「恥の多い生涯を送って来ました」。ある男の独白から始まる、太宰治の代表作「人間失格」。廃人同様に生きる男の手記の形をとり、自らの破滅的な前半生を戯画風に描いています。
モチーフとなったのは、太宰の入院体験。この時の様子を、師匠の井伏鱒二が別の作家に宛てて書いた手紙が、初めて見つかりました。さて、手紙の内容は?
※文末に手紙の全文を掲載しています。
手紙は書かれたのは1936年10月。太宰の師匠の井伏鱒二が、作家の佐藤春夫に宛てたもので、遺品を調べていた実践女子大学の研究チームが見つけました。
当時の太宰は、盲腸で入院した際に鎮痛剤の依存症になり、一度は別の病院に入院しましたが、完治しないまま退院してしまった状態でした。
今度こそしっかり治したほうがいいという井伏の説得で、太宰は精神科病棟に入院します。今回見つかった手紙は、この時の太宰の様子について記しています。
手紙には、「私たちが太宰をだまして入院させたと憤慨している」とか、「太宰の妻も面会できない状況になっている」などと、当時の様子が原稿用紙2枚に生々しくつづられています。
太宰は芥川賞の受賞を3回続けて逃した直後。この入院体験が人間不信を強め、代表作「人間失格」のモチーフになったとされています。
研究チームの代表 東京大学の河野龍也 准教授
周囲の親切で入院したことを太宰がだまされたと感じ、被害者意識を持ったことは新しい発見で、大変興味深い資料だ。
太宰のためを思って入院させたのに、「だました」と捉えられてしまった井伏。弟子が薬物中毒であると理解しつつも、「私もまともに面と向かってそんなことをきくと喧嘩したくなりますから、当分のうち面会に行かないつもりです」と記して、さすがに憤慨した様子です。その一方で、太宰を再生させるために今後について考えていることも、書き添えられていました。
井伏の手紙より ※原文のままです
太宰の単行本の原稿は、入院の日に私があづかかて来ました。太宰は一應それを訂正したいと云つてゐましたから、病気がよくなつたら訂正させるやうにとりはからひたいと思ひます。
河野龍也 准教授
太宰という作家は、破滅的なイメージが強いかもしれませんが、ずっと人間不信を強めたのではなく、再婚して立て直して安定していた時期もあります。今回見つかった手紙からは、同じ作家として太宰の才能を信じ、弟子を何とか再生させようとした井伏の温かいまなざしが感じられる。
この手紙は、11月26日まで、横浜市中区にある神奈川近代文学館で行われている特別展「没後30年 井伏鱒二展」で公開されています。ほかにも太宰が書いた手紙なども展示されていて、太宰と井伏のやりとりを見ることができます。
拝復。水[晶]は紫色のをお描きになることに気がつきませんでした。それで背景に紫色の物体を置いてお描きになりますと制作慾と調和しないものでせうか。苦しまぎれにちよつとさういふ姑息なことを考へてゐます。
けふ愚妻が太宰君の細君に会ひましたところ、病院長も面会しない方がいいと云ふので会はなかつたと細君が云つてゐたさうです。まだ苦痛がとれないで妄想的なことを口走つてゐるさうです。それに私たちが太宰をだまして入院さしたと憤慨してゐるとのことです。私もまともに面とむかつてそんなことをきくと喧嘩したくなりますから、当分のうち面会に行かないつもりです。版画荘で引受けてくれた太宰の単行本の原稿は、入院の日に私があづかつて来ました。太宰は一應それを訂正したいと云つてゐましたから、病気がよくなつたら訂正させるやうにとりはからひたいと思ひます。中毒がなくなつてから読むとまた別な発見をつけ加へるかとも思ひます。たぶん破くやうなことはないと思ひます。
太宰の入院中の問題が片づいたら私は甲州下部鉱泉に行き、ついでに例の山上の湖畔(実は山上の池畔)の土地を見たいと思ひます。下部鉱泉は胃にきく鉱泉ですから、酒で悪くした胃をなほしながら大いに酒をのみ[且]つ治療できます。非常に便利で霊泉とはこのことであらうと思ひます。奥さんによろしく御鳳聲のほどお願ひいたします。敬具。
十月二十三日夜
井伏鱒二
佐藤先生