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津波

第2回  過去の巨大津波で高所に移転した集落に学ぶ

執筆者

都司 嘉宣
理学博士 建築研究所 特別客員研究員
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三重県鳥羽市国崎・大津

東海沖、南海沖の海域では、およそ100年の間隔で東海地震、南海地震と呼ばれるプレート境界型の地震が起き、大きな津波が沿岸集落を襲いました。壊滅的被害を受けた地域では、集落全体を安全な高所に移転した例があります。

鳥羽市国崎(くざき)は志摩半島先端部海岸の鎧崎(よろいざき)の基部に位置している小集落です。東海沖の海域に面しているため、歴代の東海地震の津波による被災を繰り返してきました。国崎は平安時代を通じて伊勢神宮の神戸(かんべ)として存続し続けたことが文献で証明されています。

平安時代の末期、国崎の集落は、平野部の大津集落と、その北に隣接する丘の上の国崎の2つの「神戸」、すなわち伊勢神宮の直轄領集落に分離しました。この分離した「大津神戸」が、鎌倉時代を経て、南北朝時代にまで存続したことは、正中元年(1324年)十二月の「二所太神宮神人解案」および「制止状」(「市史」、上巻、p731)に「大津国崎神戸」とあることなどから明らかです。

この国崎から分離して平野部にあった大津が明応東海地震の津波(1498年)によって壊滅しました。(1911年・曽我部市太編)の宝剣山常福寺の説明文に「旧時大津国。「鳥羽誌」崎の二神戸に分かれし時、此の寺大津に属し天通山と号す。明応七年八月海嘯(つなみ)のため、大津の地流失せしを以て字里谷に移す」とある通りです。さらに「増補・国崎神戸誌」には、「大津は(中略)明応七年八月津浪の為に荒廃し更に国崎と合併せりとの口碑を存す」と記されています。

これらの文献によって、明応津波で大津神戸の集落が壊滅し、生存者たちは寺とともに国崎に合併移転し、もとの大津の市街地は放棄され、田畑地に戻ったことが分かります。国崎は古来耕作地の面積が少なく、伊勢神宮への貢納物がアワビ、塩、タイなどの水産物であったことからも分かるように、海からの産物の採取を主たる産業とする集落でした。にもかかわらず、居住地の標高が高いということは、日々の生業の不便を忍んで生活してきたことを意味します。

大津の集落は失われて500年あまり経過しましたが、元の場所は江戸時代の絵図、地元伝承、月読神社の故地、小字名などから現代の地図上で、その位置をほぼ推定できます。国崎の集落を海岸に下り、海岸道路を西に進むと小さな川にかかった「大津橋」に出ます。この川に沿って、西に向かう小平野が開けています。この小平野が大津の故地です。地図で分かるように現在もこの小平野にはわずか1~2軒の家屋が点在するのみで、現在の国崎漁港をすぐ目の前に見る位置に広がっています。

大津の原義は、「大きな港」です。国崎漁港は鎧岬の背後に位置し、岩礁群によって沖の荒波が防がれ天然の良港をなしています。この港をたたえて、大津の名が生じたと考えて差し支えないでしょう。当然、この小平野に居住地をおいたほうが漁業を主産業とする生活には有利です。さらに、生活水を得やすく、背後地での農業にも便利です。しかし、国崎の人々は明応地震津波以来、500年にもわたって、大津の故地の小平野部に居住家屋を造りませんでした。土地が狭く、標高の高い国崎に不便を忍んで住み続けたのです。これはなぜでしょうか? その答えは明らかです。

明応津波の被災を体験した大津の人々は、平野部に居住地を造れば、将来大きな津波が起きたときに集落が壊滅してしまう、という教訓を得たからです。その教訓を人々は500年あまりの年月、決して忘れなかったということです。明応地震津波の生存者たちは、不便を承知で、高地居住して残った隣の国崎の本神戸の集落に合併し、ぎっしりと家を並べて住み始めたのです。寺もまた大津の故地を捨て、岩の台地の上に移転しました。こうして住民たちは、日常の不便と引き替えに、津波からの永遠の安全を得たのだ、と推定されます。

