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私の中の戦争 漫画家 ちばてつやさん ~満州からの引き揚げ 苦難の中で~

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特報首都圏
東京
2015年4月3日

漫画家 ちばてつやさん(76歳、終戦当時6歳)

漫画『あしたのジョー』を描いた、ちばてつやさん。6歳の時に旧満州で終戦を迎え、その後の混乱で命の危険にさらされました。人間を信じるというちばさんの漫画の根源には、その時の体験がありました。

■平穏だった旧満州での暮らし

左から3人目がちばてつやさん

「私はね、生まれてすぐにね、本当にね、赤ちゃんのうちに向こうに、大陸に渡っちゃった、ハッと気が付いたらもう朝鮮半島にいたんです。それからしばらくしたら中国大陸の奉天、旧奉天だから今の瀋陽ですね。そこの(日本)人たちはね、いつもね、懐かしそうに『内地、内地』って言うんですよ。『内地って何』って母親に聞いたら、『内地って言うのはおばあちゃんがいるところだよ』。よく分からない。『おばあちゃんがいるところってどこなの?』『お前が生まれたとこだよ』『どこにあるの?』『日本っていう国だよ』って。そこで初めて日本って国(の名前)が出ましたけど、ずっと『内地、内地』って言ってましたね」

「日本にいた人のほうが8月15日を迎えるまではきっと大変だったと思います。いろんな都市に住んでいる人はもうそれこそB29でじゅうたん爆撃でもうほとんど焼き尽くされたわけですよね。何度も何度も焼かれて一晩で何十万人という人が死んだという話も聞きますよね。その時は私は中国にいましたけど、空襲とかそういうこと体験していないんです。非常に穏やかというか。あっちこっちで飛行機で落ちたらしいとか。それからその兵隊さんがね、北へ南へこう移動するたびに戦車と一緒にどんどん動いていくのをそばで見たりなんかして。なんかそういう戦争の風景っていうのは見てますけども、いわゆる目の前で誰かが殺されていくとか自分の家が焼かれるとかっていう体験は全然なかったんです。だからそれまでは非常にある意味穏やかな感じがしてましたね。だから8月15日過ぎてからが本当にがらっと変わってしまって、もう本当にそれから地獄の1年間でしたね」

「それまではね、あの私は(父親が働いている)中国の印刷工場の中にいました。大きな大きな印刷工場だった。高い3メートルくらい塀がある、その中に住んでたんで。その中には銭湯みたいな大きなお風呂屋さんもあったし、それから売店もあったし。それこそ要するに一つの国みたいなかんじだったでしたね。そこは子どもにとっては狭かったので、私はしょっちゅう抜け出して。『外に出ちゃいけない』と言われていたのだけど、しょっちゅうその3メートルの塀を乗り越えて。放浪癖があるんですよ、私は。どうやら表を出て行ってふらふら、迷子になってしまうんだけれど。だけどそうすると外には中国人や朝鮮人やモンゴル人やいろんな人たちが市場を開いていて、豚がいたり鶏がいたり。それから炊きたてのおいしそうなまんじゅうのにおいがしたりね。それからそういう食べ物のにおいとか動物のふんのにおいとかなんか、いろんなものがすごく懐かしい。だからそういうふうに子どもが一人で迷子になっても大丈夫だったの。私はそういうところで遊んでました」

■暮らしが一変した8月15日

玉音放送を聞く大人達とその様子を見るちばさんたち

「だけど8月15日を境に、暴動が始まって、日本人を見つけると石をぶつけてくるか殴りかかってくるか何をされるか分からないっていう。今まで優しかった中国の人たちががらっと態度が変わったわけですね。それからそのもう家の中に閉じこもっているか、しばらく閉じこもっていましたけれども、やっぱり入り込んでくるわけです。3メートルの塀を乗り越えて。それでガラスを割って日本人たちは持っているふとんだとか荷物だとかラジオだとかなんかそういったものをみんな持っていこうとするんですね。ただ私の母親は、日本人達は抵抗しましたけど。日本は負けたんだぞということで、もう言いなりになってそれでそこでたたきのめされて。あるいは私は目の前では見ていないですけど、殺されてしまう人もいたし、ひどい目にあってそれで立ちあがれない人もいましたし、子どもを連れ去られたと泣きわめいている人もいたし。ほんとに地獄でしたね」

