2005年 6月分 放映リスト

6月1日(水)放送 第221回
民を救った義士たちの物語 〜宝暦の治水・薩摩藩士の苦闘〜

6月8日(水)放送 第222回
エンタツ・アチャコの漫才革命 〜あんじょうわろうてや!〜

6月15日(水)放送 第223回
幕末・運命の愛 〜時代を創った男と女の物語〜

6月22日(水)放送 第224回
さらばサムライ 〜西郷隆盛 徴兵制の決断〜

6月29日(水)放送 第225回
さらばサムライ 〜西南戦争・田原坂の真実〜



第221回
民を救った義士たちの物語
〜宝暦の治水・薩摩藩士の苦闘〜

放送日

<本放送>
平成17年6月1日(水)21:15〜21:58 総合 全国
<再放送>
平成17年6月7日(火)17:15〜17:58 BS2
平成17年6月10日(金)(※木曜深夜)0:15〜 0:58総合 全国
出演者
松平 定知 アナウンサー
○スタジオゲスト:原口 泉さん(鹿児島大学教授)
○VTR出演: 加来耕三さん(作家)
番組概要

その時:宝暦5(1755)年5月22日

出来事:濃尾平野で日本最大級の治水工事が完成
 天下太平の江戸中期、徳川幕府と薩摩藩の間に知られざる戦いがあった。宝暦4(1754)年正月、突如薩摩に下された濃尾平野の大治水工事命令。薩摩藩士たちの多くが幕府への抗議を主張する中、薩摩藩家老・平田靱負(ひらた・ゆきえ)はあえてこの難事業を引き受ける。現場に赴いた藩士たちを待っていたのは過酷な労働環境、そして横暴な幕府の監督官たち。病気や事故、幕府に対する抗議の切腹で、80名以上の薩摩藩士たちが犠牲になる。一年半にわたる苦闘のすえ工事は完成するが、その直後、家老・平田は武士として最後の決断を下す−。
 歴史の影に埋もれた悲劇の宝暦治水。日本最大級の治水工事を実現した薩摩藩士たちの苦闘の全貌を描く。
番組の内容について
Q:「宝暦」の読み方は、「ほうりゃく」ではなく「ほうれき」ではないか?
A:「ほうれき」「ほうりゃく」どちらも正しい読み方です。今回は、『国史大辞典』(吉川弘文館)など専門資料に記載されている「ほうりゃく」で統一いたしました。
なお、広辞苑や平凡社百科事典では、「ほうれき」を中心に掲載しております。

Q:「その時」として、工事が完成した日を5月22日としているが、日付が違うのではないか?
A:宝暦の治水の完成の区切りとなる日付をどこに置くかは、工事そのものが終了した日や、幕府が検分を終了し完成を認めた日などの考え方があります。また、薩摩藩士たちが帰国の途についた後、平田靱負が切腹した日(5月25日)をひとつの区切りと見る考え方もあります。しかし今回は、幕府の命令で工事がおこなわれているという前提から考え、幕府が完成を認めた5月22日を工事完成の日としております。

Q:「濃尾の治水工事に関する幕府命令」の典拠は?
A:東京大学史料編纂所 所蔵・薩藩旧記雑録の巻106 通し番号1332にあります。原文は
「濃州・勢州・尾州川々御普請御手伝い仰せつけられ候間、その趣存ぜらる可く候、尤もこの節参府に及ばず候 、恐々謹言。」です。ただし原資料は国宝指定になっているため、見るのは困難になっております。印刷した原文であれば、『鹿児島県史料・旧記雑録追録 5巻』で見ることができます。

Q:「お手伝い普請」とはどのようなものだったのですか?
A:幕府は外様藩の軍事・経済力を抑える巧妙な手段として、全国の大名にいろいろな工事の手伝いを命じてきました。この命令を受けた大名は、工事に要する資金と人員を供出しなければなりませんでした。お手伝い普請の対象となった箇所は幕府の直轄領や幕府に所属する建物なので、たとえば名古屋城築城。日光東照宮の造営、上野の寛永寺の建設などがこれにあたります。このため工事自体のイニシアティブは幕府に握られ、諸大名は下働きの立場として動かなければなりませんでした。これが「お手伝い普請」の制度で、木曽三川の工事も美濃の国の一部が直轄領だったため、この方式での工事が計画されたと思われます。そして加賀に続く第二の領地規模を誇る薩摩藩が、この大工事を請け負うことになったのです。

Q:薩摩藩評定での平田と家臣たちの言葉の典拠は?
A:薩摩藩士たちが幕令に強硬に反対し、評定で「幕府と一戦交えるべし」という強硬論まで出た、というエピソードは、公式文書の形では残されておりませんがさまざまな逸話の形で残されています。この番組では特に、宝暦治水の最も信頼すべき研究書である伊藤信氏『宝暦治水と薩摩藩士』に紹介された逸話をもとに家臣たちの言葉を再現しました。

Q:地図CGの川の位置が違うのでは?また、揖斐川と交わっているのは木曽川ではなく長良川では?
A:この地図CGは『薩摩藩御手伝普請目論見絵図』と呼ばれる、宝暦当時の地図(『海津町史』・史料編1)などをもとに作成したものです。当時は川の流れが現在とは大きく異なっており、長良川は木曽川と合流し、その後、揖斐川と合流しておりました。このため、番組内の地図CGでも揖斐川と木曽川が、現在油島と呼ばれる地点で交わっていることになっております。その後、明治時代初期に再び大治水工事が行われ、現在のような川筋になりました。

Q:幕府役人の態度を報告した薩摩藩士の手紙の典拠は?
A:東京大学史料編纂所 所蔵・薩藩旧記雑録の巻108 通し番号1488にあります。(伊庭貞起・新納久品連署首尾書 宝暦4年)ただし原資料は国宝指定になっているため、見るのは困難になっております。印刷した原文であれば、『鹿児島県史料・旧記雑録追録 5巻』で見ることができます。

Q:切腹した薩摩藩士・永吉惣兵衛が埋葬され、その文書が残る海蔵寺について。
A:海蔵寺は三重県・桑名市にある曹洞宗のお寺です。永吉のほかにも工事中に亡くなった薩摩藩士24名(平田靱負を含む)がまつられており、永吉のほかにも何人かの埋葬文書が残っています。美濃で亡くなった永吉らが少し離れたこのお寺に埋葬された理由は、このお寺が当時の武家の宗教であった曹洞宗の寺であったためではないか、といわれています。現在、文書の本物は一般公開していません。(今回は特別にご許可を得た上で撮影しました。)文書の写しであれば見ることができます。また番組内に何度も登場する平田靱負像はこちらに実際に所蔵されております。
海蔵寺の住所は 〒551−0073 三重県桑名市北寺町10 です。
(アクセスは、近鉄桑名駅から徒歩8分です。)

