MIRAIMAGINE

Menuメニュー
Clip

メニューを開きます

MIRAIMAGINE

Menuメニュー
Clip

メニューを開きます

八月十五日、私は 俳優 黒柳徹子さん ~子どもを巻き込む戦争~

クリップ
ページを保存しました。画面右上から保存したページを一覧でみれます。
戦争を伝える
語り継ぐ
東京
2015年8月9日

俳優 黒柳徹子さん (82歳、終戦当時12歳)

俳優の黒柳徹子さんは、テレビや舞台で活躍する傍ら、飢餓や紛争の地を訪れ、子どもたちへの支援を続けています。その原点には、不安や飢えに追い詰められた70年前の自分の姿があります。子どもの目から見た戦争、そして今につながる平和への思いを聞きました。

■いつも不安だった戦時中の記憶

終戦の頃の黒柳さん

「私が子どもの時に毎晩、空襲があって、それで空襲があれば防空ごうに行かなきゃいけなかったから。それから食べるものもないし、それで夜寝てないから眠いし、それからものを食べてないと寒いんですよね。寒いし眠いしお腹がすいたって、みんなでもう掛け声を掛けながら歩いているような時代だったんですけど。それで後は空から空襲や爆弾、焼夷弾(しょういだん)が降ってくるわけですよね。それで親がいついなくなるのか、学校行ってたって、いつうちが帰ったら焼けてないものか、本当にあの不安でしたよね。でもその時はね、そんなに今思うほど不安ではなかったんでしょ。今思うと本当に不安だったと思いますよね。学校行って防空ごう入っている時に、うち帰ったらうちがなくって父も母も死んでいるかもしれないんですよね。そういう中、みんな学校行ってたんですから」

■苦しめられた栄養失調

「私、ひどい栄養失調で、もう東京は本当に(戦争の)最後の方の、東京大空襲の次の日ぐらいに疎開したんですけど、もう本当に食べるものがなくてね。場所によってね、配給のあるものは違ったらしいんですけど。私のうちの方では海藻麺(かいそうめん)というのが配給になったんですけどね。海藻っていうといかにも今は(体に)いいみたいですけど、ホンダワラってね、海に打ち上げられている茶色の厚いがわがわした、玉がぽろぽろついているような。それを粉にしたやつがなんだか透き通ったにょろにょろした、なんかこんにゃくみたいなもので、そんなかにそのあれ(海藻)が入ってて、カエルの卵みたいなの、そういうのが配給になるんですよね。でももう、おみそもおしょうゆもそういうもの一切、お塩も配給でなかったですから、お湯でただそれをゆでて食べるだけのなんの味もないものをずるずる食べていたんですけど。それほとんど私、栄養がなかったと思うんです。で、私ね、『そんなもの食べてたんだ』って言ったら(俳優の)小沢昭一さんがね『でもそれでもね、君が生きているのはね、そんなもんでもあったからなんだよ』って言われて。それであの栄養失調っていうのがどんなのかっていうと、私、やせてるだけじゃなくてね、体中におできができるんですね。何が足りないか分からなかったんですけど。それで、体中全部におできができたほかにね、爪と爪の間が全部うんじゃうの。「ひょうそ」というんですけど、そうするとものすごく痛いんですよね。ずきんって痛くなるのが、なんだか夜寝ていると同時に全部が痛くなるの、ずきんって。で、もう病院ももちろんないですし、お薬ももうないし、それを治す手立てはもう自分で我慢するしかなかったんですよ。ずるずるむけてくるし。そういう状況で青森に(疎開に)行ったでしょ。そしたら母がね、すぐね、私たちの行ったところは野菜が採れるところだったんですよ。で、果物や野菜をすぐ母がかごに入れて背負って、私にも背負わせて、八戸っていう海の近くのところ行って、船の泊まっているところ行って『ごめんください』って言ってね。私、知らないところ行って『ごめんください』なんて言うの恥ずかしいなと思ったんですけど、母が全然恥ずかしくないみたいで『東京から来た者でございますけど、魚を譲っていただけませんでしょうか』って『野菜と交換して下さい』って言って、その野菜と果物を出して、お魚を頂いて。それで私、あんまりお魚好きじゃなかったんですけど、母が『食べなさい』と言うので煮たお魚なんか食べたんですよ。3回ぐらい食べたら(おできが)全部治ったんですよ。その時にね、たんぱく質っていうものが人間には絶対必要だっていうことがすごくよく分かりましたね。だからそれ以来、今、アフリカへ行って、栄養失調の子どもたちやなんか見た時にね、どんなたんぱく質でも子どもたちに与えるというのは必要だ、栄養のあるもの、本当にそういうほんのちょっとでもあれば。いちばん怖いのが、脳に栄養がいかないと、脳が成長しないことなんですよね、脳が成長しないと、歩くことも立つこともできない。ものを考えることもできない。ただ地面をはってるだけ。栄養のあるものをあげたい。それはやっぱり自分のそういった体験もあったからだなって思います」

