2005年 9月分 放映リスト

9月7日(水)放送
特集番組 歴史 日本の謎 〜平家はなぜ滅亡したのか〜

9月14日(水)放送  第233回
二宮金次郎 天保の大飢饉を救う

9月21日(水)放送  第234回
戦国 出世の方程式 藤堂高虎 大坂夏の陣の大勝負

9月28日(水)放送  アンコール
戦艦大和の悲劇 〜大艦巨砲主義、時代に敗れる〜 



特集番組 
歴史 日本の謎
〜平家はなぜ滅亡したのか〜

放送日

<本放送>
平成17年9月7日(水) 21:15〜21:58 総合 全国
<再放送>
平成17年9月16日(金)(※木曜深夜) 00:40〜01:23 総合 全国
出演者
松平 定知 アナウンサー
上田 早苗 アナウンサー
番組概要

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 私たちが常識としている歴史上の事件は果たして実像なのか?歴史の常識に疑問を投げかけ、その「謎」を徹底的に推理・検証して、新たな真相に迫る新企画の番組。
テーマは「平家滅亡の謎」。一般には「平家は武士なのに貴族化して驕(おご)り、その驕りが新王朝設立の野望にまで発展して滅んだ」とされている。しかし、視点を変えると「貴族の平家が武力を持つことで巨大化したゆえに窮地に立たされ、一門存続のためにクーデターを行って滅ぼされた」という異なった考えが浮かび上がってくる。
番組では、一般的な「通説」を「身から出た錆(さび)」、視点を変えた新たな説を「窮鼠(きゅうそ)猫をかむ」として、それぞれの論拠となるVTRを交互に提示。2人のキャスターが議論をたたかわせながら、「平家滅亡の謎」を解き明かしていく。
さらに番組では、視聴者の皆さんにどちらの説に納得したかについて質問。生連動システムを使って、番組の最後にその投票結果を発表する。歴史の謎を解く楽しさを視聴者の皆さんにも味わっていただく。
番組の内容について
○「平氏」ではなく「平家」を使用していることについて
「氏」は、一族を表す言葉であるのに対し、「家」は朝廷の位階でいう「三位」以上の一族にしか使用できない。平家は、平氏とも表現されるが、厳密に言えば、三位未満の時は「平氏」であるが、三位以上は「平家」である。番組を作っている時点から見れば、平家は「三位」以上の位階であるため、「平家」を使用した。

○『平家物語』について
作者未詳。13世紀前半(鎌倉時代)に書かれたと推測される戦記文学。異本が数多く派生したため、相互に本文転化の過程を追い系統づけられないほど、混淆している。原本の形態を具体的に示すことは不可能に近い。(以上『国史大事典』による)
番組で紹介したのは、国立公文書館が所蔵する『覚一本系統平家灌頂本』。「おごれる人も久しからず」もそれに拠った。その他「おごれる者も…」とするものもある。(スタジオ中、上田アナウンサーの表現)

○「通説」について(上田アナウンサーの論拠「身から出た錆」)
◆「武士の貴族化」…一般に平家のイメージとして考えられている。番組では、事前に不特定の方々に「平家はなぜ滅亡したのか」という問いを投げかけたところ、ほとんどの方がこのことを指摘した。
◆「傲慢」…上記に同じ。また、『平家物語』に記される「おごれる人も久しからず」「平家にあらずんば人にあらず」を指摘する方も多かった。
◆「新王朝の野望」…治承3(1179)年11月の、いわゆる「治承3年のクーデター」以降、高倉天皇の譲位・院政、安徳天皇の即位、福原遷都を指して、平家系の王朝を確立したことを指す。これらは、研究者によって意見が分かれるところもある。京の都の旧体制から離れるためのものであったという指摘と自ら能動的に行動したという説もある。今回番組では、各書物、研究者への取材を通して後者の能動的な意見が多いと判断した。

○「新説」について(松平キャスターの論拠「窮鼠猫をかむ」)
◆「軍事貴族」…歴史学会ではほぼ承認されている考え方。武士が貴族になったのではなく、軍事を家の職業とする貴族であった。平家の場合、桓武天皇の血を引く貴族として臣下に下った。その後、拠点を関東、伊賀・伊勢などに変えつつ、清盛の祖父・正盛の時代に白河院政に仕え、京での足がかりをつかむ。祖父の時代には、貴族にさぶらう存在であったのかどうか、グレーな部分も多いが、清盛の父・忠盛の時代になると、殿上人(ある種の特権階級)になるなど、その地位は高いものであった。清盛は、さぶらう存在としてのし上がったのではなく、祖父・父の基盤の基、12歳(数え)の時から貴族の地位にいた。
◆「窮地」…後白河法皇が清盛の娘・徳子の入内を進めたという説は、研究者への取材を基に紹介している。又、法皇が清盛(平家)への心変わりをしたことについても、研究者の「皇位継承問題」の説をもとに、後白河法皇の歴史を読み解き、状況証拠と推測を交え、院政維持の考えを示した。さらに、平家一門の分散についても、研究者への取材を基に紹介している。
◆「一門の存亡」…徳子の入内、皇子(後の安徳天皇)の出産により、清盛が政治的な野望を抱いたということは、状況証拠により高い可能性がある。しかし、その具体的な行動として表れた「クーデター」への道筋を検討すると、この説が浮かび上がる。研究者への取材をもとにしている。政治的生命が奪われる中、築き上げた地位の保持のためという考え方である。

