東日本大震災の被災地・宮城県石巻市を彩るために作られた、2000枚にも及ぶパッチワーク。いずれも地元の呉服店で津波をかぶってしまった着物や反物のはぎれから作られています。震災の記憶を多くの人に知って欲しいと東京・立川市に暮らす女性が呼びかけ、海外も含めおよそ3000人の人たちが制作に参加しました。
震災から11年。被災地に思いを寄せる人々の「心の輪」は広がっています。
(報道局 映像センター/柏瀬 利之)
2月2日、宮城県石巻市の文化施設に、2000枚のパッチワークが並べられました。ステージに、ホールに、座席に・・・会場を埋め尽くさんばかりに並べられたパッチワークは、まるで一枚のモザイク画のようにも見え、とても迫力があります。
舞台につり下げられた作品の数々
1枚あたり50センチ四方ほどの大きさで、1つとして同じものはありません。海や花、中には「祈」などの文字が書かれた作品もありますが、どの作品にも、穴が空いていたり汚れのついた生地などが使われています。
実は、作品にはどれも石巻市内の呉服店で津波の被害に遭った着物や反物の「はぎれ」が使われているのです。
津波で被災した布を、パッチワークにしようという取り組みをはじめたのは、東京・立川市で暮らす、音楽プロデューサーのしおみえりこさん(69)です。
しおみさんは、震災直後から被災地の学校に楽器を届けるボランティア活動に携わり、各地を回っていました。石巻市を訪れた2011年9月、石巻市の呉服店「かめ七呉服店」の女将 米倉絹枝さんと出会います。店が津波で大きな被害を受け、もはや商品として店先に並べることが出来ない、泥だらけの着物や反物が大量にあるということを、その時初めて知りました。
実際に店を訪ねて布を見せてもらった時に1枚のはぎれと出会い、しおみさんは衝撃を受けます。くすんだ色合いで、穴だらけ。もはやもとの姿を想像することも難しいそのはぎれは、かつては赤く美しい「しぼり染め」でした。
このはぎれを見ていると、何も言わずとも、震災の恐ろしさが伝わってきます。
「この布には、震災を伝える力がある」
しおみさんはそう確信し、処分を待つばかりだったこれらの布を譲ってもらうことにしました。
布は、泥だけでなく油のようなものもしみこんでいて、汚れを落とすのは容易ではありませんでした。匂いもきつく、漂白剤なども使いながら丁寧にひとつひとつ落としていったといいます。譲り受けた反物や帯などを着物に換算すると、およそ350着相当になるといいます。
しおみさんは、まずこの布でステージ衣装を仕立てることにしました。自ら企画したチャリティーコンサートで全国各地を回る音楽家らに提供し、コンサートに来てくれるたくさんの人たちに、この布のことをまず知って欲しいと考えたのです。
さらに、この布に直接触れてもらいたいと思いついたのが、パッチワーク作りでした。針と糸さえあれば、誰でも参加出来ます。しおみさんは各地を回るコンサートにあわせてワークショップを開き、仕立てやすい大きさにしたはぎれを配りました。そして石巻で被災した人の話、そして着物のことを説明して回りました。
パッチワーク作りは少しずつ広がり、被災した布は国内だけでなくSNSを通じて世界各地の人々の手へと渡っていきました。カナダやイタリア、遠くはザンビアまで届き、そして作品として石巻へと帰ってきました。この取り組みが始まって10年あまり、これまでにおよそ46カ国、3000人以上が参加し、今もなお、その輪は広がり続けています。
しおみさんによれば、このパッチワークを始めた多くの人が「これなら私にもできる」と目を輝かせるといいます。
しおみ えりこさん
「被災地のために何かしたかったけど、何をしていいのかわからなかったという人が大勢いたことに気づかされました。気持ちだけでも被災地のことを思っている人が全国にいる。その思いをパッチワークという形にして石巻に届けたいと思いました」
作品の中に、虹をデザインしたものがあります。虹に、被災したはぎれが使われています。