■スルメ欲しさに旗を振った罪悪感

「戦争中は兵隊さんが出征する時に、隣組とか近所の人たちがみんな駅に送りにいったりして『万歳』って言って。で、日の丸の旗を振るのが習わしとなってたんですよね。で、私は(東京の)自由が丘のトットちゃんの学校(トモエ学園)に行ってたんですけども、自由が丘の駅ではね、旗持って振ってるとスルメの足を一本くれたんですよ。それまで私、スルメってものを食べたものがなくて、こんなおいしいものがあるのかと思って、とても欲しくて。学校に行っても『万歳』っていうと、始まったと思ってばって駅まで走ってって、それでそこにあった旗持って振ると、スルメもらえたんで、しょっちゅうそうやって振って何本か食べたんですよ。ところがだんだんスルメもそのうち出なくなったんですけど。そのことを今、思い出してもあの時、子どもが一生懸命、旗振ったんで『頑張ってくるぞ』って思って戦争に行った人がいて、もしその人が戦死して帰ってこなかったとしたら、なんて自分はね、罪深いことをしたってね。ものすごくそのことでは本当に戦争責任を自分でも感じてね、そういうことでもやはりすべきでなかったってね。でもその時、お腹すいてたし、スルメも食べたことなかったので、その旗は振ったんだけど、あれはやっぱり正しいことではなかったって今、思うのでね。当時としてはしかたがないことだったんですけど、とっても今でも悲しく、罪深く自分を思って忘れないですね。このことを私がテレビに出てね、このお話をちょっとしたんですよ。今でもその自分のね、犯した罪についてあの責任を感じてるって。そしたらね、お手紙が来てね、知らない人から。『私は戦争に行って兵隊になって、それでいろいろ傷ついて帰って来た』と。『それからずっとね、日本の政府を恨んで、誰も責任取ってくれない、この戦争に行ってね、死んだ人、そして自分のようにこうやって帰ってきても、何もしてくれない人間に対して一体なんだっていうんで、ずっと人を恨み、国を恨み、そういうふうにしていたんだけど、今日のあなたがね、そんな小学生でいながらね、その旗を振ったこと責任感じてるっていうのを聞いた時にね、なんか自分のいままでの悩みがすっと消えてね、一生涯悩んで人のこと恨んで生きていくのかと思ったけど、きょうからね、もうそう思うまいと、こんな子どもだった人も思ってるんだと思ったらね、きょうからそのことは思わないことにしました』ってお手紙を頂いた時はね、すごくああ、やっぱりこういうことはやはり言うべきなんだなって思いました」

「子どもにもいろいろでしょうけど、私なんか後にもうユニセフ(親善大使)でいろんな国へ行って、内戦やってるところやなんかの子どもたちがどんなに悲惨な目にあったのか見ていますので、いってらっしゃいってそういうところに送り出した人間っていうものは、分からなかったとは言いながら、やっぱり罪がないとは言えないと思うので、どんなことがあっても、戦いに行く人たち、殺し合いに行く人たちをいってらっしゃいっていうふうに送るべきじゃなかったっていうふうに思いますね、今でもね」