○保元の乱について
一般には保元の乱では、源義朝が活躍し平家の活躍は少ないとされている。しかし、後白河天皇方600騎中300騎が清盛率いる平家であったことから、平家が天皇方に加わった時点で、ほぼ勝利が決まったと研究者は見ている。
また、この時崇徳上皇方に、清盛の叔父・忠正一党が加わっているが、数としては微々たるもので、平家の大多数は清盛の下、天皇方に加わった。

○保元の乱以前の清盛について
清盛が3歳(数え)の時、実母が死去。その後、父親の忠盛は池殿と呼ばれる後妻をめとる。清盛には家盛、頼盛という異母弟が生まれる。後継者として、家盛の存在は大きかった。家盛は保元の乱の7年前に亡くなるが、それまで清盛の有力な対抗馬として存在していた。家盛亡き後、頼盛は池殿の息子として一門の中で存在感を増していた。

○清盛の異母の発言について
保元の乱の際、池殿が頼盛に語った言葉は『愚管抄』による。
「ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレ」。

○「家来」という表現について
平安末期、家来は「家人(けにん)」と称されていたが、番組では分かりやすさを重視して、「家来」の言葉を使っている。

○清盛の国家的軍事権力掌握について
仁安2(1167)年、清盛が太政大臣に就任する1週間前、長男の重盛が東山・東海・山陽・南海の四道の賊徒追討権を朝廷から与えられる。これは、清盛が平治の乱後実質的に保持していた権力を重盛が継承したものと言える。清盛の場合、宣下なくして実力でこうした権限を行使したと研究者は見ており、重盛への継承が出来たことは、当然、清盛もこの権限を保持していたと言える。

○清盛が娘・徳子入内で権力向上を企んだことについて(通説で紹介)
『愚管抄』には清盛の考えを推測している記述がある。
「…コノ平太相國(たいらのだいしょうこく)入道ガムスメヲ入内セサセテ、…(中略)皇子ヲ生セマイラセテ、イヨイヨ帝ノ外祖ニテ世ヲ皆思フサマニトリテント思ヒケルニヤ…」
また、当時外祖父になっても、藤原家の摂関政治のようにはいかず、政権の保持とは無関係であったとする研究者もいる。

○弟や息子たちの出世について
番組中盤で紹介した一門の出世は、徳子が入内した承安元(1171)年時点のもの。出典は『公卿補任』。

○「禿髪(かぶろ)」について
出典は『平家物語』。14〜16歳の少年300人あまりを都に放ち、悪口や批判をした者を逮捕し、清盛のもとへ連行したとされている。いつの時代かは不明だが、恐らく平治の乱後の保元(1161)年、清盛が京の軍事・警察機構である「検非違使」の別当になった頃からだと推測される。情報収集的な秘密警察の役割と共に、権力を誇示する デモンストレーションの役割を負ったという見方をする研究者もいる。

○鹿ヶ谷の陰謀について
*白い布について…謀議に呼ばれ、清盛に密告した男は源氏の者だった。この男に旗揚げを進める為に、源氏の白旗を作るように後白河法皇は命じた。
*謀議のきっかけ…平家一門とのポスト争いに敗れた貴族のねたみから始まったと言われている。

○「此の一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」について
読み方は、「このいちもんにあらざらむ(ん)ひとはみなにんぴにんなるべし」。
「む」は、「ん」でも良いが、厳密に言えば、「む」の方が正しい。又「人非人」は、一般的には「平家にあらずんば人にあらず」と解釈されているが、本来の意味は、「傍流である」あるいは「外側に置かれている人たち」という意味。番組では、通説で紹介しているため、一般的な意味を紹介した。

○一門の分散について
一門の分散があり、入内もその求心力を再び強めるため、という根拠は、研究者への取材が根拠となっている。
*長男・重盛…跡取りの第一候補であったが、病弱で、朝廷の官職の就任・辞任を繰り返しており、不安の種となっていた。
*三男・宗盛…母親・時子(ときこ)の妹・滋子(しげこ)(建春門院ー高倉天皇の母)は、後白河上皇(法皇)の寵愛を受けていた。宗盛は、この叔母である滋子を頼り、朝廷内で独自の立場を築いていた。
*弟・頼盛……番組で紹介した通り。

○クーデターについて
正式名は「治承3年のクーデター」。
支配国を「クーデター前に17ヶ国だった支配国は32ヶ国に達しました」と紹介した場面で、「平家の支配国」としている点については、厳密には、平家一門、平家家人(家来)および平家シンパの貴族が該当する。ナレーションで「反対勢力の貴族が支配する国を奪い、それらも平家一門などに与えます。クーデター前に17ヶ国…」としている点と実質的に平家の支配下にあることから、番組紹介した表現にした。

