旧日本軍の主力戦闘機・ゼロ戦。終戦間際、千葉から飛び立ったゼロ戦の多くが撃墜されましたが、墜落した具体的な場所はほとんど分かっていません。乗っていた若者たちはどこで亡くなったのか、遺骨や遺品はあるのか、その痕跡を戦後75年となる今でも探し続けている人たちがいます。
千葉県睦沢町の幸治昌秀さん。ゼロ戦が墜落した場所を探しています。
航空自衛隊の整備士だった幸治さんは、過去の記録を元に墜落した場所をしぼり、実際に現場で金属探知機を使って残された部品などを探しています。命を落とした若者たちの詳しい記録を探さなければいけないと考えているからです。
幸治昌秀さん
「無念とか悲しみとか、このことをずっと伝えていかなくちゃいけないし、それは誰かがやらなくちゃいけない」
千葉県茂原市にあった旧日本海軍の「茂原航空基地」。終戦の前の年に、首都を空襲するアメリカやイギリスの連合軍を迎撃するため、ゼロ戦を主力とする航空隊が配置されました。
昭和20年2月以降、多い時には1日40数機のゼロ戦が出撃。房総半島上空での戦闘は、終戦の日の朝まで続き、多くのパイロットが命を落としたとされていますが、詳しい記録は残っていません。
「茂原の基地にいたという兄の最期の地を知りたい」と、幸治さんを訪ねてきたのは、静岡県に住む杉山栄作さん、91歳です。杉山さんの兄・光平さんも、ゼロ戦で出撃して20歳で亡くなりました。
光平さんの戦歴を調べた杉山さんの家族によると、光平さんは15歳で入隊。ゼロ戦の搭乗員としてグアムやフィリピンなど、いくつもの戦場を転戦し、昭和20年7月、茂原航空基地に配属されたといいます。
終戦後、杉山家に届いた手紙には、亡くなったのは終戦当日、まさに8月15日だったと記されていました。しかし、書かれていた地名は “千葉県” だけ。木の骨箱も届きましたが中は空で、遺骨は入っていませんでした。
両親は、光平さんがどこで亡くなったのか知りたいと、手がかりを探して、地元 静岡から何度も千葉に通ったといいます。
杉山栄作さん
「おやじが本当にこれで寿命を縮めたぐらい探し回った。何がなんでも死んだ場所を見つけてやりたいと言っていましたが、最後まで残念がって死んでいきましたよ」
4つ年上で、面倒見がよく、いつも一緒に遊んでくれた兄の光平さん。杉山さんは兄の墜落した場所を特定し、手を合わせたいと願い続けてきました。
杉山さんと幸治さんは、基地のあった茂原市に住む90歳の男性から、終戦の日の朝、ゼロ戦が赤い炎をひいて水田の方に落下していく様子を見たという証言を得ました。男性は翌日、その方角にある水田に航空機の部品が散乱しているのを目撃したともいいます。
7月31日、幸治さんは杉山さんを、千葉県大多喜町にあるその水田の場所に案内しました。この場所は、幸治さんが去年、新たに航空機の部品を見つけたところでした。
しかし、その部品が杉山さんの兄の機体のものだという確証はありません。
「亡くなった場所が分かったら何をしたいですか」と尋ねると、杉山さんは声を震わせて話しました。
杉山栄作さん
「線香を上げて、短時間でもいいから座って話をしたいですよ。 一番私の面倒を見てくれた。また一緒に釣りでもしてくれって」
高齢の杉山さんにとって、次にいつ千葉に来られるのかは分かりません。静かに部品が見つかった場所に向かって手を合わせました。
杉山さんたちが帰ろうとした時、その様子を見ていた近くに住む男性に声をかけられました。
「うちのおじいさんがまめに日記を細かく書いていて」
男性の祖父が残した日記を持ってきてくれました。その中には、終戦当日の様子が記されていました。
“当地上空にて空中戦あり、友軍機中島式の2481番、撃墜せられ搭乗者1名ならんも機と共に焼失せり”
搭乗員が亡くなった状況と共に、墜落したゼロ戦の機体番号が記されていたのです。幸治さんが読み上げる日記の内容に、杉山さんは何度もうなずきながら、静かに耳を傾けていました。
戦後75年のことし、新たに明らかになった手がかり。杉山さんの思いを受け、幸治さんは今後この機体が杉山さんの兄が乗っていたゼロ戦かどうか調べていくということです。