さまざまな選択がある「人生」。人生の岐路で、どんな選択をしてきたのか…
(ひるまえほっと/リポーター 本庄美奈子)
文具メーカー創業者の、岩沢善和(いわさわ・よしかず)さん。
消しゴムというと、四角く、ただ文字を消すものを思い浮かべるが、岩沢さんの作る消しゴムは違う。
見て楽しい、ばらして楽しい、遊んで楽しいカラフルな消しゴム。子供たちはもちろん、大人や外国人観光客からも人気を集めている。これまで世に送り出してきた消しゴムはおよそ550種類。
そのうち300種類以上は岩沢さんが考えたもの。
12年前に社長は引退したが、89歳の今も現役で新商品の企画開発を担当している。
かわいいスイーツや食事
ゴリラがお寿司食べてる!?
種までばらすことも
一日およそ20万個の消しゴムを作っている
1934年、東京・江戸川区で生まれた岩沢さんは中学卒業後、文具問屋に就職する。
順調にキャリアを積み上げたが、30代の頃、次第に漠然とした不安が生まれる。
社長がどういう考えで会社を運営しているのかわからない。このままいて大丈夫だろうか。
岩沢さんの最初の人生の選択、それは、独立し、自分の夢に向かって歩みだすことだった。
33歳で退職した岩沢さんは、お世話になっていた取引先の社長に自分の将来を相談した。
その人物こそが、岩沢さんが生涯の恩人だと語る上村喜松さん。プラスチックの容器を製造する会社の経営者だった。
上村喜松さん ※岩沢さん提供写真
上村社長に、私を使って文房具部門を作りませんかとお願いしたら、岩沢君は長い間文具問屋で働いたのだから自分でやれと背中を押された。それが一番の転機。
会社を設立するといっても不安でいっぱい。そんなときも、上村さんは俺に任せろと力になってくれた。お金がなく電話を買えなかった岩沢さんの代りに、連絡は上村さんの会社で取り次ぎ、電話をするときも上村さんの会社のものを使わせてもらった。当時のメモを岩沢さんは今も大切に持っている。
電話を取り次いでもらったときのメモ ※岩沢さん提供
なぜ岩沢さんにそこまでしてくれた?
わからない。
なぜ岩沢さんはそれほど見込まれたのか。息子で社長の努さんは、こう話す。
文具メーカー社長 岩沢努さん
真面目だったからでは。こう言ってしまえばいいのにという場面でもそうしない。ずる賢さが全くない。一言で言えば信用されていたのだと思う。
岩沢さんの会社は、新しいアイデアを盛り込んだ文具の企画開発を専門とする会社だった。しかし、なかなかヒット商品を生み出せないまま独立して3~4年たった頃、会社を続けられないと思うほどまで追い詰められる。
娘が幼稚園くらいのとき、デパートの屋上かどこかで空を見てて、あ~ここから飛び降りたら楽になるなと一瞬思った。でも、僕が死んだらこの子はどうやって家に帰るんだと思って。
岩沢さんをギリギリのところで思いとどまらせたのは、恩人、上村さんの言葉だった。
上村さんは、俺は苦しくても絶対投げ出さない。会社は潰さないという強い気持ちを持っていた。だから私も上村さんの顔を思い出して、弱気になっちゃだめだ。絶対がんばるんだって。
再び立ち上がった岩沢さんは、日々新たなものを考え続け、2年後に消しゴム付き鉛筆キャップを開発。
当時はシャープペンがかなり世の中に出回っていて、シャープペンの先に芯が落ちないように消しゴムがついていた。それを見て、これだ!と思った。
消しゴム付き鉛筆キャップは売れた。岩沢さんは念願のヒット商品を出したのだ。しかし、似たような商品が市場に出回り、シェアを奪われてしまう。岩沢さんは、工場を持たないちっぽけな会社だからこうなるのだと考えた。
よし!それなら俺はプラスチックの工場を作るぞと思った。
何を作るかは決まっていた?
決まってない。
ここが岩沢さんの第二の人生の選択。困難な道でも、とにかく前に突き進む。
独立から7年、ついに自社工場を設立。
※岩沢さん提供写真
技術もなく資金もない岩沢さんにとって、それは大きなリスクを伴う決断だった。
しかしそこには岩沢さんの独特な人生哲学が。
石橋を叩いて渡るとか渡らないとか言うが、私は泥の橋でもいいから向こう岸に行ってしまえばいいと思う。スピードが大事。泥の橋だって、向こう岸に渡ってから崩れればいいんだから。
工場設立後、岩沢が目指したのは、あきられず、まねされないもの。頭の中にあったのは、誰も見たことのない新しい消しゴムだった。
消しゴムってなんで四角なんだろうと、四角じゃなくてもいいんじゃないかとずっと考えていた。
そこで生み出されたのが野菜消しゴム。他の形の消しゴムを探し求めていたときに思い浮かんだのが、少年時代、畑仕事を手伝い、野菜を育てた記憶だった。
野菜消しゴムは爆発的ヒット!作っても作っても間に合わないほどの人気に。
世の中にこういうものはない。世の中にないものを作れば一番になれるんだ。
しかし岩沢さんは、この大ヒットを喜んでばかりはいなかった。
ここで、第三の人生の選択。ヒットに安住せず、次々と手を打ったのだ。
次々と新商品を出すため、岩沢さんは時間が許す限り雑貨店めぐり。そこに並んだ商品の中から、ヒントを探り出そうとした。
やはりどういうものが世の中に売れているのか、常に見て歩いていた。
特に若い女の子の集まる店にはしょっちゅう行っていた。どにかくジロジロ。商品を手にとってはジロジロジロジロ見て同じものを2つ買う。1つは分解して構造を見たり。
岩沢さんが様々な店を回って買い集めてきたものの一部
目に留まったものの中で実際に商品になるのはどれくらい?
50個に1個か100個に1個くらい。
岩沢さんが打ったもう一つの手。それは、腕のいい金型職人の確保だった。工場を回り、16件目でようやくこれはと見込んだ職人に出会うことができた。しかし、その職人は雇われ人で自分の意志で仕事を受けられる立場にない。そこで岩沢さんは、職人に独立を提案し、資金を貸したのだ。
当時の岩沢さんにとって、それは月の売り上げの3分の1にあたる大きな金額だった。
岩沢さんが惚れ込んだ職人が作った金型
さまざまな努力を続け、岩沢さんの消しゴムは進化し続けた。
落花生をあけると実が!
ヨーヨーもけん玉の駒も実際に遊べる!
さまざまな困難を乗り越えてきた岩沢さんが、今思うこととは?
岩沢さん
「引き返したら会社がだめになっちゃうんだから、それを乗り越えていかなくちゃだめ。よく大人は壁にぶちあたったっていうけど、世の中に壁はない。ドアだ。必ず開く」
【編集後記】
実は我が家の3才の双子は岩沢さんの消しゴムの大ファン!
消しゴムで遊びながら動物や虫の名前を楽しく覚えています。
子どもの心を掴んで離さない消しゴム完成の裏に、こんな壮絶な苦労があったなんて…
「形あるもので消しゴムにできないものはない」これは、岩沢さんが最初に私に話してくれた言葉です。その言葉通り、岩沢さんは85才の時、90才までにあと50種類新しい消しゴムを作るという目標を立て、すでにほぼ達成!90才になったらまた新たな目標を立てる準備をしているのだとか。
いくつになっても新しいことに挑戦する岩沢さんに、自分の人生を思い切って前に進める勇気とパワーを頂きました。
リポーター 本庄美奈子
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