○「新王朝をうちたてた」について
クーデター後、清盛が安徳天皇を即位させたことによる。本来、この時代、皇位継承は 天皇家の家長が決めていた。院政時代においては、天皇を経験した上皇、あるいは法皇が決めるべきものであった。研究者への取材によると、清盛は、安徳天皇を即位させ、平家の言うがままの王朝を打ち立てた為、当時の認識では、新王朝と捉えられていたと考えられるという説によった。

○「即位も遷都も天皇家の意思によってのみ行われてきた」について
即位・遷都のみならず、農業と関わりある暦も天皇家の意思によって定められてきた。清盛はそれらを自らの権限で断行したので、タブーと表現した。○以仁王の令旨(りょうじ)について
出典は『吾妻鏡』。

○清盛の厳島神社への月詣でについて
月詣での出典は『愚管抄』。皇子出産後に泣いたことについての出典は『平家物語』と『山槐記(さんかいき)』。

○関門海峡と赤間神宮について
関門海峡は、本州と九州の間にある海峡。赤間神宮は、山口県下関市にある。
平家の墓は、「七盛塚」と呼ばれている。実際には、大小含めると7つ以上あり。「耳なし芳一伝説」のある場所。

○インタビュー出演者について
橋昌明さん。神戸大学文学部教授。博士。専門分野は日本中世史。特に平家、武士の成立などについて意欲的な研究論文を次々に発表している。
*主要著書 「清盛以前」文理閣 「武士の成立 武士像の創出」東京大学出版会
「酒呑童子の誕生ーもうひとつの日本文化」中央公論社 他多数
番組中に登場した資料について

「平清盛公坐像」 六波羅蜜寺 蔵
「平家物語絵巻」 林原美術館 蔵
「平家物語」 国立公文書館 蔵
「愚管抄」 〃
「玉葉」 〃
「吾妻鏡」 〃
「後白河法皇坐像」 長講堂 蔵
「崇徳上皇肖像」 宮内庁三の丸尚蔵館 蔵 
「平清盛肖像」 〃
「平重盛肖像」 〃
「平宗盛肖像」 〃
「高倉天皇肖像」 〃
「平治物語絵巻」東京国立博物館 蔵
「男衾三郎絵詞」 〃
「保元合戦図屏風」 馬の博物館 蔵
「安徳天皇肖像」 泉涌寺
「伝源頼朝像」 神護寺

参考文献
「清盛以前」橋昌明著 文理閣
「武士の成立 武士像の創出」橋昌明著 東京大学出版会
「源平の盛衰」上横手雅敬著 講談社学術文庫
「平清盛」五味文彦著 吉川弘文館
「平家物語図典」五味文彦 櫻井陽子編 小学館
「平清盛の闘い」元木泰雄著 角川書店
「武士の成立」元木泰雄著 吉川弘文館
「保元・平治の乱を読みなおす」元木泰雄著 NHKブックス
「保元の乱・平治の乱」河内祥輔著 吉川弘文館
「日本の歴史6武士の登場」竹内理三著 中公文庫
「平家物語」全訳注 杉本圭三郎 講談社学術文庫
「平家の群像」安田元久著 塙新書
「愚管抄」岡見正雄 赤松俊秀校注 岩波書店
「訓読玉葉」高橋貞一著 科書店
「全譯吾妻鏡」 貴志昭造訳注 新人物往来社
「平家物語絵巻」林原美術館編著 クレオ
「平治物語絵詞」小松茂美編集・解説 中央公論社 ほか




第233回
二宮金次郎 天保の大飢饉を救う

放送日

<本放送>
平成17年9月14日(水)21:15〜21:58 総合 全国
<再放送>
平成17年9月23日 (金)0:40〜1:23 総合 全国
出演者
松平 定知 アナウンサー
○スタジオゲスト 内橋克人さん(経済評論家)
番組概要

その時:天保8(1837)年春4月

出来事:天保の大飢饉で二宮金次郎が小田原領民四万人を救済
 幕末に起きた江戸時代最大規模の災害、天保の大飢饉。この時、全国の村々の救済に活躍したのが農民・二宮金次郎だった。勤勉の象徴として知られる金次郎だが、その名を残したのは大災害が続発した幕末、独創的な手法で村々の復興を次々と成功させたことにある。金次郎は、規則に縛られる役人達たち対立しながら、瀕死の困窮民の支援に奮闘。小田原領民四万人を一人の餓死者もなく救うことに成功した。番組では、知られざる金次郎の奮闘を描く。 
番組の内容について
○イントロの音楽について
歌「二宮金次郎」→「新訂尋常小學唱歌全集」に収録
レーベル・レコード番号 TOSHIBA TOCG-5411/5412
          東芝EMI/P1997

○金次郎像のある小学校について
鹿沼市立中央小学校(栃木県鹿沼市今宮町)

○金次郎の松について
神奈川県小田原市栢山 酒匂川にかかる報徳橋付近の松並木
(小田急線 栢山駅下車 徒歩5分 駅前に二宮金次郎関係の案内板があります)

○金次郎が学んだ論語の一節について
「己に打ち勝てば、天下はその仁徳に従う」

○二宮金次郎の生家  
小田原市栢山 尊徳記念館脇 (問い合わせ:Tel0465−36−2381)

○表彰状について
栃木県二宮町 二宮尊徳資料館内で閲覧できます。
(問い合わせ:二宮町役場 0285-74-0107)