Q:工事現場で病死者が多数あったことを伝える手紙の典拠は?
A:これは宝暦治水の際、幕府側の水奉行を勤めた高木新兵衛という武士の公用日記『蒼海記』の中に登場する薩摩藩士・佐久間源太夫の書簡です。『蒼海記』の現物は名古屋大学図書館にあります。印刷した原文であれば『岐阜県史 史料篇 近世5』で見ることができます。

Q:平田が遺言を残したエピソードについて。
A:平田が美濃を訪れた薩摩藩の家臣に自らの刀を渡し「これを持ち帰って自分の墓に埋めてくれ。本日をもって平田靱負の命日とする」と言ったというエピソードは、鹿児島の平田家に残されたエピソードです。坂口達夫氏が薩摩義士について書かれた『かごしま文庫 宝暦治水・薩摩義士』(春苑堂出版)でも紹介されています。

Q:近江屋休兵衛宛ての平田の書簡について。
A:この書簡は現在その写しが岐阜県大垣市立図書館に所蔵されております。近江屋休兵衛という人物に平田が借金の利息を確認した手紙と言われています。またテロップの文字が「近江屋休兵衛」となっておりますが、これが原文そのままの表現にしてあります。

Q:幕府の検分報告の典拠は?
A:「御普請結構に出来いたし候」という幕府の検分報告は、平田自身が薩摩藩に工事の完成を報告した普請首尾書に引用されており、原文は東京大学史料編纂所の『薩藩旧記雑録』の巻109 通し番号1597に見られます。ただしこの史料は現在、国宝指定のため見ることは困難です。印刷した原文であれば、『鹿児島県史料・旧記雑録追録 5巻』で見ることができます。

Q:平田の死を報告する薩摩藩の記録について
A:原文は東京大学史料編纂所の『薩藩旧記雑録』の巻106通し番号1331に見られます。(「記事 「幕府、濃勢尾諸川治水助役ヲ下命ス、平田正輔等コレニ当ル」)原文は「…五月二十四日嘔血数、二十五日死…」。ただし、この史料は現在国宝指定のため見ることは困難です。印刷した原文であれば、『鹿児島県史料・旧記雑録追録 5巻』で見ることができます。

Q:『宝暦治水之碑』の由来について。また碑はどこにありますか?
A:『宝暦治水之碑』は三重県多度村(現在は桑名市)の豪農・西田喜兵衛が明治33(1900)年に建立したものです。西田家には薩摩藩士の苦闘を伝える史料が代々伝えられていたといいますが、明治9年伊勢の国に農民一揆が起こったときに燃えてしまいました。そこで西田氏は「ご先祖に申し訳ないことをした」と、薩摩義士の顕彰活動に力を入れるようになり、その一環としてこの碑が建てられることになったのです。この石碑は現在、長良川と揖斐川が合流する岐阜県海津市の油島に残っております。

Q:平田靱負の辞世の歌について
A:平田の辞世は
「住み慣れし 里も今さら 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」
という歌で、その大意は「住み慣れた大牧の里、何と名残り惜しく立ち去りがたいことであろうか」です。

Q:宝暦治水ゆかりの地について
A:@岐阜県海津市の油島に工事最大の難関油島の仕切り堰(現在は『千本松原』と呼ばれています)、宝暦治水之碑、平田と薩摩藩士の業績を称えて建てられた治水神社が残っています。千本松原までは、名古屋から近鉄で桑名まで。桑名から近鉄養老線で多度または石津まで。多度からはタクシーで約8分。石津からバスで約12分です。
車を利用される場合は東名阪自動道利用で弥富I.C.より約10分。桑名I.C.より約15分です。番組の最後でもご紹介した通り、治水神社では毎年4月25日に春期例大祭と呼ばれる薩摩義士を称える祭りが行われております。
A番組最後にも登場した薩摩義士役館跡(平田靱負終焉の地)は岐阜県養老町にあります。
B平田靱負の墓は京都市伏見区鷹匠町4番地の真言宗・大黒寺にあります。
番組中に登場した資料について

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参考文献
『宝暦治水と薩摩藩士』(伊藤 信・著 株式会社鶴書房)
『薩摩義士伝 濁流の人柱』(西村利雄・著 薩摩義士伝・濁流の人柱刊行会)
『かごしま文庫 宝暦治水・薩摩義士』(坂口達夫・著 春苑堂出版)
『薩摩義士録』(小西勝次郎・著 西濃印刷株式会社)
『海津町史』史料編1 (編集・発行 海津町)
『岐阜県史 史料編・近世5』(編集・発行 岐阜県)
『鹿児島県史料・旧記雑録5』(編集・発行鹿児島県)
『切腹』(山本博文・著 集英社新書)




第222回
エンタツ・アチャコの漫才革命
〜あんじょうわろうてや!〜

放送日

<本放送>
平成17年6月8日(水) 21:15〜21:58総合 全国
<再放送>
平成17年6月17日(金)(※木曜深夜)0:15〜 0:58 総合 全国
出演者
松平 定知 アナウンサー
○スタジオゲスト:喜味こいしさん 漫才師
○VTR出演: 藤木 吾朗生さん(花菱アチャコさんの長男)
○再現ドラマ役者
横山エンタツ役:田中 浩さん(有限会社アクターズ・ハウス所属)
花菱アチャコ役:立川 貴博さん(K‘s倶楽部所属)
林正之助役:森山 剛さん(株式会社NAC所属)
○声優
横山エンタツ役:小松 健悦さん(関西芸術座所属)
花菱アチャコ役:門田 裕さん(関西芸術座所属)
番組概要

その時:昭和9(1934)年6月10日

出来事:エンタツ・アチャコの漫才「早慶戦」がラジオ中継された日
どう動いたのか:「しゃべくり漫才」が全国で受け入れられ、新しい話芸「漫才」が確立された。
 昭和初期、「万才」は落語や浪曲といった伝統ある出し物の間をつなぐ色物とされていた。内容も、歌や踊りを見せるもので、つなぎにしゃべる程度のもの、内容は下品で低俗と言われた。その万才を、全国で誰にでも理解できる大衆芸能・「漫才」に大変身させたのがエンタツ・アチャコのコンビである。彼らが「お笑い革命」に成功したのには理由があった。当時放送をはじめたばかりの「ラジオ」という新しい全国的メディアの普及と、新しい娯楽を求める「大衆」が都市部を中心に出現していたのだ。この新しい大衆に受ける新しい話芸、それがエンタツ・アチャコがめざした「漫才」だった。 
 番組は、全国区の「人気もん」になりたいと願うエンタツ・アチャコの二人が奮闘努力のすえ、新しいメディアや大衆の支持を受け、「しゃべくり漫才」を誕生させるまでを、フイルムに残された二人の芸をたっぷり交えながら描く。 
番組の内容について
○横山エンタツについて
本名 石田 正見(いしだ まさみ)明治29年4月22日生まれ。
花菱アチャコと組み、現在の会話的漫才形態(しゃべくり漫才)を完成させた。
代表作「早慶戦」。(横山エンタツ著「わが心の自叙伝」から)

