トップページ > コラム > 地震・津波台風・大雨落雷・突風大雪猛暑火山・降灰火災PM2.5・黄砂防災の知恵火山災害の教訓 〜過去の噴火事例から見えてくる課題〜

日本の火山活動

第15回  火山災害の教訓 〜過去の噴火事例から見えてくる課題〜

執筆者

藤井 敏嗣
東大名誉教授 火山噴火予知連絡会会長
プロフィール・記事一覧

噴火様式の変遷と避難生活の課題:三宅島2000年噴火

火山噴火時の島外避難の課題については、第14回で伊豆大島1986年噴火を題材に考えましたが、今回は三宅島2000年噴火を題材に、一連の噴火の中での噴火様式や災害の変化と、避難生活の様々な課題について考えます。

噴火の始まり

2000年6月26日夕刻、三宅島の直下で突然地震が群発し始め、震源はだんだん浅くなっていました。数時間後、島の東側浅部に達したマグマが島の直下で西方に向かって移動を始めたことが、傾斜計やGPSによる観測で分かり、島の西側海底で噴火が予測されました。

6月27日明け方からヘリコプターによる連続観察によって、午前9時30分頃に、西海岸から1kmの沖合で海水の変色が発見されました。この時点では状況証拠だけでしたが、海底噴火が発生したと見なされました。その後の無人潜水艇による調査で、海底に新たな火口が出現し、溶岩流が流出した跡が確認されています。

この海底噴火を機に、島の直下での地震も収まったので、当時の火山噴火予知連絡会は事実上の終息宣言を発表しました。これを受けて、6月30日には東京都と三宅村の災害対策本部も解散となりました。ところが、噴火はこれでおしまいではなかったのです。

新しい噴火のステージへ

7月の初めになって、今度は山頂直下の浅部で地震が起こり始めました。それとほぼ同時に、島の西側の海底でも、三宅島と神津島を結ぶ線上の領域で頻繁に地震が起こり始めました【図1】。

7月8日に山頂で小さな噴火が起こり、翌朝、山頂に登ると、直径1kmほどの穴が開いていました。深さ100mほどの穴の底には、山頂の起伏がもとのままに残っていました【写真1】。

爆発によって山頂が吹き飛ばされたのではなく、リング状に陥没したのでした。その後も、陥没は断続的に続き、最終的には直径1.7km、深さ450mの小カルデラが形成されたのでした【写真2】。

この陥没を機に、カルデラ内でマグマ水蒸気噴火が時々起こり、セメント粉のような細粒の火山灰が大量に山腹に降り積もるようになりました。このような細粒の火山灰は水を通しにくいので、雨が降ると土石流を発生しやすいのですが、三宅島の住民は1983年の噴火までは水はけのよい、粗粒のスコリア(黒い軽石)しか体験したことがなかったので、土石流が発生するとは夢にも思わなかったようです。しかし、7月26日には、時間雨量4mmの降雨で土石流が発生し、その後は雨が降るたびに、島のあちこちで土石流に悩まされることになりました。

8月10日の小規模な火砕サージ(※)を伴う激しい爆発的噴火に続いて、8月18日には噴煙の高さが10kmにまで達する激しい爆発的噴火が起こりました。噴煙から数cmほどの小石が住宅地に降ってきて、自動車の窓ガラスが割れるなどの被害も発生しました。この日を境に、子供たちとともに島外へ自主避難する家族が増え始めました。7月初めから三宅島と神津島の間の海底で始まった地震は依然として続いており、島では連日、激しい揺れが感じられていたことも自主避難を後押ししたようです【図2】。

(※)火砕サージ:噴火によって放出された高温の火山ガスと細かい火山灰とが混合した砂嵐のような現象

8月29日には数十度の低温ながら、海岸にまで達する火砕流が発生したため【写真3】、三宅村では島に残っていた学童・生徒の島外避難を決行しました。さらに、9月初めには全島避難が指示されましたが、この時点で島の総人口の約6割は、既に島外に自主避難していました。

避難生活の課題

島民より一足先に避難していた島の児童たちは、多摩地域の全寮制の秋川高校で、寄宿生活を送りながら2学期を迎えることになりました。9月初めに島外避難をした島民はいったん代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターに入りましたが、東京都は直ちに都内各地の公営住宅の空き家を島民に提供しました。

これらの迅速な東京都の措置は、第14回で述べた、伊豆大島の全島避難での教訓に基づくものでした。避難した大島島民たちは約1か月間、都内の体育館などで苦しく不便な避難生活を送らなければならず、体育館などに避難中の学童たちの授業継続は非常に困難だったのです。

島外避難は、噴火活動がさらに活発になることを恐れて指示されたのですが、その後、噴火らしい噴火は殆ど発生しませんでした。ところが、避難直後から大量の二酸化硫黄を含む火山ガスの放出が続き【図3】、結局4年半後の2005年2月まで帰島できなかったのです。

このように長い避難生活が続くと、様々な問題が発生します。児童を秋川の寄宿舎に入れたことによって、授業の継続はできました。しかし、児童と親の隔離という事態から、時間がたつにつれ、児童を避難先に引き取る家庭が増え,秋川での生徒数は半年後には激減しました【図4】。

島での日常生活の環境を都内に整えるためにとられた迅速な公営住宅の提供も、別の問題を引き起こしました。数千人の島民をまとめて収容できる公営住宅の空き家はありません。このため、各地の空き家に入った島民は近隣の住民と離れ離れになってしまい、島のコミュニティの分断という問題が生じたのです。長い避難生活の間に生活基盤が都内に移ってしまい、帰島を断念する人も続出し、島の人口が大きく減少するという事態も生じました。

三宅島噴火の教訓

三宅島噴火は陥没カルデラの発生過程を世界で初めて目撃した貴重な噴火でしたが、火山防災の観点では様々な課題を残しました。数千年に1回程度しか起こることのない火山現象でも、現実に起こりうることを実感しました。大量の細粒火山灰の放出や度重なる土石流災害という、それまでの噴火で経験したことのない事態にも直面しました。一つの火山がいつも同じような噴火をするわけではないのです。
また、火山噴火が起こらなくとも、大量の有毒ガスを含む火山ガスのために、山麓に住めなくなる事態が生じることも、今回の三宅島の噴火で初めて知らされました。

避難は日常生活を根こそぎ破壊するものです。命を守るために避難は必要ですが、避難生活の質を守ることと、コミュニティを維持するという難しい課題に対処することが必要です。これは島しょ部での噴火に限らず、長期になりやすい火山噴火ではとりわけ考えなければならない課題です。

参考文献:
東京都三宅村(2008)三宅島噴火災害の記録
http://www.miyakemura.com/kiroku/docs/miyakejima_record.pdf

(2016年10月31日 更新)