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私の中の戦争 漫画家 花村えい子さん ~日常から“色彩”を奪われて~

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戦争を伝える
語り継ぐ
特報首都圏
埼玉
2015年4月3日

漫画家 花村えい子さん(終戦当時14歳)

花村えい子さんは、戦後の少女漫画の草分けで、鮮やかな色遣いで少女たちの絵を描いてきました。その原点にあったのは、埼玉県川越市の女学生の時の戦争体験でした。

■命を脅かす空襲

「家で空襲警報が鳴ると防空壕ね、家の庭にあって、逃げるんですけど、もう一歩ちょっと入る手前でもう庭のとこ、ばばばって弾がくるんですよね。あれに当たってたらね、死んでる。すごい低空飛行できますからね、ぶーんっていってね、怖い、見えるんですよね、飛行機がね」

「空襲のサイレンって怖いんですよね。始まるとわっと逃げ出して。そうするともう間もなく敵のね、飛行機が来ますでしょ。川越は、空襲では焼かれなかったですけど。でも夜中にやっぱり空襲警報が鳴ると、まだ本当に2つか3つの妹たち、小さい子がいたので、母と私と両方でおんぶしてね、年子だったので。で、防空壕に入って。その時、母がね、リュックの中にかつお節をね、1本持たせたんですよね。で、なんかお腹すいてもかつお節をかじって、なめていれば、多少こうね、栄養が摂れるというので、そのぐらいしか持って逃げるものなかったんで。だから本当に夜中でもゆっくりは寝てられないというか。で、空襲警報、警戒警報の前には、電灯があっても黒いきれを下げて。(光があたるのは)もうスペースとして20センチあるかないかの。そこだけですよね、明かり。あと暗いでしょ。だから何かやる時はみんなそこで集まってやるなりしましたけど」

■“なくて当たり前”の生活

戦争の時、女学生だった花村さん

「物がないっていうのはね、食べ物はもちろんないですよ。で、お米は配給でしょ。で、1軒に人数で少し割り当てがあるけどとても足りない。豚の餌になるね、まずい農林何号とか本当にまずいお芋。それが主食で、それしかない。それをふかすか、ゆでるか、それだけですよね。で、お砂糖はもちろんないから、甘いものっていうとそのわずかなお芋とか柿の実とか。だからみんな栄養失調だったんですよね」

「食べるものがないから学校の花壇を畑にして食べるものを作って豚を飼って。その豚をね、豚汁にしてだされたんですけど、誰も食べられなかったですね。自分たちでかわいがって育てて。それでもしなければ食べるものがないっていう時代ですからね」

「学校に行くのでも靴下でも配給で、衣類が配給で入らないんですよ、靴下が。で、靴下が穴があくでしょ。それを毎晩、手で繕って、つぎはぎでそれを履いてみんな行ったんですけどね」

「(ものがないのが)普通だったから、もうそういうものだと思わざるを得ないですよね。もっと小さい時は母がちょっとかわいいお洋服を着せてくれたりしましたけれども。人間って割と順応しちゃうのかしら。なければないで、というよりお国が大変だから我慢しなきゃいけないという気持ちがあるんでしょうね、きっと。だから物が買えなくて食べるものを食べられなくてもそれが自分だけじゃなくって全部ですから、当然の事として受け入れてきたんですよね。でもその中でもね、精一杯おしゃれしましたよ。もんぺでしょ、かっこ悪いでしょ。だからあの古いかすりの着物かなんかで縫い直すんですけど、洋服のズボンの形で作り直してちょっとおしゃれに、そういうささいなおしゃれはやりましたけどね」