○花菱アチャコについて
本名 藤木 徳郎(ふじき とくろう)明治30年2月14日生まれ。
昭和5年、横山エンタツとコンビを組む。
(花菱アチャコ著「遊芸稼人(ゆうげいかせぎにん)」から)

○「万才」と「漫才」の二つの表記について
番組中で「まんざい」を「万才」と「漫才」という二つのテロップで表しています。これは現在、主に用いられる「漫才」という表記が、ちょうどエンタツ・アチャコが活躍した昭和初期から、彼らの活躍を受け、新しい言葉として作られたものだからです。だから、彼らが新しい万才を作り出す以前の「まんざい」には、それまで使われていた「万才」を使い、現在の「まんざい」及び彼らが作り出した「まんざい」、そして自叙伝などの抜粋に関しては「漫才」を使っております。さらに詳しいことは下記へ。

○「漫才」「万才」「万歳」「萬歳」の表記について
「まんざい」の表記は、主なもので上記の四つがあります。
数百年の歴史がある、正月などに門付けして街を回る「三河萬歳」「尾張萬歳」などのお祝い芸には「萬歳」の字が使われており、それが明治期に、舞台芸として扱われるようになって、「万才」「万歳」の字が使われるようになります。「万才」「万歳」は、様々な芸が含まれていましたが、大正末から昭和初期にかけては、多くは、三味線や鼓をもって歌を歌ったり、踊りを踊る音曲万才でした。エンタツ・アチャコがそれまでつなぎだけだった、「しゃべり」だけで行うまんざいを確立する頃から、「二人で行う漫談」という意味も含め、「漫才」という新しい字が使われ始めました。実際には大正から昭和初期にかけては、どの字も使われていました。「万才」から「漫才」へと変わる変遷期を扱ったこの番組では、「しゃべくり」以前のまんざいを「万才」、二人が目指した新しい「しゃべくりまんざい」や二人の自伝からの抜粋は、「漫才」と表記してあります。

○「しゃべくり漫才」
 現在、漫才といえば、「しゃべりで人を笑わせる」というのが、主流ですが、もともと「まんざい」は、歌をうたったり、おどったり、どつきあったり、乞食のマネをしたり、様々な芸の総称でした。
現在でも、楽器を使ったりする「まんざい」もあります。
エンタツ・アチャコは「まんざい」を確立したのではなく、「しゃべりだけで見せるまんざい」を確立したので、あえて「しゃべくり漫才」と番組冒頭で強調してあります。

○「万才」の地位について
伝統ある落語に対し、明治頃からはじまった漫才は、昭和初期、演芸界の中で扱いが低かったことは、様々な文献から伺われる。
「当時、吉本興業でも、落語家を「師匠」と呼んだのに、漫才師は本名か芸名かのどちらかに「さん」をつけて呼ばれたというし、出番も落語八に対し、漫才は一か二のあたりで、楽屋では小さくなっていたという。」
『漫才世相史 小島貞二著』
「漫才は、大阪の大衆芸能の中では歴史の一番新しい弟の娯楽で、できた頃は文字通り一番最低の娯楽で、そこから向上して来たのである。」『私は漫才作者 秋田實著』

○エンタツ・アチャコのコンビについて
エンタツ・アチャコの漫才師としてのコンビ結成は、昭和5年5月、解散は昭和9年9月です。
わずか4年あまりでしたが、その後、映画の中でだけコンビを復活し何本かに出演、その為、人々の印象に強く残っています。

○ラジオ放送80年について
大正14(1925)年にはじまった、日本のラジオ放送。今回はその黎明期に、ラジオによって全国の人に広まり、現在まで続くことになった「しゃべくり漫才」という大衆文化をラジオとの関係も含め描いています。

○大正11年のエピソードに関して
 エンタツ・アチャコのコンビ結成は、昭和5年ですが、アチャコの自伝によると大正11年に、アチャコが堀越一蝶一座という喜劇一座に入った時にはじめて出会っています。そこではコンビを組むということはありませんでした。ただ一回、全く打ち合わせも、練習もなく、急な舞台にたったことが、アチャコ自伝「遊芸稼人(ゆうげいかせぎにん)」にあります。

○当時の万才とは
いまのような舞台芸としての「万才」の元祖は、玉子屋円辰(たまごやえんたつ)といわれている。彼は、ご祝儀の「万歳」をやると、メインの芸として、得意の「河内音頭」を歌った。これ以来、様々な万才が出てくるが、大正から昭和初期、その大部分は、三味線や鼓をもって歌や踊りを見せる、音曲万才でした。

○エンタツの思っていたこと
「今の万才は、あまりにわい雑で下品である。
 日本中の老若男女が誰でも共感し、家族で笑える、
 無邪気な笑いをとる漫才がしたい」
※これは、後にエンタツと組む、漫才作家・秋田實(あきた みのる)などの著書、及び、晩年のラジオ番組のインタビューなどを受けた心情で、書籍からの抜粋ではありません。

○ミカンを投げられたエピソードについて
アチャコ自伝「遊芸稼人(ゆうげいかせぎにん)」アート出版発行にあります。当時の万才は、様々な芸がありましたが、どれも歌や踊りなど芸を見せるものでした。「しゃべるだけ」というのは芸として認められていなかったのです。

○その後のアチャコについて
アチャコとエンタツが出会ったこの一座は、この年解散します。その後、アチャコは喜劇一座を旗揚げしたり、相方を変えて万才を続けます。無声映画の物まねなどをして、人気を博しますが、舞台には三味線などを持ち込みます。後に作り出す、「しゃべりだけ」の革新さにくらべ、エンタツと組むまでの芸は、大きな意味でこれまでの漫才の範囲にはいるので、「これまでの漫才に戻ります」とコメントしております。写真の相方は、千歳屋今男(ちとせや いまお)でエンタツとコンビを組む前、そして、エンタツ・アチャコのコンビ解散後、アチャコがコンビを組んだ相手です。