■不安と喜びが入りまじった八月十五日

「青森に疎開しました。父は出征しててね、どこ行ったか分かんない状況だったでしょ。母は農協へ勤めてて、弟はまだ3歳ぐらいでしたし、妹は赤ん坊みたいな、まだ、はいはいしているような中で、(私は)学校通ってたんですけど、なんかいつも不安感はありましたよね。駅の前のお店の前にラジオがあって、そこバス停なんですけど、そこでみんなが『なんかきょう放送あるらしい』って言うのでね、そこで(玉音放送を)聞いてた時に、私はなんだか分かんなかったけど、みんなが『どうも戦争が終わるらしいだべ』っていう話になって。それでそれから一目散に走って私、うちのほうに帰ったんですけど。母はお勤めしてましたから、近所のおじさんのとこ行って『戦争終わるの』って聞いたら『どうも終わるらしい』って聞いて『ああ、じゃあ東京帰れるかな』って思ったんだけど、うちはなんか焼けたらしいって聞いたので、それから父もいないし、帰れないかもしれない、でも戦争が終わってよかったなって、本当によかったと思いました。それはもうそれ以上、みんなの上に爆弾が落ちてきたり空襲もなくなって、私は疎開した時は栄養失調だったんですけど、東京にいた人たちはみんな栄養失調になってたと思ったので、そういう栄養失調もなくなるし、みんなやっぱりその不安の中で生きなくてもいいというのは、やはりうれしいことだと思って、とっても私、喜んでそのおじさんのうちから自分のうちへスキップしながら帰ったの覚えてます」

「でもそれから、これからどうなっていくのか、全然見当もつきませんでした。その青森に疎開したっていうのはよく知っている人のうちじゃなくて、疎開するところがなかったんで、たまたま汽車の中で知り合った人のとこへ疎開しちゃったみたいなもんでね、そこに何年もいたんですけども。皆さん親切にしてくださってね、本当に。で、父がなかなか帰ってこなかった。結局、シベリアの捕虜になって、父はバイオリニストだったものだから、ソ連からバイオリン渡されて、ハバロフスク沿岸の日本人のいわゆるシベリアの捕虜の収容所、要するにバイオリン弾いて、慰安して回れっていう仕事だったんで、すごく遅く帰って来たんですよ。戦争から帰って来たのが4年か5年経ってましたか、昭和24年か25年か、ですけども。その前に、新聞に父が生きているってことが大きく出たんです。
だもんで、あ、生きてはいるんだなと思いました。でもね、その後は全然、どうなのか、もちろん手紙も来ないし。もちろん(私たちが)そこ(青森)にいるって父も知らないし。で、駅に行くと汽車が止まるでしょ、たまに。そうすると母がね、走ってってね、窓から『黒柳守綱のバイオリン聞いた方、この中にいらっしゃいませんか?』ってね、ずっと毎日聞いて歩いてたんですよ。だから、あんなこと聞いたっていないよと思ってたらば、ある日『聞いた』っていう人がいて『奥さん元気でしたよ』って。『頑張って生きてって下さい』って、母が言われたって。『お父様生きているみたい』って。それでよかったなって思ったりはしました。そういうことが、今なら簡単に携帯電話やなんかで分かることがね、そうやって毎日、そこにめったに(汽車が)止まらないんですよね、単線なもんだから、しゅって行っちゃうんですけど。止まる時が分かる時は母、走っていって窓の中、頭突っ込んで、ずっとね、聞いてましたので。あの、無駄なことじゃないかなってちょっと思ってたら、やっぱり『聞いた』っていう方いて下さったのがね、とてもうれしかったこと覚えてます」

「ずいぶん後になってからですね、その戦死した兵隊さんがいっぱいいた、帰ってこなかった人がいたっていうのを思った時に、そうだ、あの時、旗振ってあの送り出したんだって思うようになって。ずいぶんしばらく経ってからですね。やっぱりはじめのころは気が付きませんでしたね。それから子どもが旗振って送ったって、何が悪いって思っている方だっていらっしゃるかもしれないし、その時に勇気を兵隊さんに与えたのがよかったのかもしれないと思います。ただ私としてはやはりスルメが欲しくて行ったんであって、その兵隊さんが戦争に行くのがおめでたいとも思わないし、よかったとも思わないし、それで死んだらかわいそうともそういうことも思わないでただそのスルメが欲しくて行ったっていうことに関してね、やっぱりちょっと恥ずかしいなって思う気持ちがあります。だからそういうことで少しでもそういうことを話して、そんな子どもでもね、そんなふうに思うものだっていうことをもし分かって下さる方がいれば、いいかなと思う」

