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東京から満州開拓に 知られざる歴史 慰霊祭をオンラインで伝える

  • 2021年5月31日

「東京の坊ちゃん育ちの人たちは、厳しい満州の冬に耐える体力が無く、凍傷で犠牲者がたくさん出たんです」
戦時中、食糧の増産などのため旧満州に送り込まれた「満州開拓移民」の証言です。満州移民の多くは農村出身でしたが、東京からも海を渡り、命を落とした人たちがいました。その知られざる歴史をオンラインで語り継ごうと、東京で生まれ育った39歳の男性が模索を始めています。
(映像センター/早川きよ)

慰霊祭を初めてオンライン中継で

4月11日午前11時、東京都多摩市にある拓魂公苑(たっこんこうえん)で、「満州開拓移民」として命を落とした人たちを悼む「拓魂祭(たっこんさい)」が開かれました。

コロナ禍のことしは、初めてオンラインで中継が行われ、15歳で旧満州に渡り、終戦までの5年間を過ごした末広一郎さん(95歳)が、広島からパソコン越しに挨拶しました。

末広一郎さん
「私の弟も満州で義勇隊で死んでおりますので、その追悼のためにも毎年拓魂祭には参拝しております。今、参加者も少なくなったのですが、満州は決して風化させてはならない。皆さんよろしくお願いします」

オンライン中継をしたのは、福島宏希(39歳)さんです。これまで、戦争体験者の証言をインターネットで配信する活動をしてきました。

左が福島さん

「拓魂祭」は、高齢化で年々参加者が減る中、去年は新型コロナウィルスで数人しか来ず、このまま自然消滅してしまうのではないかと危機感も生まれていました。その状況を聞いた福島さんが、オンラインでの慰霊祭開催を手伝うことにしたのです。

満州開拓移民 8万人が命を落とした

「満州開拓移民」は、戦前、戦中に食糧増産と防衛などのため、国策で旧満州(今の中国東北部)に送り込まれた人たちです。長野や山形などの農村部を中心に、全国からおよそ30万人が海を渡りました。終戦間際のソ連の侵攻と、現地の人からの暴行などで混乱する中、8万人が命を落としました。

慰霊祭が行われた拓魂公苑の広場には、出身地ごとに結成された開拓団などの慰霊碑、170基が並んでいます。

昭和38年の慰霊碑の建立以来、毎年4月の第2日曜日に慰霊祭「拓魂祭」が開かれ、全国から満州移民の関係者が集まっていたのです。

東京からも満州へ 初めて知った歴史

戦争の証言を伝えてきた福島さんですが、実はこの慰霊祭を通して、初めて拓魂公苑の存在を知りました。
東京で生まれ育った福島さんは、全国各地の碑の中に、東京から送り出された開拓団の碑を見つけ、強い関心を持ちました。

福島宏希さん
「東京送り出し、222名って書いてますね。『満州に開拓に行く』という話を、農村の話だと思っていましたが、満州にどんどん人を送っていて、東京からも集められていたんでしょうね。”かの地の倒れ”と書かれていると本当に感じ入るところがあります」

碑文に記された「興隆川開拓団殉難者之碑 東京都送出 殉難者222名」

なぜ東京から満州に?初めて知る開拓の背景

東京と満州開拓の意外なつながりを知った福島さんは、当時の新聞を読むことから始めました。すると、東京からの開拓者は空襲の被害を避けるため、“開拓疎開”として海を渡った人も多かったことがわかりました。

戦況の悪化で、米や生活物資が配給制となり、ぜいたく品なども販売が停止される中で、商売をしていた人たちが廃業や転業を余儀なくされ、商店街ごと満州に渡った例もありました。

東京から満州に渡った開拓団をとらえた数少ない映像

福島宏希さん
「私が持っていた満州開拓の認識は、農村で食べていくのが大変な人たちの開拓先として満州があって、みんなそっちに希望を求めて行ったという感じですけど、東京の人たちは物不足で商店が営業できなくなってしまうので、それで満州に農業をしに行ったり、東京がそのうち空襲にあうだろうから『疎開をしなきゃいけない』と、その疎開先として満州があった。それは全然想像しなかったですね」

