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“蚊を知ることが命を守る” 国立感染症研究所のプロ集団を追う

  • 2022年10月28日

毎年、世界で一番多くの人の命を奪っている生き物は何だかご存じですか?
サメ? クマ? あるいは毒ヘビ? いいえ、そんな大きな生き物ではありません。

わずか数ミリから数センチの小さな昆虫です。庭で水まきをしているとき、寝苦しい夜、私たちに忍び寄ってくる、思い出すだけでかゆくなってくるあの忌々しい虫。
そう、「蚊」です。

かゆいだけならまだしも、マラリアなどの感染症にかかれば命に関わります。
感染症を媒介する「蚊」を研究し追い続けているのが、東京・新宿の国立感染症研究所にある「昆虫医科学部」の専門家たち。この夏、その研究現場に密着しました。

彼らが強調するのは「正しくおそれるために、敵を知ることから始めよう」。相手を知らなければ効果的な対策も立てられないからです。

私たちが忌み嫌い、つい遠ざけがちな「蚊」。ところが取材してみると、なかなか深い世界も見えてきました。知られざる蚊の世界へご招待します。
(首都圏局/ディレクター 高松俊)

北上する蚊がもたらす脅威

まずはこちらの画像をご覧下さい。これは8年前の東京・代々木公園です。

ジョギングや散歩を楽しむ人でいつもにぎわう都心の公園には不似合いな防護服の人が。ある蚊を駆除するために公園を閉鎖して行われた対策のようすです。

その蚊とは「ヒトスジシマカ」です。住宅街でも公園でも、夏場にはどこでも発生する日本で最もポピュラーな蚊です。この蚊はデング熱という感染症を媒介するのです。デング熱は熱帯や亜熱帯で広くみられる感染症です。蚊がウイルスを媒介し、発症すると高熱や筋肉痛の症状が出て、症状が重い患者の一部は死亡することもあります。

この年、代々木公園の蚊が原因とみられるデング熱が相次いで発生したため、大がかりな対策が取られることになったのです。

ヒトスジシマカの分布域は年々北上しています。特にこの20年は急激な北上を見せていて、まもなく北海道に到達しようとしているのが見てとれます。

北上の原因とみられるのが温暖化。この蚊は年平均気温が11度以上にならないと生息できません。温暖化で各地の平均気温が上昇し、生息可能な地域が広がっているのです。
人の営みが蚊の生息域を広げ、新たな感染症の脅威が広がる現実。小さな蚊に目を向けないと大変なことになるのです。

国内随一の蚊の専門家集団

蚊は世界に約3600種、日本では112種が知られています。蚊はみな血を吸うものと思いがちですが、花の蜜などを主食にするものが多く、人の血を吸ったり感染症を媒介したりするものは限られます。

東京・新宿の国立感染症研究所。
新型コロナウイルス対策の最前線で研究・支援にあたっていて、ニュースなどで連日名前を聞くことも多いと思います。
1947年に前身の国立予防衛生研究所として設立された厚生労働省の研究機関で、国民の保健医療の向上を目的に感染症の研究を日夜行っています。

ここにちょっと変わった名前の部門があります。「昆虫医科学部」です。

昆虫が関係する感染症などを専門に研究しているプロの集団です。ここが、日本における蚊の研究の総本山ともいえる存在です。

蚊に情熱を燃やす部長

昆虫医科学部を束ねるのが、部長の葛西真治さんです。
小学1年生で蝶の標本づくりを始めた大の昆虫好き。高校、大学とチョウの写真に凝っていましたが、国立感染症研究所で蚊を研究していたら、いつしかその美しさに魅せられ、蚊の写真を撮るようになっていきました。

家族で虫とりに出かけた小学校1年生の葛西さん(一番前)

ある日、葛西さんの撮影に同行させてもらいました。
季節は真夏、ヤブに近づくと、すぐに蚊が寄ってきました。

普通ならすぐに振り払ってしまうところですが…「ああ、いいね」「おお、いいね」葛西さんは自らの手に止まった蚊に血を吸わせシャッターを押します。
さながらモデルを撮るカメラマンのように真剣そのもの。「血液は撮影料」とまで口にしながら、ひたすら撮影する姿には鬼気迫るものがありました。

葛西さんは「蚊との戦いは、蚊を知ろうとすることが第一歩」と言います。

葛西真治さん
「“人に害をもたらす生き物”として蚊を一掃しようと考えがちですが、現実的にそれは難しいです。蚊を全滅させることで生態系が崩れてしまう可能性もあります。どの蚊が危険でどの蚊が危険じゃないのか。正しくおそれるためには、まずは敵を正しく知る必要があります。写真を通じて蚊に興味をもつきっかけになったらうれしいです」

