埼玉県熊谷市出身で、日本代表として長く日本のラグビー界をけん引してきた堀越正己さん。現在は、立正大学ラグビー部の監督を務めているほか、女子7人制ラグビーのアルカス熊谷の立ち上げにも関わりました。堀越さんのラグビー人生、そして、故郷・熊谷への思いについて、泉 浩司アナウンサーが伺いました。
日本で開催されたラグビーワールドカップから早いもので2年が経ちました。
なにか夢のようですね。 あんなに盛り上がるとは思わなかったので。やはり、ほっとしたと、盛り上がって本当によかったなという思いがあります。日本の方々がまず来てくれるのか、盛り上がるのか、受け入れてくれるのか、いろいろ心配していたので。
僕は、海外から来た方々がワールドカップの楽しみ方を日本に置いていってくれたと思っています。ワールドカップは4年に1度しか開催しないので、みなさん、1カ月間、休みをとって来てくださるんですね。そして、その1か月間、いろいろな試合を見ながら、ラグビーは試合の間隔が空きますので、その間、日本の各地を観光してまわるというんです。こうしたワールドカップの楽しみ方を日本の人たちも覚えてもらえたんじゃないかなと思います。
確かに試合もすごかったんですけれども、海外から来たファンがビールを飲みながら笑顔で楽しそうにしているなというイメージはありましたよね。
自分たちが応援している国も、そうではない国も、どちらも応援するという習慣があるので、勝ったら相手におめでとうと言いますし、みんなで楽しむんだということを感じていただけたんじゃないかと思います。
堀越さんは熊谷市出身の53歳。幼少期はどんな子どもだったんでしょうか。
もう僕は将来、巨人の選手になるということで、プロ野球の選手をずっと目指していました。 熊谷市はソフトボールが盛んで、小学校、中学校までは、一生懸命、プロの選手を目指して頑張っていました。
ポジションはどこだったんでしょうか。
セカンドやショートでした。肩が強かったので、中学に入ってからは少しだけピッチャーもやりました。ただあまりに背が小さかったので、冗談で“チッチャー”なんて言われたりしていました。
本当ですか。こうしたなかで、高校はラグビーの強豪校、熊谷工業に入学するわけですけれども、ラグビーの道に進んだきっかけはなんだったんでしょうか。
見てわかるとおり、背が非常に小さくて、もう小学校、中学校のときの身長は全く覚えていないんですよ。コンプレックスで。これではプロ野球の選手にはなれないということで、高校の進路を決めるときに、小学校のソフトボールチームの監督に相談したら、熊谷工業を勧められて、熊谷工業に行くと決めてから、ラグビーをやろうと決めました。
先に学校が決まったんですか。
熊谷工業はラグビーが全国レベルだったので、もう熊谷工業に決まったときは、花園に自分が出るんだというイメージが勝手に膨らんでいました。ずうずうしいんですけれども。
高校までにラグビーをやったことはあったんですか。
やったことはなかったです。
ラグビーをやったことはなかったけれども、花園はイメージできた。
近所でソフトボールをやっていたお兄さんが、熊谷工業でレギュラーになっていましたし、テレビを見て花園のことはなんとなく頭には入っていました。ただ、ポジションがどこかもわからなかったですし、あそこのグラウンドに立ってみたいと勝手に思っていましたね。
実際にやってみて、どうだったですか。
楽しかったです。 ボールを持って、自由にあっちに行ったり、こっちに行ったりして、最初のうちは遊びみたいな感覚でやっていました。前に行かなければいけないのに、後ろに下がったりして、今では考えられないことをしながら、走り回っていましたね。でも、トライしたときはうれしくて、回転トライを決めて、先輩から指導されたこともありました。
回転トライというのは、くるっと、身体を回転させながらトライをすることですね。
回転トライは、ボールを落として、ノックオンをするかもしれないということもあって、注意されたんだと思うんですけれど、当時はかっこよく見えちゃったんですね。
堀越さんの高校時代を振り返りますと、1年生で全国ベスト4。2年でもベスト4,3年で準優勝。高校から始めて、いきなり全国区で活躍されましたよね。
ラグビーは、今ではメンバー交代もOKなんですけれど、僕の頃は、まだドクターがOKを出さないとメンバー交代できませんでした。ですので、実は1年生のときはグラウンドに立っていないんです。ずっとリザーブのままで、先輩たちが活躍してくれてベスト4になったんですね。だから僕がそこにいて本当にいいのかという感じではいました。
堀越さんは選手時代に“モグ”という愛称で呼ばれていたと聞いたことありますが。
2年生のときに、監督だった森先生から、ちょっとプレーがよくないということで、4カ月ぐらい干されたんです。
実は、ラグビーには、モールやラックと呼ばれる、選手が塊になったところからボールを蹴ったりする、“潜る”というプレーがあるんですが、僕はパスが下手だったので、潜ってばかりいたんです。ボールを持ち出してパスをするとミスが出てしまうので。これを森先生に見抜かれまして、それまでは違うあだ名だったんですけれど、ある試合で先生に呼ばれて、「きょうからおまえはモグラの“モグ”だ。おまえのためにフォワードはボールを出しているんじゃない」と怒られました。