○その後のエンタツについて
浅草での活躍、パーマ機のエピソードに関しては、横山エンタツ著「わが心の自叙伝三」神戸新聞学芸部編によっております。

○チャップリンの映画
本編中で使っているのは、『チャップリンの拳闘』1915年作品です。DVDでご覧頂けます。
淀川長治総監修『世界クラッシック名画100撰集/チャップリン作品集2』
発売元 株式会社アイ・ヴィー・シー

○パーマのエピソードに関して
エンタツ著「わが心の自叙伝三」神戸新聞学芸部編によっております。
どういった機械を販売したかは、定かではありませんでしたので、当時、実際にあったパーマ機をイメージとして使っております。
 
○ラジオの音源に関して
NHKのラジオ番組『芸と人』昭和38(1963)年に出演したときエンタツが昭和4年に万才を一度やめたときの心境を語った言葉です。
『いつまでも幕内家業しておってもうだつがあがらんよね、今ほど芸能人がいい時代なら、進んでやるんですけどね、芸能人あまり感心しません、その当時ね、だからなんとかしてかたぎの方にくっつこうという、その野心があったですね』。
 
○林がエンタツに声をかけたエピソードに関して
吉本興業社史「吉本八十年の歩み」(吉本興業株式会社発行)その他、林正之助(はやし しょうのすけ)氏がNHKのインタビューなどに答えた話しから描いております。ラヘビロクマえんきょうかい 流れ

○ゲスト 喜味 こいし(きみ こいし)さん
昭和2(1927)年生まれ。漫才師。
昭和15年に兄・夢路いとしと「荒川芳博・芳坊」の名でデビュー。
※子どもの頃の写真は、わかりやすいように「いとし・こいし」でテロップ表記しました。
その後、夢路いとし・喜味こいしのコンビで戦前・戦後のしゃべくり漫才を牽引してきた。
2003年9月、兄・夢路いとし他界。

○エンタツ・アチャコのデビューに関して
昭和6年、コンビ結成と書かれることもありますが、今回は二人の自叙伝により、昭和5年5月としております。
現在の大阪府大阪市天王寺区玉造元町にあった三光館(さんこうかん)という寄席でデビューしたといわれています。

○アチャコの心境
「今までだれもやったことのないことだから、
 どこにもお手本はない。
 私たちは毎日が勉強だった。」
 花菱アチャコ著「遊芸稼人(ゆうげいかせぎにん)」アート出版発行から

○銭湯に通ったエピソードに関して
花菱アチャコ著「遊芸稼人(ゆうげいかせぎにん)」に、しゃべくり漫才の修行として
『せっせと銭湯に通い、裸の人間の飾らない話題に耳を傾ける』とあります。
  
○こどもの内容の漫才
NHKに残されていたラジオの音源より、漫才『親と子』エンタツ・アチャコ

○ラジオの音源に関して
NHKのラジオ番組『芸と人』昭和38(1963)年に出演したときエンタツがこどもや家族のネタが多かったことに関して話した言葉です。
『自分は子どもがたくさんありまして、私も子煩悩ですから、まあ自分の近辺にありますから、実感が出てたように思いますね。』

○インタビューを受けて頂いた方
藤木吾朗生(ふじき ごろお)さん。花菱アチャコの長男。
お話の内容は、エンタツ・アチャコがコンビを組んだ頃、お互いの家族で奈良旅行に行ったら、後にそれが漫才になっていたということです。

○奈良の漫才
NHKに残されていた音源より、漫才『奈良見物』エンタツ・アチャコ。

○大阪駅に実際に行ったエピソード
エンタツ著「わが心の自叙伝三」神戸新聞学芸部編に、「大阪駅を漫才の舞台にするなら、実際に大阪駅に行き、何番線から何行きの列車が出るか確かめた」とあります。

○エンタツの回想
『どんなことでも実地に歩いて
 それを万才にとりいれるから、
 客はイヤも応もなく乗ってくる。
 空想ではないナマの面白さをねらった』
  エンタツ著「わが心の自叙伝三」神戸新聞学芸部編より。

○アチャコの振り返り
 『話のアウトラインだけを決めて、
  あとは舞台で芸をぶつけ合う。
  毎日が真剣勝負だ。
  次から次へとアドリブがでる、
  同じ話でも、昨日と今日の舞台では違う。
  そしてそれが積み重なって、
  だんだん洗練された内容になって行く』
  花菱アチャコ著「遊芸稼人(ゆうげいかせぎにん)」アート出版発行より。

○エンタツ・アチャコが嫁さんの漫才をしている映画
「水戸黄門漫遊記」(昭和13年)
監督 斎藤寅次郎
脚本 小国英雄
映像提供 東宝
 
○南地花月(なんちかげつ)とは
法善寺界隈にあった吉本興業の寄席。当時、数ある寄席の中でも最も格式が高いとされ、昭和初期、人気落語家がその出演のほとんどをしめ、万才師はほとんど立てなかった。

○ラジオ放送に関して
大正14(1925)年よりはじまった日本のラジオ放送。
昭和7(1932)年2月には聴取契約者数が100万件を越えた。聴取者がこの頃(昭和8年頃)100万人というのは、この契約者数から出した最低の数字で、実際には家族などが聞いていれば、その数倍の聴取者がいたと考えられます。

○松内アナウンサーに関して
松内則三(まつうち のりぞう)アナウンサー。
NHK(東京)のアナウンサー。スポーツ実況での語りが人気を博しました。

○漫才「早慶戦」をやってる映画に関して
「あきれた連中」(昭和11年)
監督 岡田敬 伏水修 脚本 永見隆二
映像提供 東宝

○桂 春団治について
初代・桂春団治(かつら はるだんじ)明治11年(1878)-昭和9年(1934)
大阪市南区生まれ。明治28年(1895)初代桂文我に入門。桂我都から春団治を襲名。
春団治は前にもいたが、この春団治の名があまりにも大きくなったため、今では初代となっている。

○春団治事件に関して
昭和5(1930)年12月7日。当時、所属芸人のラジオ出演を禁止していた吉本興業に内緒で、NHK大阪が桂春団治をラジオに出演させた。桂春団治は、落語「祝い酒」を演じた事が資料に残されています。

○吉本興業とNHK大阪の和解に関して
昭和9年5月4日。写真は、大勢写っている一枚目が、NHK側と吉本興行側の話し合いの様子。
2枚目で握手しているのが、当時の広江NHK大阪局長と林吉本興業総支配人。
「ラジオ出演後、春団治の寄席に多くの客が来るのを見て、吉本が考えを変えた」というのは吉本興業社史「吉本八十年の歩み」(吉本興業株式会社発行)によっています。