「(当時女学生だった)私たちは戦争がどうして始まったとかそういうこと一切分からないで、ただ戦争状態に入ったというところから始まって。で、とにかく日本は大変なんだからみんな勉強をやめて働きなさいということでなったわけでしょ。それでとにかく金属は全部出しますよね、指輪ももちろんそうでだけど、金も鍋釜も鉄のもの、全部弾丸になるので、全部出しちゃって。だからお寺の鐘もなくなっちゃったわけでしょ。それまでしてこう全部戦争というものにどんどんどんどん向かっていって。ね、でも私たちにとってはそこから始まったから、それが普通、なくてもないのが普通の状態でしたから、別に不満とか嫌とかいうのではなくて、受け入れざるをえない状態で。その中で自分なりの一生懸命こうなんか生き方というかそれとか楽しいこと、自分たちで工夫して作ってやってきたんでしょうね。だから映画だって戦争映画ばっかりですし、テレビなんかない時代ですからラジオのね、ラジオの放送も、なんかせいぜいよくて名作の朗読、あと軍歌と、大本営のニュースの発表ばかりで、で日本は今、どこどこを陥落してちょうちん行列がなんだって騒いでましたけどね、むなしいですよね。そういうの」

「『敵機を撃墜しました』とか、景気のいいことをいっているんですけど。でもね、子ども心にね、もしそういう言っていることがうそで、もし日本が負けてたらどうなるんだろうってね、ふっと疑問を持ったことがあるんですよ。でもそんなことを口にしたら大変な時代ですから。だからできませんけど。なんかね、ちらっと思ったことがある」

■戦争に奪われた“色彩”

「戦時中ってね、色がなかったですね、全く、私の身のまわりには終戦の1年、2年ぐらい前はもうカラフルな本がなかった。子どもの頃は講談社の絵本とか小学館の『1年生』とかあってとってもらいましたけど、でも色が段々なくなっちゃって。絵もこう伸び伸びした絵じゃなくて戦争、軍国少女、なんかあのもんぺはいた女の子でほっぺたが真っ赤っかで、銃を持った兵隊さんの絵とか軍艦の絵とか飛行機の絵とか、ちょっとこう勇ましい絵ばっかりで、すごい不満というか、美しさを感じなかったんですよね。でも、そういうものしかなかったからそんなもんだと思っていたら、ある時、お友達のお姉さんですか、古い本を持っていらっしゃって、昔の『少女の友』という雑誌を大事にとっていらっしゃって、見せて下さったの。そこに中原淳一さんの絵があったんですけど、それを見た時になんてこんなきれいなものがあったのかっていうのと、それとなんかあのいわゆる軍国少女の絵からは感じられないこう想いっていうか憂いというか人間の感情ですね。本当背中にね、こう電気走りましたね。すごくこうずずずんと感じたんですよね。で、それからもうそれが好きになっちゃって、で、お姉さんや持っているお友達に近づいては『本貸して貸して』って借りて見せて頂いていたんですけど。私、絵の原点と言ったらやっぱり中原先生の当時のそういう、あのもちろん絵そのものもすばらしいんですけども、なんかそこからこう読み取る想いとか少女の想いとか憧れとかそういうものだったんだと思うんですよね」

「グレーな、本当に世の中グレーですからね。色がないんですものね。本当に女の人だってね、年頃の20歳から25、6歳の恋多き女性たちの時代でもお化粧もいけない。髪の毛もなんか当時はパーマネントですか、あれもいけない。で、恋人はみんな戦地に連れていかれてしまう。さびしかったと思いますよね」

「本当に町は灰色、グレーですよね。なんかね、時代、というかあの国の状況の変わり方で女の子の気持ちまで変わってしまうのかなって思ったんですけどね。なんでもしてはいけないという時代でしたから。あのおそらく恋愛もしたい方もできなかったとか。男の人と歩いてはいけないって。そういう人がいると不良みたいにね、思われたり。さびしいんですよね。人を思う気持ちって普通だと思うんですけど。人間の感情って、普通に素直に生まれる感情にね、蓋しちゃったらいけないんじゃないかと思って。どうしてそういう女の子の細かな、人を思う気持ちっていうのさえも罪にしてしまうのかなと思ってね。すごく悔しかったですね。だからちょっとね、反発することもあったんです。で、おさげも結んでからは何センチまではないといけないとかね、やかましかった。で、ぎりぎりまで切っちゃってね。ほどくとおかっぱになるように、そういうことはやってましたけどね」