「その8月15日を境に、自分たちがいるところは、あ、ここは自分たちが住む場所じゃないんだって分かったわけ、はっきり。ここはよその人たちの国だったんだっていうことが分かって。じゃ、自分たちの国に帰らないといけないというのがだんだん分かってきましたけど、そのへんはまだおぼろげでしたね。なんでこんな目に会うんだろうと、何をしたんだろうと。我々何もしていないのに、みんな今まで仲良く暮らしていたのに、どうしてこんなに急にがらっと態度が変わってしまったんだろう。なんで石ぶつけてくるんだろうと思って、もう訳が分からなかったです。母親もどう説明していいか分からなかったんだけど。なにしろ『危ないからこっから出ちゃだめ』とかそんなことばっかり言って」

■“地獄への旅”

日本を目指したちばさん一家

「 (日本への引き揚げ船が来る)コロ島に着くまでの約1年間は食べるものもほとんど食べられないし。それからまずほとんどお風呂を入った記憶がありませんね。だから衛生環境もひどかっただろうと思うし、食糧事情も悪かったし、それから何しろ私の一番下の弟は生まれたばかりだったものですから、その、母親がまず栄養をとらなくちゃいけないし、4人いる子どもたちを食べさせないといけないということで。(冬になると)零下20度くらいになりますからオーバーなんかも着ていたんですけど、そのオーバーなんかも食べ物に交換してだんだん薄着になってくるわけね、寒くなってくるのに。そんなことをしながらそれで命をつないでいくのは我々だけじゃなくてみんな一緒だったんですけどね。あっちへ逃げこっちへ逃げという。家を飛び出した後はいろんな学校の校舎の隅に隠れたり、どっかの工場の倉庫の中に隠れたりというような旅をずっとしてましたね」

「8月15日はまだ夏でした、それこそせみの声が聞こえるぐらい。ところが中国の大陸ですから、9月になるともう寒いんですよ、朝晩。9月の半ばぐらいになるとね、朝晩、氷が張るくらいですね、それぐらい冷えてしまうんですけれども。そういう中で、いろんな人が暴動にあったり、それから要するに食べ物が食べられなくなって体の弱い人が倒れていって『あの人が亡くなったよ』『この人が亡くなったよ』っていう話を聞いたり。親はね、どうしていいか、帰る所がない。どこに帰るっていって、帰る道が示されないわけですよね。あの、どこへいけば帰れるという目的があればそこに向かうんですけれどもそういう情報が何もなくて。日本人達はそっちでその土地の人となじんで暮らしなさいみたいな方針だったみたいですよ、最初はね。それは後から聞いて分かることですから」