東京から来た人たち 満州の冬に耐えられず

自分が生まれ育った東京から旧満州へ渡った人たちがいた。
福島さんは、もっと知りたいと、慰霊祭に広島から参加した末広一郎さんにオンラインで話を聞くことにしました。

末広さんは昭和15年ごろ、「田畑がもらえる」と聞き、一人で生活を支えていた母親に親孝行をしようと、青少年を開拓民として送り出す「満蒙開拓青少年義勇軍」に応募しました。

18歳の末広さん 旧満州で

「広い土地を耕して農業ができる」と希望を抱いて、弟ともども海を渡りましたが、厳しい軍事訓練に加えて食べ物はなく、いつもお腹をすかせていたといいます。

福島さんが、末広さんに、「旧満州に東京から来ていた人を見たことがありますか?」と聞くと、末広さんは、「ずいぶん、つきあいをしてきました」と、東京から来ていた10代の仲間たちの話をし始めました。

末広さん

東京の坊ちゃん育ちの人たちは、私らみたいな田舎で育った人間とは違い、厳しい満州の北部に来たら、それに耐える体力が無く、凍傷で犠牲者がたくさん出たんです。色んな面でひどかった。死んだ人もたくさんいて、かわいそうな状態だった。

福島さん

凍傷で人が亡くなるということが想像できないのですが…。

末広さん

零下20度、30度といったら、凍って人間も死んでしまうんですよ。坊ちゃん育ちの東京の子どもたちは、薪をたく、ストーブをたくといった力が欠けていたために、寒い。そんなところで寝起きをするから、死んでしまったんですね。

敗戦後、末広さんはシベリアに抑留されたのち、日本に帰国することができましたが、一緒に満州に行った弟が戻ってくることはありませんでした。満州で現地の人が日本人への恨みから、建物に火をつけ、弟は仲間を助けようとして火災に巻き込まれて亡くなったと、人から伝え聞きました。

末広さんは繰り返し、こう語りました。

末広さん

拓魂公苑と拓魂祭を続けていってほしい。『戦争はしてはいけない』ということを、私の一生の仕事としてやっていきたい。

福島宏希さん
「資料を読んだり、本を読んだりしても出てこないような話を生で聞いて驚きました。東京からもたくさんの人が海を渡っていて、志半ばで亡くなっていった方たちがたくさんいるんだなと。末広さんの『絶対に戦争をしちゃいけない』という言葉の中に強い思いを感じますので、あんなに高齢のおじいさんも頑張っているのに、若い人間がやらないでどうするんだっていう気持ちになります。それは本当に私の原動力となります」

オンラインで若い世代にも伝えたい

オンラインによってつなぎ止めることができた慰霊祭と、オンラインで知ることができた戦争の記憶。コロナ禍であるかどうかに関わらず、オンラインならではの可能性に気づいた福島さんは、若い世代に戦争のことを伝えるため、さらにオンラインでできることを模索しはじめました。

福島宏希さん
「今の若い人が情報を得る手段は、圧倒的にスマホ、インターネットでの検索でしょう。戦争の資料は、本や映像などいろいろ出ていますが、今の人のライフスタイルに合った発信の仕方をしないと、今の人には伝わっていかない。『もう、やったからいいじゃないか』とはならないと思うんです。動画になるか、WEBサイトになるかわかりませんが、満州開拓の方たちについて自分なりにまとめて、シェアできるようにしていきたい。まずは知ることから始まっていくと思いますので、より多くの人と共有して一緒に考えていける場を作りたいと思います」

取材後記

全国各地の慰霊祭や追悼式が新型コロナウイルスの影響を受け、縮小や中止に追い込まれている中、戦争について考える場が消えていくのではと危惧していました。そんな中、福島さんが、オンラインで中継したり、若い世代に向けてYouTubeやツイッターで発信したりしているのを見て、これからの継承の可能性を感じました。

今回、福島さんは、東京から出た満州移民の方々に気づきました。福島さんの発信で、そういった方々の存在が忘れ去られず、語り継がれていくことを願っています。

  • 早川きよ

    映像センター カメラマン

    早川きよ

    1995年入局、京都局、沖縄局、報道局、名古屋局などを経て2020年3月から映像センター。 戦争に関する取材を継続している。

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