○嘆願書について  
(問い合わせなど同上)

○役所の建物について
桜町陣屋(見学は可能です。 問い合わせなど同上)

○貯蔵記録について 
小田原市報徳博物館 蔵
(問い合わせ:〒250-0013小田原市南町1-5-72 Tel0465-23-1151) 

○金次郎が役人達に言った言葉について
「政治が行き届かず、飢饉に及んで民を死にいたらしめるとすれば、一体なんと言って天に謝罪するのか。」
「それならば、許可状が到着するまでの四日間、我々役人一同も飢えた民同様に、断食すべし。」

○金次郎が農民達に言った言葉について
「代々同じ村に住み、同じ水を飲み、同じ風に吹かれた村民ではないか。死ぬのを黙って見ている道理はあるまい。貧乏人の中には怠けてそうなった者もおり腹が立つだろうが、それでもなお銭一文を施し、米ひとすくいを与えるのが人情というものだ。未来の実りを信じて今こそ飢餓を救うのだ。」

○報徳金台帳 
報徳博物館 蔵(閲覧不可 連絡先上記)
                
○二宮金次郎の墓について
栃木県今市市 報徳二宮神社
(問い合わせ:Tel0288−21−0138 見学できます)

○幸田露伴本 「二宮尊徳翁」
 ※絶版ですが、大きめの図書館には置いてある所もあります。

○雑誌「青年」 ※報徳博物館所蔵

○一円札  ※同上 所蔵

○大人の金次郎像について 
 @栃木県今市 JR下野大沢駅
 A栃木県二宮町 二宮尊徳資料館前
 B小田原市栢山 尊徳記念館前
  小田原市栢山2065−1 рO465−36−2381
番組中に登場した資料について

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参考文献
(主な入門書として) 
「二宮翁夜話」PHP研究所
「代表的日本人」(岩波文庫)ほか




第234回
戦国 出世の方程式
〜藤堂高虎 大坂夏の陣の大勝負〜

放送日

<本放送>
平成17年9月21日(水)21:15〜21:58 総合 全国
<再放送予定>
平成17年9月30日 (金)(※木曜日深夜)0:20〜1:03 総合 全国
※東海三県(愛知、三重、岐阜)では、再放送は9月30日(金)1:15〜1:58となります。
・平成17年10月14日(金)(※13日(木)深夜)0:15〜0:58<総合・近畿地方のみ>※近畿地方のみの放送となりますので、ご注意ください。

・平成17年10月14日(金)16:05〜16:48 <総合・全国>
出演者
松平 定知 アナウンサー
○スタジオゲスト 上之郷 利昭さん(作家、評論家、ジャーナリスト)
番組概要

その時:慶長20年(1615)年5月6日

出来事:大阪夏の陣で藤堂軍が大阪方の軍勢を破る
 戦国時代、織田・豊臣・徳川のもとを渡り歩き、地侍から32万石の国持ち大名に上り詰めた藤堂高虎。なぜ高虎は“戦国の勝ち組”となったのか?自らの価値を上げるため10人の主君を変え、キャリアアップが必要となれば城作りを学んで築城の名手として地位を得ていく。しかし、秀吉の死後、家康の天下統一が進むなかで、高虎のこれまでの生き方は通じなくなる。そして迎えた大阪夏の陣。高虎は家康への忠義を示すため、命を賭した戦いに立ち上がった。藤堂高虎の「200ヶ条の家訓」をひもとき、戦国の出世の方程式に迫る。
番組の内容について
○藤堂高虎を伝えるために根拠とした資料について
江戸時代にまとめられた藤堂藩(津藩)史料、および高虎の伝記にもとづいています。
「公室年譜略」(こうしつねんぷりゃく)藤堂藩初期史料 編・発行上野市古文献刊行会
        原書:東京大学史料編纂所所蔵
「高山公實録」(こうざんこうじつろく)藤堂高虎伝 編・発行上野市古文献刊行会
        原書:伊賀市上野図書館所蔵

○藤堂高虎について
1556年生―1630年没。戦国時代から江戸時代前期にかけ活躍した武将。
15歳で近江の地侍として初陣し、伊勢・伊賀を治める32万石の津藩主にまで出世しました。
生涯で仕えた10人の主君とは、浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、羽柴秀長、豊臣秀吉、豊臣秀保、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光。

○「おおさかじょう」「おおさかのじん」の漢字表記について
・「大阪城」あるいは「大坂城」
現在の「おおさかじょう」は「こざとへん」の「阪」を使った「大阪城」と表記されていますが、明治維新までは「つちへん」の坂を使った「大坂城」と表記されていました。番組ではこうした事実にのっとり、「おおさかじょう」は「大坂城」と表記しました。
・「おおさかのじん」の漢字表記について
「おおさかじょう」の表記の原則にのっとり慶長19年〜20年の出来事ですので「大坂の陣」と「つちへん」の大坂を用いました。