「何しろ『手を離したらお前は、もう迷子になってこの都市に住まなきゃいけない、一生会えなくなるよ』ということは言われましたね。だからもう必死でついていきました。だからそれではぐれてしまった人もいるんですよね。だけど私は必死に、もう要するに荷物もね、4人兄弟のうちの下の1人ははいはい、1人はまだ生まれたばかりですから。1人は父親が肩車して、いちばん下の子どもは母親が抱いて。私は6歳、でそのすぐ下の弟が4歳か。だからその2人はリュックをしょわされて水筒持たされて、それから赤ちゃんのね、赤ん坊のおむつとかそういうものをちゃんと持たされて、母親と父親の後をついてずっといきましたけど。でも、はぐれるんですよ。私の履かされた靴がちょっと不良品というか、新しい靴履かせてくれたんですけど、新品の。だから履きなれた靴を履いたほうがよかったのに、新しい革靴を履かされたもので、その革靴から釘が出てきていてね。歩くたびにかかとに刺さるんです、右足の。一歩一歩痛いんだけど痛いって言えないのね。『足が痛い』とかって言ったら置いてかれると思うから。だから必死でついていくけど痛いから遅れていくわけですよ。印刷工場(に勤めていた日本人達)の団体で移動していたのに、私が遅れるものだから、ちば一家は遅れてしまって。しかも(親から)『てつや、どうしたの』って、『足から血が出ているじゃないの』って言うんで、『なんで黙っていたの』って言われるんですけど。そこでこの靴を石でこんこん(たたいて)直してもらって、釘をつぶしてもらって履きなおすんですけど、そしたら一緒に行動していた人たちはいないんですね、どこを探しても。我々一家だけ取り残されてしまったということもありました。だけど親は大変な思いだったでしょうね、この子たちを、この乳飲み子まで含めて、この子たちを日本に連れて帰れるかどうか。というよりも明日その生きていられるだけの食料が手に入るかどうかということを毎日毎日考えながら生きているんだから、ものすごく大変だったと思いますよ。だけど子どもというのはね、どんな状況においても、どんな地獄の場所でも、親がそばにいると怖くないんですよ、そんなに。お腹はすいてましたけどね、いつも。だけどそういう意味では親が一緒に、ずっと一緒にいたということは。ただいつもお腹すいていたし、喉は乾いていたし。私にしても弟にしてもお腹がすいているものだから何かおいしそうなものがあるとすぐに口に入れてしまうんです。それが馬ふんだったり豚のふんだったりするんですけど、食べ物なんか落ちているわけないんですよね。だけどおいしそうだから食べちゃうんですよね。で、たたかれて口の中を掃除させられたりして。ということが何度かありましたけど」

「我々はお腹をすかせながら、それから寒い思いをしながら着るものもだんだんなくなっていうくわけですから、そういう思いをしながらあっちにこっちに逃げ、それは怖かったんですけど。周りでは戦争をしていたんですよね。毛沢東軍と蒋介石軍が。だから夜中にね、日本人が移動していると、ときおり弾の音が、鉄砲の音が聞こえたり大砲の音が聞こえたり。そうするとみんなぱっとこう伏せてね、それで隠れるわけですね。物蔭に隠れたりなんかするんだけど、その時は怖かったですね。その時は自分たちが参加している戦争に負けちゃっているんですから。戦争しているわけじゃないんですけど。だけど戦争の中で生きていたわけですよ。中国人同士の戦いの中でね。あっち逃げこっち逃げ。我々は隠れればなんとか命は助かったのですけれども場所によって、その土地によっては、西へも東へも北へも行かれなくてたくさんの人たちが飢え死にして死んでいったというような話も残っていますから。そういうもっとひどい地獄がたくさんあったんですけど。それでも私たちのいたところはそれから比べると天国みたいなものですけど。だけどよくね、道を歩いて移動するのはだいたい夜なんですけど、昼間は移動すると何があるか分からないから夜中にそろって歩くんですけど、子どもを泣かすと怒られるしね。子どもを泣かすな、口をふさげと言われたりして。それは怖かったですね。あとよく、道の隅で人が寝ているか死んでいるのか分からないんですよね。ときどきこうやって起こすと動くので、あ、生きていたと。もし死んでたりすると、死んでいる人もよくいたんですね。そうするとみんなで着ているものをはいで着るんですよね。子どもに着せたりしてね。だからそういうのは今、思いだすと地獄かな。人間のすることじゃないですよね。死んだ人の着ているものをはぐなんて。けれども死ぬと裸にされましたね。で、土が凍ってしまっているから埋めてやりたくても土が掘れないんですね。シャベルがあってもかちんかちんで掘れないんです、だから遺体をそのまま隅っこへね、凍ったまんまですね」

「だから私は人間というのはすぐに死ぬんだなと思いましたね。昨日までこうやって話しててね、『明日はどこにいくんだね』とか『食料がどうのこうの』というような話をしていたのに次の日にその人は何もしゃべらないで硬く冷たくなっているわけでしょ。人間って本当にちょっとした体調によって、あるいはその体力によってね、すぐこう命ってなくなってしまうんだなっていうのが本当に。それがずっと染みついてますね」

