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東日本大震災から10年 3月11日に生まれた息子に伝えたいこと

  • 2021年3月12日

2011年3月11日、東日本大震災が発生したあの日。津波で被災した宮城県塩竈市のクリニックで男の子を出産した女性がいます。我が子の誕生日でありながら、多くの人の命が失われた日。今は東京で暮らす女性は、あの日のことを息子にしっかりと伝えたいと思いながらも複雑な思いを抱えていました。
(首都圏局/記者 浜平夏子)

あの日生まれた息子、義弘

都内で暮らす小柳尚子さん(42)と小学4年生の息子、義弘さんです。

義弘さんは3月11日に10歳になりました。

「学校できょうテストだったの?何点とれそう?」

 

「100点」

 

「ほんと?給食はおいしかった?全部食べた?」

 

「魚と野菜は残した。入っていた野菜は嫌いじゃないけど、ソースみたいなのがかかってて」

 

「味ついていないほうが好きだもんね」

 

親子の何気ない会話。尚子さんは、こうした日常の小さな幸せを大切にしてきました。あの日、あのとき、“多くの人に助けられた”ことが忘れられないからです。

出産後に地震と津波

尚子さんは実家のある宮城県塩竃市で里帰り出産をしました。海に近いクリニックに入院し、予定日よりも少し早い帝王切開には夫の孝央さんも立ち会いました。

3月11日 元気に誕生した

義弘さんが元気に産声を上げ、病室に戻って初めての母乳をあげました。そんな穏やかな時間を過ごしていた、まさにその時。

午後2時46分に東日本大震災が発生し、クリニックの建物も大きく揺れました。
尚子さんはまだ麻酔がかかっていて思うように動けませんでしたが、冷静に病院内が慌ただしくなるのを感じていました。

「津波が来るかも知れない」

沿岸の町、塩竈市は市街地にまで津波が押し寄せました。

尚子さんと義弘さんのいるクリニックにも津波は迫りました。2階の病室にいた尚子さんは、夫の孝央さんや看護師たち数人にシーツの4隅を持ってもらい、3階の部屋まで避難させてもらいました。

あとになってわかったことですが、クリニックの駐車場にまで津波が迫っていました。

その後も何度となく大きな余震に襲われました。
停電で電気も使えなくなり、病室の冷え込みも厳しくなりました。
尚子さんは産まれたばかりの義弘さんに体温が下がらないよう防寒着を着せ、義弘さんを抱き寄せるようにして温めていたといいます。

当時、尚子さんが撮影したホームビデオには「いつでも逃げられるように防寒具(を着せました)です。たくましく生きていこうね」と義弘さんの頭をなでながら、声をかける様子が映っています。

義弘さんにたくさんの防寒着を着せた

目に焼き付いた医師や看護師たちの奮闘

“この先、どうなってしまうのだろう”

不安が募っていた尚子さんを励ましてくれたのは、医師や看護師たちでした。
みんな家族が被災したかもしれないという状況ですが、それでもクリニックに残って勤務を続けてくれていたのです。

小柳尚子さん
「震災当日も病院に残っていた私とあまり年齢が変わらない助産師さんが、仕事が終わってから保育園に娘を迎えに行ったら会えなかったそうで、とても探したという話を聞きました。どんなに心配だったろうか。みなさんいち早く家族のところにいきたいはずなのに、そんなことを感じさせずに気丈に仕事をなさっている。やっぱり感謝と尊敬ですよね」

私は“被災者”とは言えない あの場所にいただけだ

出産から5日後、尚子さんは義弘さんを連れて通常より早く退院しました。

被災地では物資が不足していて食料がなかなか手に入りにくい状況でした。
それから、夫の孝央さんがガソリンスタンドを何軒も回ってなんとか40リットルのガソリンを手に入れました。
そして、孝央さんが運転する車で東京を目指し、義理の両親が手配してくれた栃木県の旅館に立ち寄りながらなんとか翌日に自宅に戻ることができました。

尚子さんは車での移動中、津波にのまれた街、道路に乗り上げた船、横転した車など被害の大きさを目の当たりにしていました。

塩竈市 津波に乗り上げた遊覧船

東京に戻ってからもテレビや新聞で被災地の状況を見るたびにこんなことを思っていました。

“わたしは被災者とは言えない。あの日、あのとき、あの場所にいただけだ”

義弘さんに話せないあの日のこと

尚子さんは、これまで義弘さんに震災のことを十分には話せていませんでした。

それは「帰ってくる場所があり、実際に1週間後には東京の自宅に帰ることができた自分が、震災を語っていいのだろうか」という葛藤があるからです。

小柳尚子さん
「被災地では、家族が亡くなったり家が流されたり、みんながもっともっと大変な思いをしています。そう思ったら、私が大変だって思えなかった、思っちゃいけないような気がして。東京にいることができて、家族が無事ならそれだけでいいじゃないかって思います。義弘に伝えるって言うのも、私のような経験だけで語るのはどうなのだろうと思ってしまうんです」

東日本大震災の日は僕の誕生日

尚子さんが義弘さんに震災についてあまり語らないもうひとつの理由は、自分の誕生日が多くの人が亡くなった日でもあるという重い事実を受け止められるのかという心配もありました。
それでも義弘さんは最近、自分の誕生日が震災が起きた日だと意識し始めています。去年11月には、小学校の授業で東日本大震災について教わったといいます。

あの日から10年。義弘さんはすくすくと成長しました。
2つ年上のお兄さんと仲がよく、小学生になってからは夏休みなどに子どもだけで祖父母の家がある塩竃市に滞在することもあるといいます。

お兄さんと仲良し

そして最近、義弘さんは将来の夢が「野球選手」から「医師」に変わったと話すようになりました。
なぜ変わったのか、尚子さんはまだ詳しくは聞いていません。ただ、義弘さんの心の中で震災のことを受け止める準備ができてきているのかもしれないと感じています。

息子に伝えたい「おめでとう」

尚子さんは、葛藤を抱えながらも、もしも義弘さんからあの日のことを聞かれたら、支えてくれた医師や看護師がいてくれたことをしっかりと伝えたいと考えています。

小柳尚子さん
「義弘は守られた命だと思います。やっぱり人の痛みが分かる人というか、やさしさや思いやりのある人になってほしいと思います。そして、自分が動けるなら、人のために動くような人になってほしいということを伝えたいですね」

2021年3月11日、尚子さんは、被災地に思いを寄せながら、義弘さんの大好きなカレーライスとケーキで誕生日をお祝いしました。

愛する息子が生まれた幸せな日であり、多くの命が失われたとても悲しい日でもある。いろいろな思いが交差します。

でも、息子には大きな声で伝えたい。
「お誕生日おめでとう」

  • 浜平夏子

    首都圏局 記者

    浜平夏子

    2004年(平成16年)入局。宮崎局、福岡局、さいたま局を経て、2020年から首都圏局。医療取材を担当。

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