○乾坤一擲(けんこんいってき)の作戦とは?
1615年5月6日、大坂夏の陣で二手に分かれた徳川軍の一方の先ぽうをつとめた高虎は、河内の八尾で大坂方の長宗我部軍を発見します。この時、両軍の間には湿地帯がひろがり、攻撃を仕掛けるのは困難な中、家康本陣を守るために高虎の決断で攻撃を始めた、いわゆる「八尾の戦い」での高虎の決断・行動を指しています。

○高虎が遺した家訓について
江戸時代に藤堂藩で編纂された史書「宗国史」(そうこくし)の中にある「遺書録」(いしょろく)に200ヶ条の家訓が書かれています。これは高虎が晩年、口伝したものを仕えていた家臣が記録したものといわれています。
「宗国史」だけの活字化された本は出されていませんが、この「遺書録」は、「高山公實録」(こうざんこうじつろく)藤堂高虎伝(編・発行上野市古文献刊行会)の中に原文を活字化されたものが書かれています。
さらに、200ヶ条の家訓を現代語訳したものが、三重県伊賀市の伊賀上野城において販売されています。

○慶長20年について、
この年、7月13日に「元和(げんな)」と改元されていますが、大坂夏の陣があった5月6日は「慶長(けいちょう)」です。

○藤堂高虎の身長や性格、藤堂家の過去、高虎の父に関して
高虎、及び藤堂家に関しては、江戸時代の藤堂藩(津藩)史料、および高虎の伝記にもとづいております。
「公室年譜略」(こうしつねんぷりゃく)藤堂藩初期史料 (編・発行上野市古文献刊行会)
「高山公實録」(こうざんこうじつろく)藤堂高虎伝 (編・発行上野市古文献刊行会)

○「地侍」について
戦国時代の「地侍」は、普段は農業などを営み、合戦となったときに懇意にしている大名などに陣借りし、手柄を立てることにより褒美を貰ったり、家臣として取り立てられることを目指した武士です。

○「知行(ちぎょう)取り」について
戦国時代の「知行取り」は、大名などの家臣として正式に召し抱えられ、一定の知行(年貢収入のある土地)や扶持(お米など)を安定して与えられる立場につくことを示しています。

○高虎の家訓
「敵をしとめる時、前に言葉をかけるべからず。刀をうちつける時、一度に言葉をかけるべし。」
(現代語訳、および一部意訳をしています)
宗国史「遺書録」(高虎の遺訓)より(家訓を読みたい場合、入手方法などは上記記載)

○阿閉貞征(あつじさだゆき)について
浅井氏家臣。1573年、浅井氏滅亡直前に織田氏に内通していたために所領を安堵されます。しかし、高虎が阿閉家を飛び出し、磯野家へ移った時点では、まだ、浅井家臣でしたので、「味方も敵もおかまいなく、渡り歩く高虎」との表現を使っております。

○“阿閉家で報酬ゼロ”の表現に関して
高虎の目標は、安定した収入の得られる知行取りを目指していましたので、ここでの「報酬ゼロ」という表現は、「知行取りとして取り立てられなかった」ということを意味しています。もちろん、褒美などはもらった可能性はありますが、阿閉家で知行取りになったという事実は、藩史や伝記にはありません。

○「感状(かんじょう)」について
合戦に参加した武士の戦功を賞して発出される文書。鎌倉時代末から江戸時代の初めにかけて長く行われた。感状は、武士が誇りとする戦功の証明書であり、名誉のしるしでした。

○番組で使用してる感状について
番組で使用している「感状」は、戦国時代、北条氏直から家臣・宇津木氏へ出された感状で、大阪城天守閣所蔵のものです。一般的に戦国時代の感状というものがどういうものであるかを表すために使用しています。 

○高虎が浅井長政から貰った感状の文面について
「城の正面で、一番に敵の首を討ち取ったこと、比類無き戦功である。」
「高山公實録」藤堂高虎伝(編・発行上野市古文献刊行会 原書:伊賀市上野図書館所蔵より)

○主君が磯野員昌(かずまさ)から織田信澄に変わったことに関して
員昌(かずまさ)から信澄に主君が変わった経緯についてははっきりとしていませんが、員昌は信長のおいである信澄を養子としていたようで、員昌が、信長によって追放されたか、自らの意志で出奔し、家督が信澄に譲られたようです。譲られた月日もはっきりしませんが、今回は高虎の伝記「高山公實録」によっています。

○浪人を重ねた高虎が遺した言葉
「数年昼夜奉公しても、気のつかない主人であれば、代々仕えた主君であっても暇(いとま)をとるべし。うつらうつらと暮らすのは意味がない。」
(現代語訳、および一部意訳をしています)
宗国史「遺書録」(高虎の遺訓)より(家訓を読みたい場合、入手方法などは上記に記載)

○羽柴秀長、織田信澄の所領について
戦国時代は、石高制をひいていませんが、今回番組で根拠としている「高山公實録」には、当時の高虎の記憶として、諸大名の大きさが石高で描かれていますので、わかりやすいように石高制で表現しています。「高山公實録」で、織田信澄(磯野員昌)の石高は6万石となっています。また、高虎が仕えた頃の秀長は、秀吉が12万石といわれる長浜城主となったあとで、およそ8千5百石を領していたといわれています。