■助けてくれたのは知り合いの中国人

「私の父親の友人なんですけど、印刷工場のね、同僚だった人で。しかもね、普段からとっても趣味が合ったみたいで、詩を作ったり本を読んだり。私の父親も好きだった。趣味が合ったんでしょうけど。中国人の人ととても仲が良かったんで、私も覚えていたんですけどね。ときどき遊びに来たりしてましたから。その人とばったり(出会った)。私が、靴に釘が出てね、それで我々一家だけが遅れてしまって路頭に迷って、さあどこに行ったものだろうか、こんなところね、誰か暴動にあったりしたら何されるか分からないと非常に怯えていたんですけれども、その時に大きなこん棒を持った人がぬっと現れたんですよ。で、なんか怖いな、危ないなと思ったら『ちばさんじゃないの』って言ってくれたんですよね。向こうからね」

「だから父親にしても母親にしても本当に地獄に仏だったですね。その人が、『ここにいたら危ないよ』って、『こっち来なさい』って言って、自分の物置だと思うんですけど、物置の上のほうに屋根裏みたいなのがあって、はしごを上るようなかんじですね。階段ではなくてほとんどはしごだったですね。そこへ『ここの上にいなさい』と。で、『一緒に行動した日本人たちがみつかるまでそこに隠れてなさい』ということで。そこはとにかく何もない、ただの部屋があるだけ。たまねぎとかじゃがいもみたいなものを乾かすものだったようです。そこには何も食料とかはなかったですけど。それでその後、父親とその徐さんという中国の人なんですけど、その同僚の人が、その人の工場も閉鎖しちゃっているんだから仕事がないわけね。それでその徐さんとそれから私の父親は市場に行って食料を買ってそれをあちこちに隠れている日本人たちに売って歩くわけですね。行商みたいなことを始めたわけですね。ちょっと何日間か何週間かちょっと覚えていないんですけど、しばらく一緒にかくまわれていた時がありました」

「国と国がいさかいとかいろんな誤解があったりなんかこうもめたりしますけれども、庶民同士はね、結構友達なんですよ。友達だったりとっても仲の良い優しい人だったり。だけど団体で行動し始めると一つの、細胞の一つになってしまうのね。それで日本人憎しになったり、中国人は怖いになったり、というわけですけれども、細胞一つ一つは個人個人はみんなね、なんかこうそれぞれ会うと人の癖がそれぞれあって、優しい人がいたり、なんか思いやりのある人もいたりということで。今でもそうですけど、今もね、日本と中国はなんかいろいろもめてますけど、中国に私も友達がいます。若い男性ですけども、すごくね、その日本人が大好きだし、で、日本人のことを一生懸命勉強しているし、そしてその話をしていてもとても気持ちが合うし、話していて楽しいし、だからもう個人個人は本当に仲がいいのだけど、やっぱり大きな国の動きのことになんかもめてしまうのが悲しいですね」

■帰国の途についても

「引き揚げ船に乗って来た船の名前もあんまりはっきり覚えていないんですよね。ただね、『白』っていうのはなんとなく覚えているの。だからそうするとその時代に引き揚げ船がいくつかあるんですけど、白龍丸というのがあってね、それが7月に出ているんで、たぶんその船だろうなと思うんですよね。(昭和21年)7月に帰って来たんです。(昭和20年)8月15日からほぼ1年ですよね。次の年の7月の20日ぐらいだったかな。(中国の)コロ島というね、ところから船に乗って。コロ島のね、港にはもうたくさん引き揚げ者が集まってきていて、日本に帰りたい人がいて。だけど我々は小さな赤ん坊がいたということもあって、比較的あんまり待たされないでね、乗せてもらったんですけど。船に乗ったとたんにお年寄りなんか安心してね、ふっとこれで日本に帰れるっていって気が緩むんでしょうかね。そこで船の中で亡くなる方がずいぶんいましたね。亡くなると船が止まって。(遺体が)すぐいたんでしまう、もう夏ですから、すぐ腐敗が始まるんで。遺族はもう本当に辛かったろうと思いますけど、敷布みたいな布に包んでそれで海に沈めるんですね。これはちょっとつらかったですね。『おじいちゃん』って言ったり。それから私の友達のきょうちゃん、『きょうじ』って言ってね、泣いている人もいたし、お母さんもいましたし。そういう意味では、思い出すとつらいな」

