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関東大震災100年“幻の地下鉄計画”に迫る

  • 2023年8月28日

毎日およそ800万人が利用する東京の地下鉄。
実は、具体的に検討されながら実現することはなかった“幻の地下鉄計画”があったことをご存知でしょうか?計画が作られたのは100年前。首都が甚大な被害を受けた関東大震災の復興事業の一環として計画されたものでした。今回、新しく見つかった資料から全貌が初めて明らかになりました。
首都が壊滅的な被害を受けた当時、なぜ地下鉄網を考えたのか。今の私たちにも示唆に富むアイデアがあったのです。
(首都圏局/記者 牧野慎太朗)

100年前の路線図 いまとの違いは?

その資料が見つかったのは去年12月。
東京の日比谷公園の一角にひっそりとたたずむ「後藤・安田記念東京都市研究所」の書庫に保管されていました。研究所を設立したのは、内務大臣として、関東大震災からの復興の陣頭指揮にあたった後藤新平です。

資料は3種類の路線図と2つの書簡。
日付は1923年11月。関東大震災が発生してわずか2か月後に作られていました。
専門家によると、「第一号図」が最も理想的な案、「第二号図」は当時検討されていた幹線道路の整備計画にあわせて修正した案、「第三号図」は最新の復興計画にあわせて修正されたということです。

どんな路線なのか、「第一号図」をもとにみてみましょう。
青い線が地下鉄路線、「高速鉄道線」と言われていました。
当時の主要な交通手段だった国営の鉄道路線「省線」が赤い線で、路面電車が黒い線で記されています。赤い円形の路線はいまの山手線です。

地下鉄路線は放射状に伸びる6つの路線からなりたっています。
6つの路線の多くは「省線」と接続するように設計されています。

◆「巣鴨」~「恵比寿」
◆「池袋」~「亀戸」
◆「新宿」~「洲崎」(今の江東区・東陽町駅周辺)
◆「渋谷」~「月嶋」(今の中央区・月島周辺)
◆「五反田」~「上野」~「北千住」
◆「中央市場」~「鐘淵」(今の墨田区・鐘ヶ淵駅周辺)

今の13ある路線図と比較してみます。複雑な今と、違いは歴然です。
特に「新宿」と「洲崎」を結ぶ路線は皇居の下を通る設計で、いまの路線にはない特徴です。

地下鉄の専門家はどうみる?

100年前の路線図を専門家はどうみるのでしょうか。
地下鉄の成り立ちに詳しい鉄道ライターの枝久保達也さんが注目したのは中央部分、つまり東京駅周辺の網目状に交差しているところです。

枝久保達也さん
「網目状に路線を交差させる路線は『ペーターゼン式』と呼ばれています。近いのは、いまの大阪市の地下鉄ですね。当時の東京市は都心を丸の内・日本橋・京橋付近と定義し、市内各方面からすべての路線を直線的に都心に集中させる目的だったことが見て取れます」

だれが?なんのために?

いまの東京メトロ銀座線の一部である「浅草」と「上野」の間が初めて開通したのは1927年(昭和2年)。
では、誰が、何のために作成したのか。

それは同封の2つ書簡に詳しく記されています。書簡のタイトルは「帝都復興計画に関する意見書」。赤字で“秘”の印が押され、当時の東京市の幹部だった丹羽鋤彦と長尾半平の2人の名前と、送り先として後藤新平の名前が書かれていました。

後藤新平は当時内務大臣兼復興院総裁として、復興計画の先頭に立っていました。路線図を送った理由は、ひと言で言えば、後藤が進めていた復興計画を不十分だと考えていたからです。
いまの墨田区や中央区などにあたる東京市のおよそ4割が焼け野原になってしまった関東大震災。
路線図が作成された1923年11月は、まさに後藤らによって「帝都復興計画」が議論されていた時でした。

震災復興を「理想的帝都建設の為真に絶好の機会」とまで訴えた後藤は、近代的なまちに作りかえるべく、構想を練り上げていきました。
その中心となっていたのが、大きな幹線道路を通して街の区画を整理し、火災を防ぐ役割も果たす大規模な公園を東京の各地に整備することでした。いわば「地上」が中心です。

しかし、書簡では、この構想に真っ向から反論。
「(後藤の計画は)単に街路の幅員を広くしただけにとどまっている。帝都の計画においては『高速度交通路線』を最初に決定することを忘れてはいけない」という海外の専門家の意見を「至言」とし、地下鉄の必要性を説いていました。

100年前の東京 なぜ地下鉄が必要?