○ラジオ放送当日のアチャコの言葉
大阪朝日新聞 昭和9年6月10日版より 
『全国に聞いて頂くのですから、
 いつもなら頭を押さえて「ここが痛い」で
 わかるところを今日は「頭が痛い」と
 いわんといけません、
 いつものように笑って頂けますかな』

○その時
昭和9(1934)年6月10日、エンタツ・アチャコの漫才「早慶戦」がラジオ中継された日。
「しゃべくり漫才」がラジオによって全国で受け入れられ、新しい話芸「漫才」が確立された。
※ アチャコの自叙伝など、昭和9年8月と書かれているものもありますが、当時の新聞、
及び、NHK、吉本興業資料で6月10日で間違いありません。

○漫才「早慶戦」に関して
NHKに残されていた音源より、漫才「早慶戦」エンタツ・アチャコ。

○漫才作家・秋田實(あきた みのる)さんに関して
秋田實(あきた みのる)明治38(1905)年〜昭和52(1977)年。漫才作家。
エンタツ・アチャコが組んでいた頃から活躍をはじめた、漫才作家の先駆け。
いとし・こいしをはじめ多くの漫才師の台本を作り、漫才に大きな影響を与えた。
※エンタツ・アチャコの漫才にも影響を与えていますが、出会ったのが二人がデビューして一年半以上たつ昭和6年の暮れで、すでに「日常的なネタをしゃべりで笑わせる」というエンタツ・アチャコのスタイルは確立されていたので、今回は紹介しておりません。

○エンタツ・アチャコのコンビ解消について
昭和9年9月。アチャコが中耳炎で入院中にコンビが解消されます。
興行的利益を考えた会社が別れさせたとも、休みたくないエンタツが解消したとも言われますが、
諸説あり、どれも定かではありません。
 
○紹介したエンタツのラジオ番組
「気まぐれショウボート」昭和25年9月〜昭和26年
  
○紹介したアチャコのラジオ番組
「お父さんはお人好し」昭和29年4月〜昭和40年3月

○二人が出演したテレビ番組
NHK演芸番組 「土曜ひる席」(昭和42年4月放送)
  
○二人の他界
横山エンタツ 昭和46(1971)年3月31日死去。(享年74)
※ 享年を75とする資料もありますが、今回、自伝の誕生日明治29(1896)年4月22日生まれを根拠に使っておりますので、誕生日を迎えていないので、満年齢で74歳としています。
  
花菱アチャコ 昭和49(1974)年7月25日死去(享年77)
自伝の誕生日は明治30(1897)年2月14日。

○横山エンタツの言葉
横山エンタツ著「わが心の自叙伝三」神戸新聞学芸部編より。一部抜粋、補足あり。
「昔を思い出すと、
 ずいぶん向う見ずな事もした。
 バカなマネもした。
 しかし、ぼくはいつも、人間を忘れることはなかったと思う。
 それこそぼくの人間としての生き方だと自負している。」
番組中に登場した資料について

○チャップリンの映画
本編中で使っているのは、『チャップリンの拳闘』1915年作品です。
DVDでご覧頂けます。
淀川長治総監修『世界クラッシック名画100撰集/チャップリン作品集2』
発売元 株式会社アイ・ヴィー・シー

○エンタツ・アチャコが、時代劇で嫁さんの漫才をしている映画
「水戸黄門漫遊記」(昭和13年)
監督 斎藤寅次郎
 脚本 小国英雄
 映像提供 東宝

○漫才「早慶戦」をやってる映画に関して
「あきれた連中」(昭和11年)
監督 岡田敬 伏水修 脚本 永見隆二
映像提供 東宝

参考文献
吉本八十年の歩み   発行 吉本興業株式会社
遊芸稼人 アチャコ泣き笑い半生記  著者 花菱アチャコ 発行 アート出版
わが心の自叙伝三   著者 横山エンタツ 発行 のじぎく文庫 神戸新聞学芸部編
漫才読本       著者 横山エンタツ 発行 柳香書院
歴史への招待22   出版 日本放送出版協会
上方笑芸見聞録    著者 長沖一    発行 九藝出版
上方まんざい八百年史 著者 前田勇    発行 杉本書店
上方芸能列伝     著者 澤田隆治   発行 文藝春秋
わらわしたい     著者 竹中功    発行 河出書房新社
大阪笑話史      著者 秋田實    発行 編集工房ノア
私は漫才作者     著者 秋田實    発行 文藝春秋
昭和上方笑芸史    著者 三田純市   発行 學藝書林
漫才世相史      著者 小島貞二   発行 毎日新聞社
こちらJOBK    発行 日本放送協会大阪放送局




第223回
幕末・運命の愛
〜時代を創った男と女の物語〜

放送日

<本放送>
平成17年6月15日(水)21:15〜21:58 総合 全国放送
<再放送>
※今回は再放送予定はありません
出演者
松平 定知 アナウンサー
○スタジオゲスト:
黒鉄ヒロシさん (漫画家)
1945年 高知県生まれ。。
1968年 『漫画ストーリー』で漫画家としてデビュー
主な著書  『赤兵衛』『新選組』『坂本龍馬』
番組概要

その時:今回は3つ別々の話をまとめた演出となっているため、「その時」は設定していません。

出来事:-
 幕末。開国迫る欧米列強の圧力をうけ、幕府は崩壊の危機に直面。時代は大きな転換期を迎えていた。その激動の時代を動かす立役者たちの決断に影響を与えた大きな力、それは男と女の愛だった。日本開国を平和裡に実現したシーボルトとおイネの愛。
薩長同盟、大政奉還など新生日本の誕生に大きな役割を果たした坂本龍馬の愛。
そして皇女・和宮は、亡夫・徳川家茂への愛ゆえに、全面衝突寸前の幕府・朝廷の間を命がけで取り持った。3つの愛は、どう時代を動かし、日本を明治へと導いたのか。番組では、幕末の愛の物語を描いていく。
番組の内容について
Qお龍(若い頃)の写真の由来は?
京都・井口家に伝わるもの
お龍の写真と「確定」していないため、「伝」と付けさせて頂きました。

Q龍馬肖像の所蔵は?
高知県立歴史民俗資料館 088−862−2211

Qシーボルトとタキの肖像の所蔵は?
▽シーボルト:長崎県立長崎図書館
▽タキ:『蘭館絵巻・玉突きの図』(長崎市立博物館)からタキと伝えられている肖像を紹介しました。

Q「和宮の銅像、徳川家茂の肖像の所蔵は?
▽和宮銅像:大本山増上寺蔵 東京都港区芝公園4−7−35
      03−3432−1431
▽家茂肖像:徳川記念財団 03−5790−1110