■抑圧された表現の自由

「本が読みたくて読みたくて。本がなくて、母と父が持っていた文学全集、明治大正(時代のもの)ですけれど、片っぱしから読んで。それももうなくなって、読む本なくなって。買いたくても本がないから。で、川越ですから蔵があったんですよ。で、蔵の中をひっかき回したらね、なんか難しい漢字の本が出てきて。見てたらそれがね、易学の本だったのね。それでも活字に飢えてたからそれでさえもね、見たかったのね」

「読みたい本でもその軍国主義的な小説はたくさん出てきてそういうのは読めますけども、ちょっとね、気持ちの揺らぐような、そういう思いがある、あの例えばね、文学全集で『雪国』とかありましたよね、それから谷崎さんの『細雪』とか、ああいうのはね、大丈夫だったんです。そういうのはよかったんですけど源氏物語はいけないんですって。なんででしょうかね?なんかね男女の関係があまりにもこういかがわしいというか、そういう捉え方されたんでしょうか。源氏物語が御法度で。もちろん外国文学は全然読めませんし、第一読みたくても本がもう学校の図書室にほとんどがらがらでなくなってったんですよね。だからお友達から古いのを借りてぼろぼろのをね、回し読みしたり。そういうことしか手に入らなかったから。なんかむなしかったですね」

「なんでそういう表現する自由っていうのを取り上げちゃうっていうのは、当時は口にできませんでしたけども。私の中ではすごい反発して。私の親戚の者がロシア文学やっていたんですけれども、ロシアの本を持っていたっていうだけでね、つながれて、警察に連れていかれちゃって。で、ずっとなんか出てからも、よく『地下に潜る』と言いましたけれど、当時の学生がね、皆さん思想的にね、ロシアにすごくあこがれて。皆さんどんどん弾圧されましたけど。どうしてそう人の考えることを弾圧しちゃうのか?って」

「表現が、あの言論の自由って本当になかったですからね。なんかあのうっかりしたことを言えば警察に捕まえられる。そうするとね、あの物がない、物質がないだけじゃなくって、人間の心の中まで何か縛り付けてしまう。思想も、自分の思う考えさえ述べられない。で、本だってそうですよね、あの、外国の本は全部禁止ですから。読めない。源氏物語がいけなかったんですよ。読んではいけない本だったんですよ。なんていう国だと思いますかね。日本のね、あの本当の誇りとされる古典、今でこそあれですけど、当時は一切禁止ですよね。だから戦争ものの小説はたくさん出ましたけど、だから当時執筆とかされた方は書きたいものが書けないとう苦しみがおありだったと思いますね」

「とにかくむなしいですよ。何考えても。気持ちも何も全部こうどっか持っていかれてしまって。もっとこう大人で世の中を知ってたら。でも叫べなかったでしょうね。一言叫んだらすぐに連れていかれちゃいまいますから。本当に特高って言うんですかね。みんなよく『特高が来た』って言いますけども、小さなことでもほじくって本当に連れて行ってしまう。学生がね、学生さんが外国の本を持っていただけで、なんで牢屋に入れられちゃうのか分からなかったですね」

■軍服工場に変わった学校

今も残る校舎の前で語る花村さん

「毎日学校では(勤労奉仕で)軍服を縫う。これが勉強なんです。授業がないから。で、毎日学校行っては体育館行って軍服をみんな作って。それで不可解なのはね、作業が速い人、これが学校の成績がよくなるんです。でね、お友達が怒ってましたね。それで優劣つけてしまって。そしたら今度上の学校に進む時にすごく弊害になるじゃないですか。頭がよくてお勉強できても手のあまりこう器用じゃない人いますよね。そういう人は成績が落ちちゃうんですよね。すごい不思議な時代でしたね」