「特に、私は母親がいたし、たまたま父親がね、体があまり丈夫じゃなかったものだから兵役もぎりぎりまでとられなかったので比較的近くにいられたので一緒に(日本に)帰ってくることができましたよね。親子がそろって帰れるということは本当にものすごく運が良かったことなんですね」

「最初はもう本当に、引き揚げ者っていうのはちょっとね、ある意味ちょっと後ろめたいところがあったんですよ。ちょっと差別されたのもあったかな。なんで帰ってきたんだと、お前たち向こうがいいと思って向こうに行ったのだから、とか。それじゃなくても日本は食べる物がないのにぞろぞろ汚いのが帰ってきやがってというような雰囲気がありましたよ。ちょっといじめられたことがありましたね。そういう意味もあって引き揚げ者だっていうことをね、あまり言いたくなかったのかな。なんとなく隠してましたね」

「私は本当にあの戦争の本当のはじっこしか知らなかったと思いますけども、ただ引き揚げる時の体験は現実に実際に非常に辛い体験をしました。それから日本に帰ってきてからも大変だったんですよね、日本人みんなが。10年、20年ぐらい、高度成長になる少し前まではね。本当にね、日本人たちは貧しくてみんなが飢えて。今でも覚えていますけど、上野駅ね、私が引き揚げて帰ってきてからですけれども。上野駅の今でも残っていますよね、すごく頭がちょっとぶつかりそうなぐらいね、低い天井のところがあるんですけど、あれは昔のまんまですけど、あそこにたくさん戦災孤児がいたんです。戦災孤児っていうのはもう戦争で親を殺されてしまった、死んでしまってもう要するに1人しかいない、兄弟しか、兄弟もいないという子もいましたね。兄弟みんな殺されてしまって自分だけが生きているという人もいました。そういう人たちがね、子どもたちが泥だらけで何日も何日もお風呂に入らない子どもたちがガードの下にいつも寝泊まりしてたんですね。あとは傷痍軍人とかね、片足がない、片手がない、戦争で失ってしまった人たちがそういうところで帰る家がなくて、というような現場を私は引き揚げてきてから見ましたけども、そういうことがあったということもやっぱり語っていかなくちゃいけないのかなと思いますよ。語らなくちゃいけないことはたくさんあるんですよね。私みたいにあんまり体験がないにも関わらず、その時代を生きたということでね。だけど本当に現実にそういう体験をした人がたくさんいますよね」

■戦争体験を漫画で伝える

「漫画家になってしばらくはもうできるだけそういうの(戦争体験)は伏せて。そういう時代がありましたね」

「あえてその引き揚げの話とかっていうものとか戦争の体験とかっていうのはできるだけあんまりしゃべりたくなかったというか思い出したくないことがたくさんあったんで。辛い話が多かったですからね、できるだけ私は心のうんと下のほうに沈めていていたんですけど。あの、やっぱり、なんかこうお話を描いていくとね、漫画を描いていくとね、いつのまにか自分の忘れていた恐怖心がふっとわき上がってきたり、それから死についてちょっと考えたり、思い起こしてしまったり、出てしまうんですね。そういうことってありました。これはあの引き揚げの体験を描いているんだなとか、これはあの時の人の死をなんか考えながら作品に反映させていたんだなっていうことは。描いている時はそれを描こうと思って描いているわけじゃないんですけど、やっぱり作家っていうか、漫画にしても何にしても映画を作るにしても何か表現をする人はやっぱり自分が生きてきたいろんな記憶、思い出したくない記憶もこうやっぱ出てくるんですね。出てきて作品の中に表れてしまう」

