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「雲の向こうはいつも青空」私も不登校だった

3度の不登校から先生へ
  • 2022年10月27日

今月27日、国が発表した昨年度の小・中学校の児童、生徒の数は24万4940人。過去最多だった令和2年度を、4万8000人あまり上回りました。川崎市に住む金子あかねさん、純一さん夫婦は、わが子の不登校を経験した体験から、かつて不登校だった当事者や親などから話を聞き、不登校のその後の人生を「雲の向こうはいつも青空」という事例集にまとめ発信を続けています。金子さんたちがインタビューしたひとりで、不登校を経て、大人になり、養護教諭として学校に戻った女性の「不登校のその後」をご紹介します。

海老原千紘さん

千葉県内の学校で養護教諭として働く海老原千紘さんは、かつて、学校に通えない「不登校」に苦しみ続けた子どもでした。

海老原さん

二度と学校の敷居をまたぎたくないと思ってましたから、まさか自分が学校に戻ってくるとは思わなかったです。人生何が起こるか分からないですから、本当にあのとき死ななくて良かったと思います。

大人になったいま、海老原さんは再び学校に戻り、学校、そして地域で、不登校の子どもを支援する活動を続けています。 

人生で3度、不登校に

海老原さんは、3度の不登校を経験しています。

初めて学校に行けなくなったのは小学6年の時。縄跳びの練習をしていて、トラブルがあり、クラスの皆の前で担任に大声で叱責されたのがきっかけでした。日頃から騒がしいクラスでした。たまっていたストレスが爆発して教室に戻れなくなりました。

その後、スクールカウンセラーがいる保健室に登校しましたが、卒業式の2日前、スクールカウンセラーから、クラスメイトに向き合うよう強く迫られたといいます。

海老原さん

同じクラスの子が全員、保健室に来て、一人ひとり、私に謝罪しました。謝らない子がいると、先生から謝れと怒られていました。全員の謝罪が終わると、クラスに戻って卒業式はみんなで出ようと言われて。もう、うなずくしかなかった。自分が学校に行かないとこんなに人を苦しめるんだ。だから学校には行かなければならないんだとこのとき強く思ってしまい、その後の自殺願望につながったと思います。

「うまく笑えなくなった」

小学校卒業時の海老原さん
うまく笑えなくなってしまったといいます

その後、海老原さんは、自宅から離れたクラスメイトのいない中学校に進学しますが、いじめにあい、5月ごろには、2度目の不登校になったと言います。

 中学校には、裏門から出入りができる相談室があり、そこには相談員が常駐していました。 

海老原さんは、7月ごろから相談室に登校するようなりました。相談員の佐々木瑠美子さんは明るく、いつも海老原さんの声を聴いてくれました。たとえば、給食の配膳方法ひとつ取っても、

「教室に取りに行く?職員室に取りに行く?それとも私が取りに行こうか?」

と、海老原さんの意見を聴き、決して否定しませんでした。海老原さんが落ち込むと、

「そのままでいいんだよ。大丈夫、大丈夫。」

と声をかけてくれる佐々木さんの心遣いに、緊張していた海老原さんの心は少しずつ、ほぐれていったといいます。

海老原さん

不登校になると、なかなか大丈夫って言ってくれる人っていないんです。それは教員をしている、いまでも感じます。でも佐々木さんはいつも、大丈夫と言ってくれて、すごく安心感がありました。

心が回復してきたと感じた海老原さんは、学校に行きたいという気持ちが強くなり、中学2年から別の学校に編入して学校に通うようになりました。

しかし、次第に今度は強い疲労感に襲われるようになります。帰り道、電車の駅のプラットホームのベンチに座り、ぼんやりと何本も電車を見送り、母親からのメールでわれに返る。そんな日を経て、ついに家から出られなくなりました。3度目の不登校です。 

そこからは、「どん底」の毎日だったと言います。 

寝ているか、起きてベッドの上で泣いているかの日々。死にたくて仕方がないのに、高額な葬式代がかかり、親に迷惑がかかると思うと、死ねない。そのうち、ご飯も喉を通らなくなりました。

そんな毎日を変えたのが、中学1年のときに海老原さんを支えてくれた相談員の佐々木さんでした。佐々木さんが手作りして持ってきてくれた杏仁豆腐を、一口、口に入れると、一気に涙があふれてきたといいます。 

海老原さん

意気込んで、新しい中学で頑張るって言っていたのに、こんな風になってしまって、失望されるかなと思ったんですけど。変わらず「大丈夫、大丈夫」と背中をさすってくれました。そこからは、ご飯を食べられるようになりました。

佐々木さんが紹介してくれたフリースクールに通うようになった海老原さんは、次第に元気を取り戻しました。

海老原さん

不登校は充電期間ってよく言いますけど、本当に充電なんです。いまは充電した分、爆速で進んでいます。キャンプも好きだし、サーフィンも好き、本当にあのころと比べものにならないほどのアクティブさです。

夢を叶えた!

