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おばあちゃんは戦車闘争に参加した 市民運動が現代に伝えることは

  • 2020年12月18日

48年前、相模原市の米軍基地の前に大勢の市民らが集まり、ベトナム戦争の前線に送られる戦車を止めようとした抗議活動を題材にした映画が完成しました。
その試写会で、この活動に参加した祖母と、孫でこの歴史を初めて知る20代の大学生に出会いました。自らの考えを大胆に行動に移す人々を描いた映画は、SNSが浸透しわずかな考えの違いが対立を生む現代を慎重に生きる若い人たちにどう映ったのでしょうか。(首都圏局/ディレクター 村山世奈)

市民が戦車を止めた “戦車闘争”

試写会は、48年前に反対運動が起きた相模原市で11月に開かれました。

映画が始まると画面に現れる「戦車闘争」というタイトル。あえてそうしたのではと思われる大げさな音楽と共に昭和にタイムスリップした気持ちになります。

1972年8月、ベトナム戦争で受けた損傷の修理を終えた米軍の戦車が相模原市の基地から横浜港に運ばれる途中、市民らが座り込んで抗議しました。地元の自治体も40トン以上になる戦車の重量が車両制限令に違反するおそれがあるとして通行の申請書の提出を求めたため、戦車は引き返しました。
「自分の町から戦争に使われる戦車を出すわけにはいかない」
基地の前には政党関係者や活動家のテントが建ち並び、大勢の市民も集まって連日座り込みやデモなどが行われ、機動隊との衝突も起きました。のべ7万5000人が参加して約100日続いたのが「戦車闘争」なのです。

54人が語る戦車闘争

映画は、活動に参加した人や警察官、研究者などさまざまな立場で関わった人たち54人のインタビューを紹介するという形式で進みます。

相模原市職員(当時)
「ベトナム戦争でめちゃくちゃに壊された戦車がここで直されているのです。働いている日本人からは、人の肉もこびりついていると聞いた。戦争は人殺しですから、自分たちの町でそんなことが行われているとは…」

高校生で参加した男性
「駅降りてヘルメットかぶったとたんに機動隊に頭殴られました。そのヘルメットも工事現場に落ちていたものなんだけど…」

機動隊員(当時)
「最初、住民は過激派を応援していたよ。でもその後、警察にみんな協力してくれた。だって自分の家も壊されて、みんな怒っていましたよ」

参加者
「近くの食堂に食べに行ったら(運動に好意的で)特別サービスがありました」

商店街の銭湯の経営者
「ぶわーと(デモ隊が)入ってきたから商売できないから追い出しましたよ。迷惑ですから」

映画は当時の熱気に加え、運動への評価がさまざまだった側面も伝えた上で、過去から現在に至る日米関係や憲法の課題などを指摘する内容です。
試写会で、映画を制作したプロデューサーの小池和洋さんは制作の狙いをこう話していました。

小池和洋さん
「一番言いたいのは1人1人が声を上げる大切さです。『俺が言ったって』『私が行動したところで』という考えがあるのかもしれないんですけど、やがて大きなものに繋がっていくかもしれないと考えると、1人1人が声を上げる大切さは常々訴えていきたいとは考えています」

戦車闘争に参加したおばあちゃんと大学生の孫

試写会で、気になる2人に出会いました。渋谷正子さん(83)と孫の遥奈さん(21)です。当時を知る人として映画に出演している正子さんが、遥奈さんを誘って2人で見に来ていました。

正子さんは、子どもの頃に戦争を体験。戦後まもなく小学校の先生に「どんなことがあっても戦争には反対する人になってほしい」と教えられたことが、強く印象に残っていると言います。
戦車闘争が地元で起きて、人ごとに思えなかった正子さんは、当時幼い子どもを育てる主婦だったため、座り込みに参加する代わりに、おにぎりを握って毎日のように差し入れました。

当時の正子さん

正子さん
「じっとしていられない気持ちでした。反対運動をしているテントに行って聞くと、当時はコンビニもないのでみなさんお腹をすかせている。それで、近所の人にも声をかけてみんなで作ったおにぎりを持っていきました。何でもいいからできる事をしたいという思いでいっぱいでした」

孫の遥奈さんは、現在大学生です。戦車闘争のことはほとんど知らず、この日は映画に出ているおばあちゃんを見に行こうというくらいの気持ちで来たと言います。

遥奈さん
「自分が住んでいる町に、48年前に戦車があったという事が信じられない。私は学生ですが、学生が中心になってやった活動って考えると現代だったらありえないなという印象を持ちました。映画では、おばあちゃんはおにぎりを作って渡しに行ったことが紹介されていたんですけど、自分の身内が参加していた事にも驚きました」

