場した資料について
安政2年大坂医師番付 洪庵記念会蔵
洪庵17歳の時の手紙 洪庵記念会蔵
洪庵愛用のくすり箱 適塾記念会蔵
緒方洪庵肖像 適塾記念会蔵
福沢諭吉写真 慶應義塾図書館蔵
大村益次郎写真 国立国会図書館蔵
大鳥圭介写真  国立国会図書館蔵
解体新書 国立国会図書館蔵
橋本左内肖像 福井市立郷土歴史博物館蔵
戦兢録 福井市立郷土歴史博物館蔵
シーボルト肖像 長崎歴史文化博物館蔵
佐野常民肖像 日本赤十字社蔵
華岡青洲肖像 (財)武田科学振興財団 杏雨書屋蔵
接痘瑣言 慶應義塾大学北里記念医学図書館蔵
疱瘡問答 鳥取県立図書館蔵
植物愚案 鳥取県立博物館蔵
疱瘡神 中村教材資料文庫
牛痘啓蒙の絵 中村教材資料文庫
人痘種痘法の絵 内藤記念くすり博物館蔵
疱瘡を病む子供の図 国立民俗博物館蔵
奇疾絵巻 京都国立博物館蔵
御触書承知印形帳 大阪市立図書館蔵
扶氏経験遺訓 大阪府立中之島図書館蔵
日間瑣事備忘 大坂府立中之島図書館蔵
ラムセス五世の写真 WHO蔵
天然痘患者の映像 WHO蔵
乾漆八部衆立像 興福寺蔵
主な参考文献
『SMALLPOX and its Eradication』(蟻田功ら著 WHO出版)
『緒方洪庵伝』(緒方富雄著 岩波書店)
『日本細菌学外史 その三つの断面』(緒方富雄ら著 非売品)
『緒方洪庵と大坂の除痘館』(古西義麿著 東方出版)
『緒方洪庵と適塾』(梅渓昇著 大阪大学出版会)
『緒方洪庵と適塾生−日間瑣事備忘にみえる−』(梅渓昇著 思文閣出版)
『適塾の謎』(芝哲夫著 大阪大学出版会)
『洪庵のくすり箱』(米田該典著 大阪大学出版会)
『大阪市種痘歴史(上)(下)』(松本端編纂 雑誌『刀圭新報』掲載)
『論集 日本の洋学』(有坂隆道 浅井允晶編 清文堂出版)
『種痘法に見る医の倫理』(小田泰子著 東北大学出版会)
『日本痘苗史序説』(添川正夫著 近代出版)
『病の克服 日本痘瘡史』(川村純一著 思文閣出版)
『天然痘根絶史 近代医学勃興期の人びと』(深瀬泰旦著 思文閣出版)
『「大坂の除痘館」分苗調査報告』(古西義麿著 適塾記念会)
『天然痘ゼロへの道』(加藤四郎監修)
※絶版になっているものもありますので、書店・出版社にご確認ください。

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