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津波

第5回  西日本の千年震災・宝永地震(1707)の津波

執筆者

都司 嘉宣
理学博士 建築研究所 特別客員研究員
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近畿地方や四国地方にもあった「千年震災」

2011年3月11日に起きた東日本大震災の津波は、東北地方にとって貞観(じょうがん)11年(869年)の東北地震の津波以来、実に1142年ぶりの大津波でした。津波によって海水が標高20mを超える高さに達し、仙台平野では海岸線から3km以上の所にまで浸水が及びました。このように1000年に1度の巨大な地震とそれに伴う津波を「千年震災」と呼びます。

ところで、東北地方ではなく、近畿地方や四国地方を襲った千年震災というのはあるのでしょうか? 実は江戸時代の前半、宝永4年(1707年)10月4日に、東海地震、南海地震の連動型地震として起きた「宝永地震」が、西日本を襲った千年震災と考えられます。今から20年ほど前、私はこの地震による被害の様子を調査するため、高知県立図書館に通い詰めたことがあります。

私が注目した記録の一つに『高知県神社明細帳』がありました。これは高知県内にあった各神社について成立の由来、祭神、過去に遭った自然災害と復興などの歴史を記録したもので、明治の初め頃の調査によるものです。この中からは、宝永地震の津波による被害記録がしばしば表れました。そして、現在の須崎市の神社記録の中に次のような記事を見つけました。
 
『高知県土佐国高岡郡神田村字赤ハケ鎮座 無格社 須賀神社 
  福生寺僧一元法師只今の所へ建立と申伝、この社宝永四亥年大変に流失』

この記録によると、神田村(現在の須崎市神田(こうだ))にあった福生寺の一元というお坊さんが、同じ神田の「赤ハケ」という場所に須賀神社を造ったが、宝永地震の津波で神社は流されてしまった、というのです。
私がこの記事を初めて見たときには、「須賀」という名前からして、海岸の近くにある神社だろう、と思っていました。それなら宝永の津波に流されても仕方がないかな、と考えました。ところが…たまたま高知県に行く機会があったので、気になっていた須崎市神田に出かけ、地元の人に「赤ハケ」という地名について教えてもらうことにしたのです。

海の見えない標高18mの神田村が壊滅

行ってみると、神田は須崎湾に注ぐ桜川の河口から2km、そこから分かれた支流の川のまた支流にあたる、小さな川が山地に入り込んだ谷筋の集落でした。ここから海は全く見えません。地元の人に聞いてみると、「赤ハケ」というのは、この集落の谷筋をさかのぼって、いちばん最後の家より、さらに100mほど上がった、鉄分を含んだ赤い粘土層が露出したところとのことでした。

この場所の標高はなんと18mもありました。土佐藩で作られた宝永地震津波の公的記録である『谷陵記』は、土佐国の海岸にある211か所の集落について、克明に被害の様子を記録しています。その中に、この神田について、『亡所、谷に民家田苑少し残る』と書かれています。確かに、この「赤ハケ」まで海水が上がったら、この谷筋に沿った神田の集落のほとんどすべての家は流失して、集落は「亡所(ぼうしょ)」(災害などで人が住めなくなってしまったところ)と化すでしょう。

この海の全く見えない神田の集落に住んでいた人たちは、津波の知識はあっても、まさか自分たちの集落にまで津波が襲って来るとは考えなかったでしょう。ましてや海水がこの集落でいちばん高い標高にある家にまで達したり、集落全体が亡所となることなど想像もできなかったに違いありません。

まてよ? 今現在、神田に住んでいる人たちは、津波警報が出たとき、この場所が昔、宝永の津波の時に「亡所」となった事を知っていて、「赤ハケ」より高いところに避難する必要があると考えているだろうか? いま起きた激しく揺れた地震が宝永地震のような千年震災であるかどうかは、その直後には分かりません。きちんとより高いところへ、避難のために移動すべきでしょう。

海岸から約1里の「苣ノ木」まで津波が到達

宝永地震の津波が1000年1度の出来事であることを示す例を、あと一つ見ておきましょう。『谷陵記』の幡多郡下ノ加江(現在の土佐清水市)の項には、次のような記述があります。
  
『下ノ茅(かえ) 亡所。潮は苣ノ木まで。浜より行程一里』

海岸近くにある下ノ加江の市街地はやはり高い津波に遭って「亡所」、つまり跡形もなく全滅しました。そうして、潮、つまり海水は、下ノ加江川をさかのぼって、海岸から約1里にある「苣ノ木」まで達したというのです。
ここに「苣」というあまり見かけない漢字が出てきますが、これは「ちしゃ」と読み、楕円形をした淡緑色の葉を持つ樹木の名前です。さて、これは現在の地図のどこのことを言うのだろうか?

そこで、われわれ(私と東北大学助教の今井氏)は、早速昨年の11月に土佐清水市の下ノ加江の現地に出かけました。「苣ノ木」がどこかについては、今はもう知っている人も少なく、ようやく年配の人を探し出して位置を確定することができました(図2)。

「苣ノ木」というのは、下ノ加江川を河口からおよそ6kmさかのぼった、川と国道に挟まれた三日月型の水田を指す地名で、その場所での川の水面の標高は12.1mありました。宝永の津波はここまで上がってきたのです。もちろんこの場所から海は全く見ることができません。

宝永地震の津波被害を教訓に

『谷陵記』を丹念に読んでいくと、宝永津波が、まさに「千年震災」であったことがよく分かります。(図3)に、「亡所」と記録された集落の位置を赤で、「半亡所」と書かれた集落の位置を緑で示しました。高知県の西に行けば行くほど、「亡所」と書かれた集落が多くなっていることが分かります。

私は2年前の東日本大震災の津波の直後、3か月の間に、東北地方の被災地を約300点調査しましたが、津波が来るなどとは想像もできない場所にまで海水が上がってきた、という証言を数多く聞きました。海が全く見えない、川口から何kmもさかのぼった場所も津波は襲ったのです。

将来、大きな揺れを感じ、津波警報をキャッチしたとき、そこに住む人は、このような海が全く見えない所にまで津浪が襲ってくることがある、今回の津波が「1000年に1度」かも知れないと正しく恐れて、高所へ避難することが果たしてできるのでしょうか? 2011年の東日本震災の津波の時にも、海が見えない場所にいた人の中に、正しく恐れることなく避難しなかった人の中に多くの溺死者が出たことを思い出して、このように海の見えない川筋の内陸部に住んでいる人も高いところへ避難すべきではないでしょうか。

(2013年5月8日 更新)