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津波

第4回  東海地方を襲った「千年震災」~明応東海地震の津波~

執筆者

都司 嘉宣
理学博士 建築研究所 特別客員研究員
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東日本震災の巨大津波が残した教訓

2011年3月11日の東日本大震災の津波は、「貞観三陸地震津波」(869年)以来、1142年ぶりの大津波だったことが明らかになってきました。三陸海岸の各市町村では、明治29年(1896年)と昭和8年(1933年)に大きな津波被害を受けた経験があるため、これらの津波の高さを参考として、沿岸居住地域を守る防潮堤が設計建設され、またはハザードマップが作られていました。

つまり100年から200年に1度起きる程度の津波が参考とされていたのです。このため、例えば宮古市田老町の高さ10mの防潮堤も、1000年に一度の大津波であった今回の東日本震災の津波はやすやすと乗り越え、約200人もの溺死者を出すこととなったのです。田老の市街地を取り囲む丘陵の浸水標高は、約18mに達していました。

今回の津波の教訓は、津波防災は「2つのレベルに分けて考えるべきである」ということです。すなわち、100年に一度の「レベル1」の津波に対しては、「防波堤によって人の生命と家などの市街地の財産も守り切れる」が、1000年に一度の「レベル2」の大津波に対しては、「財産はあきらめ、人の生命を守りきることだけを考えよ」ということです。

100年に一度の「安政東海地震」の津波

今回の東北地方以外でも、「千年震災」の津波に襲われた海岸があるのでしょうか? 実はあるのです。ここでは、東海地方を襲った「明応東海地震(1498年)」を取り上げたいと思います。その前に100年に一度の標準サイズの東海地震の規模であった幕末の「安政東海地震」の津波の様子を見ておきましょう。

この津波の浸水高さは(図1)の通り。伊豆半島先端付近の入間(いるま)での16.5mを除けば、伊豆半島でも、静岡・焼津付近でも、あるいは遠州沿岸でも7mを越える場所はありません。

この程度の津波であったなら、防潮堤、開閉式水門設備、などで沿岸の居住地域への海水の浸入を食い止めることはできるでしょう。下田市の市街地や沼津市戸田のような観光的な理由で5~7mの防潮堤を作っていない場所を除いて、静岡県の沿岸各町村には、すでにこの程度の防潮堤を備えている場所も多いのです。綿密に海岸線上の津波に対する弱点がないかどうか点検し、必要に応じて防潮堤の高さを1~2mかさ上げすれば、「安政東海地震」程度の津波に対して、生命と財産の損失を最小限にとどめることは可能だと思われます。

1000年に一度の「明応東海地震」の津波

次に1000年に一度の巨大津波をもたらした、明応7年8月25日未刻(西暦1498年9月11日、午後2時)の津波の様子を見ておきましょう。(図2)は、静岡県の海岸での津浪の高さの分布図です。沼津市戸田の36.4mというのは、「ひらめ平に津波が来てヒラメが打ち上げられた」という伝承による数値なので信頼性に欠けますが、その他は古い寺院、神社の伝承に基づく浸水標高の測定数値なので信頼のおけるデータです。

沼津市西浦の江梨には、航補院という寺院に伝えられた『江梨航浦院開基鈴木氏歴世法名録』が残っています。「江梨村に津浪が寄せ来て、幾人とも数もしれないほど多くの庶民が海底に沈没した。このお寺を開基した鈴木氏の系図と財宝は家屋もろとも流された」と記され、いっぽう『航浦院縁起』という、もう一つの古文書には「このつなみのとき、鈴木氏の女の子が航浦院の門前の榎のところで津波に遭い、両眼を患ったが、航浦院の薬師に如来に祈って病気が治った」と記されています。

この流された鈴木氏の家屋跡(現在海蔵寺敷地)の標高は10.4m、薬師を納める航浦院の本堂の標高は12.9mであり、現在の寺の山門の石段前の標高が10.9mであることから、この江梨での津波浸水は標高10.9mに及んだことが分かっています(図3)。

第二回『過去の巨大津波で高所に移転した集落に学ぶ』でもふれた伊豆市小下田の丁ノ田(ちょんのだ)も、この「千年震災」の大津波に襲われた地域です。金の鉱山で有名な伊豆西海岸の土肥温泉から海岸線磯に沿って約5km南下したところに小下田という地区があり、国道から海岸に向かって少し下ったところに「下り参拝神社」と呼ばれる「三島神社」があります。神社は鳥居から階段を上って参拝するものと決まっていますが、この「三島神社」は階段を下って参拝する形式になっています。こんな神社は日本中探しても、ほかにはないでしょう。では、なぜこんな奇妙なことになったのでしょうか?

神社から海岸に下っていくと、「丁ノ田」という三角形の小平野に出ます。豊かな水田地帯ですが、よく見ると水田は周囲の丘陵に接するところに、家の痕跡を示すように平らなベルト状の土地があります(写真1)。ここは、かつての丁ノ田集落の住居跡です。「明応東海地震」の津波のとき、水田はもちろんここにあった家屋のすべてが流失して、人の住む集落としては壊滅してしまいました。かろうじて生き残った人々は、津波の後、この背後の標高200mの高原に移住し、ここに藤沢という集落を開いたのです。

幸い標高32.7mにあった「三島神社」の敷地まで津波は浸水せず、神社は無事でした。神社と氏子の関係は津波後もそのまま継続し、復興して再建された村の一番標高の低い場所に「三島神社」が位置することになったため、「下り参拝の三島神社」となったのです。

この丁ノ田の集落家屋敷跡の標高を、(株)パスコの矢沼隆氏が測定したところ、15.2mであることが分かりました。津波で集落全体が流失するとき、その場所の地上冠水の厚さは3mかそれ以上、とされているので、「明応東海地震」の津波はここで18mであったことが確定しました。「明応東海地震」が2011年の東日本震災と同じような「千年震災」であることが確実となったのです。

静岡県のその他の場所

小下田から伊豆半島の西海岸をさらに南下すると、西伊豆町仁科(にしな)の穀倉地帯に出ます。この平野を流れる仁科川の河口から2kmさかのぼった、寺川の小集落のところに、水を平野に流し出すための堰が作られています。津波はこの堰にまで達したと、ここの佐波神社の上梁文(棟札に書かれた文章)に記録されています。この堰の下端の標高は9.7mで、明応の津波はここまできたのです。

このほか焼津市では海岸から約3km内陸に入った三ケ名(さんがみょう)の不動院まで達し、ここで数千人の死者が出ましたが、この多くの死者の供養のために教念寺という寺院が創立されたと伝えられています。また三重県伊勢市の伊勢神宮では、伊勢大湊付近で5千人の死者が出たと記録されています。

焼津市坂本にある林叟院(りんそういん)という寺院に、この地震の津波によって2万6千人の死者があったという記録があります。これは、日本全体の死者数ではないでしょうか。「明応東海地震」は、今回の1万8000人あまりの犠牲者を出した東日本大震災や2万2000人の死者を出した明治三陸津波を上回る、わが国史上最大の地震津波といえるでしょう。「明応東海地震」は東海地方に起きた「千年震災」なのです。

※東海地方を襲った「千年震災」の研究は、矢沼隆氏をはじめ(株)パスコの各位、および岩渕陽子氏をはじめ原子力安全基盤機構(JNES)の各位の協力によって、行うことができました。各位に感謝いたします。

(2013年1月30日 更新)