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日本の火山活動

第6回  富士山の誕生と噴火の歴史をひもとく

執筆者

藤井 敏嗣
東大名誉教授 火山噴火予知連絡会会長
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富士山誕生前後

富士山が注目を集めています。いつ噴火が起きても不思議がないといわれています。しかし、富士山が今すぐ噴火をしそうな兆候は認められていません。それにもかかわらず噴火するかもしれないと考えられるには、それなりの理由があるのです。まずは富士山の歴史をひもといてみましょう。

今から20万年前ころ、現在の富士山がある付近では、三つの火山が活発な活動を繰り返していました。箱根山、愛鷹山と小御岳山です。箱根山にはまだ芦ノ湖も駒ケ岳もない時期です。10万年ほど前になると、愛鷹山と小御岳山が火山活動を停止し、代わりに富士山が活動を開始します。愛鷹山は富士山の南東にありますが、小御岳山という独立した山は今では存在しません。それでも小御岳山の名残は富士山の北麓にあるスバルラインの終点、5合目付近で見ることができます。富士山は小御岳山の南の山腹に誕生し、小御岳に覆いかぶさるように成長したのですが、北側斜面の小御岳神社付近に小御岳火山の一部が頭をのぞかせているのです。この様子は、北東側から富士山を眺めると分かります。(写真1)の山中湖からの富士山には、両脇に出っ張りが見えます。このうち東側(右側)の出っ張りが小御岳山です。ちなみに西側(左側)の出っ張りは、最新の噴火である約300年前の宝永噴火の時に斜面が部分的に盛り上がって出来た宝永山です。

この富士山の誕生によって、しばらく富士山と箱根山の二大火山の両雄時代が続くことになります。富士山の成長は目を見張るほどの速さでした。数万年のうちに小御岳山よりも高い山に成長したのです。ただ、順調に成長を続けたわけではなく、ある程度大きくなると、山頂付近から大きく崩れる山体崩壊という現象を何度も繰り返しました。山体崩壊では岩屑(がんせつ)なだれという、巨大な岩石のブロックや細かく粉砕された岩石が一体となって、斜面を高速で駆け下る現象が発生します。山体崩壊は噴火が引き金になることもありますが、近くで大きな地震が起こっても発生することがあります。火山というのは短期間で成長した山で、言うならば突貫の手抜き工事で作られたようなものですから、もともと崩れやすいものなのです。

今から6万年前ころ、箱根山は大噴火を起こして山頂部が大きく陥没して、カルデラが作られます。この時の噴火で発生した火砕流は、現在の東京近くまで迫るほど規模が大きなものでした。箱根山ではこの後、カルデラ内に駒ケ岳や二子山などの中央火口丘が出来ますが、活動は次第に低調になっていきます。ところが、富士山の活動はますます活発化していきます。この地域の火山活動は富士山と箱根山の両雄時代から、富士山の独り舞台となっていくのです。

このころは氷河期の最中でしたから、富士山の山頂から山腹にかけては一年中雪や氷に覆われていたはずです。そのような状況では噴火によって雪や氷が解かされるので、噴火のたびに大量の土石流が発生し、富士山のすそ野を広げていったのです。山体崩壊による岩屑雪崩や土石流の堆積によって造られた緩やかな斜面を、富士山特有の粘り気の低い玄武岩の薄い溶岩流が覆い、美しいすそ野が形成されていったのです。

新富士火山の活動

今からおよそ1万年前から、富士山の新しい活動が始まります。このため、これ以前の富士山を古富士火山、これ以降を新富士火山と呼んでいます。新富士火山は古富士火山の山頂よりはやや西寄りの場所から始まったように思われます。富士山の東側では新富士火山の溶岩流が少なく、西側ではたくさんの溶岩流が重なっていることが知られているからです。しかし、新富士火山の噴出物によって、古富士火山は完全に覆われてしまいました。古富士火山があったことは、今やすそ野に分布する岩屑なだれや土石流堆積物中の岩石片から知ることができるだけです。

このような富士山の歴史を振り返ってみると、現在の富士山の下にはいくつかの古い火山が埋もれていることになります。最近まで、小御岳、古富士、新富士の3層構造だと考えられていましたが、21世紀初めに行われたボーリング調査によって、小御岳火山の下に別の火山の噴出物が300m以上の厚さ存在していることが分かりました。この火山は30万年前ころから20万年前ころまでは活動していたことが分かり、小御岳よりも古いという意味で、先小御岳火山と呼ばれるようになりました。したがって、現在の富士山は4階建ての火山であるということになります(図1)。