「軍服を縫ってまして、いちばん最初は普通のミシンだったそうです。ドイツのシンガーミシンですか、あれ使っているんじゃないですかね。でね、(1日)何枚ぐらい縫ったのって(友達に)聞いたら、みんな部分部分、その人その人の縫う担当があって、で、15枚ぐらい。だけどもそれからまもなく動力になったんですよ。もう本当に工場で使うダーっていく機械。それがね、体育館の片隅にずっとミシンがダーって並んで、本当に音がすごいですよ。針を(手に)刺した人もいますしね。13、14歳の頃でしょ。ただ、そうすることがいいことだっていうことしかなくて、もう言われるままにいって。常に先生とそれから軍人が、ちょっと偉い人でしょうか、その人がいつも座っていて。(埼玉県)朝霞の被服工場、被服廠ですか、実際に服を作っている、そこからね、偉い女工さんの上の方の人が監視する人が女性が2人来て、ずっと回っているんですよ。それであとアイロンの人はアイロン台の上でコードがばっと伸びていてアイロンかけていて。それからボタンつけとか作業がね。仕上げもやってましたけど。私の友達がミシン班だったんですけど、動力になってから肺を吸い込む、ほこりで、病気になって休んだそうですけどね。でも治って出てきたらもう人手がないから即その日からは働かされてやってましたけど」

「兵隊さんのお洋服を作るというのが仕事ですから、それを皆さんきっと着て戦場出られるんでしょうけども。ボタンなんかもね、ヤシの実になっちゃったんですよね、物がないから。で、生地だってだんだん悪くなって。死んで行く人にこんなの着せていいのかしらってね、思いながらやってましたね。で、後から耳にしたことは、もう靴なんかもなくて、革靴がなくて、サメの靴。で、右と左と色が違ったりサイズが違ったりしたそうですけどね」

「悲しかったですね。あのヤシの実のボタンつけながら、なんかすごい辛い、辛いというか。普通、シャツのボタンでもたしか薄い金属かあの貝ボタンのような、もうちょっと質のいいので作ったと思うんですけど。ヤシの実の(ボタンを)作ったことがあるんですけれども、色はみんなばらばらですよね。白っぽいものもあれば黒っぽいものもある。でも、それでも毎日量産量産でとにかく作らないと追いつかない状態で作っていましたけど。でもこれを着て着る兵隊さん、どういう気持ちで着ていらっしゃるのかなって思いますけどね。あの寒い地方の方に本当の純毛の厚いウールのいい生地のじゃなくってだんだん生地が悪くなってきますけどね。寒い地方の兵隊さんってこんなのを着てどうするんだろうって、思ったこともありますけど」

「本当にいくら生産しても生産しても追いつかない状態で。だから本当にあのどんどん戦況が悪くなってきた頃、お洋服の生地が違うんですよね。昔はふっくらした、こう触っても感触のいい生地だったのが、なんかこうね、ぺらっとして、綿のシャツが、ちょっとたらんと、いわゆる昔の質の悪いスフ、人絹ですね。今のナイロンとかみたいなあんないいのじゃなくて。もう本当に少ししたらさっと破けちゃう、そんなんでシャツを作って」

「辛かったですね、あのもう確実に死ぬだろうという想定の下に戦っていらっしゃる若い人たちに送る軍服ですから。なんか辛いなっていう気持ちと、でも作らなければならない、絶対的に量が足りないそうですから、毎日毎日明け暮れ作っていましたけどね。あの期間の作業っていうのは何も分からないでただひたすら信じて作ることがいいことだっていうことでやってたんですけどね」

「その軍服を縫うっていうことはもちろん戦争をするという前提でお洋服を縫うんだから結果的にはよくないかも分からないけれども。私たち少女はその学校へ行って学校から『これをやりなさい』って言われているんですから授業を受けているのと同じ感覚で、本当にみんなろくにお休みもしないでひたすら一生懸命作ってたでしょ」

「私たちは実際に兵隊さんが着るものを扱っていましたから、これを着る兵隊さんがどんな気持ちで戦場に出ていくのかなって。だから本当に一生懸命縫ってましたね。あの特攻隊の話を聞くと、身近でも志願して行った人いますから、明らかにもう死ぬ、自分が死ぬって分かっていて志願して行くわけですから。そういう人が着るわけでしょ。だからやっぱりこう心を込めて縫っていた、そういう思いのほうが強かったですね。どんな形にしろね、その時代でいろいろやっていたことは全部戦争に加担する、結果的には形になってたんじゃないでしょうかね、その運動そのものがね。とにかく戦う物を作るということが日常なんですからね。嫌ですね。戦争って嫌ですね」