Q和宮という皇族への呼称について
和宮(かずのみや)、親子内親王(ちかこないしんのう)、静観院宮(せいかんいんのみや)等、その時に応じた言い方があるが、「おん呼び名(幼時の愛称)」である「和宮(かずのみや)」が一般的で馴染みがあるのでこの名称で統一しました。この方針は、今回基本書とした「和宮(吉川弘文館人物叢書)」に準じています。又、和宮は歴史上の人物であるので、敬称は略しました。

■シーボルトとおタキ

Qシーボルトはオランダ人ではないのか?
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトはドイツのバイエルン州の地方都市・ヴュルツブルグの出身です。ヴュルツブルグ大学を卒業後、開業医をしていましたが、知り合いの紹介で、オランダ軍医としてオランダの東インドの植民地へ赴くこととなり、特別の計らいでオランダ領東インド陸軍の外科軍医少佐に任命され、そして日本に派遣されました。

Qタキとイネの肖像が描かれたの小箱について
タキは追放されたシーボルトに手紙とともに螺鈿の箱を送っています。その蓋の表側にはタキ自身が、その蓋の裏側には娘・イネの肖像があしらわれていました。シーボルトは追放後、30年たって再来日した時にこの小箱を携えて来ました。それがイネからご子孫へと受け継がれ、現在長崎市のシーボルト記念館に所蔵されています。

Qシーボルトのタキ宛の手紙にある言葉「日々私はお前を、そしてイネの名前を呼んでいる」について
原文は「ニチニチ ワタクシガ オマエ マタ オイネノナヲ シバシバイフ」
口語訳にしました。

Qシーボルトとペリー側近が遣り取りした手紙の発見について
シーボルトの子孫・ブランデンシュタイン家から近年発見されたシーボルトとペリー遠征隊との間で 交わされた書簡。ペリーの部下であるハイネ、テーラーが遠征を前に日本研究の第一人者であったシーボルトに人の紹介など相談をもちかけていました。その際、シーボルトは「人道と寛容」を訴え、日本にとってより良い開国の形を献策していることが手紙からうかがえます。(『シーボルトと日本の開国 近代化』から「シーボルトとペリーのアメリカ日本遠征艦隊〜ブランデンシュタイン家文書を中心に」より(宮坂正英氏著より)

Qペリー側近(テーラー)からシーボルトに宛てた手紙(1852年10月29日付)
「最終的に武力が必要であれば、アメリカ遠征隊は、著しい印象を与えるほど強力です」(シーボルトの子孫・ブランデンシュタイン家所蔵)

Qシーボルトからペリー側近(ハイネ)への手紙(1853年4月24日付)について
「ペリー提督にお伝えください。日本はアメリカの要求への返事を引き延ばすでしょう。そこで忍耐を切らして威嚇すれば、彼らは命がけで抵抗します。彼らに猶予を与えれば、必ずや事態は好転します。」(シーボルトの子孫・ブランデンシュタイン家所蔵)

Q「シーボルトの忠告通り、ペリーは武力を行使せず、幕府に猶予を与えた」というナレーションについて
ペリー自身が日本遠征計画においてシーボルトの忠告に従った、とは語ってはいません。しかし、ペリーがシーボルトの日本研究を何よりも参考にした事実、遠征隊の側近がシーボルトと遣り取りした書簡から、宮坂正英さん(長崎純心大学教授 シーボルト記念館専門員)の説に拠って伝えました。

Q嘉永7年は安政元年ではないのか?
嘉永7年11月27日に元号が安政と改元しています。そのため、3月はまだ嘉永です。


■坂本龍馬とお龍

Q坂本龍馬の年齢について
番組中の年齢表記は「かぞえ」です。

Q龍馬が実家に宛てた手紙「日本を今一度せんたくいたし申し候」の典拠は?
文久3年六月二十九日 坂本乙女宛 龍馬書状より

Qお龍(若い頃)の写真の由来は? 京都・井口家に伝わるもの
お龍の写真と「確定」していないため、「伝」と付けさせて頂きました。

Q龍馬が実家に宛てた手紙「まことにおもしろき女」の典拠とは?
慶応元年九月九日 坂本乙女(龍馬の姉)おやべ宛て 龍馬書状より

Q龍馬とお龍が新選組と出会った話の典拠は?
土陽新聞記載(千里駒後日譚) お龍の回想

Q薩長同盟の成立した日付の根拠は?
1/21日説と1/22説があります。
今回は、坂本龍馬全集、坂本竜馬日記(菊池明、山村竜也編)などに拠りました。

Q龍馬から実家に宛てた手紙「お龍が居おればこそ、龍馬の命は助かりたり」の典拠は?
慶応2年12月4日 坂本乙女宛書状 (京都国立博物館蔵)
原文「此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハ助かりたり」

Q新婚旅行に向かう船上での龍馬・お龍のやり取りについて
「反魂香」(お龍の回想記)より引用
▽龍馬のセリフ
「天下が鎮静して王政回復の暁には 汽船を一隻造へて日本の沿岸を廻ってみようか」
▽お龍のセリフ  
「日本はおろか、外国の隅々まで残らず廻って見度うございます」

Q「船中八策」の資料は何の資料か?
「船中八策」の内容を記した当時の資料は現存していません。
番組で紹介したのは、坂本龍馬に関連する資料をまとめた「坂本竜馬関係文書」から紹介しました。
Q縁台に座る龍馬の肖像の所蔵について
東京龍馬会の所蔵です
 
Q龍馬からお龍宛て書簡「必ずかならず帰り申し候」の典拠は?
「かならずかならず関ニ鳥渡(ちょっと)なりしもかへり申候 お待ちなされたく候」を要約したもの。
慶応3年5月28日 お龍宛 現存する唯一のお龍宛 井口家文書
本書状がどうして写し残されたかは詳細不明です

Q龍馬がお龍に送った歌「又あふと思ふ心をしるべにて 道なき世にも出づる旅かな」の典拠は?
大意:またあなたと逢いたいと願う心を道しるべに、私は旅に出て行きます。


■ 和宮と家茂

Q和宮降嫁の背景について
番組で紹介した「朝権回復」「幕権回復」という合意の他、「攘夷決行」推進も
和宮降嫁の際の取り決めの一つですが、平明にするため割愛しました。

Q和宮の歌について
「惜しまじな 君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」

Q家茂が残したみやげの反物の所蔵について
「空蝉の袈裟」:増上寺所蔵 上記

Q和宮の歌について
「空蝉(うつせみ)の唐織り衣何かせむ 綾も錦も君ありてこそ」

Q和宮の髪型について
夫家茂死後の和宮の髪型については、諸説があります。
文献的には薙髪(ちはつ・髪をおろす事)とあるのみで詳細は不明ですが、武家の妻だから、髪をきりそろえ るだけの方法だったという説と、御所の習慣に基づいて出家姿だったという説、最後まで所謂「おすべらかし」 だったという説などがあります。
番組ではこれまで映画などで採用されてきた「出家姿説」を採りました。