書簡をさらに読み進めると、東京に地下鉄網が必要とされた理由がわかってきました。
「『ラツシ、アワー』交通ヲ緩和スルニ利アリ」
ラッシュアワー=交通混雑の緩和です。

当時、東京では路面電車が主要な交通手段となっていましたが、速度も遅く輸送力に乏しいため、増え続ける人口に対応できなくなっていました。そのため、新たな交通インフラとして、当時ロンドンやパリなどで導入され始めていた地下鉄を東京にもつくるべきだと考えられていたのです。

枝久保さんは、この資料を「東京の地下鉄計画における空白を埋める資料」と評価します。

東京の地下鉄計画というのは、関東大震災の少し前に構想が出始めていましたが、建設主体は民間の複数の会社で、それぞれの会社が路線ごとに免許を取得していたそうです。しかし、どの会社も第一次世界大戦後の不況で資金不足に陥り、建設に着手できていませんでした。
東京市の地下鉄計画の記録が確認できるのは、震災の翌年。その計画が、国の意見を踏まえて修正され、1925年(大正14年)にいまの地下鉄網の原型がまとまったとされています。復興計画で議論された痕跡はあったものの、震災直後の、さらに具体的な路線網の資料はこれまでなかったといいます。

この路線図どおりの街になっていたら?

では、この路線図のような街になっていたらどうなっていたのか?

東京駅を中心とした放射状の地下鉄路線網=「ペーターゼン式」は、枝久保さんによると東京や京橋などに行くには便利ですが、都心以外の目的地に行く場合に一度都心を経由して乗り換える必要があります。実際の東京の地下鉄は、途中で路線を交差させたりしながら乗り換えをしやすくする『ターナー式』という考え方で作られています。

枝久保達也さん
「現在だったらもっと当然東京都心が広くて更に副都心っていうのがいろいろあるわけですが、その辺りの広がりは欠いていて、当時の東京に最適化した構造かなとは思います」

“地下の作り直しも具体的に考えていた”

しかし、枝久保さんも決してこの計画を、100年前の古びたものだとはみていません。
まちづくり全体を考えていたからです。

後藤新平など、日本の近代史や関東大震災の復興に詳しい東北大学大学院の伏見岳人教授も「この資料は地上だけでなく、地下も作り直すことが具体的に検討されていたことを示す」と評価しています。

その根拠としたのは、路線図が3つあったこと。当時の東京市の幹部が実現可能性を考慮しながら検討していったことがわかると指摘しています。
特に「第三図」には後藤の求めに応じて修正したことをうかがわせる記述もありました。

後藤新平や復興に詳しい東北大学大学院 伏見岳人 教授
「後藤自身も関心があって、何らかの形で政策としてまとめておきたいという気持ちがあったのではないでしょうか」

“後回しにしたら損失や不便さは永久に残る”

さらに、伏見教授は、今の時代も見据えていたことに注目しています。

「仮に地下鉄の計画を後回しにした場合、さまざまな建物の基礎工事などの制限を受けるため、地下鉄が不必要に深くなり、工事費や運転費が増大し、上り下りする乗客の時間的な損失を覚悟するしかない。もし建物の障害を避けようとすれば、曲線や距離が犠牲になって損失や不便さは永久に残る。」(東京市の書簡より抜粋)

「目の前の予算金額を縮小することに没頭して、帝都100年の交通に要する経費と時間の節約を犠牲にすることは看過できない大問題。」(東京市の書簡より抜粋)

東京市は、都心が焦土と化したこのタイミングを逃さず、都市の根幹をなす交通機関を整備することが、将来の東京のためになると考えていたのです。今の地下鉄は便利ですが、「移動時間が惜しい」、とか「このエスカレーター、長いなあ」と思うときは確かにあります。地下鉄の整備が遅くなると、さまざまな不便さが出てきてしまうことを当時から想定していたようです。
さらに、書簡には表やグラフもついていて、理想的な地下鉄網を整備したい東京市の熱意が現れています。このさき20年あまりにわたる地下鉄の収支や輸送人員を試算したデータのほか、ニューヨークで、路面電車から地下鉄に乗降客がどう移行していったのかを示すグラフです。
「長期的には黒字に移行する」ことを訴える、いわば100年前のプレゼン資料です。

伏見岳人教授
「地上だけでなく地下も作り直すことが具体的に検討されたことを示す重要な資料で、実現に至らなかった“幻の地下鉄計画”と言えると思います。人口が増えていくまちづくりの根幹に、交通計画を大胆に組み込むという考え方は100年たっても古びないものだと感じます」

関東大震災は、被災前の形に戻す「復旧」ではなく、より良い形にする「復興」の考え方が初めて取り入れた災害だとも言われています。いまの東京でも新しく街が開発されて人は増えたものの、交通インフラなどが不十分で、後追い的に整備が進むために住民が不便な思いをするという事態はたびたび見られます。今回新しく見つかった地下鉄計画は、現在も各地で開発が進む東京の街において、仮に理想であっても次の100年を見据えて都市のグランドデザインを描いていく重要性を投げかけているのかもしれません。

  • 牧野慎太朗

    首都圏局 記者

    牧野慎太朗

    「不動産のリアル」では、首都圏の不動産の今を取材。地下鉄や私鉄沿線のまちづくりにも関心を持つ。

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