フリースクール卒業時の海老原さん

フリースクールを卒業した海老原さんは、通信制の高校に入り、夢だった看護師を目指して勉強を始めました。

中学時代の3年間はほとんど勉強できませんでしたが、医療系の学校を目指す予備校へ通い、第3志望の大学に合格しました。大学に通い始めてからは、不登校による学業への影響を感じることはなかったといいます。

そして、大学の仲間たちと同じように勉強して、看護師免許を取得しました。 

海老原さん

特別なことはしていないです。勉強量も人並みでした。一番行きたかった大学は数ⅡBが必要だったので、諦めて3教科に絞りましたが、看護師になるという夢は叶えられました。少し遠回りになってしまうかも知れないけど、不登校だからと言って夢を諦める必要は全くないと感じています。

学校へ戻る

看護師になった海老原さんは、仕事に充実感を感じていました。一方で、フリースクールで不登校の子どもへの支援を続けていました。

自分が不登校だったころから何年も経ち、不登校児の社会的自立を目指す法律も制定されましたが、支援する子どもたちから聞かされる教師たちの高圧的な態度や、学校に行けないことを否定する言動は、自分が子どもだったころと変わらないと感じました。

なぜ学校は変わらないのか。 

それを知るためには、自らが学校を知らなければならないと思った海老原さんは、再び学校に戻ろうと決心しました。 

「不登校だった」先生の挑戦

養護教諭となり学校に戻った海老原さんは、不登校の子どもたちと、先生の「すれ違い」に気付いたと言います。たとえば、海老原さんは不登校の生徒に対して、先生が教室に戻りやすくするためにクラスの様子を話したり、励ましたりする場面を目にしました。

自身の経験を振り返ると、こうした先生の気遣いは、不登校の子どもが疎外感を感じたり、学校に行けない自分がだめだと感じたりすることにつながったりすることも多いと海老原さんは指摘します。 

海老原さん

学校の先生は、学校が大好きで、なりたくてなっている先生が多い。学校が嫌で行きたくない不登校の子どもと、すれ違ってしまうのにはある意味納得しました。両者の間に入れるように助言したりしています。

不登校の子の教室では感情表現につながるゲームを行う

いま、海老原さんは、新しい取り組みを続々と始めています。不登校になっている生徒の多くが、家から出られず、自宅で過ごしています。その生徒との接点の第一歩として先月(9月)から新たに始めたのが、「オンライン保健室」です。学校に行くことができない生徒と海老原さんがオンラインで話します。保健室に登校する「前段階」として、養護教諭の海老原さんとの間でまずは信頼関係を築くのです。

こうしたオンラインでの対話は安否確認が難しい生徒の状況を知る上でも有益だと言います。

一方で、ほかの生徒がいる時間帯に学校に来るのはハードルが高いと感じる生徒のために、定期テストの期間中など、ほかの生徒と遭遇しない日に不登校の子どもの教室を開く取り組みも今月(10月)から始めました。 

まずは、先生や学校に慣れてもらうためです。

学校の外の居場所では、子どもの希望でクッキー作りも

そしていま、もっとも力を入れているのが、「学校の外の居場所」。

学校に行くこと自体が難しい子どももいるため、家と学校の中間の居場所を設けるため、NPOを立ち上げ、毎週日曜日に無料で居場所を開放しています。 

そこには、海老原さんのほかに、学校の教員とボランティアスタッフが常駐しています。子どもたちが、教員や地域の人と関わり、つながっていくことに慣れてもらうのです。 

海老原さん

家から外に出られなくなっていた時が、自分も家族も一番辛かった。私はもっといろいろなチャンスを不登校の子たちにあげたい。だから第三の居場所に力を入れて、勉強する機会も、コミュニケーションを取る機会も作って、その子が将来、その子の道を行ってくれる、選択肢の幅がなるべく狭まらないようにしてあげたい。人との出会い、つながりが自分を支えてくれたっていうのがあるので、いまは、オンラインもあるけれども、対面でのつながりを大事にしたいと思っています。

学校にも変わって欲しい

そんな海老原さんの一番の願いは「学校がもっと通いやすい場所に変わること」だと言います。 

子どもの幸福度が高いフィンランドの学校の視察に行った海老原さんは、日本との発想の違いに驚かされたといいます。

聴覚過敏の子どもにはヘッドホン、多動の傾向がある子どもには動く椅子が用意されるなど、あらゆる子どもが、学ぶことに集中できる環境がありました。
学ぶ場所も、先生の目の前で勉強する子どももいれば、教室の隅で勉強する子ども、個別の指導を受ける子どもなど、それぞれでした。教員の人員配置も手厚く、制服もなく、髪の色も自由。
自分らしく勉強に集中できれば、それでいいという考え方に刺激を受けたと言います。 

海老原さんは、学校の改善と、学校の外の居場所作り、それぞれを自分なりに進めて、いま苦しんでいる子どもたちに支援を届け続けたいと考えています。 

海老原さん
「日本は、教員も一人で多くの子どもを見なければいけないので、規律が重視される。子ども一人ひとりに目が届かないのではないかと感じています。私は不登校をゼロにしたい。学校を行きやすい環境にすると共に、支援が行き届かない子どもをゼロにしたいです。フリースクールでも、 適応指導教室でも、学校以外の居場所でも、社会的に居場所があって通えていること。そして、それが不登校という扱いでなくなればいいなと思っています。家にずっと居続けるのは、私も辛かったですし、学校と、学校外の居場所を整えて不登校の定義を変えていきたいです。」

いま、学校にいけなくて  苦しんでいるあなたへ

海老原さん
「私も不登校のとき、死にたいとか、生きてて意味ないって思ってたけど、いいことあったよ。どうにかなった。不登校のときは、自分は普通じゃないって思ってたけど、普通ってないし自分が普通。私は二度と学校に足を踏み入れないと誓ってたけど、なんか踏み入れちゃったし、本当に何があるか分からないから、自分に諦めないでほしいと思います。自分を応援したり、ありのままを受け入れてくれる人を大事にして欲しいなと思います。」

  • 佐藤美月

    横浜放送局・記者

    佐藤美月

    2010年入局。甲府局、経理局を経て2021年7月から横浜放送局・川崎市政担当。児童福祉や教育など、子どものウェルビーイングをテーマに取材。

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