「で、あの敵機、敵が来たら戦うんだって、竹槍、竹で槍作って、女の子に持たせてこう練習。ばかみたいだと思いませんか」

■終戦で感じたむなしさ

玉音放送を聞いた校庭

「(校内に)奉安殿というのがあったんですよ。何を納めてあったんでしょうね。天皇陛下のお写真かなんかですか。奉安殿っていうのがね。白木の建物が建ってて。ここにみんな向いて整列したんですよね。で、(玉音放送を)お聞きしたんですけど」

「8月15日っていうのは日本が負けたっていう発表を聞いた時ですけれども、呆然となったというか、なんか頭が真っ白になったみたい。なんか今までこう私たちって何をやってきたの、こんなに一生懸命、一生懸命言われるがままに、本当に一生懸命やってきてこれはなんだったのって、どうしてこういうことをやってきたのって」

「終戦で(戦争が)終わったって分かった時、陛下の玉音放送はラジオから流れてましたけど。なんか難しい言葉でおっしゃっているからストレートには伝わらなくて。校長先生がはっきりと『日本は負けました』っておっしゃった時ね、もうなんて言うか、言いようのないむなしさ。なんでしょうね、よかったよかったってね、喜ぶはずなのにその一瞬手前ですよね。むなしさがきちゃって、で、みんな泣いてましたけど。だから悔しいとか悲しいとかそういう涙じゃなくて、なんかね、泣いてるんですけど、自然に涙が出ちゃって。私はでも半分悔しかったですね。あの自分たちが毎日毎日休まないでお休みもしないで朝から晩まで埃(ほこり)だらけの、すごいですよ、体育館の中、埃もうもうで、ばあっと布地から出る埃で、だから胸の病気を患った方もいましたけど。で、そんな思いしてね、毎日やってて、これなんのためにやってきたんだろうって。日本が負けそうだとか、危ないとかいう情報は私たち分からないんですよ。で、ただ『勝っています、日本はどこどこを占領しました』って威勢のいい話でやっていて。急にこうひっくり返されたような気持ちで。じゃあこれ私たち今まで一生懸命一生懸命やってきたけど一体なんだった、なんだったんだろうという疑問がまず湧いて。それと同時にこれはじゃあ誰に聞けばいいのか、何があったのか、誰に聞けばいいのかっていうね、ちょっとした憤りでしたけどね。誰に聞けばいいか分からないし、だからなんかね、そういう少女たちを操ったって言ったらおかしいけども、関係なくそういう軍のお仕事に巻き込んだわけでしょうけど」

「終戦というのは戦いが終わったことですから、喜ぶべきことですよね。嬉しいはずなのにその前のある一時期ね、本当に気持ちが空洞になってしまって。何を信じて、生きてきたのか、何をこれからも信じたらいいのかっていう、なんか一切がこう疑問、戦いっていうことが疑問に思えたんですよね。でも『日本を守るため』って言われてやってきましたけども、13歳、14歳の若い女の子たちの青春を犠牲にしていることでしょ。いちばん楽しいことをしたい盛りの女の子ですよね。それがいつももんぺはいて日の丸はちまきでほこりだらけの体育館の中でがっとミシンやって、軍服に向き合うだけですからね。楽しいことって本当に何だったろうと思いますね」

「切り替わったというより、受け入れざるを得なかったんですよね。その負けてしまった、日本が負けてしまったということが。負けるということがどういうことなのか分からなくて。第一、戦争ってなんのためにあったんだろうとか、いろんな疑問が渦巻いてしまって。しばらくは気持ちの整理がつかなかったですけど」

■祖母に食べさせてあげられなかったゼリー

終戦の日に思い出したのは、祖母が食べられなかったゼリー

「(終戦を知った後)校庭の横にテニスコートがあってそこの隅っこにね、立ってぼっと見ていたんですよ。だから昼間なのか夕方なのかなんかよく分からないけど、周りが白いもやで囲まれているようなそんな印象でしたね」