“関心をもってほしい”  “意見を伝えるのが怖い”

遥奈さんは今、コロナで大学もリモート授業が続き、正子さんとともに家にいる時間が長いため、一緒におやつを食べながら話をするのが日課です。3年前には、広島の平和記念資料館へ2人旅をするなど、平和については折に触れ考えてきました。

正子さん
「遥奈は、『戦争のことや社会で起こっている問題も、友だちとはなかなかこういう話できないけれど、おばあちゃんとなら自分の思っていることも色々伝えられる』と言ってくれるからつい話してしまうし、私もその点は本当に嬉しく思っています」

 

ただ、戦車闘争のことはこれまでもあまり話してこなかったと言います。遥奈さんは、映画のより詳しい感想について、ことばを選びながら話してくれました。

遥奈さん
「ちょっとデモとかに対して怖いなって思う部分があって、言いづらかったのですけど…。なんだろう、デモに関しては、話したことはなかったです。デモはみんな自分の考えをただ主張しているだけなんじゃないかと思っていて。友だちともあんまり共有できないから、私だったらやるかどうか分からないなって。今は、SNSだと意見を簡単に発信できるけど、同じように簡単に批判もされやすいから思っていることを伝えるのが怖いという思いもあるんです」

 

ただ、今回2人で映画を見たことで、正子さんが何を伝えたかったのか、そして遥奈さんがどう受け止めているのかをわかり合えたことは、何より大切なことでした。

正子さん
「この映画をきっかけにしてね、遥奈とも色んな話ができたことが良かったし、また、こういうことが話せるお友だちとも繋がりができていって若い世代にも関心を持ってもらいたいなっていうのが私の願いですね。やっぱり社会の事や政治の事は、私たちの生活に決して無関係ではないので、やっぱりそういう事に現在の社会のなかで起こってる問題については常々関心を持ってもらいたいと思っています」

 

遥奈さん
「一市民の声を聞いてくれるんだなって思って。その思いが強ければ強いほど誰かに伝わってこうやってかたちになって50年後に映画になったりとかいうことがあるんだなって。自分が活動するかどうかは分からないですけど、思っていることを外に出す大切さみたいなものは映画から強く感じました」

 

戦車闘争に参加した小学校教員の男性

かつてこの活動に参加したという男性にも話を聞きました。
当時25歳、小学校の教員でありながら戦車闘争に参加し、映画でインタビューに答えている菅沼幹夫さん(74)です。

闘争があった場所を案内する菅沼幹夫さん 今は静かな並木道

菅沼さん
「戦車というと人を殺す道具ですからね、それが私たちの町から出されるということに憤りと悲しみが強かったです。ともかく自分に何かできることがないか考えて座り込みました。1日1日みんなの思いが繋がったという、そのことだけだったと思いますね」

当時の菅沼さん(右から3人目)手作りのビラを配った

しかし運動はその後、収束します。日本政府によって戦車は重量制限から除外されると同時に、座り込んでいた市民たちも機動隊によって排除されたのです。戦車はベトナムへ輸送されていきました。

菅沼さん
「その時は『ああ、出しちゃったんだ』っていうショックが大きかったですね。100日間止められたっていうのは、あとですごかったんだっていうふうに思ったけれども、その時はもう出してしまったことのショックの方が強かったです」。

ベトナム人に感謝された48年前の行動

菅沼さんにとって、戦車闘争に参加した意味をあらためて見直す出来事が2年前にありました。
平和団体の活動で、ベトナムを訪れたときのこと。菅沼さんが戦車闘争の話をすると、ベトナムの人たちから感謝を伝えられたといいます。

菅沼さん
「あなたたちの戦いが本当にベトナムとの連帯で貴重な役割を果たしたということを、ベトナムの人たちが述べてくれて、この時期になって私たちのやった戦車を止めるという活動は決して無駄なことではなかったと思いました。自分1人は無力、微力だし、何を言ったって世の中が変わると思えなかった。でも、微力の人たちが集まって繋がった時に初めて物事が動くというのを、この歳になって実感しています」

今回この映画に関わった方たちを取材した私も遥奈さんと同じ平成生まれで、戦車闘争は初めて知りました。でも今、香港のデモや人種差別に抗議するBLM運動など、世界各地で草の根運動が広がりを見せています。その声の源流は、ひとりひとりの切実な思いに根ざしていることを、今回の取材でも実感しました。これからも、身近な問題に声を上げる人たちを取材し続けたいと思います。

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