サッカー Jリーグ。1993年5月に開幕してから、ことしで30年を迎えます。
30年の歴史の裏には、チームを支えてきたサポーターがいます。
開幕から6年後にJリーグに加盟した川崎フロンターレ。
球団や選手、サポーターからフロンターレ躍進の功労者と言われる86歳の男性がいます。
四半世紀にわたるチームへの思いを取材しました。
ことし(2023年)のシーズン開幕直前の2月10日、フロンターレの練習拠点がある川崎市麻生区で、地域のサポーター団体主催の激励会が開かれました。
鬼木監督に花束を渡しているのは、サポーター団体のメンバーの中山茂さん(86歳)です。
中山さんは、れい明期からチームを支えてきた功労者として知られています。
中山さんは、1936年(昭和11年)、川崎市麻生区で江戸時代から10代続く農家の息子として生まれました。
少年時代から大のスポーツ好きで、まだテレビがない時代、相撲や野球のラジオ中継をかじりつくように聞いていました。新聞に載るスポーツ選手の記事も夢中になって読んでいました。
中山さんのサッカーとの出会いは1968年のメキシコオリンピックにさかのぼります。
サッカー日本代表は、3位決定戦で、地元・メキシコと対戦。
日本は、エース・釜本邦茂のシュートでメキシコを破り、銅メダルを獲得しました。
こんなカッコいいスポーツがあるんだと。日本が世界に胸を張れるんだ、そう思いました。メキシコ五輪でサッカーはすばらしいなと気付いたんですよ。
サッカーとは憧れのニュースポーツ。この時、中山さんの胸に刻まれました。
中山さんはその後、家業の農業の傍ら、自治会の活動に精力的に取り組むなかで、「スポーツを通じて地域を活性化したい」と考えるようになり、麻生区にスポーツグラウンドを作ろうと声を上げました。
1980年代後半、中山さんは、自分の土地とその周辺の地権者などとの交渉を重ねてグラウンドを建設しました。
そこに都内の私立高校が誘致されましたが、完成からわずか7年後、急きょ撤退しました。
そして、1993年の5月15日。「Jリーグ」がついに開幕しました。
メキシコオリンピック以来、サッカーへの憧れを持ち続けていた中山さんは、30年前のJ リーグ開幕の日の新聞を今も大切に保管しています。
ようやく日本にもサッカーのプロリーグが誕生して、とても楽しみで、わくわくでしたね。
開幕から4年後の1997年、チーム名を「川崎フロンターレ」に改称し、その2年後の1999年、Jリーグに加盟しました。
スポーツが地域や青少年の成長に大きな影響を与えることを自身の経験として知っていた中山さんは、心の底から歓迎しました。
フロンターレができた時には心が張り裂けるほどうれしかったですよ。夢が現実になったというか。当時から、地域、川崎に根づいて、川崎のためにやるというのはわかりまして、これは応援しなくてはと思いました。
Jリーグに加盟したばかりのフロンターレは、なかなか躍進することはできません。
課題となっていたのは、十分な広さを備えた練習場の確保です。
当時、本拠地・等々力競技場の周辺には、まとまった用地はなく、十分な練習環境が整っていませんでした。
そこでチームが目を付けたのが、中山さんが建設したグラウンド用地でした。
使われないままになっていましたが、1万5000坪という広大な土地で、サッカー場を2面確保できる広さがあります。
チームは、この用地を練習用のグラウンドに活用したいと中山さんに申し出ました。
サッカーなどのスポーツを通して地域の魅力を発信していきたいと考えていた中山さんは、所有者を説得し、練習用のグラウンドの建設に向けて動き出しました。
建設に動き出してから1年後の1999年、フロンターレの専用練習場「麻生グラウンド」が完成しました。
ようやく、選手の強化に向けた練習基盤が整った瞬間でした。
中山さんもこのころから、試合のたびに、妻の寿美江さんと本拠地・等々力競技場を訪れ、声援を送りました。
ようやく専用の練習グラウンドを確保したフロンターレでしたが、当時はリーグの弱小チーム。
中山さんは、首都圏の強豪チームと対戦した際、スタジアムの大部分が相手チームのサポーターで埋め尽くされたことに驚きました。
初めのころは、いつ試合に行っても観客が少なかったんです。特に覚えているのが、浦和レッズとの試合。スタンドが真っ赤に染まりました。浦和のサポーターに聞いてみると、地域で小さな団体を作って応援しているということでした。それを参考に、個人ではなく、地域でフロンターレを応援しようと考えました。
中山さんは2000年ごろからは近所の人を誘って地域でまとまって観戦するようになりました。
それから9年後の2009年、中山さんが中心となって「麻生アシストクラブ」が発足しました。
専用の練習場のある麻生区の住民が中心となって声援を送ることで「地域のチームとして強くなってほしい」との願いが込められたサポーター団体です。
さらに、2010年、中山さんは、選手のための寮「青玄寮」(せいげんりょう)を建設しました。
中山さんは「選手には麻生グラウンドの近くで生活し、さらに練習に取り組んで欲しい。地域の住民として若い選手を迎えたい」と考えたからです。
青玄寮という名前は、中山さんが付けたもので、チームカラーの青と黒(玄)という意味に加え、若い「青年」が一人前の選手「玄人」に育って欲しいという意味が込められています。
レベル強化に向けた練習専用のグラウンドが完成し、さらに中山さんをはじめとする地元のサポーターの声援を受けて、2005年以降、フロンターレはJ1に定着し、リーグ戦やカップ戦で常に上位争いをする強豪チームになりました。
そして、中山さんが応援を始めてからちょうど20年がたった2017年、念願のリーグ戦で初優勝を成し遂げました。
優勝した時は、生きていてよかったなと。選手や球団の皆さんの頑張りを知っていましたから、本当にうれしかったですよ。(初優勝後は)ひと月以上、興奮が冷めませんでした。あのときの喜びは、生涯忘れられません。
初優勝は、中山さんに最大の興奮をもたらしましたが、同時に全国的な人気を獲得していくに連れて、フロンターレが遠い存在になるような寂しさを感じることもありました。
そんな中山さんのフロンターレ愛に再び火をともした選手がいます。中村憲剛選手です。
中山さんによりますと、中村選手はチームの主力や日本代表としても活躍するなかでも、地域のイベントに駆けつけ、いつも地域のファンや住民と同じ目線で接していたということです。
中村憲剛は本当にいい男でね。日本代表となっても、心には川崎を持ち続けてくれた。こんな素晴らしい選手を育ててくれるフロンターレを応援してきて、間違いはなかったなとつくづく思います。
そして、2022年のワールドカップカタール大会。
大会当時、フロンターレに所属していた谷口彰悟選手や山根視来選手のほか、海外で活躍していた田中碧選手や三笘薫選手は、いずれも麻生グラウンドで育った選手たちです。
その選手たちが、世界を相手に大活躍しました。
日本代表なんだけど、フロンターレで育った選手が、世界を相手に戦ってね。誇らしかったです。あんなうれしいことないです。フロンターレで立派に育ってくれたなと。自分も誇らしかったです。
今シーズンの開幕まで1週間となった2月10日。
麻生グラウンドには、中山さんの姿がありました。
視線の先には、雪が降りしきる中でも、ボールを追いかける選手たちがいました。
中山さんは目を細めながら、その様子を眺めていました。
鬼木監督のもと、ことしもきっとやってくれます。サッカーはいい時もあれば、悪い時もある。どんな時にも皆さんに応援していただけるようなチームや選手であってほしいですね。フロンターレが大好きです。これからも長生きして、一生応援し続けます。
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