「あの日は晴天だったと思うんですけども、なんか私の中ではなんにもなくて、茫洋としたね、苦悶のかかったようなそんなものが広がっているような、本当に胸の中がからっぽになっちゃったようなね」

「もう頭、本当にからっぽでなんかむなしさだけで、もうだから実際に見ている景色は青空だったんでしょうけど、何もない空間、白い空間でしかなくて。その時に、その祖母が亡くなる前に食べさせてあげられなかったゼリーの色が浮かんだんですよね。あんなきれいな赤や青や黄色やゼリーがあったんだなと思って」

「食べたくても食べたいどころか見ることもなかったですしね。お砂糖もないし、なんにも甘いものはなくて、お菓子もないし。だからこのゼリーの色っていうのは非常に強烈にね、この自分の心象の中に空にね、ぱって、まず浮かんだんです。やっぱり浮かんだのが祖母への思いですね」

「(勤労奉仕に対して軍からもらった)こういうお菓子、何にもない時だから、もらって自分で、うはうは食べてしまったらそれは嬉しいで終わっちゃうんですけど、こんな見たことがないものをね、自分一人で食べられなくて、家に持って帰って。でもなんかおばあちゃん(病気で)寝ているから食べて欲しいなっていう気持ちもあって、私はちょっと食べないで。(私は祖母が寝ている)ついたてか障子の横(反対側)にいたんですけど、その最後の祖母の声が耳についちゃってね、『もうないのかい』っていうのがね。一つくらい食べてから言ったのか、それとも一つも食べないうちに妹とかちっちゃい子が食べちゃって言ったのかそれ分からないですよ。普通の時代だったらそれで終わりですけど。あの時に食べさせてね、あげられなかったなって悔しい思いですかね。だから本当これは小さな個人の悲しみかも分からないですけれども。でも戦争がなかったらそういう気持ちっていうのもなかった、出会うこともなかったでしょうし。戦争の時だったからこそ、このゼリーがあって、それが口に入らなかったっていう、なんかそのむなしさというか悲しさというかつらさが凝縮したんでしょうね」

「私、祖母に育てられて、かわいがられていたので、その祖母の、もうっちょっと食べたい、甘いものを食べたい、というか、お菓子なんてない時代ですから。その本当にわずかの(お菓子に)妹たちが寄ってったら祖母はたぶん食べられなかったかなと思ったんですけど。その時ね、ついたての陰で祖母が寝ているところ、私、見ていないんですよ。声だけなんですよ。弱弱しい声でね、『もうないのかい』ってね。それがもうずっと頭に残っていて、本当に戦争が憎らしかったです。それはね、なんか本当に小さなことでも戦争という大きなバックの前に個々の悲しみ、一人ひとりの悲しみというのは本当にあると思うんですけども、私の場合はなんでこんなたった一つのゼリーを食べさせることができなかったのかなって、それでしばらくしてすぐ終戦になったのがもう悔しかったですね」

「後になって考えてみたことなんですけども、一般の我々の時にはもう目にしたくてもそんなものないでしょ。軍にあったわけでしょ。軍部からそれが出たんですから。だからなんで軍には、軍隊とかそういう偉い人たちのところにこういうものあったんだろうなって思いましたね」

「悔しいというか情けないというか、何とも言えない気持ちでしたね。まもなくね、それから少ししてもうなんでも手に入るようになって闇市で買えばね、それこそお菓子でもなんでも出てくる時代でしたからね。だからそうなるとね、戦争ってなんだったんだろうということに戻っちゃうんですよね。だからね、本当にそういう時代を知らない若い人たちが、ただ戦争というとね、イメージで捉えていらっしゃると思うんですけど、実生活がどうなるか、自分たちのね。それこそテレビもない携帯もない、なんにもない、そういう生活、はたしてそこに放り込まれた時に女の子なんかね、着るものもなくて、メイクするものもない、そういう時どういう気持ちになるかなって逆に聞いてみたいですけどね」

