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保育士 独自の配置基準なぜ実現?富士見市で当事者たちに聞いた

シリーズ保育現場のリアル(番外編)
  • 2022年12月2日

保育士の配置基準の問題点を取材している私たちは、以前、独自の財源で手厚く保育士を配置している自治体のひとつとして、埼玉県富士見市を紹介しました。しかし、担当課への取材では、なぜ1970年代にそうした施策が始まったのか、詳しいいきさつはわかりませんでした。
すると、放送を見た視聴者から、「当時の経緯を知っている人がいます」という連絡があり、再び富士見市を訪ねました。
(首都圏局/記者 氏家寛子)

富士見市基準 はじめは“複数担任制”

富士見市内の施設で私を出迎えてくれたのは、長年、地元の保育現場などで活躍してきた60代から70代の方々です。

富士見市の配置基準についてのNHKニュースを見て、どうして基準がつくられたのか知ってほしいと取材に協力してくれました。

取材の様子(左奥が記者)

まずは、現在の富士見市における保育士の配置基準です。
0歳児から5歳児まで、国のそれと比べてみると、赤く示した4つの年齢区分で手厚い配置となっていることがわかります。

保育士の配置基準
  富士見市(公立・私立)
0歳児 3:1 3:1
1歳児 4:1 6:1
2歳児 6:1 6:1
3歳児 13:1 20:1
4歳児 18:1 30:1
5歳児 25:1 30:1


私がことし10月に、この富士見市の配置基準がどういう経緯で実現したのかを取材した時は、市の担当課でも、1970年代にその一部が定められたということしかわかりませんでした。

すると、当時の状況について富士見市の元保育士で、労働組合の保育所部会の会長も務めた簗眞智子さんが詳しく教えてくれました。

簗さんによると、富士見市内に最初に保育所ができたのは1967年(昭和42年)。
当時は、1歳児24人に対して保育士3人と主任(現・保育所長)のあわせて4人、つまり国の基準と同じ“6対1”でした。
ただ、主任は対外的な仕事で抜けることが多く、国の基準を下回る24対3の保育が常態化していたそうです。

このころ、富士見市は東京のベッドタウンとして人口が急増していました。それにあわせて保育所の整備も急速に進められ、1976年(昭和51年)には6か所目の公立保育所ができました。

簗さんが保育士になったのはまさにその年(1976年)。当時の大変さをこう振り返りました。

元保育士 簗眞智子さん
「私は1976年に入職しましたが、3歳児24人を2人で見ていたんです。名前がばら組だったんですけど、もうバラバラ。家庭から3歳児で初めて保育園に入る子もいて、排泄の面も自立してなくてお漏らしも多くて。3歳児って“自分が”が強くなる時期で。手を取られて、保育をしている場面で1人になることが多いわけなんですよ。トイレをきれいにとか食事の片付けとかやっぱり1人ではとてもやり切れないような状況というのがありました」

「富士見市職保育所部会20年のあゆみ」より

厳しい現場の状況を踏まえ、組合など現場は市に配置基準の見直しを強く要望。

そして、4年間にわたる交渉の末、1978年(昭和53年)に今の「富士見市基準」の土台となる複数担任制の基準が決まりました。
これは今の国の基準と比べても、かなり手厚い体制となっています。

保育士の配置基準
  富士見市(1978年) 国(現在の基準)
0歳児 6:2  3:1
1歳児 8:2 6:1
2歳児 12:2 6:1
3歳児 22:2 20:1
4歳児 25:2 30:1
5歳児 25:1 30:1

富士見市基準をめぐる攻防

ところが、話を聞いていくとこうした「富士見市基準」も決して無風だったわけではありませんでした。
1994年(平成6年)、低年齢児の保育ニーズが増え続けていることから、市側から組合に対して、富士見基準の一部見直しが提案されたのです。

1995年(平成7年)の交渉では、以下のように意見が分かれました。

市側  組合側
複数担任制から1人担任へ 複数担任制を維持したいが、
1人担任の場合は以下の基準
3歳児 15:1 3歳児 12:1
4歳児 20:1 4歳児 17:1

「富士見市職保育所部会20年のあゆみ」より

元保育士 簗眞智子さん
「0~2歳児の入所希望が多くなる一方、枠が少ないので入れない子が多くなってきたのです。それと比べて、3~5歳児は幼稚園や民間の保育所があって人数が少なくなってきた。低年齢児を多く受け入れると保護者の希望に応えられますが、保育士は増やせないので、3、4歳児の担任を複数から1人の担任にして、浮いた1人を低年齢児に持っていくという方法をとらざるをえなかった。1人担任にはしたくなかったんですけど、どうしても応えないといけなかったのです」

保育所の現状や基準について知ってもらうため、市職員や父母向けにビラを配布しながら交渉を続け、1996年(平成8年)富士見市基準の一部が改正されました。
これが今も続く「富士見市基準」です。

3歳児 13:1(国は20:1)
4歳児 18:1(国は30:1)

“自分たちで変えていく”

取材をすると、「富士見市基準」が作られた背景として、当時の第2次ベビーブームの波で一気に保育所建設が進められたことで保育環境などの問題が顕在化したことに加え、労働組合の活動が活発だったこと、さらに、革新市政だったことによる影響が少なくなかったことがわかります。

そうした今の時代背景と大きく異なるなか、もう1つ私が関心を持った取り組みがあります。
それは当時、「三者懇談会」と名づけられた集まりです。そこは保護者と保育士、さらに保育行政の担当者が、フラットな立場で保育施策の研究をした場だったそうです。

今回、集まっていただいたひとり、日置公一さんは保育所を利用する保護者でつくる、父母の会連絡会の元会長でした。こうした話し合いの場をどこか懐かしそうに、「良い保育をつくろうとギリギリまで話をしました。けんか腰ではなく、お互いに役割が違うなかで、信頼してやったものです」と振り返っていました。

「富士見市職保育所部会20年のあゆみ」より

保育所の定員がいっぱいで、自身の子どもが保育所に入れなかった時には、ほかの保護者とともに共同保育所の立ち上げも行ったそうです。

日置さんは、人とのつながりが昔と比べて希薄になったと感じる今、当時と同じようにやるのは難しいかもしれないとしたうえで、「熱意がある保母さんや親がいて、自分たちで変えていこうという思いがすごかった」と話していました。

「子どもたちのための保育」という共通の目標に向かって、保護者と保育士、さらに保育行政の3者が対話し、議論を深めた枠組み。こうした取り組みから、今の私たちが学べることがあるかもしれないと感じました。

みなさんの経験・意見お寄せ下さい

保育士を取り巻く環境や制度などはここ10年あまりで大きく変わったといいます。一方で、保育士の配置基準など戦後ほとんど変わらない側面もあります。
私たちは引き続き取材をつづけます。
保育士のみなさんはもちろん、保護者としての経験などもぜひこちらの 投稿フォーム よりお寄せ下さい。

  • 氏家寛子

    首都圏局 記者

    氏家寛子

    岡山局、新潟局などを経て首都圏局 医療・教育・福祉分野を幅広く取材。

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