○高虎が仕えた主君のその後について
浅井長政 1573年信長の攻撃で自害
阿閉貞征 1582年本能寺の変後、明智方につき、秀吉方に討伐される
織田信澄 1582年本能寺の変で明智方に内通した疑いで織田方に討たれる

○出世に関して高虎が遺している家訓
「侍はなるべく芸を習って、どんな道でも用に立つと覚悟すべきである。自分の働きがすぐできる。」
(※現代語訳、および一部意訳をしています)
宗国史「遺書録」(高虎の遺訓)より(家訓を読みたい場合、入手方法などは上記記載)

○「縄張(なわばり)」について
建築の敷地に縄を張って建物の位置を決めること。そこから、城などの設計などを表す言葉として使われました。

○高虎が作ったおよそ20の城について
高虎は下記城の築城、修築、縄張りなどに関わっているといわれます。
和歌山城、大和郡山城、紀州粉河城、赤木城、宇和島城、膳所城、大洲城、甘崎城、灘城、伏見城、名古屋城、今治城、丹波篠山城、江戸城、丹波亀山城、伊賀上野城、津城、二条城、大坂城、駿府城

○豊臣秀保(ひでやす)について
1579年生まれ―1594年没。豊臣秀吉のおい(姉の子)。兄は関白・豊臣秀次。叔父・秀長の養子となり、秀長死後、大和郡山豊臣家を継ぐ。1595年、十津川で変死を遂げる。死因については諸説あり、これで大和郡山豊臣家は断絶となりました。

○もめ事に関して高虎が遺した家訓について
「人の仲裁事やわび事に関わってはならない。首尾が良ければよいが、そうでないと結局自分の災難となる。」
(※現代語訳、および一部意訳をしています)
宗国史「遺書録(高虎の遺訓)」より(家訓を読みたい場合、入手方法などは上記参照)

○高虎が高野山へ入ったことに関して
高虎の伝記「高山公實録」には、番組中で門やご本尊を映像として使用させて頂いている「高室院(たかむろいん)」に髻(もとどり)を切り、入ったと書かれています。

○藤堂藩史に書かれている家臣たちの行動について
「公、高野山ヘ退隠ノ間百余ヶ日(こう、こうやさんへたいいんのかんひゃくよかにち)」
「家中ノ士、離散セス(かちゅうのし、りさんせず)」
意味:高虎が高野山へ籠もっていた百日あまりの間、藤堂家の家臣達はかたまっていた。
※「公室年譜略」藤堂藩初期史料 編・発行上野市古文献刊行会 原書:東京大学史料編纂所所蔵より

○高虎が遺した家訓について(家族(女房)について)
「女房に思いやりなくあたる者があるが、大いに間違っている。男を信頼して、どんな境遇になっても連れ添うほどの間柄なのだ。いとおしみ、仲良くすべきである。」
(※現代語訳、および一部意訳をしています)
宗国史「遺書録(高虎の遺訓)」より(家訓を読みたい場合、入手方法などは上記参照)

○高虎が家康支持の態度を示したことについて
明確な年代はわかりませんが、秀吉の死の前後に高虎は、まだ一大名にすぎない家康に弟の正高を人質として江戸へ送っています。まだ家康の天下でもないのに、豊臣恩顧の藤堂高虎が家康に人質を送るのは、他の大名に先駆けた明確な家康支持の態度でした。

○高虎が遺した家訓について(侍の心得について)
「侍で自分の考えを固持することができない者は、ナタの首が折れたようなものである。」
宗国史「遺書録(高虎の遺訓)より(家訓を読みたい場合、入手方法などは上記参照)
(※現代語訳、および一部意訳をしています)

○関ヶ原での高虎の活躍について
高虎の伝記「高山公實録」では、高虎は関ヶ原の合戦において、同郷やかつての同僚である西軍の将、脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱の寝返り工作をし、成功したとあります。このことは、小早川秀秋の寝返りとともに西軍の要であった大谷吉継軍の壊滅へとつながり、戦いの勝敗に大きな影響を与えました。

○小早川秀秋、小川祐忠など家康の外様大名に対する態度に関して
小早川家は嗣子がなく廃絶、小川家は関ヶ原後、所領没収となっています。今回二人は象徴として取り上げましたが、家康は、関ヶ原後、80以上の外様大名を潰しており、その後も江戸時代前半まで様々な理由を付けて、外様大名を潰していきます。豊臣恩顧で、それまでも主君を次々と変えてきた高虎が、「家康に潰されない外様大名」となることはかなり難しいことでした。

○大坂冬の陣で豊臣秀頼から藤堂高虎宛の手紙について
「申し合わせたように、東軍を裏切ってくれれば、約束した領国を与え、その他の恩賞も望み次第とする。」
「高山公實録」(こうざんこうじつろく)藤堂高虎伝(編・発行上野市古文献刊行会 原書:伊賀市上野図書館所蔵より)
冬の陣で徳川軍に、大坂方の密使が紛れ込み捕らえられます。その密使は、豊臣秀頼直筆の藤堂高虎宛の手紙をもっていて、その手紙には上記にあるように、事前に高虎と秀頼が内通していて、高虎が家康軍を裏切る段取りであることが書かれていました。この情報に家康軍は動揺したことが「高山公實録」には書かれています。
また、これは豊臣恩顧であり、謀略家である高虎であれば信ぴょう性があると読んだ大坂方の謀略でした。高虎はこのことを大変悔しがったことが、「高山公實録」に描かれています。