新富士火山の時代にも、何度か山体崩壊が発生しています。最後の山体崩壊は、2900年前に起こりました。東側の山頂付近から大きく崩れて岩屑なだれが発生し、これが堆積して出来た緩やかな斜面の上に発達したのが、現在の御殿場市なのです。この時には噴火が知られていないので、富士川河口断層帯での地震によって崩壊したと考えられています。山体崩壊によって山頂近くが大きくえぐり取られたはずなのですが、その傷跡は、数百年のうちに次々と起こった活発な噴火活動で埋め立てられてしまいました。

噴火のデパート

新富士火山では山頂火口からも、山腹にそのつど新しく作られる火口からも、噴火が発生していました。ところが、今から2200年前の噴火を最後に、山頂火口からの噴火は途絶えてしまいます。この噴火は激しく爆発的で、東方に大量のスコリア(黒い軽石)を堆積させましたが、現在みられるような山頂付近に急峻なスロープを持つ端正な形を完成させた噴火でもあったのです。その後も富士山は40回以上の噴火を繰り返しているのですが、いずれも、山腹に新たな火口を造っては噴火を起こし、次には別の場所に火口を造るという噴火を繰り返しているのです。

富士山の噴火は、規模も様式も一定ではありません。あるときは数kmに及ぶ割れ目火口から、大量の溶岩が比較的静かに流れ出します。マグマのしぶきを噴水のように噴き上げて、落下したスコリアを火口の周囲に積み上げて、こんもりとした丘を造り上げることもあります。時には、そのふもとから細長い溶岩流を流し出す噴火となることもあります。また、激しい爆発に伴って噴煙を1万m以上も噴き上げ、大量のスコリアや火山灰を広い地域に降らすような噴火をすることもあります。山頂近くの急斜面に降り積もったスコリアが崩れて、火砕流となって斜面を駆け下ることも起こります。このように、さまざまなタイプの噴火が起こることから、富士山は「噴火のデパート」と呼ばれることもあるくらいです。

噴火の規模もさまざまですが、調査が進んでいる最近3200年間の噴火を規模ごとの回数で表現してみると、圧倒的に大部分の噴火は噴出量が溶岩換算で2,000万立方メートル以下の小規模噴火であることが分かります(図2)。後に述べる宝永噴火や貞観噴火のように、数億立方メートルを超えるような大噴火はめったに起こらなかったのです。火山噴火や地震などの自然現象では、大規模なものほど発生頻度が低いのが普通です。

歴史時代にも繰り返した噴火

歴史時代になると781年の噴火以降、確実なものは10回記録されています(図3)。もちろん、小さな噴火などで気付かれなかったものもあることから、実際の噴火はこれ以上あったかもしれません。歴史時代の噴火で最大のものは、平安時代の貞観噴火です。864年に北西の山麓に割れ目ができ、幅数kmの割れ目からマグマが噴き上げ、火のカーテンを作りました、さらに勢いを増したマグマは割れ目からあふれ出し、溶岩流となって山麓の原始林を焼き焦がしながら、緩やかな斜面を広がりながら流下しました。このような割れ目火口列が2か所以上出来て、総延長は6kmぐらいであったと考えられています。一部の溶岩流は本栖湖に流れ込み、東の部分を少しだけ埋め立てました。さらに大量の溶岩流が、当時「セの海」と呼ばれていた大きな湖に流れ込み、中央部を埋め立てて精進湖と西湖に分断してしまいます。現在の青木が原の樹海と呼ばれる広大な森林は、この時に流れ出した溶岩流の上に広がっています。この噴火は866年まで続きました。

平安時代の富士山は、貞観噴火も含め数十年おきに噴火を繰り返していました。山頂部から噴火することはもはやなかったのですが、山頂火口からは噴気も上がっていたようです。山頂火口にお湯がたまっていた時期もあったようです。この後も何度か噴火を繰り返しますが、これまでで最後の噴火が1707年の宝永噴火です。この噴火の49日前に南海トラフで宝永地震が起こっているため、この地震が引き金となって噴火が発生したと考えられています。貞観噴火とは異なり、溶岩流を流すこともなく、歴史時代で最も爆発的な噴火で、大量の軽石やスコリアを噴き上げました。この噴火については次回詳しく説明します。

(2013年8月30日 更新)