神奈川県の知的障害者施設で、元職員の男が入所者ら19人を殺害、26人に重軽傷を負わせた事件から7月26日で5年がたちました。元職員から「生きる価値がない」と一方的に決めつけられ、重傷を負った尾野一矢さんはいま、両親や介護者に支えられながら、新たな暮らしを始めています。男性の5年間を取材しました。
(横浜放送局/記者 古賀さくら)
平成28年7月26日未明、相模原市にある神奈川県立の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で元職員の男が入所者ら19人を殺害、26人に重軽傷を負わせた事件。事件を起こした元職員が語った、「意思疎通の出来ない人間は生きる価値がない」という言葉は、社会に衝撃を与えました。
事件の被害者のひとり、尾野一矢さん。首や腹などを刺されて一時は意識不明の重体になりました。
一命を取り留めた一矢さんは、事件をきっかけに去年、施設を出て、アパートで生活を始めました。
重い知的障害と自閉症がある一矢さんは、日常生活で常に介助が必要なため、「重度訪問介護」という国の制度を使って、15人の介護者が交代で付き添っています。
一矢さんは、記者の問いかけに対し「1人暮らしは楽しい」、好きな場所については「かずやんち」と明るく答えてくれました。
一矢さんの父親の尾野剛志さんと、母親のチキ子さんは、事件後、ほとんどの人が施設に戻る中で、両親は施設以外で生きる道もあるのではないかと考えるようになったと言います。
父親 尾野剛志さん
「一矢は障害者だから施設で暮らすしかないと思っていて、全然一矢の本心を見ようとしていなかった。事件のあと、一矢の幸せを改めて考えた時に自分たちと同じように、街に出かけたり、いろんなところに行ったり、自分の意思をきちんと主張できたりする暮らしが幸せなんだろうと思った」
始まった新しい生活で介護者たちは、日々の暮らしの中で一矢さんが何をしたいのか丁寧に確認しながら介助しています。
介護者のひとり、川田八空さん、一矢さんが食べたいものを1つずつ確認します。
コロッケはいらない?
チョコレート
チョコもあったかな。
チョコレートが大好きな一矢さん、板チョコ2枚半を一気に食べました。
買い物でも、何を買うのか決めるのは一矢さんです。
この日はスーパーに行くと、好物のウナギの蒲焼きを見つけ、すぐに買い物かごに入れていました。
ウナギは1個にしとこうか。刺身はやめとく?
やめとく
ウナギは丑の日も近いから買っとくのね。
一矢さんと最もつきあいが長い介護者の大坪寧樹さんも、アパートで暮らすようになって、一矢さんに変化が出てきたといいます。
介護者 大坪寧樹さん
「自己主張をわりと、かなりはっきりする場面が出てきた。自分がこの生活の主体なんだという強い意志があるんじゃないか」
ただ、地域での暮らしには、課題もあります。
一矢さんは障害の特性で、時間を問わずに大声で叫んでしまうことがたびたびあります。
同じアパートの住人から、うるさくて眠れないと苦情が寄せられたのです。
部屋の防音工事をして、夜は防音カーテンや雨戸を閉めるなど、できるだけ声が響かないように工夫していますが、完全に抑えることはできません。どうしてもおさまらない時は、仕方なく部屋から離れることもあります。
大坪さん
「本人もそこは、出しちゃいけないっていうのは頭では分かっている。分かっていてもどうしようもないということで、本人にも葛藤がある」
せっかく始まったこの生活を続けていくために、少しでも状況を変えようと、介護者たちが考えたのが、「一矢新聞」です。
生い立ちや事件のこと、ウナギや板チョコが好きなこと、一矢さんの人となりを伝えます。
一矢さんと介護者たちは、近くの店や住宅を訪ねて、一矢新聞を配り始めました。
近くの店の店長は、「時々声は聞こえています。でも一人で施設とか入らないですごいよね」と一矢さんの状況を理解してくれました。
大坪さん
「知ってもらって理解してもらえる人が増えれば、一矢さんにとってもいいと思うんで、少しずつやっていけたらいい」
アパート暮らしを始めておよそ1年。一矢さんの部屋を訪ねてくる人も増えています。この日は大学生が地域で生きる選択をした一矢さんのことを知りたいと訪れていました。
一矢さんの手の暖かさが印象に残りました。
笑顔を見せてくれて、特別視する必要ないのかなと思いました。
あの日、「不幸しかつくらない」と決めつけられ、命を奪われかけた一矢さん。地域で暮らしながら、出会いを重ねる中で、少しずつ人とのつながりを紡いでいこうとしています。
大坪さん
「一矢さんが存在で示してくれていることに触れることで、やっぱり生きていていいんだと、いなくていい存在なんてないんだと、変わるのではないかと思う。一矢さんがどれだけ多くのメッセージを発信しているかということを考えずにはいられないですよね」
病院での出会いから5年。一矢さんは事件で大けがを負って憔悴していた当時から比べると別人のような明るい笑顔を見せてくれるようになりました。一方で、生き生きと暮らす一矢さんの姿をみていると、亡くなった19人も同じように、日々の暮らしの中でささやかな楽しみや喜びがあり、大切に思う人たちがいたのだろうと、改めてその命の重さを感じずにはいられません。
一矢さんは多くの言葉を話すことはできませんが、大坪さんが話していたように、その存在によって、”生きる価値がない命なんてない”ということを伝えてくれていると感じます。
「かずやしんぶん」を受け取った近所の男性は、後日、一矢さんが好きなチョコレートとコーヒーを持って部屋に遊びに来てくれたそうです。取材を通して一矢さんから、こうした小さなつながりを丁寧に紡いでいくことの大切さを改めて教わりました。