静岡県伊豆市小下田の丁ノ田(ちょんのだ)

伊豆半島の西岸、温泉地として有名な土肥から約5キロ南の小下田の地区に、三島神社があります。この神社が変わっているのは、神社の入り口の鳥居から階段を下ったところに本殿があるのです。つまりこの神社は全国でも例のない「下り参拝神社」なのです。境内には石碑が立てられており、そこには、およそ次のようなことが書かれています。

「三島神社は、昔は海岸に沿った丁ノ田集落の背後の丘の上にあった。集落の標高が約15mのところにあった丁ノ田は明応地震津波(1498年)のために水田、家屋とも流された。津波後、かろうじて生き残った人々は背後の丘陵の上の海抜100m以上の藤沢という土地に新しく集落を作った。ところが、海抜32.7mにある三島神社は無事であった。」

集落の高所移転の後も、神社は移転しなかったのです。このため現在、神社へは石段を下って参拝するという珍しいことになりました。この高所移転は現在も維持され、標高の低い丁ノ田の場所は現在も水田のみで、家屋は一軒も存在しません。

静岡県湖西市白須賀

宝永4年10月4日(1707年10月28日)に、東海沖と南海沖の2つの震源にまたがって起きた二連動の海溝型巨大地震で、この地震による津波の被害は、紀伊半島、四国の海岸で特に大きなものでした。

静岡県の一番西の端、愛知県境近くに湖西市白須賀の集落があります。白須賀は江戸時代には東海道五十三次の宿場の一つ。もとは、海岸沿いの平野にありましたが、宝永地震の津波のために流失45軒、全壊家屋51軒、半壊37軒という壊滅的な被害を出しました。幕府は白須賀宿の潮見坂上の台地への高所移転を支援するために、8000両あまりの資金を下付しています。これ以後、白須賀宿は台地の上に全面的に移転しました。以前、宿場のあった場所は「元宿」と呼ばれるようになりました。

高知県土佐清水市三崎の平ノ段

宝永の津波は高知県土佐清水市三崎では「平ノ段の東方・松の下の潮留めというところまできたと『補注 幡南探古録』に記録されています。この場所は14.0mの標高があって、これが宝永津波のここでの遡上の高さです。この周辺の平野部には、各所に集落が散在していました。これらの集落について『補注 幡南探古録』には、次のように記載されています。

「小石山の付近、および桜花の北方の本屋敷、竜串北方の三助屋敷、爪白堺の勘助屋敷など住民が去って平ノ段に移住せし所以(ゆえん)の者は、みなこの海嘯(つなみ)の来襲をおそれての事なり」とあって、この周辺でかろうじて生き残った住民たちは、みな平野部に住み続けるのを恐れ「平ノ段」と呼ばれる標高30mほどの台地の上に移住しました。

この高所移転は現在も維持されています。筆者が行ってみると、それほど面積の豊かでない台地の上に、車もすれ違えないような狭い道路の市街地に、人々が密集して住んでいました。下の平野部に住まいを移せば、生活の便利さ、水が容易に得られることや火災の心配が少ないことなど、多くの利点を顧みず、日々不便をしのいで生活しておられます。津波からの安全を得るため、決して住居を下の平野部に移転しないのです。

以上、明応東海地震(1498年)、および宝永地震(1707年)の2度の「千年津波」を経験して、高所移転を実行し、それが現在まで維持されてきた例を4カ所見てきました。日々の生活の不便に耐えて、津波被災からの安全を確保してきた先人に、深く敬意を表すべきでしょう。自動車のなかった時代は、現在よりさらに日々の生活の不便を多く経験してきたはずです。このように、300年、あるいは500年と高所移転を維持してきた人々から、われわれは多くのことを学べるのです。

(2012年9月1日 更新)