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東京大空襲77年 犠牲者の名前を公開 「生きた証しを残したい」

  • 2022年3月18日

3月10日、およそ10万人が犠牲になった東京大空襲から77年となりました。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が続く中、空襲の経験者や遺族からは、一般市民が被害に遭うニュースを見て「77年前と重なる」と憤りや悲しみの声も聞かれています。
こうした中、東京大空襲の犠牲者一人ひとりの名前を公開し、空襲の記憶を後世に残そうという取り組みが行われています。取り組みに賛同する遺族は平和への思いを強くしていました。
(首都圏局/記者 鵜澤正貴)

平和の尊さを一人ひとりの名前で伝えたい

3月12日、東京・台東区の浅草公会堂の1室に掲示された大きな紙。ここには、東京大空襲の犠牲者のうち、320人分の名前が記されていました。

犠牲者の名前の公開を進めてきた中心メンバーの1人、法政大学の山本唯人准教授は、学生時代から都市の戦争被害などについて研究してきました。山本准教授は、犠牲者一人ひとりの命や人生に思いをめぐらせることで、戦争の理不尽さ、平和の尊さを伝えたいと、3年前から遺族の同意を得て取り組みを始めました。

法政大学 山本唯人准教授
「東京大空襲の死者数は一般に約10万人と言われていますが、これは推定の人数であって、一人ひとりの亡くなった方の名前を積み上げて、数を明らかにしていく、確かめていくという取り組みは、実は東京では、広島・長崎・沖縄などと違ってなされていません。名前はその人が生きたという証しです。その裏付けを持った数字をきちんと積み上げていくことで初めてその数字の重さが出てくる」

77年前の東京 あの日の記憶

ことし新たに公開に同意した遺族がいます。

池谷静江さん(81)は、空襲で亡くなった3人の家族の名前を公開することにしました。77年前、池谷さんはまだ4歳で、深川区、現在の江東区に両親と7歳の兄、2歳だった妹と5人で暮らしていました。子どものために奔走していた母や一緒に雪遊びをした兄の姿が印象に残っています。小さかった妹については、ほとんど記憶にありませんが、ひな人形が自分と妹の分の2つになったことを覚えています。

池谷静江さん
「戦時中だから食料はないわけです。でも時々、お母さんが今でいう食パン、長いパンを抱えて帰ってきました。子どもがおなかを空かせているだろうと思って、どこからか求めてきてくれたのだと思います。お兄ちゃんの顔は写真でしかわかりません。妹は写真がないから、撮っておきたかったなと思いますね。でもしょうがないよね。どんな顔をしていたのだろう」

77年前の3月10日、池谷さんは家族で自宅にいたところ、突然、爆撃に見舞われました。

池谷さんは父親におぶわれて、近くの学校へ逃げ込みました。木造家屋が多い中、この学校は関東大震災後に鉄筋コンクリートで再建され、頑丈だったからです。しかし、そこには、一緒にいたはずの母親やきょうだいの姿はありませんでした。

池谷静江さん
「父親から『母さんたちを探してくるから、ここで待っていなさい』と言われて、じっと待っていました。しばらくしたら父が戻ってきて、『みんなだめだった』と、私にもわかるように話をしてくれた」

忘れずにいた家族の絆

その後、父親は仕事のために東京に残り、池谷さんは山形県の母親の実家に預けられ、祖父らに育てられました。空襲後の東京の凄惨な現場を目の当たりにしていたことを山形の親族に伝えていました。

池谷静江さん
「山形の家で『東京は真っ黒い、大きなお人形さんが重なって寝てたよ』などと話していたらしいです。焼け死んだ人の死体のことだと思います。東京でそんな光景も見ていたのでしょう」

山形で育った池谷さんは高校卒業後、いったん就職したものの、空襲で犠牲になった家族への思いが消えることはなく、東京へ戻ることを決意しました。だんだん大人になって、母親たちと一緒に生きたところに行きたいという気持ちが強くなったといいます。東京で家庭を持ち、今では孫も社会人となりました。

出かける時、常に持ち歩いているというのが、母と兄の写真です。旅行に出かけたいと思っても、それがかなわなかった家族を、さまざまな場所に連れて歩いているような気持ちだといいます。戦後、幸せな人生を送ってきた中でも、家族との絆を忘れることはありませんでした。
 

