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東京大空襲から76年「芸者・あや菊さんが見た戦争」

  • 2021年4月2日

「戦争によって何もかも奪われちゃったよね」

東京・浅草で生まれ育ち、芸者「あや菊」として戦争を見つめていた96歳の女性。戦時中には国の政策や空襲によって職場も家も奪われました。およそ10万人が犠牲となった東京大空襲から先月で76年。体験者が少なくなる中で、自らの経験を“せめて忘れてほしくない”と伝える姿を見つめました。
(首都圏局/ディレクター 梅本肇)

東京大空襲を生き抜いた96歳は“現役の”小唄の先生

「そうじゃなくて、親指をかけて親指でのばす」

弟子に向かって小唄の稽古をつけているのは戸田美代子さん、96歳。浅草で今も弟子8人を指導する現役の先生です。

戸田さんは76年前に東京大空襲で被災し、当時蔵前にあった自宅が全焼しました。稽古中も折に触れ、空襲の経験を語りかけます。

「さーっと、焼い弾がいっぱい落ちてきて、あっちもこっちも火だらけになって、その火の中に、うずくまっているんだから怖かったよ」

芸者・あや菊さんからすべてを奪った戦争

空襲で何もかも焼失してしまったという戸田さん。戦後、知人から譲ってもらったわずか4枚の写真が、戦前の戸田さんの姿を収めた唯一のものです。

6歳の頃から三味線を習っていた戸田さん。14歳からあや菊の名で芸者として働き始めました。浅草に住んでいた戸田さんにとって、自宅近くの花街で目にする芸者はあこがれの存在だったと言います。

「(浅草の)観音様に行ったりすると、そこへ芸者衆がみんな、きれいな芸者が通るわけ。あら、きれいだね、芸者さんっていいなと思ってね。その憧れたところへ、私は三味線なら弾けるという自信があったから芸者の世界に飛び込んだんだよ」

しかし、戸田さんが芸者になって2年後、お座敷の人気者となり、ひいきのお客さんもつき始めた矢先に太平洋戦争が勃発。次第に戦局が悪化すると、ぜいたく品を取り扱うお座敷への風当たりが強くなっていくのを肌で感じたと言います。

「三味線の音をさせるのは11時までと。11時を過ぎたら三味線の音をさせないでくださいと。あとはお酒がとにかく少ない。3人にお酒1本というけど、それでは1人2回お酒を回したらおしまいですよ。それじゃどうにもいかないでしょう」

そして昭和19年、戸田さんが19歳の時に、お座敷には営業停止が通告され、戸田さんは三味線を弾く場を失いました。

「芸者衆全員、おかみさん⽅が全部呼ばれて『再開はいつになるかわかりませんけれども、これで花柳界は休業にいたしますのでよろしく』と…」

目の当たりにした ”生き地獄” 

さらに、周りの芸者が地方へ疎開する中で、戸田さんは身よりが東京にしかおらず、東京に残ることを余儀なくされました。
困ったのは食料です。当時の配給では家族分の食料は到底足りず、地方の農家を回りました。芸者時代の持ち物と物々交換をして何とか食いつなぐ日々だったと言います。

「お米だけは、なかなか譲ってくれない。気持ちよく渡してくれるところは、どこにもありません。どこにもない。戦争によって何もかも奪われてしまった」

そして、昭和20年3月。
下町を中心に壊滅的な被害を受け、およそ10万人が犠牲になった東京大空襲がありました。

直前の3月9日の夜は、灯火管制の明かりの下で父親と花札をやっていたという戸田さん。いつもの空襲警報だと最初は思っていました。しかし、外へ出るといつもと違う火の海となった町並みがそこにありました。父親とともに急いで近くの防空壕に入り、近所の人とすし詰めになりながらなんとか難を逃れました。

防空壕の中から、燃える赤ん坊を背負いながら逃げ惑う女性や大きな音を立てながら崩れ落ちるように全焼する自宅を見守るしかありませんでした。

「美代子、地獄のありさまというのはこのことを言うんだよ」
防空壕の中で父が発したこの言葉を戸田さんは忘れられないと言います。

そして夜が明け、防空壕から出た戸田さんの目の前には、変わり果てたふるさとが広がりました。

「私がいっぱい亡くなったのを見たのは、この駒形橋からかな。人間が仰向けになったり、うつ伏せになったりして、ばーっと、いっぱいいるわけよ。人が皆そこへ落ちて、全部浮いている。嫌だよ。そういうのを見るのはつらいね」

”せめて忘れないで” 体験を次の世代へ

終戦を迎え、戦後再び戸田さんは芸者としてお座敷に戻りました。そして三味線の腕を頼りに60歳まで芸者として勤め上げました。

96歳の今も、戸田さんは4月に控えた小唄の会に備え、稽古を重ねています。

最近、稽古の中でも戦争時代の話をする機会が増えているという戸田さん。
取材の最後、周囲が戦争を知らない世代になる中で、体験者である自分が伝え残す意味を感じていると語ってくれた強い言葉が印象的でした。

「経験した者じゃなければ、その怖さ、恐ろしさ、ひもじさ、物のない、食べる物のないつらさ、とにかく経験した者以外には分からないと思います。こういったこともあったんだということを残したい。うまく話はできないけど、あのすごさは、忘れてほしくない。皆さんが来てくれるのは、私にとっては宝物なんだよ。本当だよ」

  • 梅本 肇

    首都圏局 ディレクター

    梅本 肇

    2016年入局。大阪局を経て2020年より首都圏局。 戦争関連の取材を継続的に行っている。

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