「(1972年に)どっか出版社かなんかの新年会か忘年会かのパーティーの時に『田中首相が中国へ行って国交回復したぞ』と、『また中国へ行けるようになったよ、日本人がね、中国に行けるようになった』『あ、行ってみたい』って誰かが言ったんです。赤塚(不二夫)さんだったか、森田(拳次)さんだったか、漫画家の仲間が言い出したんです。『なんで?』って言ったら『おれ引き揚げ者なんだよ』って言ったんで『え、どこから引き揚げてきたの?』っていう話になったらみんな中国の満州だったり、長春だったり、大連だったりっていうのでみんながびっくりして、『あ、お前もそうか』『俺もそうだよ』って言うんで、行きたいねって、中国。やっぱりね、中国、私は6歳で本当に辛い思いをしたんだけど、非常に穏やかな時の中国っていうのも知っているからもうふるさとなんですね。帰巣本能というのかな。で、小さい時に遊んだりそういったところをのぞいてみたい、もう1回行ってみたい、ふるさとへ帰りたいみたいな気持があって。それですぐ赤塚さんを団長にしてそれでみんなで行ったんですよね。それで、帰って来た時に『みんなこんなに中国の引き揚げ体験者がいるんだったら、その時の記憶を残そうようって、残しておいたほうがいいね、展覧会やろうよ』っていうことを誰かが言い出して。それで『少年たちの記憶』みたいな形でね、展覧会をどっかでやって、それでそれをまとめて本にしたんですね。それから『8月15日は何をしてた?』『僕は奉天で迎えた』『俺は大連で迎えた』『俺は日本で迎えた』って。8月15日だったら日本にいようがどこにいようが終戦の日というのは強烈に記憶に残っているはずだからそれを絵に残そうということで、そこから始まったんですね。それがその小さな、例えば(大田区の)蒲田だったかな、蒲田の文房具屋さんの近くのちょっと画廊を借りて小さい展覧会をやりましたけど。そこから始まって本にしたり。そしたらそれがちょっとすごく評判がよかったのでどっかの、デパートとかそういうところでやろうという話になったり、どんどん進んでという話だね」

「最近ではちょっとだいぶ時間も経ったということもあって辛かった思い出はあえて思い出しながらそれをね、今の戦争を知らない若い人たちにたった70年前にこういうことがあったんだよっていうようなことは描き残したほうがいいんだろうなと思って。語ったほうがいいと思うし。私は漫画家ですから漫画で描くか、講演するとかね、そういうことで残したほうがいいなっていうことで、あえて昔の思い出を一生懸命掘り起こそうとはしてますけどね」