○重臣二人が高虎を訪ねたエピソードについて
「公室年譜略」(こうしつねんぷりゃく)藤堂藩初期史料
(編・発行上野市古文献刊行会/原書:東京大学史料編纂所所蔵より)
大坂冬の陣のあと、夏の陣の直前、高虎の元に一族であり、長年仕えてきた重臣である藤堂新七郎と藤堂仁右衛門が訪ねてきます。彼らは、大坂夏の陣を乱世最後の戦いだといい、後の世に藤堂家を残すため「この度我々は、是が非でも戦死する覚悟でございます」といいます。これを聞いた高虎は、藤堂家を思う彼らの気持ちに感動し涙を流したと記されています。

○その時(慶長20(1615)年5月6日)大坂夏の陣の藤堂軍の戦いについて
徳川軍は大坂城へ向け、二手に分かれ進軍します。藤堂軍はその一方の先ぽうでした。出発してすぐ、藤堂軍は、大坂方の主力である長宗我部軍を河内の八尾で発見します。長宗我部軍は藤堂軍の後方にある家康本陣への奇襲を目論んでいました。しかし、藤堂軍と長宗我部軍の間には大きな湿地帯が広がりもし、攻撃を加えれば藤堂軍の方が壊滅的被害を受けることが予想されました。通常ならば、後続の味方部隊や家康本陣と連絡を取り、自軍の被害が少ないように対応すべき所、高虎は藤堂軍に突撃を命じます。「八尾の戦い」といわれるこの戦で高虎は300人以上の家臣を失います。

○家康の言葉
「国に大事が起こったときは、藤堂高虎を一番手(先ぽう)とせよ」
戦国時代、戦の勝敗に大きく影響する先ぽうは、大将から信頼された武将が任せられる、重要で名誉ある立場でした。「公室年譜略」(こうしつねんぷりゃく)藤堂藩初期史料(編・発行上野市古文献刊行会 原書:東京大学史料編纂所所蔵)によると家康は晩年上記の言葉を遺したと書かれています。

○藤堂家加増の経緯について
秀吉に伊予・宇和島7万石の大名としてもらった高虎は、関ヶ原合戦の功績で家康によって伊予・今治12万石に加増されます。その後、家康によって伊勢・伊賀20万石となり、大坂夏の陣の後さらに加増され伊勢・伊賀32万石となります。

○藤堂高虎が残した家訓について
最後のVTRに出てくる高虎の言葉は全て「遺書録」のものです。
※宗国史「遺書録」(高虎の遺訓)
江戸時代に藤堂藩で編纂された史書「宗国史」(そうこくし)の中にある「遺書録」(いしょろく)に200ヶ条の家訓が書かれています。これは高虎が晩年、口伝したものを仕えていた家臣が記録したものといわれています。
「宗国史」だけの活字化された本は出されていませんが、この「遺書録」は、「高山公實録」(こうざんこうじつろく)藤堂高虎伝(編・発行上野市古文献刊行会)の中に原文を活字化されたものが書かれています。さらに、200ヶ条の家訓現代語訳したものが、三重県伊賀市の伊賀上野城において販売されています

○家臣の生活への言葉
「冬でも薄着を好むべし。
厚着を好めば癖になり、にわかに薄着になったときかじかむものである。」

○人生を感じさせる言葉
「人をだましてはならない。真(まこと)の時承諾が得られない。深く慎むべし。」

○家訓の一番最初の言葉
「寝室を出るときから、今日は死ぬ番であると心に決めなさい。
  その覚悟があればものに動ずることがない。」
(※現代語訳、および一部意訳をしています)

○高虎の死
寛永7(1630)年10月5日死去。伝記にはその遺体は槍や鉄砲の傷だらけであったと書かれています。
番組中に登場した資料について

藤堂高虎肖像:藤堂高正
浅井長政肖像:高野山霊宝館
豊臣秀吉肖像:逸翁美術館
豊臣秀長肖像:大徳寺 大光院
徳川家康肖像:大阪城天守閣
福島正則肖像:妙心寺 海福院
加藤清正肖像:熊本市熊本博物館
豊臣秀次肖像:瑞泉寺
豊臣秀頼肖像:東京藝術大学大学美術館
片桐且元肖像:大徳寺玉林院
小早川秀秋肖像:高台寺
織田信長肖像:長興寺
加藤嘉明肖像:加藤敏之
関ヶ原合戦図屏風:関ヶ原町歴史民俗資料館
公室年譜略 藤堂藩初期史料:東京大学史料編纂所
高山公實録 藤堂高虎伝:伊賀市上野図書館
宗国史 遺書録:伊賀市上野図書館

