太平洋戦争の開戦から80年がたちました。戦争を体験した人たちが年々減る中、戦時中、日本陸軍の飛行場があった神奈川県愛川町では、当時の資料を通して戦争の惨禍を若い世代に伝えようという取り組みが進められています。
(横浜放送局/記者 高橋哉至)
神奈川県愛川町の南東部には、自動車部品などを生産する工場などが集まる内陸工業団地があります。
80年前この場所には、戦闘機の飛行訓練などを行う相模陸軍飛行場と呼ばれる飛行場がありました。
飛行場の中心部の道にはかつて、戦闘機の燃料などを運ぶ車が行き交い、その周囲で訓練機が離着陸を繰り返していました。
戦時中の資料を保存する町の郷土資料館では、開戦80年を迎え当時の町の様子を伝える企画展が開かれています。
企画した学芸員の山口研一さん(62)です。町の教育委員会で長年働いた山口さんは、戦争の惨禍を後世に伝えたいと、定年後この資料館でたびたび企画展を企画してきました。
写真の人物について、山口さんは説明してくれました。
学芸員 山口研一さん
「このかたは、穴澤利夫少尉という方ですが、将来を誓い合った婚約者の方がいらっしゃって、非常に会いたがっていました。残念ながら、お会いすることなく、最後出撃していきました」
こちらの画像は、特攻隊員が身につけていた飛行用の帽子と眼鏡です。戦局の悪化とともに、訓練場だった飛行場からこうした装備品を身につけて直接戦地へ飛び立つ若者も出てきました。
元軍人の遺族から譲り受けた写真には、戦闘機のエンジンが温まるのを待つ19歳から22歳の若者の姿が写っています。ここから戦地へと飛んだ40人のうち、36人は帰らぬ人となりました。
学芸員 山口研一さん
「この方たちは職業軍人ではないので、戦争が終わったならば大学に戻る、元の生活に戻るつもりで一時的に軍隊に入ってきた方たちです。激しい戦いに積極的に参加しようという気はなかったと思いますね」
戦争を体験した人たちが年々減る中、寄贈された遺品などを通して、山口さんは、この町で起きたことを後世に伝えたいと考えています。厳しい事実を資料で示していけば、平和ということばを連呼しなくても、自然に戦争の悲惨さやむごさが伝わるのではないかと感じています。
11月下旬、山口さんは地元の小学6年生を対象に行われた平和学習に、講師として参加しました。町で戦時中なにが起きていたのか、子どもたちに語り継ぐためです。
「この内陸工業団地が戦争中、飛行場だったって知ってますか?」
山口さんは、子どもたちにこう問いかけました。
舗装されていない当時の陸軍飛行場です。地面にはたくさんの石が転がっていました。
学芸員 山口研一さん
「石ころがいっぱい落ちているのが分かる?こういう石ころを拾いに小学3年生以上が手伝ってくれって言われて石ころ拾いの手伝いをさせられたんだって。離陸時に飛行機が踏んづけたら事故が起こるかもしれない。だけど、戦争中はそんなのお構いなしに飛んでいました。だから落っこちることがよくありました」
子どもたちに厳しい事実を感じてもらおうと、戦闘機に乗っていた部隊のうち生き残った人数を子どもたちのクラスの人数に重ね合わせて話しました。
学芸員 山口研一さん
「こういう戦闘機に乗っていた部隊で、飛び立っていった40人の隊の方がいます。その40人の中で戦争が終わって生き残ったのがたったの4人。このクラスの人数だと2人か3人以外はみんな亡くなっちゃった。そういう厳しい時代でした」
戦争の時代を経ていまの平和な町の姿がある。山口さんは、改めてそのことを子どもたちに伝えました。
とてもつらいなということがすごく心に残りました。
悲惨だなと感じました。今はこんなに平和なのになんか悲しいと思いました。
学芸員 山口研一さん
「これからまだまだ発掘できる資料もあると思います。こうした新しい事実をひとつひとつ、世に出していく。それが学芸員としての私の仕事だと思っています」
自分たちが暮らす町で、80年前、何が起きていたのか。
当時の資料を通して、そのことに目を向けることは、歴史の一部として、教科書から学ぶのと違って、戦争を、身近な場所で、実際に起きたこととして、より強く実感することにつながるのだと思いました。それぞれの地域で、平和の大切さを語り継ぐことの大切さを、改めて感じました。