■漫画に込めた人間を信じる思い

中国での体験は漫画にも

「私はいろんな人に出会いましたし、とても運がいいと言っていいのか、そういう中国の人でも優しい人に出会っているし、そういう人から非常に優しい命をつないでもらうようなきっかけをもらったし。日本へ帰ってきてからもね、いろんな人のおかげで我々一家があの1人も欠けないでね、大変な時代も生き抜いてきたということで、ずいぶんいろんな人にお世話になったということで、人間って助け合ってこうやってね、お互いに、お互いさまという意味で、ずいぶん人間っていいなっていう気持ちがあるんですよね。それは人それぞれやっぱり考え方が違ったり、もしかしたら辛いことばかり思い出して人を恨んでばかりという人もいるかもしれないけど、私の場合はとてもいい人に巡り合ったことが多かったので、中国の人でも朝鮮の人でも。同級生にも朝鮮の人がいましたよ。でもその子はとても優しい子だったし、気持ちが合ったし、親友だったんですけど。そうすると、そういうことを考えると、日本人とか中国人とかその何とか人じゃなくてね、その人間一人一人みんな個性が違うんだから、個性と付き合うことなんだから何人っていう考え方は私はないんですよね。いろんな人に私は優しくされたからそうなのかもしれないけど。だから人を差別したりなんかするというは変だなと思うし、そういうことじゃないんだということも、漫画の中では。私はアイヌの人を取りあげ、主人公に描いたこともありますし。だけどそういうその人種ではなくて、人間なんだっていうことをいつもなんか描いていたような気がします。そういうことがとても私はこれから日本は今までほとんど日本人だけが島国で暮らしてましたけど、今はいろんな人がたくさん入ってきてそういう人たちのおかげで日本はなんとかその国を保っていくというのもありますよね。介護の問題にしても何にしても、医療の問題にしても、我々お世話になるのはきっと外国の人じゃないかなと思う。だからそういう人たちのことをたくさんこれから交わらなくちゃいけない。日本という国はやっぱりとても人種というものはとんでもない差別。そういう中から人間らしい人たちがたくさん出てくるわけだから、そういう人から教わることもたくさんあるだろうしね。お互いに人間同士うまくつきあっていきたいなと思いますし、そういうことは漫画の中で描いてきたつもりだし、これからも描いていきたいなと思っています」

■若者たちへの思い

大学で学生を指導するちばさん

「若い人を見るとね、本当に戦争のことなんか全くもう考えていないで、戦争ってかっこいいって思ったり、なんかゲーム感覚で、なんかこうそういう感覚で捉えている人も結構、若い人たちいるんでね。テレビやなんかでもね、あのほとんど爆発された後のがれきは映しますけど、その爆発してそこでのたちまわって死んでいく人たちは映さないでしょ。夜、(攻撃して)火がぴーっぴーっと飛んでいってぱっと光って。そういうなんかこうゲームに見えちゃうじゃないですか、下手すると。そうじゃなくてあのぴかっと光った時に何人かの子どもたちあるいは人間たちがそこで血だらけになってのたうちまわって、命が助かる人もいるかもしれないけどほとんどの人たちが死んでいくような、そういう現場なんだっていうのは見えないですよね。だからそういうのはちょっと怖いなと思うんですけどね」

「それはしかたがないのかなと思う。ある意味ね、ちょっとかわいそうだなと思うんですけど。なんとかこういう現実だったんだよっていうことを、私が思う戦争の何百分の一でもいいから少しでも気が付いてくれたら。戦争っていうと、本当に戦場っていうものは非常に怖い。まだまだ戦争の悲惨さというのはね、伝わっていないと思うんで。しかも今の若い人たちにとってはもうおじいちゃんおばあちゃんですよね。おじいちゃんおばあちゃんがどういう体験をしてきたのかということはもう少しね、よく知ってほしいなと思いますし。人間ってどうしても忘れるっていうかな。繰り返してしまうんですよ、また。また繰り返しそうな気配が今ちょっと感じるので、私はとても怖いですけどね」

「今年は本当に日本という国にとっても大きな節目ですね。戦後70年、非常にいろんな行事が行われると思いますけど、70年ということは本当に今の若者たちにとってはもう歴史の世界なんですけども、その時代を私はちょっと生きてきた、生きて生まれていたので、そういうことも伝えていきたいと思うんだけど。戦争ということを他人事のように思っている人が今、若い人たちがたくさんいるんですよね、そうじゃなくてちょっとしたことでね、世界中の今の戦争の例を見ててもそうだけど、誰かが石をぶつけた、そしたら石をまた投げ返した、今度岩が飛んできた、また岩を投げ返したっていうような、そういうことからね、すぐに戦争になってしまうんだよね。隣同士で仲良くしてたのにちょっとしたことでそういうことで戦争になってしまう例がいままでたくさんあったし、日本もそういう過ちを繰り返してきたりしこともありましたので、そういうことはもう本当に身近に戦争は起きてしまうんだよということを若い人たちに知ってほしいと思うし。我々は漫画家ですから、漫画でそういうものを伝えたいと思うし。イラストや絵本なんかいろんな形でね、若い人たちに子どもたちに、そういういつ戦争が起きるか分からないんだよということの話を伝えたいと思うし。若い人、今の例えば(大学で)漫画教えていますけど、漫画を描く学生たちにもそういう現実をよく知ってもらって、歴史を知ってもらって、なぜ日本は戦争してしまったのか、なぜ世界中から戦争が絶えることがないのか、そういったことをよく勉強してもらって、そういうものを漫画に描いてね、若い人たちにあるいは翻訳されて世界中の人たちに見て欲しいなという思います。漫画が平和のために役に立つように。戦争というものの現実がいかに悲惨なものか。戦争というのは加害者も被害者もないんですね。両方とも、全部犠牲者になってしまう。そういうことを、漫画やイラストでみんなにも描いてほしいと思うし、私もそういう機会があればそういうものを描いて分かりやすくみんなに発信したいと今でも思っていますけれども」