■世界の子供たちを支援して

「こないだも南スーダンのところ行って、子どもたちに会ってきたんですけどね。それは今、私は平和の中にいますよね。きれいなお水飲んで、食べたいものは何でも食べる。こういう中にいて、ああいう子たちを見ているんだけど、私が子どもの時には他のこと何も知らなかったわけだから、そういうものだと思ってたんですけど、今は、そうじゃない世の中があるってこと分かって、そのアフリカの子どもたちを見ているのでね、もっと前よりも辛く感じますよね。それでいろんな内戦の中にも、ウガンダとかそれからコンゴ民主共和国とかあのへんに、「神の抵抗軍」っていうのがいてね、子どもさらっていくんですよね。わりと12、3歳から9歳ぐらいの子ども、銃持ってるんですよね。それでご飯なんか食べてるとそこのうちへわって行ってお父さん殺したりして、子ども連れていっちゃう。で、子ども連れていってそこでいろいろ教育をして、それで鉄砲の撃ち方やなんかを教えて。それで反政府ゲリラですから、国へ鉄砲やなんかを撃つのに連れていく、少年兵にするんですよね。 で、女の子もそういうふうにされるんですよ。そしたらそこへ行った時にね、あれはルワンダでしたかね、お母さんが『私は地獄っていうものを生きている時に見るとは思わなかったんだけど、私、地獄を見たんです』って言ったんで『どういうのですか』って言ったら、さらわれた女の子がね、15ぐらいだったんだけど、見たときね、小さい女の子がゲリラの子ども産まされて、もうゲリラに女の子がさらわれたらまずそういうふうに奥さんみたいなね、売春婦みたいにさせられているんですけど、その生まれた赤ん坊背負って、そしてしかも少年兵のように銃を持って『撃て』って言われて。それでその赤ん坊背負って、小さい女の子が鉄砲持って自分のうちの方に向いて、その後ろから『早く撃て』って言われて。ゲリラがそう言うから、自分のうちのほうを向いて鉄砲を撃ってるの見たんですって。『その時は本当に私、地獄を見たと思いました』って言った、そういう状況。で、その女の子も小さい時にさらわれて、小さいと7、8歳ぐらいの時からさらわれていって、そういうふうになっちゃってるから、いいも悪いもそういうものだと思って。それでそういう女の子たちはみんなまずゲリラの奥さんみたいなのにさせられて。夜中に移動する時につれてかれて、どんどん移動されていろんなとこ行くから今、自分がどこにいるかも分からないし、どこの国の人間だったかも分からないし。それから住所が何番地とかってあるわけじゃないので、自分のうちへ帰ることもできないし。なんだか全然分かんない状態でそういうふうな状態になってるっていう子どもたちをいっぱい見ましたし。それからまた男の子で少年兵で何人も人殺したって、15、6歳で。9歳ぐらいから人殺してきた子にもずいぶん会いましたけど。『もしあなたに今、鉄砲渡したら人撃ちますか』って聞いたら『もう撃たない』って言ってましたけど。『怖いから撃てないって言うと薬、注射されて、麻薬みたいなもの、それでバンって撃って、そういう時はやったって思った』って言ってました。『でもね、今は、銃を持たされても人は撃たない』って言ってましたけど。雨の降っている時、たまたま難民キャンプで男の子にそういう話、聞いてたんですよ。そしたら、帽子被ってたの脱いで、ぼたぼた水が垂れてたら、その子が下向いてじっとしてたから、何考えてるのかなと思ったら、『僕はずっとそうやってね、人撃ったりしてきたんですけど、いつも寝る前に考えてたことは、お父さんとお母さんに会いたいっていうことだったんです』って言ったんですよ。で、その子にとって、泣くの恥ずかしいらしかったんだけど、そのぼたぼた水が垂れているから泣いてるんだか、雨の水だか、帽子の水だか分からないと思いましたけど、すごいかわいそうでしたよね。それで自分が今、どこにいるのか分からない、どこの国の人間だかも。で、日本と違ってパスポート持ってどうとかするんじゃないですから、もう連れてこられちゃうともう本当にいろんな国があって。でも、大人の人が聞くとどこの言葉か分かるので、ユニセフなんかは今ね、できるかぎりそういう子は国に送り返して、どこらへんに住んでたかっていうの聞いてね、国に送り返すようなことをやってますけれども。本当にかわいそうと思います。でもね、こないだ南スーダン行ってよかったと思ったのがね、日本の皆さんから頂いた募金でね、そこで子どもの心の傷ついたのを治すおうちを建ててね、トットチャンハウスっていうのを作ったんですよ。で、私ね、トットチャンハウスなんてね、なんかそんな私、皆さんから頂いたお金で私の名前ついて、やだなとか思ってんたんですよ。ところがね、スワヒリ語っていちばんみんなが使う、アフリカで使う言葉で「トット」っていうの「子ども」のことをいうんですよ。だから私は、子どもの時からトットちゃんって言われたんですけど、向こうでも子どものことをトットっと言うって分かってね、その時はうれしかった。そのトットチャンハウスが『なんか困ったことがあったらトットチャンハウスにいらっしゃい』ってポスター、町の中に貼ってあってね、ずいぶんそれ見て、そのトットっていうの見て、なんか子どものことだったら助けてくれるかもしれないと思ってずいぶんそこに今まで2500人ぐらいの子ども、その抵抗軍から奪い取ってそれで国へ返したって言ってましたからね。あ、トットっていう名前はよかったなと思いましたね。で、そこでいちばん最初に助かった子が、もう28歳ぐらいになっている子に会いましたけど、その子は、あのウガンダっていう国へ帰って、大学にも行って、それで立派な仕事してるんだけど、南スーダンにね、そのトットチャンハウスは南スーダンの首都ジュバにあるんですけど、南スーダンに来て、そこの近くで仕事してるって言ってましたね」