この「偏愛」とも表現できそうな熱心さ、気づけば世の中の役に立つようになっています。

葛西さんが撮影した写真の中には、日本で唯一撮れた希少なものもあり、蚊の研究における重要資料となっています。また全国の自治体で、デング熱を媒介する蚊の啓発ポスターに葛西さんの写真が利用されています。「ここまで精緻に撮影された写真は珍しい」と全国の自治体から使用させてほしいと要望が数多く寄せられたのです。一般への理解促進につながり、感染症予防に効果を発揮しています。

大阪市健康局のポスター

ここでちょっと寄り道・知られざる蚊の美の世界

葛西さんは蚊の意外な魅力についても教えてくれました。ここでちょっと寄り道して、その世界をのぞいてみましょう。

葛西さんが強調するのは「アップで見た意外な形態美」。撮り溜めてきた膨大な写真の中から、葛西さんセレクトの「美しい蚊」ランキングに名を連ねる2つの種類を紹介します。

トワダオオカ

トワダオオカ
「日本最大級の蚊。最大で3センチほどになります。山奥の木のうろなど、自然環境が豊かなところでしか生息できない蚊で、人間の血は吸わず花の蜜を栄養源にしています。背中の緑、足のメタリックブルーがきれいで愛好家の中でも人気です。僕は口の曲がり具合が気に入っています」

キンパラナガハシカ

キンパラナガハシカ
「頭頂部のサファイアのようなブルーが美しい蚊です。キンパラという名前からもわかるように、お腹が金色でそこもポイントです。ふわ~ふわ~と優雅に飛ぶのも特徴です。言うなれば“蚊の世界の貴婦人”ですね」

言われてみると、蚊とひとくくりにしていましたが、これほど多彩な種類がいて、細かな造形が異なるのは意外でした。

みなさんも少し興味がわいてきませんか?

“偏愛”で向き合う感染症のリスク

この夏、葛西さんたち研究チームは北海道に入りました。

冒頭で紹介したヒトスジシマカが北上して侵入していないか、北海道の入り口となる函館で大規模な調査を行いました。もし確認されれば、この蚊が媒介するデング熱が北海道にも侵入するリスクとなります。

調査は地道な作業です。住宅街を歩き、蚊が繁殖しそうな古タイヤの溝や鉢植えの水受け皿を一つ一つチェックし、幼虫がいないかを探すのです。

3日間の調査が終盤にさしかかったときのことでした。メンバーの1人から「白い線の入った蚊が見つかった」と連絡が入りました。白い線はヒトスジシマカの特徴です。
メンバーに緊張が走りました。さっそく現物を詳細に調べます。蚊を同定するのは、国内に生息する蚊なら、ほぼすべての特徴が頭に入っているという分類のエキスパートの研究者。

羽のつけねにある、わずか0.07ミリの鱗片から、この個体は「ヒトスジシマカ」ではなく、よく似た特徴を持つ「ヤマダシマカ」であると断定しました。

ヤマダシマカはこれまでデング熱を媒介するという報告はない種類です。

葛西さんたちは、3日間で40か所近くを回りましたが、今回の調査でヒトスジシマカは確認されませんでした。

葛西さん
「いなくて、ひと安心です。でもいつかは必ず侵入する日が来ます。今後も調査を継続していきます」

陰ながら社会を支える存在として

こうした調査ができるのも、蚊の生態を熟知し、種類を正確に同定できる葛西さんたちのようなプロがいるからです。

蚊の微細な形態に美を見出し、モデル料代わりに自分の血液を提供する。
はたから見たらちょっと異様な人たちかもしれません。

しかし、この偏愛こそが、私たち素人には到底見抜けないような蚊の種類を正しく同定し、感染症のリスクを抑えることに貢献していることに気づかされました。

葛西さんたちは私たちの平穏な日常をひそかに支えてくれているのでした。

…でも、当の葛西さんにはそんな気負いは感じられません。
古タイヤに溜まった汚水を調べながら、「ただの蚊好きおじさんです」とひょうひょうと話していました。

好きになった対象が多くの人にとっては少し理解しがたいものだったりする場合、周囲の冷たい視線を感じることがあるかもしれません。でもその偏愛は、いつか何かの役に立つ時がくるかもしれない。私もひょうひょうと「自分の好き」を守っていこうと背中を押してもらった気がしました。

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