「私の記憶っていうのがね、非常にあいまいなんで、あの引き揚げ船も、ただ大きい鉄の船としか覚えていないんでね、だからそれは改めてもう一回ちゃんとしっかり調べて描くと。リアルに、現実味を帯びて若い人たちに伝わるのかなと思ってね。文章を読んで、いわゆる資料を集めて、現実に合ったものをできるだけ描こうとは思っています」

■平和への思い

「今年は本当に大きな節目といわれる70年という節目ですけども、毎年毎年なんですね、私らにとって。やっぱり夏になると、8月15日が近付くとあの頃はこうだったな、あの時はここにいたな、こういうお腹をすかしてこういう思いをしていたなとかということはやっぱり季節季節によって思い出す。特に夏になるとね、思い出しましたけどね。今そういう体験をする人が少なくなってきてしまったので。そういう私なんかは本当に6歳だったから体験をしたっていううちに入らないかもしれないけど。戦争の体験をもって、鉄砲を持って戦った人にまだご存命の方がいらっしゃいます。そういう人たちがいよいよ声を出し始めましたよね。やっぱりそれは使命だと思うんですよね。辛いから語ることをやめたり思い出すことをやめていた人たちも、もう自分があと何年生きられるかなと思うと、やっぱりこれだけはちゃんと言っておかないと、そういう体験は日本人として知っておいてほしい、日本人たちがどういう過去を持っているのかということは知って欲しいと本当にみんな思っているわけですから、そういう人たちと一緒に私もできるだけ何かを描くなり話すなりして、みんなにこういう現実があったんだよ、たった70年前にこういうことがあったんだよ、今世界中で起きていることを日本がやっていたんだよっていうことを話していかないといけないなと思います」

「たまたまそういう体験もしたし、こうやって長く生きてしまった人たちが語り部としてね、そういうことをちゃんと伝えていくことは使命だと思っているので。今、私と同世代あるいは私よりももっと上の人たちもみんなそれを感じ始めてどんどんね、語り始めていますよね。だからそういう話が私もたくさん聞きたいと思うし、若い人たちと一緒に聞いて一緒に考えたいなと思いますね」

「(戦争体験を伝える)時間がないですよ。時間がないからちょっと焦っているというか。時間がないと同時に今、時代がなんかこうがらっと日本が変わりそうな気配がする。そういうことに対してどういうふうにね、日本は、日本という国がどんなふうに進めばいいのかということを考えるたびにそういう過去の体験談っていうのはみんなどんどん話してくれたらいいと思うし、私も話したいと思います」

「私も76歳。あと何年ね、元気でものを描いたりそれから発言したり、教えたりすることができるかというと、本当にもう時間がないなというふうに思っています。だから残された時間がどれぐらいあるか分からないけども、その時間を精一杯使って、これまでの体験を記録に残したり、漫画に描いたりしながら、戦後70年の重み、いろんな過ち、怖かったこと、辛かったこと、悲しかったこと、いろんなことをね、学びながら次に進んでいく、71年目に入っていくということにつなげていきたいなということは今、思っています」

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