「きょうもどっかで戦争やってるでしょ。で、子どもたちがそうやって逃げ惑っていると思うとね、あの本当に辛いと思いますよね。1日も早く、世界中の国から戦争がなくなってね、人殺したりする人たちがいなくなって。アフリカのことで問題の一つにはね、やっぱり植民地が長かったから、教育受けていない人も多いですよ。だからね、人材不足っていうこともあるんですよね。ですからやっぱり人材を早く育てて、ごたごたしないように。政治がごたごたすれば必ずそれは子どもにかかってきます。スーダンっていう大きい国から南スーダンが独立したんですけど、前の全部スーダンだった時(1993年に)も行ったんですよ。それもね、国がやっているところ(地域)、ゲリラがやっているところ、国がやっているところ、ゲリラがやっているところって色分けしたみたいに分かれて、ユニセフは全部(の地域で支援を)やっているから、私全部行ったんですけど、それはそれはね、もう大変で。子どもたちがもう山のように逃げてきて、もう泥だらけ。ただでさえ泥だらけなんですけども、ほこりにまみれてて。それでも子どもたちが私にね、『陳情したい』って言うから『なんです』って言ったら、紙にね、書いてね。『平和』って『平和、ピースっていうのが欲しい』って。それからもう一人の子は『スクール』って『学校欲しい』って。もう一人の子は『いい先生』って書いてあったんですよ。その時にね、食べ物下さいとか、なんか言わなくてこんなひどいめに、しかも孤児ですよ、みんな逃げてきて。それなのにね、やっぱり教育が大事だってこと分かっているんだなと思ってね、その時も感動したんですけど。その南スーダンが独立して、私が行った時はちょうど独立していい時だったんですけど、人口が1000万人のところに子ども用の病院が一つしかないんです。全部で一つ。それから小児科の先生2人。1000万人のところに小児科の先生2人しか。内戦というのはそういうものなんですよね。勉強する時間もなければ、そこの勉強してた人たちも内戦に巻き込まれていなくなっちゃったみたいなね。そんなところでもね、『あそこ行けばうちの(子の)栄養失調、治してもらえる』ってね、150キロ、3人子ども連れてきてたお母さんいましたけどね。『お母さん偉いね』って言ったんですけど、先生も『ここへ来たら子どもは死なさない』って言ってたけど、なんせ1000万人に小児病院一つ、小児科の先生2人です。ものもないし。だからやはり本当に無駄なんですよね。戦争にお金使っちゃって、それからみんなそういうことで死んじゃったりしてね。どんどん優秀な人間がいなくなるっていうことで。だからとにかく平和になることが大事だと思いますよね」

■平和への思い

「今、例えば南スーダンの子どもたちがまた内戦に巻き込まれて少年兵にさせられたり、さらわれたり、レイプされたりとかそういうふうな状態になっているところ見たりすると、本当にとにかく戦争はやめてもらいたいっていうことが第一ですよね。何よりも戦争やめてほしいということです。大人が引き起こすことなんでね、子どもたちはみんな分かんなくてもついていくんですから、それはかわいそすぎますよね。本当に戦争は全部やめてほしいっていつも思ってます」

続きを読む

関連のページ

首都圏NEWS WEB 関連記事

人気のページ

Twitter公式アカウントで更新情報をチェック

@nhk_shutoken

別ウィンドウで開く

※NHKサイトを離れます