参考文献
「公室年譜略」(こうしつねんぷりゃく)藤堂藩初期史料 
        編・発行 上野市古文献刊行会
        原書:東京大学史料編纂所所蔵
「高山公實録」(こうざんこうじつろく)上下巻 藤堂高虎伝 
        編・発行 上野市古文献刊行会
        原書:伊賀市上野図書館所蔵
大坂の役    旧参謀本部編纂 発行 徳間書店
津藩      著者 深谷克己 発行 吉川弘文館
二番手を生きる哲学  著者 童門冬二 発行 青春出版社
豊臣秀長のすべて   編・発行 新人物往来社
別冊歴史読本 戦況図録 関ヶ原大決戦  発行 新人物往来社
別冊歴史読本 戦況図録 大坂の陣    発行 新人物往来社




アンコール
戦艦大和の悲劇
〜大艦巨砲主義、時代に敗れる〜 

放送日

<本放送>
平成17年9月28日(水) 21:15〜21:58  総合 全国
<再放送予定>
平成17年10月7日(金) 16:05〜16:48  総合 全国
出演者
松平 定知 アナウンサー
○ゲスト 戸高一成さん(呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム館長)
番組概要

その時:昭和20(1945)年4月7日午後2時23分

出来事:戦艦大和が沈没
 史上最大の不沈戦艦として日本海軍の技術の総力を結集して建造された大和。しかし、実戦でほとんど活躍することなく、大和はアメリカ軍の航空攻撃によって海に沈む。なぜ大和は力を発揮できなかったのか?当時、海戦の主役は戦艦から航空兵力へと変化していた。「大艦巨砲主義」の象徴である大和は、すでに時代遅れとなっており、航空機による新しい戦いに対応できず、ついには悲劇的な結末を迎える。番組では、新発見の資料や当時の関係者の証言、今年開館した呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」(広島県)からのキャスターリポートを交え、戦艦大和の運命の時を描く。
番組の内容について
○沖縄水上特攻時に戦艦大和が搭載していた燃料について
元軍令部出仕兼海軍総隊参謀の小林儀作氏(故人)が著した「戦艦大和の沖縄突入作戦について」という文章のなかに、出撃の直前に現場の努力で大和に沖縄往復が可能な燃料が搭載されていたという記述があります。番組では、大和が片道の燃料で出撃したという表現は使わず、「作戦は、片道分の燃料を積んで沖縄に特攻、自ら浅瀬に乗り上げて動かぬ砲台となり敵の陸上部隊を砲撃するというものでした」と、あくまでも作戦の説明として伝えています。事実、連合艦隊命令によれば重油は片道分のみ補給するよう通達されていました。

○CG映像について
大和はムービー映像が残っていないため、イメージ映像として今回新たに作成しました。
関係者の証言および残された資料をもとに、できる限り忠実に再現しました。
監修は今回の出演者でもある大和ミュージアム館長の戸高一成氏にお願いしました。

○戦闘シーンのデータについて
作戦に参加した艦船の数や被害のデータは、解釈の違いでカウントの仕方が様々あることから、媒体によっては数字が異なる場合があります。今回の番組では、原則として、防衛庁防衛研修所戦史室が編纂した「戦史叢書」のデータを基にしています。

○「大和ミュージアム」について
呉市海事歴史科学館大和ミュージアム:広島県呉市宝町5番20号 TEL.0823-25-3017
(午前9時から夜7時まで開館/7・8月中は無休、9月からは火曜休館)

○大和を建造したドックについて
現在は石川島播磨重工株式会社の工場施設として使用されています。内部は工事をして改装し、上を覆う屋根のみが当時のまま。立ち入り見学は不可ですが、工場敷地外からは見ることができます。
 
○新発見の大和の設計図
「最大中央断図」。大和ミュージアム(上記参照)に保管されています。非公開。○ミッドウェー海戦での日本艦隊の説明について
実際は巡洋艦や駆逐艦などその他の随伴艦もふくめると艦数、陣形とももっと多く複雑なものとなります。今回は煩雑さを割けるため、戦力の中核である戦艦と空母の隻数、陣形内の位置のみ表示しました。

○大和改造の設計図
「一般艤装図一部改正」。大和ミュージアム(上記参照)に保管されています。非公開。

○大和の戦闘再現CGについて
作戦後の公式報告書である「軍艦大和戦闘詳報」と生存者の証言にもとづいてコンピューターグラフィックスを作成し、再現映像としました。

○番組中に紹介した書籍「戦艦大和の最期」について
元乗組員による大和沖縄特攻を描いた手記。講談社文芸文庫、角川文庫(「戦艦大和」所収)、ちくま学芸文庫(「『戦艦大和』と戦後 吉田満文集) 所収)で刊行されています。
 同書から引用し番組ラストで紹介した言葉は、以下の通りです。
 「 敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。
  今目覚めずしていつ救われるか。
  俺たちはその先導になるのだ。
  日本の新生にさきがけて散る。
  まさに本望じゃないか」
番組中に登場した資料について

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参考文献
○「戦史叢書」(防衛庁防衛研修所戦史室編・朝雲新聞社刊)/絶版
○「日本戦艦物語T、U」(福井静夫著・光人社刊)
○「戦艦大和 上、下」(児島襄著・文春文庫刊)
○「戦艦大和誕生 上、下」(前間孝則・講談社刊)
○「図解日本の戦艦」(光人社)
○「日本海軍艦艇写真集」(〃)
○「呉市海事歴史科学館図録 戦艦大和・武蔵」(ダイヤモンド社)




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