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津波

第1回  東日本大震災の津波を考察する

執筆者

都司 嘉宣
東京大学地震研究所地震火山災害部門准教授 理学博士
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東日本大震災の津波

2011年3月11日の午後2時46分、東北地方の太平洋側海域でマグニチュード9.0の超巨大な地震が発生しました。この地震によって引き起こされた大きな津波は、東北地方、関東地方の市町村を襲いました。今回の津波は、約2万2000人もの津波による溺死者を出した明治29年(1896年)三陸地震津波や、約3000人の死者を出した昭和8年(1933年)昭和三陸地震津波をもはるかに上回る大規模な津波であったということが分かりました。

今回の東日本大震災の津波と明治三陸津波、昭和8年三陸津波の海水到達点の標高を図1に示しておきました。明治三陸津波のときに津波の浸水標高が30mを超えた場所は、大船渡市三陸町綾里と、陸前高田市広田町集(あつまり)の2点だけでしたが、この津波によって本州最東端の宮古市姉吉の海岸では、海水は39.7mの標高まで駆け上がった(東北大今村文彦研究室調査結果)のをはじめ、そこから北、岩手県久慈市に近い野田村米田(まいた)にいたる約60kmの海岸線では、あちこちで海水は標高30mの地点まで上昇しました。

今回の津波による死者・行方不明者は1万9000人を超えました。この数字は明治三陸地震津波の数字より少ないですが、明治29年当時の海岸には今日のような津波防波堤など一切なく、また津波警報のシステムも一切なかったことを考えると、実質的には今回の津波の方が大きな被害を出したといっていいでしょう。

津波による大きな被害は、岩手県・宮城県などの三陸海岸だけではなく、北は青森県、南は福島県、さらに関東地方の茨城県や千葉県の房総半島にまで及びました。房総半島九十九里海岸の北の端に当たる千葉県旭市の海岸では津波の高さは8mに達し、同市飯岡の市街地に浸入して多くの家屋を全潰し、ここで死者・行方不明15人という大きな被害を出しました。東京からわずか70km東の、車で1時間半ほどで行くことのできる旭市もまた今回の津波の重大な被災地の一つとなりました。

貞観(じょうがん)11年(869年)の地震津波

今回の東日本大震災の津波は、平安時代の初めに起きた貞観11年(869年)の三陸地震に匹敵する規模の大津波であったと指摘されています。今回の東日本大震災の津波はこの貞観三陸津波以来、実に1142年ぶりの大津波であったといわれています。この1000年を超える長い年代の間には、慶長16年(1611年)や明治29年三陸津波(1896年)などの相当大きな津波もあったのですが、貞観三陸津波と今回の津波はこれらをも上回る大津波であったのです。

平安時代の歴史書『三代実録』に残された津波の記録

貞観三陸津波を記録するのは『三代実録』という、当時の首都であった京都の朝廷の下で編さんされた正史(せいし)、すなわち朝廷の公式記録の中に記載されています。有名な菅原道真もこの正史の編さん者の1人でした。貞観地震津波については、次のように記録されています。

(貞観11年5月)廿六日癸未、陸奥国地大震動。流光如昼隠映。頃之。人民叫呼。伏不能起。或屋仆圧死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顛覆。不知其数。

つまり、貞観11年5月26日、陸奥(むつ)の国に大地震があり、(多分地震は夜に起きたのでしょう)流るような光(流れ星のような光)が空に現れ昼のようにあたりを照らし出した。しばらくの間、人々は叫び、起き上がることができなかった。ある人は倒れかかってくる家で圧死し、ある人は地割れに落ちて埋められ、牛馬は驚いて暴れ互いに踏みつけ合うありさまであった。城郭や倉庫、門ややぐらの壁など倒れ壊れるものは数がしれなかった、というのです。当時の陸奥の国の領域は、現在の青森県・岩手県・宮城県のほか、福島県までを含んでいます。以上は地震の記事ですが、この後に津波のことが書かれています。

海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝洄(さくかい)漲長。忽至城下。去海数十百里。浩々不弁其涯涘。原野道路。惣為滄溟。乗船不遑。登山難及。溺死者千許(ばかり)。資産苗稼。殆無孑遺焉。

海の方では動物がほえるような音が聞こえ、その音は雷のようであった。陸をさかのぼった海水は、陸地深く浸入し、あっという間に城下に達した。海水は海岸から数十里、あるいは百里(当時の1里は約600m、100里は約60km)に達し、原野や道路は果てしなく青黒い泥水に洗われた。船に乗る間もなく、山に登ることもできず、溺れ死んだ者は1000人ほどもいた。財産や収穫した農作物などはほとんど何も残らなかった。

いうまでもなくこのようなありさまは、われわれが去年に見た、東日本大震災の津波の被災地の景色そのままといっていいでしょう。海水は海岸から百里(約60km)は北上川沿いにさかのぼった津波をいうのでしょう。

2011年の大津波は貞観三陸地震津波の再来

地震研究者は気がつかなかったのですが、東京大学史料編纂(へんさん)所の中世文書の専門家、保立道久(ほたて みちひさ)教授は、この年の12月29日、すなわちこの年の大みそかの記事に、次のような記載がある事を指摘されました。すなわち、この時の天皇であった清和天皇は、貞観11年は新羅の国の海賊が朝貢船を襲ったり、肥後の国(熊本県)でも地震や台風があったので、石清水八幡(京都府八幡市)に厄払いのお祈りを命じています。その中に、今年の災害の一つとして陸奥国の地震を述べています。その原文を見ておきましょう。

陸奥国又常に異なる地震の災言上たり。自餘国々も又頗る件(くだん)の災有りと言上たり。

すなわち、陸奥の国の国司(いまの県知事)は京都の朝廷に、今年はいつもと異なる大地震(と津波)の被害があった。そのうえ、「自余の国」つまりそれ以外の国々の国司たちもまた陸奥の国と同じ災害があった、というのです。陸奥の国は青森県から福島県までの領域です。「自余の国々」とは陸奥国に隣接する国々のことでしょう。当然、常陸国(茨城県)は「自余の国々」の一つでしょう。「国々」と複数になっていますから、さらにその隣の下総国(千葉県北部)も同じく、この地震、津波の被災地であった、ということになりましょう。すなわち、『三代実録』を忠実に読めば、貞観三陸地震津波の重大被災地は、三陸を含む東北地方だけではなく、関東地方の千葉県の領域にまで地震津波の被害が及んでいたことになります。

貞観三陸地震津波は、地震と津波の重大被災地が東日本大震災と同じように東北地方から関東地方の千葉県にまで及んでいたのです。確かに、2011年の東日本大震災は、貞観11年(869年)三陸地震の再来であったのです。

(2012年3月9日 更新)