「もうなくて当たり前のそのむなしい日がここで終わった。これからはもしかして、もしもうちょっと早ければゼリーとかも、手に入っておばあちゃんに食べさせてあげられたかなって。だからこの(戦争が)終わった日っていうのは、本当に今までの暮らしとここから始まる暮らしとすごく変わってくるだろうという想像はしてましたけどね。だからとにかく重苦しいね、戦争っていう暗くて怖くて重い、そういう時代はここで終わったというね、なんか解放感は確かにありましたね。だけども私はその喜ぶ一歩手前の何かむなしい、何をやっていたのよっていう取り返しのない時間、2年か3年、悔しかったですね。読みたい本も読めない、読んだらいけない。政府を批判でもないけど、戦争をね、もしかしたら負けているんじゃないのと思ってもそんなこと口にできないですから。だから(終戦の日は)本当にすごい日ですよね。考えてみると、その紙一重で過去とこれからの未来がそこで大きくあの変わってきたんですからね、だからその変わる渦の中にぽんっていたっていうことは、なんかやっぱりそういう時代の、なんか変遷をまともに受けたんでしょうかね、私たちはね。だから、それからしばらくして自由になって、私も絵の学校に行くようになって、もう町はきれいでしたけど、でも食料品とかまだそんなに今ほどでは出回ってないですけれども、それでも一応甘いものは売っているし、食べたいものは売っているし、お洋服もある程度工夫してかわいいのを作って着られるし、これが自由なんだなっていうふうに思いますけれども」

「不自由な時はこれは普通だと思ってたんですれども、解き放たれてからはあの本当にきれいなものが手に入る、自分が楽しい。いろんななんでもできる時になったら、振り返ってみたらこの8月15日の前っていうのは本当にみんなかわいそうだったと思いますよね、自分も含めてですけども女の子たちね。かわいそうだったなって。楽しいことをいっぱいしたい年頃ですよね。本当にただひたすら学校を守る、軍服を縫うことと、学校にもし火がついたら守らなきゃいけないっていうの、やったって追いつかないのに、なんであんなことをさせたんでしょうね。」

■鮮やかな色に自由を感じて

花村さんは戦後、鮮やかな色遣いで漫画を描くようになった

「自分がこういう仕事になって色が使えるようになってから、初期の頃ね、私、色の使い方が珍しいって言われたくらいね、カラフルな原色をべたべた塗ったんですよ。真っ赤とか黄色とか、青とかもういろんな色を使うのが、反動みたいなものだったんですかしらね」

「だからやっぱりこう色を使うの好きでしたしね。漫画という形を借りましたけど、なんかそこらへんで自由に色が出せる、自分の求めても手に入らなかった色がこう今、自分で出せるというかそういう思いってやっぱりどっかにあったんだと思いますけどね。やたら色を使って使いすぎるくらいね、使いましたけど」

「要するに抑制がなくなって、思いっきり自分のやりたいことができるということでしょ。それが過剰に反応しましたね。絵具も本当に外国のもの、イギリス製のもの、フランス製のものから日本製の安い絵具とかありとあるゆるものをそろえてね、いっぱい並べてね、嬉しかったですよね、それはね。そういうことができる時代っていうのはね」

「だから自分でこう描くようになって普通に身の回りには当時はこういうカラフルなものがなかったから、実際のファッションでも決まったファッションでしたけども勝手に想像を膨らまして」

「だからなんかやっぱり周りにないのが欲しかったというか、それがどんどん膨らんでいって。絵の中でもあんまり人がやっていない髪の毛を真っ赤にしちゃったりあの青にしちゃったりなんか始めたんですけど。で、あのそのあとしばらくしたら皆さん同じように始めていらっしゃいましたけどね。だからなんか人と違うことをするのが好きだったのかしらね。だからそれがあの戦時中になかった物を求めてしまうとどうしても派手派手なものを。今全く普通になっちゃったでしょ、だから今の人うらやましいですよね。だってお洋服のファッションビル入っても、もうきらきら。それこそ今、ラメもね、あんなことね、本当どこを探してもなかったですからね」

