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東日本大震災から10年 大槌町で200軒超の建物を再建した建築士

  • 2021年3月16日

横浜市のある建築士の男性は、東日本大震災で壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町で200軒を超す建物を再建してきました。家族を横浜に残し、多い時は年間300日以上、町で設計に向かい続けました。設計の仕事がほぼ無くなった今も町に通い続ける男性を見て、何がそうさせているのか知りたいと思い取材しました。
(横浜放送局/記者 有吉桃子)

被災地を目の当たりにして「到底太刀打ちできない」

横浜市の一級建築士、坪谷和彦さん(47)は、震災が起きた年の11月、津波で壊滅的な被害を受けた大槌町を初めて訪れました。仕事で知り合った冷蔵庫メーカーからの紹介で、水産加工場の再建を依頼されたのがきっかけでした。

目の前に広がっていたのは、ほとんどの建物が津波で流され、建物の基礎がわずかに残り、草だけが生い茂っている風景でした。

坪谷さんは、自然の威力の前に無力感を感じたといいます。

坪谷和彦さん
「到底太刀打ちできる規模じゃないっていうか。武者震いもしませんでしたね。知り合いも1人もいませんでしたし、これ1つ設計したら自分は元の生活に戻るんだろうなと思いました。町全体に関わることは自分なんかじゃ歯が立たない、町全体の再建をやっていく人たちってすごいなと思っていました」

水も電気も復旧していない中 無我夢中で取り組んだ工事

坪谷さんに設計を依頼した水産加工会社「ナカショク」の齊藤勲会長です。

工場が流され、水も電気も復旧していない中で急ピッチで進めた工事をこう振り返ります。

ナカショク 齊藤勲会長
「バイヤーから、復興したら必ず使ってあげると約束してもらっていたので、一刻も早く稼働したかった。坪谷さんには急いでもらいましたが、よくあんなに短い時間で建ったなと今でも思います」

齊藤さんの思いに応えるため、坪谷さんは工場が建つまでの半年ほど、徹夜で作業するなど無我夢中で取り組み続けました。

大槌町と関わるきっかけになった水産加工場で

坪谷和彦さん
「工事用の水もないので井戸を掘ったりして水を確保しました。とにかく工場を建てないとということで、記憶がないぐらい急ぎましたね。ただ、何もないところに最初に鉄骨の柱が立った時は、『ああ、なんとかなるかな』とほっとして、そのシーンは今でも頭に焼き付いてます」

鉄骨の柱が立った水産加工場

次々に依頼が 年間300日以上大槌町で過ごすように

工場の仕事が終わった後も坪谷さんの予想に反して、仕事の依頼が途切れることなく舞い込んできました。

7割近い建物が被災した大槌町では、建物を再建したい人が大勢いるのに設計できる人の数は足りず、坪谷さんの存在を知った人たちが次々にやってきたのです。町内のスーパーで買い物をしている時に「うちの建物もお願いします」と声をかけられたことも何度もありました。

2013年からは横浜に家族を残したまま、大槌町に事務所と住居も構えました。多いときには大槌町で年間330日を過ごし、横浜に帰るのは3ヶ月に1回程度ということもありました。60件の依頼を同時に進めていたこともあるといいます。

これまでに200軒を超える建物を設計した

当時の状態を「毎日『100本ノック』を受けているみたいで、とにかく忙しくて、プレッシャーもあって、ただがむしゃらだった」と語ります。

「自分の中では1番の建築士」

坪谷さんが設計した家に住む人に話を聞かせてもらうと、坪谷さんが建物の再建を通じて大槌町の人たちにどのように向き合ってきたのか、その一端を感じることができました。

釜石正さんは、津波で妻を失い、両親と自分の家、2軒を流されました。釜石さんは、坪谷さんとは地元の飲み会で出会い、当初、2軒の再建を依頼しました。

坪谷さんは、2軒分の図面を何度も書き直しながら設計を進めていましたが、ある日、ずっと抱いてきた疑問を釜石さんにぶつけました。

坪谷和彦さん
「正さん、2軒建てなきゃだめなの?」

知り合った当初、大槌町に住んでいた釜石さんの2人の息子はすでに進学や仕事で関東に移り住んでいました。両親も年を重ねていくことから、建てるのは1軒にして両親と同居してはどうかと提案したのです。

釜石さんの2人の息子

釜石正さん
「『息子たちに負の財産を残すな』って言われたのは、大きかったですね。子どもたちが帰ってこなかったらこの家はどうなるんだと。普通の設計屋さんなら2軒建てれば2軒分、お金が入るんだから建てろってなるんだろうけど坪谷さんはちょっと違う。そういうところがあるから言われて、嫌な気持ちはなかったです」

坪谷さんは、家の建材をカタログで選ぼうとしていた釜石さんを盛岡市のショールームまで2日がかりで連れ出し、要望を最大限取り入れた家を1軒だけ建てました。

以前はさみしさもあって、毎晩のように外に飲みに行っていたという釜石さんは、家で過ごす時間に居心地のよさを感じるようになりました。関東に移り住んだ息子も、以前は友達を呼ぶことはありませんでしたが、この家を建てた後は、友人を何人も呼んで泊まるようになったといいます。 