Q慶応4年戊辰戦争の官軍の進攻ルートについて
官軍の侵攻は、東征鎮撫軍の中山道と東海道の動き、北陸道を行った北陸道鎮撫軍があります。
「江戸から25qの地点」と説明しているには、中山道を侵攻する軍勢について説明しました。
 以上、詳細は大山 厳著「戊申役戦史」、佐々木 克「戊申戦争」より

Q和宮の手紙の所蔵について
「静観院宮御日記」宮内庁書陵部所蔵に記述があります。
千代田区千代田1−1宮内庁書陵部図書課出納係
03−3213−1111
 
Q和宮の手紙(3月12日)の所蔵について
上記岩倉公旧跡保存会所蔵

Q西郷隆盛と勝海舟の絵の所蔵について
「江戸開城談判図」明治神宮聖徳記念絵画館 
新宿区霞ケ丘9番地明治神宮外苑
03−3401−5179


■ エピローグ
Q お龍(晩年)の回想の言葉の典拠は?
『 龍馬が生きて居ったなら又何とか面白い事もあったでせうが・・・
是が運命と云ふものでせう、死んだのは昨日の様に思ひます 』
土陽新聞記載(千里駒後日譚) お龍の回想

Qお龍の墓碑の在所は?
神奈川県横須賀市信楽寺(しんぎょうじ)境内にあります。

Qシーボルトの再来日について
シーボルトは、追放から30年後の1859年に再来日しています。その際、タキ、イネそして弟子たちとも再会を果たしました。その後、江戸で幕府の外交顧問を経て、3年後の1862年4月長崎を去りました。1866年70歳で世を去っています。

Qシーボルトの言葉について
「いかなる時も、いかなる時も、お前を、そしておイネを忘れることはなかった」

Qアジサイの学名「オタクサ」について
『日本植物誌』に掲載されたアジサイの学名:シーボルトはアジサイの一種に「ヒドランゲア・オタクサ」と名付けました。これはシーボルトがタキのことを「おタキさん」と呼んでいた事に因んでいます。

Q和宮の墓について
増上寺の徳川家霊廟 一般には未公開 (増上寺の場所は上記)
番組中に登場した資料について

-

参考文献

<参考文献>
・シーボルトと日本の開国 近代化 箭内健次、宮崎道生編
・シーボルト「日本」 シーボルト著
・シーボルト 石山禎一著
・シーボルト 板沢武雄著
・新・シーボルト研究 八坂書房
・シーボルト参府旅行中の日記 齊藤信 訳
・シーボルト先生1〜3 呉秀三著
・花の男 シーボルト 大場秀章著
・黄昏のトクガワ・ジャパン ヨーゼフ・クライナー
・円山遊女と唐毛紅人 古賀十二郎著
・シーボルト父子伝 
・ペリー提督日本遠征記
・ 鳴滝紀要 シーボルト記念館
・龍馬の手紙   宮地佐一郎  講談社学術文庫
・坂本龍馬全集  宮地佐一郎  光風社
・定本坂本龍馬伝   松岡  司  新人物往来社
・日本を今一度せんたくいたし申候  木村幸比古 祥伝社
・坂本龍馬読本 新人物往来社
・坂本龍馬事典  宮地佐一郎他 新人物往来社





第224回
さらばサムライ
〜西郷隆盛 徴兵制の決断〜

放送日

<本放送>
平成17年6月22日(水)21:15〜21:58 (総合)
<再放送>
平成17年7月1日 (金)(※木曜深夜)0:15〜0:58(総合)
出演者
松平 定知 アナウンサー
○スタジオゲスト:
佐々木 克(すぐる) 京都大学名誉教授(幕末維新史) 
主な著書「大久保利通」(講談社学術文庫)「江戸が東京になった日」(講談社選書メチエ)
番組概要

その時:明治5年11月28日

出来事:全国徴兵の詔が出される。
 鎌倉以来の武士制度に終わりを告げた明治5年の徴兵制の導入。政府の中心にいて武士の世の幕引きを託されたのは、サムライの中のサムライといわれた西郷隆盛。西郷の動きを中心に、明治陸軍の基礎となった廃藩置県、徴兵制の実現までの道のりを追う。
番組の内容について
●西郷についての言葉
土佐藩 中岡慎太郎
「この人学識有り、胆略有り、常に寡言にして思慮勇断に長じ、たまたま一言を出せば確然人の肺腑を貫く。」時勢談より

坂本龍馬
「西郷は馬鹿である。併しその馬鹿の幅がどれ程大きいか分からない。
小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る。」土佐勤王史より

・西郷が暮らした民家
道沿いの史跡で、常時見学可能。中は入れません。
場所:鹿児島県 姶良郡 隼人町 JR日当山駅 徒歩五分

・西郷の言葉
「政の大体は、文を興し、武を奮い、農を励ますの三つに在り。節義廉恥を失いて国を維持するの道決してあらず。」
「西郷南洲翁遺訓」より。大きめの図書館に置いてあります。

・西郷の言葉
「このたびは俗吏もよほど落胆いたし、濡れ鼠のごとく相なり申し候」西郷書簡より

・西郷の言葉
「武士として主君の恩は大きく私情に置いては忍びがたいが、廃藩は天下一般の世運である。」
 書簡より要約 

・廃藩置県の詔
「億兆を保安し、万国と対峙するため、藩を廃し県となす。」要約。

・山県の言葉
「武士と称し抗顔坐食し、甚しきに至りては人を殺し官その罪を問はざるものの如きに非ず。」

・徴兵告諭
「世襲坐食の士はその禄を減じ刀剣を脱するを許し四民ようやく自由の権を得せしめんとす。全国四民男児二十歳に至る者は尽く兵籍に編入し、以て緩急の用に備ふべし。」

・西郷の義理の妹の肉声テープ 
鹿児島市維新ふるさと館にて聞くことが出来ます。
場所:〒892-0846 鹿児島市加治屋町23番1号 TEL)099-239-7700

・西郷の漢詩 「今人にあらず。古人にあり」
全文は「大西郷全集 三巻」参照のこと。
昭和二年平凡社絶版。大きめの図書館には大体置いてあります。
番組中に登場した資料について