写真中央が当時の静江さん

生きた証しを残したい

そんな池谷さんのもとに、遺族会の名簿を確認していた山本准教授から連絡がありました。戦争の記憶を継承するためにも亡くなった家族の名前を公開してはどうかという提案でした。そして、ことし、池谷さんは名前の公開を決めました。

母親の佐藤照江さん。兄の照夫さん。妹の美枝子さん。公開された一人ひとりの名前には、家族への思いが詰まっていました。

池谷静江さん
「生きていた証しだから、それは絶対に残してあげたいと思いました。そばに来たような気がするね。名前が見られるとね。近くにいるんだろうと思ったりする。いつまでも残るように、絶対に忘れてはいけないと思っています」

“犠牲者一人ひとりを思って平和の尊さを考えて”

今回、名前の公開はウクライナへの軍事侵攻が続く中で行われました。

会場を訪れた23歳女性

名前を見ると、一人ひとりの生きていた人間が被害に遭っているということがよりわかります。会ったことのない人でも、1人の命が失われているということが現実に起きている。早くウクライナでの事態がおさまって、被害を受ける人が少しでも少なくなればいいと思います。

公開された名簿は冊子にもまとめられる予定で、今後も取り組みを続けるという山本准教授は、東京大空襲の犠牲者一人ひとりの名前を知ることで、平和の尊さを考えるきっかけになってほしいと訴えます。

法政大学 山本唯人准教授
「一人ひとりの名前を奪うということが戦争なのです。東京大空襲ではまさにそのように個人の一人ひとりの尊厳が奪われることによって、これだけのことが起きた。現在行われている戦争をニュースで見る時も、犠牲者の数字がデータとなって、よく流れてくるわけです。その背後に一人ひとりの存在があるということを認識してほしい」

犠牲者の名簿の公開 課題は

東京大空襲の犠牲者をめぐっては、1999年から東京都が遺族や関係者の申し出をもとに名簿を作成してきました。その数はことし3月の時点で8万1325人で、推計の死者数とされる10万人には達していません。
この名簿について、都は、関係する遺族の要望に応じて、家族の名前が載っている部分の写しは提供しているものの、広く公開することはしていません。
一方、大規模な地上戦で大勢の市民が巻き込まれた沖縄では、糸満市摩文仁の平和祈念公園の「平和の礎」に、外国出身の人も含め、24万人を超える亡くなった人の名前を刻んでいます。
また、原爆が投下された広島や長崎では、亡くなった一人ひとりをさまざまな資料から確認し、数を積み上げていく調査が行われてきました。
さらに、広島と長崎の国立の追悼平和祈念館では、約2万4000人分の名前が公開され、このうちの多くは遺影もあわせて公開されています。山本准教授はこう指摘しています。

法政大学 山本唯人准教授
「東京都だけでなく、例えば国や民間の資料の中にも、一部、名簿があります。そういったものを互いに出し合って、合わせていくことで、東京大空襲の全体像に迫ることができると私たちは考えています。これまで私たちが公開した320人という数は、いわば先駆けとして、行政も、できる限りの名前の公開をしていく。そのことによって事実の検証や継承を進めていくという方向に動いていってもらいたい。この取り組みが呼び水になればと思います」

池谷さんも所属している「東京空襲犠牲者遺族会」は、正確な被害実態を後世に伝えていくためにも、都に対し、広く名簿を公開することを求めています。
都は広く公開しない理由について「名前を集める際に同意を得ておらず、個人情報保護の観点からできない」と説明しています。

取材後記

池谷さんは今回初めて私たち報道機関の取材に証言してくれました。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻について心を痛めていました。
「ウクライナでは、いま子どもたちがすごく怖い思いをしている。絶対、戦争はあってはならないと思います」
一人ひとりが生きた証しである名前。公開された名前には、平和を求める遺族たちの切実な願いが込められています。戦争を経験していない世代は、この願いを受け止め、継承していく必要を感じています。

  • 鵜澤正貴

    首都圏局 記者

    鵜澤正貴

    2008年(平成20年)入局。秋田局、広島局、横浜局、報道局選挙プロジェクトを経て首都圏局。

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