「わたしがいなければ、お母さんと妹はどうなってしまうの?」
まゆこさんが、病気の母親のケアを始めたのは、小学1年生のときです。そして、その後生まれた小さな妹の育児も、担うようになりました。
家族のケアをしながら自分の夢も目指し、朝4時前に起きて勉強をする毎日。気がつくと、大学生になったまゆこさんの心と体には、深刻な影響が出てきていました。
(首都圏局/記者 氏家寛子)
関東地方に住むまゆこさん(28)が、お母さんのケアを始めたのは小学1年生のころです。
きっかけは、当時3歳だった弟が交通事故で大けがをして入院したことでした。このころからお母さんとお父さんの関係が悪くなり、お母さんの心は不安定になっていったのです。
ある日のこと。家に帰ると、お母さんが倒れていました。あわてて近所の教会にかけこんで助けを求めました。
倒れた原因は、薬を飲みすぎたことでした。このころから、まゆこさんは「お母さんが死んでしまうのではないか」と怖くなったといいます。
まゆこさん
「お母さんが倒れていたときはびっくりして、すごくドキドキしました。お酒の缶が置いてあって、たくさん薬をあけた銀紙が落ちていたりとかして『死んじゃうかもしれない、どうしよう』と生きた心地がしませんでした。本当に、あの時は辛かったですね」
小学3年生のころ、お母さんは、ずっと家で寝ているようになります。
起きている時間はずっと話し相手になったり、病院に一緒に行ったりしました。お母さんが大好きだったのです。家にいても学校にいても、ずっとお母さんのことを心配していました。
小学生のころ 右から2番目がまゆこさん
一方で、まゆこさんは、絵や漫画が好きでした。ひとりの時間もほしくなり、朝4時に起きて、絵を描いたり漫画を読んだりしていたといいます。
このとき、まゆこさんが、お母さんとの生活について周りの人に話すことはありませんでした。親戚に「お母さんの心の病気の話はしないほうがいい」と言われたからです。
「どうして、お母さんのことを言っちゃいけないんだろう…」
そんな疑問を持ちながらも、まゆこさんは、自分が大変だとは思っていませんでした。当たり前のように、お母さんのケアを続けてきました。
中学3年のとき、お母さんは、妹を産みます。家事と妹の育児は、まゆこさんが担うことになりました。
まゆこさんは、「妹のことがかわいくてかわいくて、しかたなかった」と当時のことを振り返ります。お母さんのケアと同じように、当たり前のように、赤ちゃんの妹におむつを替えたりミルクをあげたりする日々を過ごしていました。
「目に入れても痛くない」という妹
そんな生活の中でも、自分のやりたいことを諦めませんでした。
これまでよりもっと早く、朝4時前に起きて、勉強をするようになったのです。日中は家事に加えて、妹をだっこしながら、問題集を解く日々を過ごしました。
小さなころから絵が好きだったまゆこさんは、高校生の時、美術の道に進みたいと考えていました。コツコツ絵を描いたり、画集を集めたりもしてきました。
まゆこさんが描いた絵
しかし、その夢も諦めます。とても、周りの子が通うような美術の予備校に行くような余裕はなかったからです。
選んだのは、地元の国立大学。難関校として知られていますが、学費がかからず、母親と妹のケアを続けられるところは、ここしかありませんでした。朝5時台の電車で登校し始業前に勉強時間を確保して、なんとか合格することができました。
まゆこさんは、いま振り返ると、このとき気がつかないままに無理を重ねていたと感じています。
まゆこさん
「早朝4時よりも早く起きて受験勉強や妹の保育園の準備をして、という生活をしていました。自分の時間はないです。本当にあの時は、息ができていなかったな、ずっと何かに追われていたなという気がします」
そして、大学生になったまゆこさんの心と体が、悲鳴をあげはじめます。精神疾患を患い、拒食症に悩まされるようになったのです。
大学生のころ
まゆこさんはいま、子どもらしい時間を過ごしてこなかったことが影響したのではないかと感じています。
まゆこさん
「自分の自由な子ども時代とか、好きなことをする学生時代みたいな、自分を形成するための時間が私にはほとんどありませんでした。土台がないまま大人になってしまって、常に不安定な感じになってしまいました。なんでこんなに気持ちが不安定なんだろうって思ってたんですけど、それもそのはずで、子ども時代に作られるはずの基盤が全然なかったんですよね」
まゆこさんが少しずつ精神疾患から立ち直るきっかけになったのは、外部とのつながりができたことでした。
日々のケアに追われるなかでも、小さな妹にいろいろな経験をさせてあげたいと、妹と一緒に地域の活動に参加するようになったことで、家でも学校でもない空間に身を置くことができ、常に感じていたプレッシャーをふっと抜くことができたそうです。
そんな日々の中で、6歳年上の男性に出会い、結婚しました。
いま、まゆこさんは、夫と義理の母の助けも借りて、同じように生きづらさを感じている人を支えるピアサポートグループの運営に取り組んでいます。
ピアサポートグループの活動
長い間、「母を置いて幸せになってはいけない」と感じていたまゆこさんは、いま、家族や友人との出会いによって、「私は幸せになってもいいんだ」と心から思えるようになりました。そして、同じような悩みを抱える人の支援を通じて、自分も支えられている気がしているといいます。
まゆこさん
「いまは、“楽しいな、恵まれてるな、幸せだな”と思えます。あのとき外に出て、息をつける場所がなかったら、今はどうなっているかわかりません。今の夫や仲間に恵まれて、外に出ないとなかなかチャンスは得られないものだと感じました。子どものときの自分に出会えたら“いつか自分の人生が持てる、希望を失わないでほしい”と伝えたいですね」
まゆこさんのように、幼いころから家族のケアを担っている子どもたちは「ヤングケアラー」と呼ばれています。
まゆこさんが今、同じような立場にいる子どもにかけてあげたいことば。それは、「声を上げていいんだよ」ということです。
まゆこさん
「聞いてもらえないこともたくさんあると思います。言うことは罪ではないし、助けを求めるというのは、自分が助かるために必要なことだと思うので、自分の人生をあきらめないということと、声を上げるということ、この2つを心にとどめておいてくれたらと思います」
まゆこさんは、母親とけんかをしたことがほとんどないそうです。それは、母親に感情をぶつけて具合が悪くなってしまったことがあり、感情を抑え込むようになってしまったからでした。
まゆこさんは今、「“思いっきりぶつかることができて、叱られることがあっても見捨てられない、けんかも安心してできる”と思える場所があったらよかった」と話します。
“いい子”だからこそ、声を上げることができない。
こんな子どもたちに救いの手を差し伸べることができるように、私たちにどんなことができるのか、今後も取材して伝えていきたいと思います。