「(終戦で取り戻したものは)自由です、それがいちばん大きかったんですね。自分がやりたいようにできるんですもの。だからこういう絵を一枚描くのでも、人がやっていないことでも恥ずかしくない、自分がいいと思えばいいと思って突拍子もない絵にしちゃいますけども。やっぱり自由な発想だからじゃないんでしょうかね」

■平和への思い

「こういうことって伝えていかなきゃいけないって本当にね、思うようになりましたね。人間の心をね、さみしくさせてしまいますよね。戦争の影響というか、普通の平常時と違った環境に置かれてその中で生きているものですからね」

「本当にね、あの当時の生活はね、今の若い人、想像できないと思うんですよ。口でしゃべっても。物がない暮らしというのが。当たり前じゃない日が当たり前になってしまう、そんなことありえないような状況が普通の生活になってしまうっていう怖さですよね。戦争ってどっかでドンパチやっているだけじゃなくて、実際に自分たちの生活がどう変わっていくかね。そういうことがたぶんね、若い人は想像がつかないと思いますけどね」

「私たちがそういうことをもっとね、できる限り今のそういう時代を知らない人に、戦争って始まってしまうと本当に逃げ場がない、どんな大変な世の中になるかっていうね、細かい日常のことをね、やっぱ伝えていく必要があると思うんですよね。戦争、ただ戦争をやっているというと、どっか遠くで弾丸が飛び交っているだけのイメージになってしまうんですけど、自分たちの生活に実際にきますから」

「やっぱり日本が戦ってきて終わった日というのは相当みなさん気持ちに残ったと思うんですけども、じゃあそれ、じゃあこれからどうしようっていったら、やっぱり辛かったことや悲しかったことを消してはいけないと思うんですよね、やっぱり知らなかった人に伝えていかなければ、ただ戦争って一口にいうけどそんな単純なものじゃない。世の中が変わってしまうんですから。それに知らない方たちには伝える責任があると思うんですよね」

「もうみんな年とってきてますからね。しゃべりたくても口もきけなくなってしまうかもしれないし、分からなくなっちゃったりしたらね、困っちゃいますから。分かるうちに、しゃべれるうちに、みんな声を大きくしてしゃべっていくべきだと思うんですよね。若い方の中にもこういう時代だったのと話すとちゃんと聞いてくれる人もいるんですね。だから『どこ行ってもなんでも手に入るし、買いたいものは買えるし、きれいにできるし、そういうことが一切ない自分が想像できるか』って言うと『分からない』って『想像できない』って言うんですけど」

「頭では理解したつもりでも、実際にこうイメージとして、ぴんとこない方もあるかも分からないですよね。その実際の状況というのはご存じないんですから。それは本当に細かく語って聞かせてあげないと分からないと思いますよね」

「戦争っていうのはもう生きている人の全て、実際の生活の物質だけでなくって心、気持ちまでね、どこかむなしくされてしまうっていうか、自由に物を考えることさえ奪われてしまう。それがいちばん怖いんじゃないですかね。だから『日本が勝っている』と言われてきたことが本当にそうなのか、疑問ですよね。自分でずっとなんか変だなって思ったことありましたからね」

「あの物質だけでじゃなくって、人間の考えの自由、思想の自由ですか、それを完全に奪ってましたでしょ。で、作られた世の中しか見せてもらってない。発表することも軍に都合のいいこと、形で発表したと思うんですけど、だけどみんなただそれをひたすら信じるしかないから。やっぱり気持ち、精神的なものですね、いちばん奪われたのは心でしょうね。だからなんでも軍の言うとおりにしなさいっていうことで、はいって言って働いて」

「だからこの8月15日を境目にして一切が解き放たれた状況ですよね。だからそれは自由はすばらしいですよ。こんな楽しいね、世の中、今、世の中、想像できなかったですね」

「やっぱり終戦っていうのはすごい日だったんだなって思いますよね。やっぱりこれなんとかね、若い人たちにずっとつなげていきたいですよね、こういう時代がずれてはいけないということをね」

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