先ほど言いましたように、1年生の花園から帰ってきて、ようやくレギュラーになれると思ってから、“モグ”になってから、しばらく干されました。だから“モグ”は僕にとってすごく戒めの言葉でもあり、まあでも、大好きなあだ名なので、大学に行ったときも自分から「モグラの“モグ”です。よろしくお願いします」と、先輩たちにあいさつしました。
パスが苦手だったとは意外ですね。あの日本代表での、早稲田での、神戸製鋼での活躍を見ると全くそんな印象はないんですが。
ずっと1本目になれる、Aチームで出れると思っていて、本当に4カ月間、使ってもらえなかったので、その間に、自分がやらなければならないことはわかっていましたから、パスの練習をやり続けて、そのおかげで逆にパスが得意になりました。
2年生の6月頃からレギュラーになって全国大会に行きましたけれど、なんと言うんですかね、戦うことというか、ぶつかることが非常に楽しくて、やられたらやり返したいという感覚がどんどん芽生えてきました。身長は小さかったんですが、大きい選手にタックルに行くのはすごく楽しくて、トライするよりもタックルで相手を倒すほうに喜びを感じていました。
自分よりも大きい相手をタックルで倒したときの爽快感といいますか。
もう少しでトライを取られてしまうという場面で、自分がスパッとタックルして止めたりするのは気持ちがよかったですね。あとは、先輩から「モールやラックになったとき、お前は近くにいても仕方がないから、味方の空いているスペースに走ってみろ」と言われので、走っていたら、高校2年生くらいからボールが回ってくるようになったんです。それが嬉しかったです。最初は、相当、無駄走りをしていたんですけれど、だんだん無駄走りではなくなってきたので。
堀越さんは、熊谷工業を卒業してから早稲田大学、神戸製鋼に進み、日本代表としても長い間、活躍されてきたんですけれども、神戸製鋼を退社したあと、埼玉の立正大学ラグビー部の監督に就任します。これはどのような経緯だったんでしょうか。
神戸製鋼が日本選手権で7連覇を達成したあと2年間、キャプテンをやるんですが、連覇を続けることができなくて、自分の中では、これはやはり辞めなければならないのではないかという思いがありました。最初は、現役引退後は早稲田大学のコーチをして恩返しができたらいいなと思っていたんですけれど、立正大学から監督の話をいただけたので、会社とも相談して、ぜひやらしてくださいということになりました。
そのあたり、どういう思いがあったんでしょうか。
やはり神戸製鋼で、勝っていたチームを負けるチームにしてしまったというのが、自分のなかで傷として残っていました。当時は、指導者になりたいと格好良く言っていましたけれど、おそらく今、考えると、神戸製鋼から逃げたかったんじゃないかなと思います。 神戸製鋼で平尾さんや大西さん、細川さんがつないできたバトンを受け取れなかったという後ろめたさもあったのではないかと思います。
そして、2014年からは7人制女子ラグビーのクラブチーム、アルカス熊谷の理事及びGMに就任されました。 アルカスについては、どんな思いがありますか。
7人制女子ラグビーが2016年のリオデジャネイロから正式なオリンピック種目になると聞いていましたし、イングランドが女子を強化したことで、ラグビー界全体が盛り上がって、イングランド代表も強くなったとも聞いていました。これを聞いたときに、日本も同じだろうと、女性にラグビーを楽しんでもらって、そして、子どもたちに楽しんでもらうことで、ラグビーが盛り上がるんじゃないかなと思いました。あとはやはり、立正大学の学生が卒業してアルカスに行って、オリンピック選手になるというのはすごく誇らしいことですので、そういう道筋が立てられればということで立ち上げました。
引退後の活動の拠点は常に埼玉になっているんですが、埼玉にはどんな思いがあるでしょうか。
こういう形でラジオ番組で話すこともそうですが、僕はラグビーのおかげでいろいろな経験を積ませてもらいましたし、恩返しできるのはラグビーでしかないので、ラグビーで熊谷を、そして、埼玉を盛り上げることはできないだろうかと考えてきました。パナソニックワイルドナイツも熊谷に来てもらえることになって、やりたいことがさらにできるようになってきていると思っています。
ラグビータウン熊谷の未来をどう描いていますか。
トップチームがあって、そして、大学のチームがあって、高校もしっかりありますし、中学校もいくつもありますし、小学校のラグビースクールも充実してきています。さらに現役を引退した選手も含めて、いろいろなカテゴリーの人たち毎日、熊谷ラグビー場に集まって、ラグビーを楽しむことができる町になったら、すてきじゃないかなと思っています。
そして、堀越さんご自身の今後の目標はなんですか。
立正大学が去年12月に入れ替え戦で8年ぶりに一部に昇格しましたので、大学選手権にまず出て、そして、最終的な目標は、やはり母校でもある早稲田大学と戦って、1回目は負けて、でも次の年の2回目には勝って、先輩たちから「堀越よくやったな」と言われるようなチームをつくりたいというのが、私の今の夢であり、目標でもあります。
さて、ラグビータウン熊谷の象徴ともいえる埼玉パナソニックワイルドナイツ。複数の選手が新型コロナウイルスの検査で陽性と判定され、開幕から2試合連続で中止となるという思わぬスタートとなりましたが、今月23日に初勝利を飾りました。堀越さんも「ワイルドナイツは選手層が厚いので、上位4チームによるプレーオフに進出する可能性は十分にある」と話していましたので、応援していきたいですね。
記事の内容はさいたま放送局のFM番組「ひるどき!さいたま~ず」で放送しました。(1/21)