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参考文献

●主な入門書 
「西郷隆盛」岩波新書、「西郷隆盛」中公新書、「西郷隆盛」吉川弘文館など。





第225回
さらばサムライ
〜西南戦争・田原坂の真実〜

放送日

<本放送>
平成17年6月29日(水) 21:15〜21:58 総合 全国
<再放送>
平成17年7月8日(金)(※木曜深夜) 0:15〜0:58 総合 全国
出演者
松平 定知 アナウンサー
○スタジオゲスト:
佐々木 克(すぐる) 京都大学名誉教授(幕末維新史) 
主な著書「大久保利通」(講談社学術文庫)「江戸が東京になった日」(講談社選書メチエ)
番組概要

その時:明治10(1877)年3月20日

出来事:西南戦争、田原坂の戦いで政府軍が勝利する
 明治維新から10年。サムライへの圧迫を加える明治政府に対し、維新の功労者・西郷隆盛が反乱を起こす。徴兵政府軍のリーダー・山県有朋は物量でこれに立ち向かおうとするが、熊本・田原坂の戦いで苦闘を強いられる。そんな中、山県はついに徴兵政府軍の根幹を揺るがしかねない危険な賭に打って出る。
番組の内容について
○私学校の生徒数について
私学校には県内に複数の分校があり、生徒数については史料によりかなり異同があります。ここでは吉川弘文館「国史大辞典」の数字に基づきました。

○西郷が私学校生徒に言った言葉
「ひとたび国に難儀が起きたときは、一身を顧みず国のために正義を尽くさねばならない」(「私学校綱領」の内容より意訳)

○廃刀令の文言
「軍隊の外、兵品を携ふる者あるは、陸軍の権限に関係する」(「山県有朋意見書」所載「廃刀建言書」)

○「神風連の乱」の読み方
ジンプウレン、シンプウレンの二通りの読み方があります。今回は国史大辞典の記述にならいました。

○山県が天皇に報告した内容
「各隊兵気凛然、戦に臨んで少しも屈撓するなきを知るに足れり。軍事の進歩蓋し障碍なかるべし」(出典は:「山県有朋意見書」所載「徴兵戦役実際上京奏議」)

○西郷隆盛が「オイの身体は差し上げ申す」と出兵を決断した日については、明治10年の2月5日、6日の2説があります。今回は5日に決断がなされ、6日に作戦会議が開かれたとする「研究 西南の役」(山下郁夫)の記述に基づきました。

○薩摩軍の手紙
「政府に尋問の筋これあり」

○岩倉具視の言葉
「西郷ほどの国家の元勲がどうして賊臣となるのか。どんなに考えてもわからない」(「岩倉具視関係文書」の岩倉の手紙より意訳)

○薩摩軍撃滅を命じる山県有朋の言葉
「一撃して敵を破ることを期せよ。天下人心の向背は唯だ此の一挙にあり」(「公爵 山県有朋伝」(徳富蘇峰)より)

○「ガットリング砲」
「ガトリング砲」とも。今回は当時の陸軍の武器発注記録「海軍公文備考」(防衛研究所図書館所蔵)にある表記に従いました。「ミタラリュール銃」も同様の扱いとしました。

○薩摩兵に怯える政府軍の様子を伝える山県の戦況報告
「薩摩軍が突如長剣を振りかざして斬り込んでくる。我が軍の兵は驚愕して敗走する者が少なくない」。防衛研究所図書館「明治十年戦闘報告書」を意訳。「公爵 山県有朋伝」にも記載があります。

○最初の一週間で死傷者は1000人を数えた
「新編西南戦史」所載に基づき計算した概数を出しました。

○木戸孝允の苦戦を伝える手紙
「山県有朋」(藤村道生)所載。岩倉具視宛。

○岩倉具視の発言
「士族を兵として徴集すべきだ」。「岩倉具視関係文書」所載の岩倉の手紙。木戸孝允宛。

○東京警視本署
「警視庁」と言われることが多いが、この時期は一時的な組織改編(明治10年1月)により、この名称になっています。

○「余と西郷とでは井目ぐらいの違いがあるだろう」
「山県有朋」(藤村道生)所載のエピソードを要約。

○抜刀隊の活躍を伝える山県の報告
「我が軍初めて高昂の地勢を領し、もって賊兵を下射するの利を得たり」(防衛研究所図書館「明治十年戦闘報告書」。「公爵 山県有朋公伝」にも引用あり)

○会津人の歌
「薩摩人見よや東のますらおが さげはく太刀の利きか鈍きか」(「翔ぶが如く」所載)

○犬養毅の新聞記事
「もと会津藩某、身を挺して奮闘し、直に賊13人を斬る。その戦うとき、大声、呼ばわっていわく、「戊辰の復讐、戊辰の復讐」と」。(戦地直報)「研究 西南の役」所載

○田原坂の戦いにおける政府軍戦死者の数
1687人。植木町の郷土史家・勇知之氏が詳細な分析を行った、「データで見る西南戦争」に基づきました。

○山県が西郷に送った手紙:「あなたと敵として相対するとは思いもよりませんでした。今日のことはあなたの本心ではないことを、有朋はよく存じております。政府の兵は仕事のために戦っているが、薩摩軍は西郷のために戦っている。あなたの偉大さは十分に証明されました。であればこそ、これ以上の血を流してはいけない。早く自らの命を絶ち、戦いを終わらせるべきではないでしょうか」(意訳)なお「自らの命を絶ち」という部分については、原文では「自ら謀り」となっています。現代語訳するさいの解釈については、「日本の戦史 維新・西南戦争」(旧参謀本部編)および「翔ぶが如く」のものに基づきました。

○西郷の最期の言葉
「もうここでよか」。「もうここらでよか」となっているケースもありますが、今回は「翔ぶが如く」に基づきました。

○西郷の享年
満年齢を紹介しました。

○大久保利通の言葉
「国家のために賀すべし」(「翔ぶが如く」所載)

○明治天皇の言葉
「朕は西郷を殺せとは言わなかった」。「西郷隆盛写真集」(福田敏之)に紹介されているエピソード。

○軍人勅諭の言葉
「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」。

○除幕式に出席した山県首相の言葉
「有朋、曾て君に廓廟の上に従い、教を国事に俟ち、久しく厚誼を荷ふ。独り悲むの事、相許して竟に相終始するを能はざるを」
番組中に登場した資料について

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参考文献

「データで見る西南戦争」勇知之
「研究 西南の役」山下郁夫
「山県有朋」藤村道生
「山県有朋」半藤一利
「公爵山県有朋伝」徳富蘇峰
「翔ぶが如く」司馬遼太郎
「歴史群像シリーズ 西南戦争」
「日本の戦史 維新・西南戦争」旧参謀本部
「田原坂」橋本昌樹
「西郷隆盛写真集」福田敏之
(順不同)





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