国連加盟の時に重光葵外務大臣がおこなった「東西のかけ橋」演説について
この「東西のかけ橋」の「東西」というのは、学者たちの間では一般的に「東洋と西洋」と解釈されている。
ただ、当時の冷戦下の状況から「東(共産国圏)と西(自由主義国圏)」という解釈も一部でされており、重光の演説は聞く人によって、聞く時代によって様々な意味にとらえることができる、時代を越えたメッセージ性の高いものとして評価されている。
なお、演説内容の全文は、下記の外務省HPにて閲覧することができる。和文・英文共に掲載。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/18/esm_1218.html
なお、「東西のかけ橋」と述べたあたり、番組で紹介した部分は下記の通り:
Peace is one and indivisible. Japan believes that the United Nations is the world's central driving force for peace.
The substance of Japan's political, economic and cultural life is the product of the fusion within the last century of the civilizations of the Orient and the Occident. In a way, Japan may well be regarded as a bridge between the East and the West.
She is fully conscious of the great responsibilities of such a position.
「平和は分割を許されない(地球規模で考えるべき)ものであり、日本は国連が世界における平和政策の中心的推進力を果たすべきものであると信じています。我が国の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀にわたる欧米およびアジア両文明の融合の産物であって、日本はある意味において『東西のかけ橋』になり得ると思っています。このような立場にある日本は、その大きな責任を十分に自覚しています」
重光葵(しげみつ・まもる)という人物について
外交官、後に外務大臣となった重光葵は、明治20(1887)年7月29日 大分県に生まれた。東京帝国大学法学部独法律学科卒業後、明治44(1911)年 外交官および領事官試験に合格、ドイツ在勤となった。その後、駐華公使、駐ソ大使、駐英大使などを経て、昭和18(1943)年 第二次東条内閣で外務大臣となる。その後、小磯内閣、東久邇宮内閣、第一次・第二次鳩山内閣で外務大臣を歴任。 重光の名を有名にしたのは、アメリカ海軍旗艦ミズーリ号艦上で行われた太平洋戦争降伏文書の首席全権としての重光だった。日本の国連加盟については、当時の外務大臣として立役者となり、昭和31(1956)年12月18日、国連総会議場で「日本は東西のかけ橋となり得る」という名演説を残した。
その一か月後の昭和32(1957)年1月26日に69歳で亡くなった。
国連本部(ニューヨーク)前の国旗が「全部で192本ある」という表現について
国連本部前には全加盟国192か国の国旗が、向かって左から右へ国名のアルファベット順に立てられている。
実際には国連の旗(水色地に白で五大陸のデザイン)も含まれているため193本立っているが、番組では「全加盟国192か国」という意味合いでコメントしている。
総会議場を訪れた松平キャスターが改めて「192の全加盟国」とコメントしている通り。
「国連本部」見学について
国連は一部一般公開されており、観光客用のガイドツアーも設けられている。日本語ツアーもあり。
ツアーでは、総会議場などいくつかの会議場を見学することができる。(←会議の予定にも左右されるが)
詳細の問合せは:(国番号)1−212−963−7539 まで。
「大東亜会議」について
太平洋戦争の戦況が悪化する中で、大東亜諸国結集を政略的に強化するため昭和18(1943)11月、東条内閣のもとで「大東亜会議」を開催した。会議には中国・タイ・満州国・フィリピン・ビルマ・インド(自由インド仮政府)・日本の代表が集まり、戦争遂行と東亜建設の方針について協議、「大東亜共同宣言」を採択した。宣言では、「アジアの共存共栄」、「自主独立の尊重」、「人種差別の撤廃」などが掲げられている。
参考資料:『国史大辞典』(吉川弘文館)、重光葵著『昭和の動乱』、武田知己著『重光葵と戦後政治』
日本の国連加盟に対するソ連の拒否権(合計4回)について
日本は昭和26(1951)年に調印した「サンフランシスコ講和条約」の前文に国連加盟を申請する意思を明文化、加盟へ動き出した。日本の加盟についてはまず国連安全保障理事会による勧告が必要で、その後 総会で承認される。
日本の加盟について大きな障害となったのは、安保理での「度重なるソ連の拒否権発動」であった。その回数については「3度説」「4度説」があるが、事実は「4回」である。参考資料は、「国際連合 議事録(United Nations所蔵)」に明記。
なお、その4回の期日は下記の通り:
1回目:昭和27(1952)年9月18日
2回目:昭和30(1955)年12月13日
3回目:同年12月14日 4回目:同年12月15日
重光が国連加盟前夜に演説の草稿を作成したホテル
ホテルは、ニューヨーク セントラルパークのすぐ近く、5番街にある
「ザ・ピエール・ニューヨーク」The Pierre, New York
ホテル名は、草稿を重光と共に作成した当時の国連大使・加瀬俊一(かせ・としかず)の記述、『文藝春秋(昭和48年9月号)』、『加瀬俊一回想録(下)』に残されている。
重光行きつけの料理店、国連加盟の喜びを歌った句について
重光がよく通ったという東京・日本橋の鰻(うなぎ)料理店は「伊勢定(いせさだ)」
以前は、店頭に銅板のレリーフで飾ってあったが、店の改装に伴い撤去、現在は見ることができない。
番組では、重光が国連加盟の喜びをしたためた句(直筆の色紙)を店主に見せていただいた。
句の内容は、「霧は晴れ 國連の塔は輝きて 高くかかゝげし 日乃丸の旗」
重光の国連加盟演説内容 (番組内で紹介した部分のみ)
「我が国の今日の政治、経済、文化(の実質)は、過去一世紀にわたる欧米・アジア両文明の融合の産物であって、(ある意味において)日本は“東西のかけ橋”になり得るのです。」
出典先、原文(英文)等の詳細については前述の通り。
重光が満州事変について語った言葉
「明治以来、積み立てられた日本の国際的地位が一朝にして破壊せられ、我が国際的信用が急速に消耗の一途を辿って行くことは、外交の局に当っているものの耐え難いところである」
重光著『昭和の動乱(上)』 より引用
重光が上海事変について語った言葉
「停戦を成立させねば、国家の前途は取り返しの付かざる羽目に陥るべし」
重光の口述筆記『隻脚公使』より一部省略し引用
重光が国際連盟に関して語った言葉
「欧米の国々は、民主主義、民族主義を欧州に実現することに努力した。しかしながら、彼らの努力はほとんど亜細亜には向けられなかった。欧米は阿弗利加(アフリカ)及び亜細亜の大部分を植民地とし、亜細亜民族の国際的人格を認めないのである」
重光著『続 重光葵 手記』を一部省略し引用
重光が太平洋戦争に対して語った言葉
「日本は、苟(いやしく)も東亜民族を踏み台にしてこれを圧迫し、その利益を侵害してはならない。なぜならば、武力的発展は東亜民族の了解を得ることができぬからである」
『昭和の動乱(上)』より一部省略して引用
国連憲章
「言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救うことを決意する」(国連憲章 前文より引用)
「人種・性別・言語・宗教による差別をなくし、基本的人権と自由を尊重することを誓う」
国連憲章 第1章「目的及び原則」 第1条より引用
重光が冷戦構造について語った言葉
「二つの世界の闘争は今後当分続くであろう。その将来の鍵を握るのは、両勢力の外に立つ第三勢力、亜細亜である」
重光著『重光葵 手記』より一部省略して引用
重光が国連加盟の喜びを歌った句
「霧は晴れ 國連の塔は輝きて 高くかゝげし 日乃丸の旗」
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