宮城県石巻市でピアノや英語を教えている久我真奈美さん(64)は、かつて教え子だった鈴木堅登くん(当時小6)と巴那ちゃん(当時小4)を思い、この作品を作りました。
真面目で妹思いの優しい堅登くんと天真爛漫な巴那ちゃんは、本当に仲のいい兄妹でした。久我さんは天気のいい日にはレッスンを中断し、2人をつれて近くの公園に遊びに行ったこともあります。元気よく歌って笑って、楽しい時間を過ごしていました。特に妹の巴那さんのことは幼稚園のころから、かれこれ6年以上に渡って成長を見守っていました。
そんな中、震災が起きました。
津波によって堅登くんは亡くなり、巴那ちゃんは今も行方不明のままです。久我さんは2人の笑顔に会えなくなった悲しみを持て余し、呆然と日々を過ごしていました。
震災の翌年、被災した布とパッチワークのことを知りました。震災、と聞けば、いつでも一番に思い出す2人への思いから「夢中になって針を動かしました」と振り返る久我さんの目からは、涙がこぼれていました。
久我 真奈美さん
「せめて心の中だけでも、いつまでも2人と行ったり来たり、つながったらいいなと。また、この虹を渡って、まだ見つかっていない巴那ちゃんが帰ってこれるようにと。虹がそんな架け橋になってつながりたいという思いで作りました。決して裁縫は得意な方ではありませんが、ひと針ひと針、すごく集中できて、作ることによって気持ちを落ち着かせることができました」
京都市の呉服問屋に勤める天野まゆこさん(32)は、これまでに被災地を訪れたことはありませんでした。当初は被災した着物をよみがえらせたいとの思いで参加しました。
作品には、被災した青い布をぐるりと囲むように、京都の西陣織を縫い込みました。真ん中で羽を広げるのは、縁起のよい「花喰鳥(はなくいどり)」。着物にもよく使われる、おめでたい柄です。
背景に使った青い布には、津波の汚れがうっすらと影を残していますが、天野さんは震災の記憶を残そうと、あえて作品に取り入れました。作品作りを通してこのはぎれと向き合ううちに、震災への、そしてまだ訪れたことのない被災地への思いが高まっていきました。
天野 まゆこさん
「震災こんなにひどかったのかな。どれだけの被害があったのかなと想像する日々が続きました。そうしているうちに、石巻に実際に行って、皆さんの話をいろいろ聞いてみたいと強く思うようになりました」
天野さんは、出来上がった作品を持って京都から石巻まで、車で向かいました。真っ先に訪ねたのが、被災した布を提供した、あの呉服店の女将 米倉絹枝さんです。
完成した作品を見せると、米倉さんは歓声をあげました。
米倉 絹枝さん
作品を作った天野さんの気持ちとともに、着物がよみがえってふるさとに戻ってきた感じがします。おかえりなさいと言いたいです。商品にならない着物で最初は何が出来るのかと半信半疑でしたが、こういう形になってうれしく思います。
天野さんは、当時の店の天井付近まで津波が押し寄せた時の写真や、その後、着物が泥だらけになって山積みにされている写真などを見せてもらうことができました。天野さんが初めて聞く、震災の体験です。
天野さん
「震災の当時の状況や気持ちなどを直接聞くことが出来て本当によかったです。被災したはぎれが、私と石巻をつないでくれて、そして石巻の呉服店の女将ともつないでくれたと思っています。この縁を大切に忘れない気持ちを持ち続けていきたいです」
こうして3000人あまりの思いが込められ、完成したパッチワーク。2月には石巻市で贈呈式が行われ、出席したしおみさんは安堵の表情を浮かべていました。
しおみ えりこさん
「皆さん、被災地に応援には行けなかったといっても、東北の震災に思いはあって、ここに自分の気持ちを表したかったんじゃないかな、というのが、1枚1枚に見えるんですよね。「やろう」「作ろう」「1枚作ろう」という心意気から始まって、みんな石巻の応援団なんです。その思いを石巻に届けられて本当によかったです」