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日本の火山活動

第14回  火山災害の教訓 ~過去の噴火事例を振り返る~

執筆者

藤井 敏嗣
東大名誉教授 火山噴火予知連絡会会長
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島外避難の課題:伊豆大島1986年噴火

1986年11月15日、伊豆大島火山が1974年以来12年ぶりの噴火を開始しました。噴火前には直径300m深さ300mだった筒状の三原山火口は、マグマのしぶきを噴水のように噴き上げるストロンボリ式噴火が繰り返されたため、みるみるうちにマグマで埋め立てられました。火口からあふれたマグマが19日昼には三原山の斜面を溶岩流として下り始めました【写真1】。流れ下る溶岩流の背後の火口からは相変わらずマグマの噴泉が見られましたから、島内だけでなく島外からも多くの観光客が噴火見物に押しかけたのです。

ところが21日夕方、外輪山に陣取っていたマスコミや観光客の目の前でカルデラ床に突然割れ目が開き、水蒸気の白煙に続いて、真っ黒い噴煙、さらには真っ赤な溶岩の噴泉が噴き上がりました【写真2】。

現場にいた警察官の指示で、山頂部にいた見物人、研究者はすべて山麓に移動を始めました。カルデラ内に続いて外輪山に開いた割れ目から真っ赤なマグマがまるで火のカーテンのように噴き上げ始めたのは、最後の下山者が麓(ふもと)に到着した午後5時46分でした。
過去数100年間は山頂部の三原山付近でのみ噴火が起こっていたのに、外輪山の外側でもマグマが噴き上がったのです。まさに危機一髪でした。さらに外側の割れ目の一部からは噴出したマグマが大島で最も人口の多い元町に向かって溶岩流として流れ始めたのです。

全島避難の成功と今後の課題

麓の集落ではひっきりなしに地震も感じられました。震度5に達することもたびたびでした。観光客は夕方の定期船で既に島外に脱出していましたが、自主避難をした一部の住民を除いて、島民は島に残っていました。その後、島の南東部の道路でも亀裂が発見されたことから、島全体に割れ目が走って、さらに噴火が拡大することが心配されました。このため、大島町長は島民全員の島外避難を決断しました。午後10時50分のことです。

東海汽船の大型客船や海上保安庁の船が動員され、避難勧告から約6時間で島民約10000人の島外避難が実現しました。全島避難がこれほどの短時間で完了したため、世界の防災関係者から奇跡の避難と称されたほどでした【写真3】【写真4】。

その後、当時の鈴木都知事の政治的判断により、避難から約1か月後にあたるクリスマスまでに全員帰島を実現することが決まりましたが、帰島直前の12月18日に山頂部で爆発的噴火が発生したのです。多くの火山弾などを放出しましたが、影響範囲はほぼ山頂カルデラ内に限られたため、帰島は予定通りに行われました。

前回の噴火から既に30年が経過し、伊豆大島の地下には着実にマグマが蓄積し、いつ噴火が起こってもおかしくない時期に来ています。噴火後、人口が減少したとはいえ、約8000人が島で生活しています。前回の噴火で島民を港までピストン輸送した大量のバスもマイカーの普及によって激減し、また運転手も10人程度にまで減っています。
東海汽船が所有していた定員1000~2000人の大型汽船も大部分が定員約300人の高速艇に置き換えられてしまったため、いざというときの大量輸送が不可能になっています。輸送能力については、1986年噴火の当時とは状況がすっかり変わってしまったのです。次の噴火に備えて、新たな状況の中での避難計画の策定が求められています。

大噴火への備えは充分か:浅間山天明噴火(てんめいふんか)の例

浅間山では1783年の5月ごろから時折爆発的な噴火が発生し、山頂の北にある鎌原村(かんばらむら)や東にある軽井沢の宿などでは降ってくる火山灰に軽石が混じることもありました。 8月に入ると、噴火の勢いも規模もますます大きくなり、8月4日には空高く立ち上る真黒な噴煙の中心部は高温の噴出物で真っ赤な火柱が立ち上ったのです。噴煙のあちこちからは稲妻が走りました。噴煙は上空の西風に流され、大量の軽石や火山灰が山頂の東から東南の方向に降り積もりました。時折、山頂の北側には火砕流が走りましたが、当時の居住地は山頂から10km以上離れており、居住地までは届かなかったため、死傷者は出ていません。

噴火の最盛期は8月4日の夜のことでした。噴き上げられた大量の火山灰、軽石が軽井沢方面に降り注ぎ、落下した高温の軽石が頭にあたり亡くなった人も出ました。さらに数10cm以上降り積もった火山灰の重みでつぶれた家も数10軒以上に達しました。この時に降り注いだ火山灰、軽石は山頂から4km離れた東大地震研究所の観測所の敷地で今も見ることができます【図1】。

5日の朝には山頂部で激しい爆発がおこり、高温の岩塊(がんかい)が大量に火砕流となって山麓に向かって流れ下りました。岩塊の大きさは10mを超えるものもあり、掘り起こした山麓の土砂や岩石もいっしょに斜面を駆け下り、火口から13kmも離れた北側の鎌原村を襲いました【図2】。
この火砕流・岩屑(がんせつ)なだれによって住戸100軒、人口570人の村落の大部分は押し流されるか埋め立てられてしまったのです。岩屑なだれはこのあと吾妻川(あがつまがわ)に突入し、土石流となって川沿いの集落に被害を与えながら流下し、利根川と合流してからは一種の大洪水となって下流域に被害をもたらしました。この噴火と土石流・洪水による犠牲者は1500人に上ったのです。今、浅間山の山頂から5.5kmの長さの鬼押し出し溶岩が見られますが、これはこの鎌原火砕流・岩屑なだれと同時か直後に発生したと考えられています。

時として変化する火山噴火

このような激しい噴火をした浅間山も最近では10年に1回小規模噴火するかどうかというくらいおとなしい火山です。しかし、1950年代から60年代にかけては最近の桜島のように1年間に数100回、爆発的な噴火を繰り返していたのです【図3】。火山噴火はいつまでも今と同じ活動をするわけではありません。浅間山も1950年代のように活発化するかもしれません。それどころか、天明噴火やそれ以上に大きな噴火が再び発生しないとも限らないのです。

ところが、最近の日本では大噴火は経験していませんから、その備えも充分ではありませんし、避難計画の中でも大噴火の想定も行われていません。また、浅間天明噴火も江戸時代のことで、噴火の進展とともにどのようなことが起こったのか、まだ十分に理解されているわけではありません。
そのうち、このような規模の噴火は間違いなく日本のどこかで起こるのですから、浅間山に限らず過去の大噴火の推移をもっときちんと調べ上げて、次の噴火に備えることが必要です。

参考文献:
中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」(2006)災害教訓の継承に関する報告書:1783年浅間山天明噴火
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1783-tenmei-asamayamaFUNKA/index.html

中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」(2011)災害史に学ぶ「火山編」
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/pdf/saigaishi_kazan.pdf

(2016年9月30日 更新)