「真実だけが人を助ける。隠してはいけないと、すべてのことは。
世の中には『遠慮』という言葉があって美徳っていうことになっているけど、遠慮することによって相手を傷つけることさえあると思っている」
こう語るのは、指揮者の井上道義さん(76)です。
2024年末の引退を前に、ことし1月、自ら企画・制作したオペラを上演しました。
オペラのテーマは、井上さんと、父親との関係です。
(アナウンス室 井田香菜子)
井上さんは、14歳のときに指揮者を志し、20代半ばにしてイタリアの指揮者コンクールで優勝。一躍国内外の注目を集めました。
14歳のころの井上さん
8年前には、モーツァルトのオペラを、日本を舞台としたものに変えて上演するなど、斬新な演出にも挑戦してきました。
2015年初演 オペラ「フィガロの結婚」
そんな井上さんが今回挑んだのは、企画から脚本・作曲・振付・指揮に至るまですべてを自ら務めたオペラです。
制作の理由について、井上さんは次のように話しています。
井上さん
「指揮をやっていると一方通行なんです、音楽に対して。演奏するっていうことしかしないでしょ。だけど、料理する人が食べるじゃない。食べる人は普通ちょっとは料理する。
本当に、ものを知ろうとしたら両方知りたくなる。
それで僕は作曲を始めてすごく指揮によかったんです。指揮をするために作曲を始めたんですけど、それがずーっと続いているうちに60歳ぐらいになったときに、時間ができてオペラを作ってやりたいっていう欲望が出てきた」
オペラの台本
オペラの脚本は、井上さんと、両親の関係をもとにして作られました。
きっかけは30年以上前。
自分を育ててくれた父親について、ある事実が明らかになったのです。
井上さん
「母親に『死んだ父親は本当の父親なの』って問いつめたら『違う』って言うんですよ。それから物事はガラガラガラと崩れて、今までのことがチャラになっちゃったのね」
井上さんの両親(左)父・正義さん(右)母・廸子さん
育ててくれた父親と、血がつながっていないことを知ったとき、「作品を書かなければ」という衝動に駆られたと言います。
“父はなぜ、本当のことを言わずに死んでしまったのか”
“自分を愛してくれていたのか”
葛藤に苦しみながら、10年以上をかけてオペラの制作にあたりました。
作品と向き合う中で辿り着いたのは「真実だけが人を助ける」という結論でした。
井上さん
「なんで真実をちゃんと俺に伝えなかったの?と。
いつまでも子ども扱いしてほしくなかったなということを言いたいんです。真実だけが人を助けると。隠してはいけないと、全てのことは。
世の中には『遠慮』という言葉があって、美徳になっているけど、遠慮することによって相手を傷つけることさえあるといえる」
オペラでは、井上さん自身をモデルにした主人公の画家が、自分の出生の経緯を知り、「真実は消すことができない」と父に訴えます。
♪オペラの歌詞
描いては消し 描いては消し
イヤイヤ 決して決して 消せない 消せない
消えない 消えない
父に歌いかける主人公
♪オペラの歌詞
俺も悪かった 本当のことを 伝えなかった
愛ゆえに 真実を隠したのだ
愛の力を 信じられなかった
願っていたのは 平穏だけだった
歌い返す父親
最後に出演者が合唱し、オペラは幕を下ろします。
♪オペラの歌詞
消えない音が 隠されていた
まことの愛が 解き放たれた
幕が閉じたら すぐ先に
豊かな海が 満ちている
合唱する出演者たち
終演後、拍手は10分以上鳴りやみませんでした。
井上さん
「意外と、やりつくしたとかそういう感じじゃなくて、毎日やっていた音楽会がひとつ終わったという気持ち。いろいろな思い出が一音一音にいろいろあるので、どうしてもテンポが遅くなりそうになったりするが、それをふっきって指揮者として前に進ませるというところが辛かったです。
でもこの曲はっきり言ってちょーいい曲だよ!」
このオペラの再演については今のところ決まっていませんが、5月には都内の音楽イベントで、ベートーヴェンの交響曲第五番「運命」を指揮するなど、来年末の引退まで、全力で音楽に向き合っていきたいと話していました。