釜石正さん
「息子たちにとっても帰ってきたいと思える家になったのだと思います。坪谷さんと知り合って、家を建ててよかったとこれからもずっと感じていくと思います。自分だけでなく、知っている限り坪谷さんの建てた家は住んでいる人間の思いが出ているように感じます。自分の中では1番の建築士です」

今では家族のような関係になった

大槌町で仕事をするうちに仕事への思いが変わった

しかし、たくさんの仕事を引き受ける中で当初、坪谷さんには、つらいと感じることがありました。どんな建物を建てるか依頼主と話し合う中で、相手が震災でどんな被害にあい、何をなくしたのかを聞かざるを得なかったからです。

坪谷和彦さん
「家だったりお店だったりを設計させてもらうためには、やっぱり土足でその人の中に入っていくことが必要なので、やらなければいけないこととして聞いていました。具体的な被害の話を聞いて想像してしまうと、自分もそういう気分になるのはしょっちゅうでした。何度やっても慣れないですね」

「よそ者」である自分が、相手の気持ちに土足で踏み込んでいるのではないか。

悩みながら仕事を続ける中で、いつしか、自分ができることは、依頼主とじっくり向き合うこと、何よりいい建物を完成させることだと考えるようになったと言います。住宅や店舗だけでなく、こども園や慰霊碑、海水浴シーズンに海に浮かべる「いかだ」の設計まで、頼まれた仕事は何でも取り組んできました。

こども園は見守りやすい設計に 園長は「思いを形にしてくれた」と話す

そして、大槌町で仕事をするうちに次第に建築という仕事自体への思いも変わってきました。

坪谷和彦さん
「震災前は芸術家のようないわゆる『THE建築家』を目指していたんですが、東北に通っている中で、そういう邪念は吹っ切れて、目の前の依頼主さんのことに集中できるようになりました。建物が新しくなると少しでもよくしていこう、よくなるだろうと思えますし、期待と楽しみが詰まっています。その計画に伴走させてもらえる立場にいることに、幸せややりがいを強く感じるようになりました」

建築以外でも町と関わりが生まれるように

町での生活が長くなるにつれて知り合いも増え、仕事以外の視点でも大槌町のことを考える機会が生まれてきました。

4年前には、地元の若手経営者らと一緒に、町おこしのための団体を設立しました。
団体では、「ひっつみ」と呼ばれるすいとんのような郷土食を町の名物としてPRする取り組みを続けているほか、地ビールの製造にも取り組みました。

郷土料理の「ひっつみ」

地ビールは、町のふるさと納税の返礼品にもなりました。

坪谷和彦さん
「例えばなんですけど、町内会の掃除があるから来なさいみたいな感覚で。いればいるほど、仕事だけじゃなくて生活っていうのも発生してきたっていう感じです」

設計の仕事がほとんど無くなった今も、坪谷さんは、月に2回程度、自分で車を運転して通い続けています。大槌町で過ごす日々は、坪谷さんにとって欠かすことのできない日常となっているからです。

今回の取材で、坪谷さんがデザインした吉里吉里という地区の慰霊碑を見に行ったとき、地区の復興協議会の会長や、公民館の分館長がやってきてくれました。

大槌町公民館吉里吉里分館長 芳賀博典さん
「すっかり溶け込んで吉里吉里人ですね。横浜の家族と離ればなれになって、復興に携わるのは相当の覚悟だと思うけど、それを見せないのが憎いですね」

坪谷さんがデザインした慰霊碑 人が集まれるようテーブルも

町の人たちが、多くのものを失い、苦しみを抱えながら歩いてきたこの10年を坪谷さんがどう見つめてきたのかを知りたくて取材を始めましたが、町の人たちの話を聞くにつれ、坪谷さんは、被災地を見つめていたのではなく、町の人たちの横にいて一緒に前を見つめ続けてきたのだと感じました。

坪谷さん自身は、この10年をこう振り返ります。 

坪谷和彦さん
「人と人が近くて面倒くさいけどあったかくて、たくさんの経験をさせていただいて、ありがたい10年でした。大槌町には、言葉にするならば運命のような縁を感じます。建物の依頼が落ち着いてきて、ほっとしたような、寂しいような複雑な気持ちですが、ある人が、『いいよ、坪谷さん、これからはもう遊びに来てくれるだけで』って言ってくれて、それまで1人で抱えていた勝手な建築士としての責任感みたいなものがふっと柔らかくなりました。これからは震災にかかわる建物だけじゃなくて、普通に家を建てるときに頼んでもらえることを楽しみにしています。そして10年後、みんなが笑っていて、子どもが増えているといいなと思っています」

震災後(左) 現在(右)

  • 有吉桃子

    横浜放送局 記者

    有吉桃子

    2003年入局 仙台局などを経て東日本大震災発生時は政治部に在籍 震災直後は石巻市、南三陸町などを取材

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